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NUIT ET BROUILLARD
1955フランス
監督:アラン・レネ
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
第二次大戦中のナチスによる強制収容所に関するドキュメント。
制作時点の収容所跡地の映像と、戦時中の実際の映像をコラージュしたもの。
ぽっかりと空疎な跡地の廃墟の映像と、凄惨を極める収容者の映像との間の果てしない距離感に背筋が寒くなる。
この場所でまさにあの惨劇が起きたのに、いまは跡形もない、という不思議。
映画中でも、この跡地でなにを撮るべきなのか、と自問する。
戦後10年ほどしか経っていない制作時にすでにこの距離感が生まれていることに驚く。
日々おしよせる風化、忘却、リアリティの変質。この感覚は、後にレネとデュラスが広島においてとりあげたテーマでもあるだろう。惨劇とともに恐ろしいのがこの距離感であることをこの作品は訴える。
もうひとつこの作品が訴えるのは、惨劇に通じる道は決して特殊な道ではなかったこと。むしろ惨劇と日常性が結合していたことである。
映画は冒頭、収容所監視塔のデザインについて触れる。いかにも思いつきで設計された、様々な様式の塔がある。収容所建設は産業における特需であったわけで、急速に多くの企業が建設に群がったことを示している。人類史上類い稀な惨劇に加担するという意識などなかったに違いない。
あるいは収容所における「生産性への努力」。
企業活動における日常的な原理がそのまま適用される。効率的な焼却炉。遺品の利用方法。遺体から石けんを作ること。髪の毛から絨毯をつくること。頭髪の山が果てしなく上に延びてゆく映像は背筋が凍る。
それから、収容者内にもやはり階級があったこと。所長を頂点とする監視体制の下層には、ドイツ人の刑事犯がいて、ユダヤ人収容者をいいように牛耳っていたこと。
あと、大企業による「私設」収容所があったこと。激安労働力を当て込んで作られたもので、SSでさえそこには入れなかったという話。
・・と列挙するとキリがないほど濃密なドキュメントなのだ。
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収容所の映像がないことにより映画は自ら死んだと嘆くのはゴダールだが、その欠落を不器用にでも埋めていこうとする本作のようなセミドキュメンタリーを彼はどうみるだろうか。
「映画史」でも「アワーミュージック」でも「夜と霧」からの映像が引かれていた。嘆くよりも、愚鈍ながらもその埋め合わせを形にしていくこと、のほうが大切なのかもしれないな。
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ハンス・アイスラーによるスコアは新古典的な響きでそれ自体は好きではあるけれど、この作品においてはまさにニュース映画の音楽のノリで用いられる。このへんは映画にはひっきりなしに音楽が背景となるという時代の要請なのか。それともレネの資質なのか。
5年後に撮る「ヒロシマ・モナムール」でも音楽はひっきりなしだったが・・
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↑なにとぞぼちっとオネガイします。
その、ゴダール的に言うならば作家にとっては<よそ>であるはずの
ピカソの多数の絵画や、劇版的な音楽を、
すべてゲルニカにおける悲劇=物語に
一方的に従属させてしまう演出(たぶん監督の意識的には啓蒙)に
辟易してしまい、以降敬遠し続けてきました。
その時感じられた距離感の無さは
『夜と霧』では変わって来ているのかしらん?
(何事も不勉強はいかんかも...)
私は『夜と霧』は未見ですが、
manimaniさんはこうなると、
どうあっても『ショアー』をどうにかして見なければイケナイという気がします。
そう。「ショアー」を見たいのですよ。
でもDVDは高額かつ稀少なのでね~
なんとか機会はないものか
「ゲルニカ」は未見ですが、察するにレネの演出気質は「夜と霧」でも健在かと思われます。戦時中の映像をモンタージュして説話を自然にもりあげる手腕は大したものですね。
ただ、撮影当時の収容所の映像を撮るにあたってのためらいを表明しているところに、レネなりの距離感を感じましたね。そこが救いです。
「ヒロシマ・モナムール」はもっとずっと洗練された物語になっていてよかったですね。デュラスの手柄だとも思いますが。