Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「シテール島への船出」テオ・アンゲロプロス

2013-09-07 02:53:18 | cinema
シテール島への船出 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


うーん、、と唸らざるを得ない。と同じ書き出し。

ヨーロッパの高年のある種の偏屈と近寄りがたさにはちゃんと理由があるのだという話。

ヨーロッパには限らないのかもしれないが、
20世紀のある時代を生きた人の心には、
1人の人間が抱えるには大きく深すぎる澱が残っていることは想像に難くなく、
それがギリシャの田舎の出来事であってもこうして作品として描かれると
他人事ではない共感のようなものを紡ぎ得る普遍性を持つというのは
そういう世界的な変動の時代を背負った表現だからなんだろうと思う。

ひとりひとりに大きな物語があって
その物語の要素はどこまでも個人的な具体的な細部である。
細部を積み上げてこそ大きな物語に近づける。
そういう、映画が大得意とするところの表現方法が、この映画の普遍性を作っている。

口笛による会話、荒れた土地、ひなびた家の内部、朽ちた納屋
港の古びた建物、床の水たまり、雨、カフェで歌い出す人々
燃える納屋
雨の中行われる港の祭

あらゆるものが普遍性の器であるだろう。

***

といいつつも、これらの映像にはまったくワタシの日常とのつながりを感じさせるものはないのも確かであって、
いわば異邦人的な楽しみ、異国情緒に感じ入るような視線もないわけではないのだ。
正直に言って、そういう異世界に浸ることによって日常を逃れようという思いが、ワタシの映画鑑賞の癖には如実に現れていて、まあ要するに邦画はあまり観ないということなんだけども(苦笑)

ただ、そういう異国の出来事だなという絵空事を乗り越えてこちらに迫ってくるナニモノかを期待して観ているのも確かで、逃避しつつも迫りくる真実には触れたいというところでしょうか。

そして本作のような十分咀嚼されて作られたものが好みというのは、なんだろうねえ、個人の内面で想起するものに関心があるということなんだろうねきっと。

と自分を分析してみるなど。

****

ところでこの映画にも不思議な技が使われている。
映画監督らしい主人公?というか息子は
大勢の老人を一人一人オーディションする現場にいるのだが、
そのあとカフェで見かけたラベンダー売りの老人に目を奪われる。
と、あとで港で下船してくる父親役にその老人がおさまっており
オーディションで繰り返しつぶやかれたセリフを晴れ晴れと語ってみせる。

虚構と現実が行き来する(いや、映画内の虚構と映画内での現実か)このような手法は
ほかにもみられたが(というか他にもあったと思うケド忘れちゃった)
この映画が持つうっすらとしたファンタジーの要素を構造的に支えているのだと思う。
こういうどこか虚構なんだよというスタンスがアンゲロプロスの作品には常にあるように思える。
それは、そのことによって作品を相対化するというよりはむしろ、
人物の心の真実の部分にぐっと近づくために必要な構造なんだと思われる。
あのファンタジーの要素があって初めて、最後の「船出」が、ありえないことなのに救済と終焉と始まりがないまぜになった彼らの心持ちを強く伝えてくるのだと思うからだ。

そうだよね?


@自宅BD


【追記】
『永遠と一日』と本作に共通して出て来たのが、雨の中黄色い合羽を着て自転車に乗る人なんだけど。
画面をスーッと横切ったり、隅にそっと写っていたり。
あれはなんなんだ?郵便配達とか?
ギリシャではよく居るのかな。
これぞ異国情緒。

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