Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「クリュセの魚」東浩紀

2013-09-20 14:07:52 | book
クリュセの魚 (NOVAコレクション)
クリエーター情報なし
河出書房新社


「クリュセの魚」東浩紀
読みました。

人類がテラフォーミングを始めて数世紀が過ぎた23世紀の火星を主な舞台として、パクスター風のスケール感とイーガン的な仕掛けをうまく絡めながら、主人公彰人と麻理沙の恋愛、父親としての彰人の思いを描く未来SF小説。
SF的なネタに加えて、ネット社会の進化(明暗)や火星を含む地球や月を巡る政治経済の形態を予見して見せたりと、なかなか含蓄深い。

ワタシのSF小説読書歴は主にディック、イーガン、バクスター、チャンに偏っていて大層なことは言えないのかもしれないが、それらの作品に比肩してさほど見劣りのしない秀作だと感心したですよ。

特に面白かったのは、波動関数の収縮による「現実」の選択を、収縮の機能を持たない外宇宙存在をもってくることで地球の人類のもつ機能として際立たせておいて、選択を繰り返してありえた世界を切り捨てていく存在としての人間が生きるということはどういうことか、と、われわれの存在のもつ意味や意義のようなものにつなげていくところだろう。
ワームホールをコントロールする技術を持ち、多世界をそのまま生きる(ということ自体はワタシの想像を超えてしまうのだが)外宇宙の存在からすると、時間をさかのぼり人生をやり直すことは普通に考えられる選択なのだが、そうでないわれわれが持つ生きることの意味は、作中にある「繰り返さない力」という言葉に表れている。
彰人が父親として「責任をとる」ということの力と意思の源がこの人間の存在のあり方に根ざしているというところが、この小説のもっとも面白いところだと思う。

***

○彰人と年上の麻理沙との恋とその運命は、普通に(?)せつなく泣けるし、最後近く、父親として責任をとるという意思のもとワームホールをくぐった彰人が、演算上に再構築された麻理沙との会話の終わりに、やはりいっしょにいたいと思いを吐き出すところもぐっとくる。

○23世紀におけるネットのあり方についての見通しも面白いし、テロ事件後に麻理沙のイメージがどう消費されるかというところはリアルにさもありなんと思ったりする。(ということは未来のネットというか今の延長にある世界としてのネットの姿なんだろう)

○ワームホールの発見により火星と地球が物理的に近くなったことで、火星の再分割が行われ、高度に電子化された経済社会が崩壊しふたたび貨幣経済が盛り返したりとか、そのへんの社会の変化の考察もさすがである。

○終盤、拡張チューリングマシン的に再構築された人格である麻理沙の長い独白はすばらしい。これがSF的想像力というものである。ちょっとレム的なところもある。こういう節があることがこの作品の質を支えている。

○あとは、そうだな、娘の栖花の振る舞いが可愛いったらないですw(うちにも娘がいるんでね)
 そういうちょっとラノベ的な要素でアピールしているのもよい。
 (まあラノベほぼ読んだことないんで、これは想像だ)

***

ネットがどう進展していくかの考察は、同じく東氏による『クォンタム・ファミリーズ』のほうでさらに突っ込まれているのだが、ここでは同氏『一般意思2.0』で構想されたテクノロジーによる合議なき意思の可視化という明るい展望を裏切るように、暗い可能性を示唆していることに唖然とする。一般意思2.0の可能性と同根でネットがテクノロジーによる自律の果てに信頼性を失う可能性があるという考察が、同じ著者から発せられるところに感動する。

クォンタム・ファミリーズはいま読んでるところなので、読み終わったらまたメモっておこう。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)
クリエーター情報なし
河出書房新社
コメント
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