呪術師(シャーマン)の登場は、職業宗教家の出現に繋(つな)がります。
世の中のわからないことを、神の名を借りてウソを振りまくのです。神が人を創った、疫病はその神のお怒りに触れたのだなどと嘘八百を並び立てます。
今でもこの噓八百を信じてる輩がいるんです。原理主義者と呼ばれる一群です。神が人を創った、疫病はその神のお怒りに触れたのだなどと大真面目に信じている者って結構いるんです。
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ボクは何年か前からは母の葬儀を意識してました。90歳を超え、衰えが見え始めていました。そして母が死んだらボクが喪主を務める現実も理解してました。
母からは、余計な延命治療はしないで、と、葬儀は簡素に、と言われてました。ボク自身が感じてるている事なので、そうしなければならない、って思ってました。
この2年ほど、母が入院するたび医師に「母は余計な延命治療をを望んでいない」旨を説明し続けました。医師も納得してたようです。
そして葬儀は簡素にするよう考えました。まず、新聞のお悔やみ欄などに載せないこと、近所にも知らせないことに決めていました。本当の親族だけで母の死を悼むのが一番、との思いからです。
葬儀の際、いつも来てくれてるお寺の坊さんにお経を貰うか無宗教で行うのか、ちょこっとだけ迷った時がありました。でも仏壇があって、定期的にお参りしてくれているお寺さんがあって、親族も皆仏教徒です。今の時代でも無宗教で葬儀を行うのはそれなりの抵抗を受けることでしょう。
そして何より、無宗教で執り行った先人の貴重な体験談がありました。「読経が無ければ葬儀の場が持たない」というんです。
確かに、音楽を流したり、故人の思い出を話してもらっても、なにか間の抜けたような、そんな葬儀になってしまうのでしょう。
信仰心は無いけど、世俗派のボクはお寺さんを呼んでお経をあげてもらうことにしました。
ボクの家は代々浄土真宗西本願寺派です。
浄土真宗は戒律が緩(ゆる)く、何事にもアバウトでテキトーなんです。そこのところはラッキーでした。
続きます。