Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「メランコリア」ラース・フォン・トリアー

2012-02-28 02:36:30 | cinema
メランコリアMELANCHOLIA
2011デンマーク/スウェーデン/フランス/ドイツ
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:マヌエル・アルベルト・クラロ
出演:キルスティン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、アレキサンダー・スカルスガルド、シャーロット・ランプリング、イェスパー・クリステンセン、ジョン・ハート、ウド・キア、キーファー・サザーランド 他


このところトリアーの監督作を欠かさず劇場で観ている。
特別好きな監督ではないのに。
しかも結構苦痛を伴う作品が多いのに(多いというか全部というか^^;)
なぜか毎回惹かれて観に行ってしまう。
これは映画としてどうなのか?とか毎回首を傾げながらも。

苦痛を覚え首を傾げに行っているのだと思う。
ワタシは。


で、メランコリア。

前作の『アンチ・クライスト』の方が
内容の過激さとはうらはらに一般向けな作りをしていたと思う。
『メランコリア』ではまたいつものトリアーらしい
観客に優しくない傍若無人な映画になっている。

とくに前半「ジャスティン」の章は
いったい何のためにあの長い部分があるのか??と
みんな思うのではないのかなー?
その目的感のない苦痛こそはトリアーらしい部分とも言えるんだけども。

あのなつかしい「ドグマ95」っぽい撮り方で
揺れるカメラで軽く船酔いしながら見る「ジャスティン」章は
ジャスティンが精神に変調を来す過程を象徴的な一日のなかに描いていて興味深い。

姉(らしい)クレアが最初の方で
「今日は変なことはするなよ」とジャスティンに釘を刺すことから
ジャスティンの変調はこの日以前からあったことがわかる。
あの母親。たぶんこの姉。
優しい父親。職業上のストレス。ワンマンぽい上司。
いろいろなストレッサーを経て披露宴はやれやれな方向に向かって行く。

「メランコリア」は地球に接近する惑星に与えられた名前だけれど
いわゆる憂鬱気質のことだ。
ジャスティンを支配するのはこの憂鬱気質なのだ。
前半はその憂鬱気質とストレスが出会ったときに起こることを
よく描いていると思う。

小惑星が衝突して地球がくだける。
そのような重圧が空から降りてくる程度のことは
ある意味憂鬱気質の世界ではよくある妄想なのだから
『メランコリア』はジャスティンの世界を描写したものなのだ。


と思ったら、次は「クレア」の章になる。
ここでクレアに焦点を合わせて行く意味がいまひとつワタシにはわかっていない。

クレアはメランコリアの接近に伴って
強迫観念的な恐怖を感じている。
夫ジョンの理性的な説明には聞く耳をもたない
恐怖のあまりみずから命を絶つ手段を用意するほどに恐怖に支配される。

この恐怖はおそらくはクレアのもつ願望が形を変えた姿なのだろう。
世界よ滅びてしまえ、とクレアは思っている。
クレアはメランコリアが地球に衝突するという説を求めてネットを探しまわっては
恐怖にうち震える(らしい)

望みはしないけれども滅亡もありだろうととりみだしもしないジャスティンとは対称的。
これもまた憂鬱気質のすがたなのか?
多血質?胆汁質?もういっこなんだっけ?いずれもクレアとは違う。
おそらくクレアとジャスティンは同じ人間の二面なのだと思う。


ということで、この映画はワタシ的には
憂鬱気質の世界の妄想が実現するという意味でのフィクションだった。
その妄想の実現にはカタルシスはない。
望みながらも恐怖を伴うか、あるいは無表情に受け入れるか、
そういう終焉なのだ。

**

ワタシは主にシュタイナーによる四気質説を参照しているのだが、
シュタイナーの説明する憂鬱質の特徴に
あきれるほど自分があてはまっちゃうので
笑ってしまう。

ワタシはブラームスの交響曲第4番の第4楽章が
クラシックのなかでは最も好きと思っていたのだが
あるときシュタイナーの著作をよんでいたら
憂鬱質の人が好む音楽としてまさにその楽章が挙げられていて
のけぞったこともある。

だからというわけではないが
この『メランコリア』痛いほどにジャスティンとクレアに感情移入してしまった。
思い切り心に残ってしまった。

あまり監督の人となりと作品を結びつけて考えるのは好きじゃないが
やっぱりこれはウツ監督トリアーが自分自身に向き合って作られた脚本を
やはりウツ女優キルスティンが演じた映画なのだなと
思わずにはいられない。

****

シャルロット・ゲンスブールはなんだか
トリアーファミリーという感じになってきて
先行き心配である(笑)

冒頭ヴァーグナーの音楽にのせて綴られるプロローグの
美しさ/禍々しさは
前作のノリを踏襲しつつ、色使いに凝った
すばらしいシークエンスだった。

が、全編ヴァーグナーに頼りすぎな感じもした。
音楽がない場面を想像しなくもなかった。
終映後「トリスタンとイゾルデ」前奏曲全曲が聴きたくなること請け合い。
全部聴かせろ!!(笑)

キーファーもシャーロット・ランプリングもジョン・ハートも歳取っちゃって
最初誰だかわからなかったよ^^;

絵画からの引用も。
ブリューゲルはタルコフスキーも想起する。
前作はタルコフスキーに捧げられていたし。
それとミレーの「オフィリア」。
ジャスティンが錯乱して書斎の画集をなぜか総入れ替えするが
このへんもなにか考えるべきものがあるだろう。

パンフレットが結構充実している。



@みゆき座

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2 コメント

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 (とらねこ)
2012-03-18 19:18:28
そうなんだ!ブラームズは憂鬱質の人が好む音楽だったんですね。
そうそう、体液説思い出しますよね。小説にも時々出てくるし。
自分には、シャルロット・ゲンズブールはあまり気が狂いそうなタイプには思えないんですよね。
いじめたくなるタイプというのは分かる気がする。
トリアーの意地悪目線の堪能出来る作品でした。
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 (manimani)
2012-03-19 00:09:04
☆とらねこさま☆
そですね。シュタイナーのは体液説とはまた違うんですけどね。区分の仕方は同じですよねたぶん。
で、あくまで「ブラームスの交響曲第4番第4楽章」限定の話ですw

トリアーは『アンチ・クライスト』から意地悪度を弱めているような気が勝手にするんだけどねー、まあそれでも大分ひどい目にあっているよねシャルロット。。。
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