2月 5日(土) 天気:晴れ+濃いモヤ
2月4日の新聞に 「陰陽師(おんみょうじ)の里」全国発信 という記事が載っていて ”佐用町の
江川地域づくり協議会 HPも開設 来月12日 コスプレイベント” とあり ホームページのアドレス
もあります。 人を癒し 力を授ける陰陽師伝説の 「パワースポット」 として 地域を PR。 一昨年
8月の豪雨災害で 大きな痛手を 被った町に 元気をと 協議会のメンバーは 張り切っている・・・。
二等三角点:豊福が 近くの県境にあるので そのとき 行こうと思っていましたが きょう 庄ノ上山
が 早く終わったので ついでに 行ってきました。 きょう 訪れたのは 「晴明塚」 と 「道満塚」 だけです。
陰陽師について調べると 官職のひとつで 陰陽五行の思想に基づいた 陰陽道によって 占筮(せ
んぜい)及び 地相などを行う方技として 配置され 後には 本来の健令・規定を越えて・・・。
辞書を見ると 宇宙を形づくっている陰陽五行の理を考えて 吉凶を判断し 災いを避けることを
目的とする学問とあります。 こちらの方が 分かりやすい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず 上月城跡を訪れます。 一日一山と決めているので 荒神山には登りません。 この前行っ
た多田銀山に 山中鹿之介一族の墓があったので 鹿之介つながりで・・。 鹿之介は ここ上月城
で没したので この辺りに 鹿之介に関するものが あるはずです。 上月駅から 踏切を越え 南へ廻
ると 上月城跡のある荒神山があります。 えっ 登山口に 「上月歴史資料館」が 出来ています。
入館料200円を節約するため 中には入らず 入口に置いてあるパンフレットだけ もらいました。
少し先に 「尼子氏発祥の地」の石碑は ありましたが・・。 資料館に戻り 尋ねると 鹿之介に
関するものはないとのこと。 代わりに 上月城で 自刃した尼子勝久の碑が あることを教えていた
だき 見に行きました。 なんと 尼子勝久の碑の隣に 山中鹿之介の碑がありました。 来た甲斐
がありました。 資料館には しっかり 教えてあげました。 満足、満足・・・。
山中鹿之介は 主君・尼子氏に仕え 再興を願いつつ 上月城で 毛利の大軍に囲まれ 投降し
備中・松山城に連行される際 高梁川の畔で 斬殺された・・・。
まだ 早いので 陰陽師の里へ行きましょう。 国道179号線を 佐用へ戻り 佐用の街で 左折
して 県道240号線に入り 大撫山の北へ向かいます。 地図は持っていませんが 江川地区と
いうことだけ 覚えています。 下の図は 協議会のホームページから 入手した ”鳥瞰図” です。
地図の右が 「北」になっています。 240号線を走っていると 道標が目に入り 慌てて左折。
大塚で 左折です。 西河内を西へ進むと 突き当りに道標があり 左道満塚、右晴明塚とあります。
まず 左の道満塚へ行きます。 700mです。 少し先に道標があり 右に曲がり 細い急な道
を登ります。 セコで登っても しんどい急坂で 小高い丘の頂に 道満塚があります。 少し手前
に車を置き 100mほど歩いて 急坂を登りました。 庄ノ上山から 20.7km 走りました。
芦屋道満は 平安時代 陰陽道の大家として 安倍晴明と 並び称され 勢力を二分し 拮抗して
いたといわれるが 時の権力者・藤原道長を呪詛(じゅそ)した咎によって この地に流されたと伝
えられる。 しかし 加古川に生れた道満が なぜ ライバル・晴明の地元?に 追放されたのでし
ょう? 今も 対決するかのように 谷を挟んで 僅か数100mを隔てて 「晴明塚」 と 「道満塚」は
並び立っているのです。 後で気づいたのですが ここから 晴明塚が 見えたか どうか?
道満塚は 小高い丘の上にあります。 ここから 乙大木谷村の日本の棚田100選に選ばれ
た 棚田を見ることが 出来ますが 雲が出てきて 日が陰り モヤもあり おまけに 冬枯れのこの
時期では 青々とした棚田を すっきりと見ることは できません。
石垣に囲まれた段上に 宝篋印塔が 建っています。 寛政九年の造立銘があり 時代の特徴
を よく表わし 佐用郡では 大型に属すそうです。 さぁ 晴明塚へ行きましょう。
急坂を下って さっきの分岐へ戻り 右へ進みます。 すぐ先に道標があり 右に上がりますが
この上のV字の折り返しには 苦労しました。 特に降りる際は・・。 一回の切り返しでは 曲が
れません・・。 道満塚から 1.3km、13:33 「晴明塚」 に着きました。
ここは 塚の下に 停められます。 ここも 高台にあるので 下に 甲大木谷の村を 見ることが
できます。 向こうに 棚田が見えますが こちらは 「棚田100選」 ではない?
ここも 石垣の上の方形の壇に 宝篋印塔があり 道満の塔と対をなしています。 説明文に
よると 花崗岩製で ほぼ完全な形であり 姿形もよい。 基礎部には 「イブレ」の刻印があり
同地の古い地名である 猪伏を 表わしているそうです。
他にも 大日如来像や 磨崖仏など 見るものはあるようですが きょうは 地図もないので・・。
帰路につきます。 国道179号線に戻り 来た道を帰ります。 三日月で県道28号線に曲がり
急坂を登り 播磨科学公園都市から 14:13 播磨道・播磨新宮ICに入り 14:25 龍野西IC
を降ります。 あとは 国道2号線を走って 14:48 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路・庄まで 55.8km、道満~晴明塚まで 22km、復路 50kmで
計 127.8kmでした。
きょうも いいハイキング & 歴史探訪を することが 出来ました。 2月8日には 近くの公民館
で 「歴史教室」(無料・参加自由) があるので 神功皇后について お勉強してきます。
。。。。。。。。。。。。。 。。。。。。。。。。。。。
2月4日の新聞に 「陰陽師(おんみょうじ)の里」全国発信 という記事が載っていて ”佐用町の
江川地域づくり協議会 HPも開設 来月12日 コスプレイベント” とあり ホームページのアドレス
もあります。 人を癒し 力を授ける陰陽師伝説の 「パワースポット」 として 地域を PR。 一昨年
8月の豪雨災害で 大きな痛手を 被った町に 元気をと 協議会のメンバーは 張り切っている・・・。
二等三角点:豊福が 近くの県境にあるので そのとき 行こうと思っていましたが きょう 庄ノ上山
が 早く終わったので ついでに 行ってきました。 きょう 訪れたのは 「晴明塚」 と 「道満塚」 だけです。
陰陽師について調べると 官職のひとつで 陰陽五行の思想に基づいた 陰陽道によって 占筮(せ
んぜい)及び 地相などを行う方技として 配置され 後には 本来の健令・規定を越えて・・・。
辞書を見ると 宇宙を形づくっている陰陽五行の理を考えて 吉凶を判断し 災いを避けることを
目的とする学問とあります。 こちらの方が 分かりやすい。
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まず 上月城跡を訪れます。 一日一山と決めているので 荒神山には登りません。 この前行っ
た多田銀山に 山中鹿之介一族の墓があったので 鹿之介つながりで・・。 鹿之介は ここ上月城
で没したので この辺りに 鹿之介に関するものが あるはずです。 上月駅から 踏切を越え 南へ廻
ると 上月城跡のある荒神山があります。 えっ 登山口に 「上月歴史資料館」が 出来ています。
入館料200円を節約するため 中には入らず 入口に置いてあるパンフレットだけ もらいました。
少し先に 「尼子氏発祥の地」の石碑は ありましたが・・。 資料館に戻り 尋ねると 鹿之介に
関するものはないとのこと。 代わりに 上月城で 自刃した尼子勝久の碑が あることを教えていた
だき 見に行きました。 なんと 尼子勝久の碑の隣に 山中鹿之介の碑がありました。 来た甲斐
がありました。 資料館には しっかり 教えてあげました。 満足、満足・・・。
山中鹿之介は 主君・尼子氏に仕え 再興を願いつつ 上月城で 毛利の大軍に囲まれ 投降し
備中・松山城に連行される際 高梁川の畔で 斬殺された・・・。
まだ 早いので 陰陽師の里へ行きましょう。 国道179号線を 佐用へ戻り 佐用の街で 左折
して 県道240号線に入り 大撫山の北へ向かいます。 地図は持っていませんが 江川地区と
いうことだけ 覚えています。 下の図は 協議会のホームページから 入手した ”鳥瞰図” です。
地図の右が 「北」になっています。 240号線を走っていると 道標が目に入り 慌てて左折。
大塚で 左折です。 西河内を西へ進むと 突き当りに道標があり 左道満塚、右晴明塚とあります。
まず 左の道満塚へ行きます。 700mです。 少し先に道標があり 右に曲がり 細い急な道
を登ります。 セコで登っても しんどい急坂で 小高い丘の頂に 道満塚があります。 少し手前
に車を置き 100mほど歩いて 急坂を登りました。 庄ノ上山から 20.7km 走りました。
芦屋道満は 平安時代 陰陽道の大家として 安倍晴明と 並び称され 勢力を二分し 拮抗して
いたといわれるが 時の権力者・藤原道長を呪詛(じゅそ)した咎によって この地に流されたと伝
えられる。 しかし 加古川に生れた道満が なぜ ライバル・晴明の地元?に 追放されたのでし
ょう? 今も 対決するかのように 谷を挟んで 僅か数100mを隔てて 「晴明塚」 と 「道満塚」は
並び立っているのです。 後で気づいたのですが ここから 晴明塚が 見えたか どうか?
道満塚は 小高い丘の上にあります。 ここから 乙大木谷村の日本の棚田100選に選ばれ
た 棚田を見ることが 出来ますが 雲が出てきて 日が陰り モヤもあり おまけに 冬枯れのこの
時期では 青々とした棚田を すっきりと見ることは できません。
石垣に囲まれた段上に 宝篋印塔が 建っています。 寛政九年の造立銘があり 時代の特徴
を よく表わし 佐用郡では 大型に属すそうです。 さぁ 晴明塚へ行きましょう。
急坂を下って さっきの分岐へ戻り 右へ進みます。 すぐ先に道標があり 右に上がりますが
この上のV字の折り返しには 苦労しました。 特に降りる際は・・。 一回の切り返しでは 曲が
れません・・。 道満塚から 1.3km、13:33 「晴明塚」 に着きました。
ここは 塚の下に 停められます。 ここも 高台にあるので 下に 甲大木谷の村を 見ることが
できます。 向こうに 棚田が見えますが こちらは 「棚田100選」 ではない?
ここも 石垣の上の方形の壇に 宝篋印塔があり 道満の塔と対をなしています。 説明文に
よると 花崗岩製で ほぼ完全な形であり 姿形もよい。 基礎部には 「イブレ」の刻印があり
同地の古い地名である 猪伏を 表わしているそうです。
他にも 大日如来像や 磨崖仏など 見るものはあるようですが きょうは 地図もないので・・。
帰路につきます。 国道179号線に戻り 来た道を帰ります。 三日月で県道28号線に曲がり
急坂を登り 播磨科学公園都市から 14:13 播磨道・播磨新宮ICに入り 14:25 龍野西IC
を降ります。 あとは 国道2号線を走って 14:48 家に帰ってきました。
本日の走行距離は 往路・庄まで 55.8km、道満~晴明塚まで 22km、復路 50kmで
計 127.8kmでした。
きょうも いいハイキング & 歴史探訪を することが 出来ました。 2月8日には 近くの公民館
で 「歴史教室」(無料・参加自由) があるので 神功皇后について お勉強してきます。
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