1月 2日(木) 天気:晴れ 室温:16.4℃
寝正月なので きのうは どこへも行かず 家で テレビを見て 過ごしましたが 午前中は ニュー
イヤー駅伝・2014 第58回 全日本実業団対抗 駅伝競走大会。 これは 前評判通り コニカミ
ノルタが 勝ったのだったか? 午後は 天皇杯 全日本サッカー選手権・決勝、 横浜:広島は 2:
0 で 横浜FCの勝ち。 後は、6時からの芸能人格付チェックまで 見る番組がない・・。
5時から BSプレミアムで 「ザ・プロファイラー」 黒田官兵衛の夢と野望 がありました。
岡田准一が 司会役で 大河ドラマ 「軍師・官兵衛」 の宣伝番組のようなもので あまり面白くは あ
りませんが・・・。
※1月5日の初回の放送を見ましたが 場面が あちこち飛んで ストーリーが 判りにくい。 鶴太郎
のにやけた表情は 小寺政職に ぴったり?
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
番組は 5人の座談会形式で 進められ 途中に 古文書などが 挿入されます。 ただし 古文書は 『黒田家譜』
が中心で これは 黒田家が 書かせたもので 官兵衛の悪いことは 書かれていません。
番組は 1.国宝の刀 2.誓いの文書 3.中国大返し 4.第2の人生の名 「如水」 の順に
進められます。 主君・小寺氏が 西の毛利に付くべきか 織田信長に付くべきか を 家臣に相談し
たとき 官兵衛は 織田信長に 付くべきだと主張します。 これには 廣峯神社とのかかわりで 京
の情報を持っていたことが 大きく影響し 官兵衛に先見の明が あった。 官兵衛は 単身 岐阜城
の信長に 会いに行きます。 このとき 官兵衛30歳。 信長は 当時としては 人を見る目があった。
百姓で 草履持ちの秀吉を 家臣にするのですから・・。
当時 信長の勢力は 京都までで 西は 毛利の勢力圏でした。 なぜ 信長が 田舎侍の官兵衛に 会ったの
かは 分かりませんが 西へ勢力を広げようとする 信長に 播磨の小寺氏が 信長に付き 西を攻める拠点に
すれば 毛利を攻めるのは 容易いと・・・。 信長は 戦国の風雲児で 播磨では 謎の人物でした。
信長は 官兵画が気に入り 名刀を与えるのです。 ただ 名刀を与えたことは 『信長公記』 には
書かれていないそうで 事実かどうか・・・。
信長に認められた官兵衛は 信長軍の先兵となり 周囲の豪族を 蹴散らします。
「誓いの文書」 は 「黒田二十四騎」 と言われる官兵衛の家臣が 天正六年 突如 信長に 反旗を翻した
有岡城の荒木村重を 説得するため 単身 村重に 会いに行き 逆に 捕えられ 牢に幽閉され 信長から
官兵衛は 裏切った と言われたとき 官兵衛の奥さんに 提出した誓いの文書で 黒田に 忠誠を誓う・・。
荒木村重は なぜ このとき 官兵衛を 幽閉しただけで 殺さなかったのでしょう?
天正七年10月 織田軍が 荒木の有岡城を攻め 官兵衛は 二十四騎に 助け出されるのです。 1年間の
幽閉により 皮膚病で 頭の髪の毛は 抜け 片足が 不自由になり・・・・。 荒木、小寺氏は 逃亡・・・。
天正十年 官兵衛 37歳のとき 当時 織田と毛利の接点は 備中高松城でした。 秀吉と官兵衛は 攻め
あぐね 城の周囲に土手を築いて 川の水を引き入れ 水攻めに。 そのとき 本能寺の変が起こり 信長暗殺
の知らせが 届く。 落胆する秀吉に 官兵衛が 天下を取るチャンスですな とつぶやく。 急いで 清水氏との
停戦交渉をまとめ 京へ引き返す。 これが 世にいう ”中国大返し” です。 当時 織田軍・家臣は あちこちで
防戦に追われ 京都まで 手が回らない・・。
一日半で 姫路城まで 帰り 疲れた足軽に 金銭を与え 元気を出させる。 このあとも 道中で 握り飯や
草鞋を用意する ”まかない作戦” を展開する。 大阪が近くなると 敵方だった毛利の幟を 振り 敵方を
味方に付け 山崎の戦いで 明智光秀を破る。 こうして 秀吉は 天下人への階段を駆け上がってゆく。
次は 第2の人生の名 「如水」。 これは いろいろあったが 今は 心は 流れる水の如く清らか
という意味ですが これは 「老荘思想」? 頭が きれることから いつしか 秀吉から 睨まれるように
なり・・。 あるとき 秀吉が 家臣たちに わしが 死んだら 誰が天下を取るか と聞くと いろいろ名
が 出ますが 秀吉は いやいや それは 官兵衛じゃ・・。 それを 聞いた官兵衛は 身の危険を感じ 引
退を決意し 名を 如水に改める。 また あるとき わしが 一カ月考えたことを 官兵衛に 聞くと 即座に答えを出す・・・。
天正15年 九州を平定した功績で 豊前12万石を与えられ 中津に城を築きますが 誰かが
官兵衛に 12万石は 少ないと言うと 秀吉は やつに 100万石を 与えたら 天下を取ってしまうわ・・。
天正18年 秀吉が 小田原城を攻めたとき 攻めあぐね 官兵衛に相談すると 官兵衛は 単身
小田原城へ乗り込み 北条氏を 説得し 無血開城させる・・・。
天正17年 44歳で 長男・長政に 家督を譲り 引退します。 その後も 朝鮮に出兵したり・・・。
早くから 秀吉の後は 徳川家康と思っていた官兵衛は 養子の世話をした 小早川秀秋に 徳川方に付くよう
根回しして 慶長五年 石田光成と徳川家康との間で 戦いが 起こると 長男長政は 五千の兵を率いて
東軍に 参戦。 官兵衛(如水)は 九州で 兵を募り 九千の兵を率いて 九州の大半を 抑えるが・・・。
関ヶ原の戦いが 一日で 終わり 九州を制圧後 関ヶ原に参戦しようとした 官兵衛の目論みは 崩れ
家康から 停戦命令がきて 官兵衛の夢は ついえてしまうのです。
家康は 合戦後 長政に 筑前52万石を与えますが 官兵衛には 一切の恩賞を与えなかった。
官兵衛は 慶長九年(1604) 京都の伏見屋敷で 没。 享年59歳でした・・・。
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寝正月なので きのうは どこへも行かず 家で テレビを見て 過ごしましたが 午前中は ニュー
イヤー駅伝・2014 第58回 全日本実業団対抗 駅伝競走大会。 これは 前評判通り コニカミ
ノルタが 勝ったのだったか? 午後は 天皇杯 全日本サッカー選手権・決勝、 横浜:広島は 2:
0 で 横浜FCの勝ち。 後は、6時からの芸能人格付チェックまで 見る番組がない・・。
5時から BSプレミアムで 「ザ・プロファイラー」 黒田官兵衛の夢と野望 がありました。
岡田准一が 司会役で 大河ドラマ 「軍師・官兵衛」 の宣伝番組のようなもので あまり面白くは あ
りませんが・・・。
※1月5日の初回の放送を見ましたが 場面が あちこち飛んで ストーリーが 判りにくい。 鶴太郎
のにやけた表情は 小寺政職に ぴったり?
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
番組は 5人の座談会形式で 進められ 途中に 古文書などが 挿入されます。 ただし 古文書は 『黒田家譜』
が中心で これは 黒田家が 書かせたもので 官兵衛の悪いことは 書かれていません。
番組は 1.国宝の刀 2.誓いの文書 3.中国大返し 4.第2の人生の名 「如水」 の順に
進められます。 主君・小寺氏が 西の毛利に付くべきか 織田信長に付くべきか を 家臣に相談し
たとき 官兵衛は 織田信長に 付くべきだと主張します。 これには 廣峯神社とのかかわりで 京
の情報を持っていたことが 大きく影響し 官兵衛に先見の明が あった。 官兵衛は 単身 岐阜城
の信長に 会いに行きます。 このとき 官兵衛30歳。 信長は 当時としては 人を見る目があった。
百姓で 草履持ちの秀吉を 家臣にするのですから・・。
当時 信長の勢力は 京都までで 西は 毛利の勢力圏でした。 なぜ 信長が 田舎侍の官兵衛に 会ったの
かは 分かりませんが 西へ勢力を広げようとする 信長に 播磨の小寺氏が 信長に付き 西を攻める拠点に
すれば 毛利を攻めるのは 容易いと・・・。 信長は 戦国の風雲児で 播磨では 謎の人物でした。
信長は 官兵画が気に入り 名刀を与えるのです。 ただ 名刀を与えたことは 『信長公記』 には
書かれていないそうで 事実かどうか・・・。
信長に認められた官兵衛は 信長軍の先兵となり 周囲の豪族を 蹴散らします。
「誓いの文書」 は 「黒田二十四騎」 と言われる官兵衛の家臣が 天正六年 突如 信長に 反旗を翻した
有岡城の荒木村重を 説得するため 単身 村重に 会いに行き 逆に 捕えられ 牢に幽閉され 信長から
官兵衛は 裏切った と言われたとき 官兵衛の奥さんに 提出した誓いの文書で 黒田に 忠誠を誓う・・。
荒木村重は なぜ このとき 官兵衛を 幽閉しただけで 殺さなかったのでしょう?
天正七年10月 織田軍が 荒木の有岡城を攻め 官兵衛は 二十四騎に 助け出されるのです。 1年間の
幽閉により 皮膚病で 頭の髪の毛は 抜け 片足が 不自由になり・・・・。 荒木、小寺氏は 逃亡・・・。
天正十年 官兵衛 37歳のとき 当時 織田と毛利の接点は 備中高松城でした。 秀吉と官兵衛は 攻め
あぐね 城の周囲に土手を築いて 川の水を引き入れ 水攻めに。 そのとき 本能寺の変が起こり 信長暗殺
の知らせが 届く。 落胆する秀吉に 官兵衛が 天下を取るチャンスですな とつぶやく。 急いで 清水氏との
停戦交渉をまとめ 京へ引き返す。 これが 世にいう ”中国大返し” です。 当時 織田軍・家臣は あちこちで
防戦に追われ 京都まで 手が回らない・・。
一日半で 姫路城まで 帰り 疲れた足軽に 金銭を与え 元気を出させる。 このあとも 道中で 握り飯や
草鞋を用意する ”まかない作戦” を展開する。 大阪が近くなると 敵方だった毛利の幟を 振り 敵方を
味方に付け 山崎の戦いで 明智光秀を破る。 こうして 秀吉は 天下人への階段を駆け上がってゆく。
次は 第2の人生の名 「如水」。 これは いろいろあったが 今は 心は 流れる水の如く清らか
という意味ですが これは 「老荘思想」? 頭が きれることから いつしか 秀吉から 睨まれるように
なり・・。 あるとき 秀吉が 家臣たちに わしが 死んだら 誰が天下を取るか と聞くと いろいろ名
が 出ますが 秀吉は いやいや それは 官兵衛じゃ・・。 それを 聞いた官兵衛は 身の危険を感じ 引
退を決意し 名を 如水に改める。 また あるとき わしが 一カ月考えたことを 官兵衛に 聞くと 即座に答えを出す・・・。
天正15年 九州を平定した功績で 豊前12万石を与えられ 中津に城を築きますが 誰かが
官兵衛に 12万石は 少ないと言うと 秀吉は やつに 100万石を 与えたら 天下を取ってしまうわ・・。
天正18年 秀吉が 小田原城を攻めたとき 攻めあぐね 官兵衛に相談すると 官兵衛は 単身
小田原城へ乗り込み 北条氏を 説得し 無血開城させる・・・。
天正17年 44歳で 長男・長政に 家督を譲り 引退します。 その後も 朝鮮に出兵したり・・・。
早くから 秀吉の後は 徳川家康と思っていた官兵衛は 養子の世話をした 小早川秀秋に 徳川方に付くよう
根回しして 慶長五年 石田光成と徳川家康との間で 戦いが 起こると 長男長政は 五千の兵を率いて
東軍に 参戦。 官兵衛(如水)は 九州で 兵を募り 九千の兵を率いて 九州の大半を 抑えるが・・・。
関ヶ原の戦いが 一日で 終わり 九州を制圧後 関ヶ原に参戦しようとした 官兵衛の目論みは 崩れ
家康から 停戦命令がきて 官兵衛の夢は ついえてしまうのです。
家康は 合戦後 長政に 筑前52万石を与えますが 官兵衛には 一切の恩賞を与えなかった。
官兵衛は 慶長九年(1604) 京都の伏見屋敷で 没。 享年59歳でした・・・。
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