Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「希望の国」園子温

2012-10-28 03:16:48 | cinema
希望の国
2012日本/イギリス/台湾
監督・脚本:園子温
出演:夏八木勲、大谷直子、村上淳、神楽坂恵、清水優、梶原ひかり 他



なんだかのんびり感想をつぶやいている気分ではない映画。

すべてが自分と地続きになっているような迫力を持ちながら
その迫力ってでも最後は想像してるダケでしょう?
ひとりひとりが問題に直面していることはわかっているけれども
離れた人からはそのことはどこか現実味のない理解でしかないんだよ。と。

それでも

わたしたちはその非現実な理解を積み重ねて
答の非現実性を知りながら
問題の本当のところに少しでも迫って行くしかない。
そこでは誠実さや謙虚さは
自分を守るいいわけのようなものに過ぎないのかもしれない。
それでも
認識や理解の相対性を忘れて立場の異なる者を無理解と誹ることの不毛や歪みに比べれば
まだ偽善を貫いた方がましなのだ。

そのような根源的な考えをすべての人に抱かせる問題が
この国では起きていて
しかも誰もがその問いに対する答を出すには至っていない気がする。
誰もが中途半端に自分の立場に従った答や
他人の言説の鵜呑みを基盤に据えた答にしがみついて
ひとの異なる考えを誹り笑い
排除と愛情のバランスのうえに安住の地を見いだそうとしているようだ。


この映画にはいっさい笑いはない。
笑いがないのでそこには排除の理論がない。
一件ゆるいスタンスに見えてしまうがこのことは
とても慎重に意志や行動をコントロールしないと成り立たない
現代ではとても不自然で不合理な態度なのだ。
それを貫くこと。
排除の上の平和や愛ではない地平を見いだそうとすること。
それがこの映画が見つけた「希望」なのだろう。

誰が、防護服に身を固めた妊婦を笑い排除できるだろう。
誰が、線量の高い地に避難して安心する「放射脳」を笑えるだろう。
誰が、家や思い出に固着してそこから離れない人を否定できるだろう。
誰が、訳知り顔で心配してもしかたがないからどんと構えて、という精神論者を笑えるだろう。
誰が、
誰が?

実際には互いが互いを笑い非難する。
この映画には笑いがないが、笑いの姿はある。
笑いとはどのような姿をしているのか。
それが写っているのがこの映画だ。

逆に
笑っている者がこの映画を観てどう思うのだろうか
そこには救いも内容もないと考えるだろうか、
どこが希望の国なのだと思うだろうか。



「家に帰ろう」と執拗に口にする智恵子
ここが家だ、と静かに諭す泰彦
そうなのだ。
ここから出て、家に帰れなければならない。
そして家はここなのだ。
ばらばらになって自分だけの愛を確かめている場合ではない。


**********

音楽にマーラーの10番が使われていたが
その恐るべき深さに舌を巻いた。
ヨーロッパの持っていたロマンとはこうも底知れぬものだったか。
こういう音楽を新作に求めることはもう出来ないのか。

あと炎。
映画では炎というのはこのように使うのだ、と
教えられているような。
同じく炎を使っていた先日の『夢売るふたり』と思わず対比する。
炎使いとしてはワタシは真っ先にタルコフスキーを思い出してしまうのだが
同類ではないが炎使いという点では共通する資質を持っているだろう。

同時に
個性的な音の使い手でもあった。
杭を打ち込む音。
テレビやラジオ、防災放送にかぶさるノイズ。
そこにはドラマをはみ出して別の世界への経路を感じさせる。
あと音はなんとなく鈴木清順を思い出させる。

大谷直子というとワタシ脳では即座に『ツィゴイネルワイゼン』なのだ。
彼女が歳取って圧倒的に微妙な存在感を発していることに感動した。
彼女の智恵子は間違いなくこの映画で最大のキーを握っている存在だ。




智恵子がいよいよ盆踊りにいくシーン、
ミツルとヨーコが誰もいない津波の後の街を歩くシーン、
老夫妻の盆踊り。
海岸沿いを走る車で防護服を開くいずみ。

胸打たれるというよりは
感動を許さない厳しさを感じた。





@ヒューマントラストシネマ有楽町

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