パンズ・ラビリンス 通常版 [DVD]アミューズソフトエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
パンズ・ラビリンスHP
EL LABERINTO DEL FAUNO
2006メキシコ/スペイン/アメリカ
監督・脚本:ギレルモ・デル・トロ
出演:イバナ・バケロ、セルジ・ロペス、マリベル・ベルドゥ、ダグ・ジョーンズ、アリアドナ・ヒル、アレックス・アングロ
いや、泣きました。ワタシ。
最初に鼻血が引っ込んでいったときにすでに涙腺がゆるんじゃったんだけど、とうとうそのときがきて、もうダメ。
試練や夢の果てがこんなにこころやさしくかつ悲しいなんて。
そんな微妙な世界をよく描いたよ。
いい映画をみちまった。
●現実の滲出とグロテスク
この映画、面白いと思ったのは、結構「現実とファンタジーの混淆」という感想がよく見られたこと。パンフにもそういうこと書いてあったし。
そもそも「現実」側の物語も史実を背景としたフィクションなんだし、こういう場合は普通は全体が「ファンタジー」として受けとられるもんだと思うんだけど、この映画は「現実」とそれに対する「ファンタジー」が描かれている、と見られてしまう。なぜだろう。構成的にもその二つの世界は対置されていたとは思えない。むしろこの映画では現実世界とアンダーワールドは区分されていない。シームレスだ。自由に行き来し侵犯する。にもかかわらず???????????????????????????????????
????????
・・・・と考えて一ヶ月近くがすぎてしまった^^;
たしかに、これ、全体をフィクションとして、ある物語として収めてしまうのにはなにか抵抗があるよ。
ともすれば寓話的メタレベルの説話におさまりがちなファンタジーという土壌に、言い知れぬ「現実感」を注入したこと。ここにこの映画のすばらしさがあるように思うな。
非常に直感的なことだけれど、この現実感の注入の成功には、幻想場面にも現実場面にも充溢するグロテスクが一役買っているのではなかろうか。
老木のほこら、大カエルの棲みかの冒険はもう十分に生理的嫌悪力を持っているが、割けた頬を自ら縫う現実の義父だってそれに負けないグロテスクを生きている。
この映画では、人の命も精神も徹底的に抑圧するファシズム+軍事主義を現実のグロテスクの装置として使い、それをファンタジー世界のグロテスクと通底させることで、虚実の境界をあいまいにしている。
でもそれによって引き起こされた結果はというと、ファンタジー世界の充溢でも虚実の融合でもなく、逆にファンタジー世界への現実界の生々しい滲出なのだ。
この滲み出した現実界を観客は見逃すことができない。
わたしたちはどこかで現実のグロテスクを知っている。知っているだけでなく生きてさえいる。そのことによって、この映画の観客もファンタジーの虚構を生きるのではなく彼女の生きた「現実」を生きるのではなかろうか??
・・・と、自分でもどこかすっきりしない結論で終わるわけですが。。。
こういう言いがたさを持つ映画ほど好きだったりするわけなので、よしとする。
●家族の崩壊とファンタジー
ファシズムの横行=家族の崩壊と読み替えていいような気がする。父祖の伝統の継承ではなく、一定のイデオロギーを生きることを暴力装置により強制すること、それはすなわち家族の否定である。父母ではなく統帥者が規範となり愛情の原泉に位置づけられる。
この映画は、家族が崩壊する現実界に対して、家族の回復を試練と死をもって成就させる物語でもあるだろう。
オフェリアの迎え入れられる地は父母の愛の王国だ。それが現実界で成就しないことがなんとも悲しい。
唯一、花一輪だけが現実界に残した希望だ。
あの巨木がよみがえる時世界は本当に変わるのかもしれない。
****
逆に、反ファシズム、家族愛、少女の純真といったことを自明のものとして扱いすぎているのかもしれない。無邪気な安全コース。ギレルモくんはどれほどそのことに自覚的であるだろうか。
この作品が宮崎アニメを彷彿とさせるとするなら、まさにそういう地点が共通しているからではないのか?純粋さとひたむきさを無邪気に称揚することの心地よさと心地悪さ。
木の根っこの大カエルが「千と千尋・・」の大カエルにそっくりすぎることももちろん見逃せないけどな。
あと、あの目玉のやつ。
いろいろなブログを見聞きすると、あれと同じイメージがどうやら「トランシルヴァニア」にも登場するらしい。ロマの伝承とギレルモのスパニッシュファンタジーに繋がりはあるのか??
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そっかぁ~泣いてしまいましたかぁ。
かなり気に入りました。
ちょっと無邪気なところが気にはなりましたが、ディテールは全然無邪気でないですね。
泣きました~
自分は感想書かずじまいになっちまってますが大好きな映画です。
現実との境界が曖昧なのことこそが、
宮崎映画との相違点として面白い所だと思ってます。
(宮崎映画は基本的に境界を明確に設定して、
そこからの帰還を描いてますから。)
監督は確かに宮崎ファンを公言しておりますが、
私は『ミツバチのささやき』からの影響の濃さも見逃せない気がします。
そういった流れとして『パンズ・ラビリンス』に結実してゆく、デルトロ監督の『クロノス』や『デビルズ・バックボーン』といった非ハリウッド映画、そしてハリウッドでの健闘ぶりがうかがえる『ミミック』や『ヘルボーイ』なんかもオススメしておきます。
『ブレイド2』は評価が分かれるのでオススメかどうかは微妙ですが...。
(プロレス好きだと爆笑の必殺技が出るので個人的には好きです。)
企画が潰えたままの監督念願の『童夢』(モチロン大友原作の)も実現して欲しいです。
構造的には「トトロ」なんかはかなり似ているのではないかと思います。現実とファンタジーがシームレスであること。家族の回復を求める物語であること、など。ベクトルは大分違いますけどね。
「千と千尋」は逆に隔絶世界でのファンタジーで、これはかなり趣向が違いますね。
「ミツバチのささやき」とのつながりもパンフなどでよく指摘されていますね。私はあの映画ほとんど覚えていないので発言の資格なし。
そういや少女ものということで「ローズインタイドランド」もよく引き合いに出されますが、ワタシ的には全然違うモノだと思います。
デルトロもみたいですが、キュアロンの「トゥモローワールド」なんかは結構評判いいですね。観たかったが未見。
(この辺は絵コンテ/脚本作の『耳をすませば』でも同様でしたね。)
もちろん、『パンズ~』の舞台に向かう道がそのような入り口だとも考えられますが、冒頭の虫風生物の登場の仕方からしてよりシームレスに描かれていたと思います。
因みに『ミツバチのささやき』の影響は既に『クロノス』から顕著です。
この監督のマニアっぷりは『デビルズ・バックボーン』のコメンタリーからも窺えますが、ゴシック論からダリオ・アルジェントへのオマージュなんてのも飛び出してくるので聞いていてとても楽しいです。
『トゥモロー・ワールド』(正式には間に・がアリですね。)は劇場に観に行きそびれて以降未見のままです。原作はミステリー読みの相方が読んでいて(P・D・ジェイムスはミステリーの方が好みだそうで)あまり良い印象無いらしいんですが、映画はとても評判良いようですし、面白そうですね。
トトロ本体との出会いは確かに異界でのできごとかもしれませんが、ミニトトロが庭をちょろついたり、まっくろくろすけが家にいたり、あるいは例のバス停のシーンなど、随所に境界破りがあるという印象のほうが強いです。あの映画では子供たちはむしろつねに異界とともにあるのではないでしょうか。
「パンズ~」ではシームレス度は高いけれど、オフェリアの側から異界へアクセスするときは常に越境というステップがある(迷路を通って地下世界へおりる、チョークで異界の入り口を書く)という点で、トトロに比べてまだ敷居は高いのでは?
これでなんとなくいつのまにか「スリーアミーゴス」の映画を一本ずつ観たのでしたが、どうやらギレルモさんはオタク度No.1のようですね。
そして、『パンズ~』では往還の自在さと共に双方の世界が主人公にとって苦痛/試練の場であることが強調されていることが興味深く、私見ですが、あの試練を経て迎えられている世界もあの映画では現実であるという風に観ております。そこが『ローズ・イン~』(も好きですが...)と異なっていて面白いと感じた部分でもあります。
主人公がおかれている場/政治的境遇自体が当時のスペインの雛形であることも(ベタではあっても)ミソかと。
デル・トロ監督の諸作における子供という点については長くなるので自分の所に書こうと思っていたりします。
ちびトトロたちによってトンネルに導かれたということも忘れてはいけないように思います。
越境以前にあの里では魑魅魍魎たちは隣人であって、子供は特に感応力があるということでしょう。
これはあの映画が、伝説や民話が生活の中に根付いていた時代へのノスタルジアという側面を持っていることに大いに関係があるのです。たぶん。
だから大人であるお父さん(糸井重里(笑))も平然とファンタジーを受け入れるのです。そういう社会だから。
それはそうと、「パンズ~」はあのフランコ側の暴虐ぶりの表現をどこから持ってきたのかという点も気になっていまして。
当然監督が実際に体験したものではないわけで、かなりの取材をしたものかもしれませんし、「戦場のピアニスト」や「シンドラーのリスト」で映画として現前したファシズムの暴虐の表現を継いだものであるような気もしています。
DVDになったときそのへんのコメントがあるといいなあと思いますな。
「ローズ~」は現実を生きることと妄想を生きることが実は不可分であることを(これまたベタですが)描いたもので、直感ですが「パンズ・・」とは本質的に違うものだと思っています。
どちらが好きかというとワタシは「ローズ・・」すな。
1度しか観てないんでトンネル通る前後は忘れてました。苦手な所もありますが、嫌いというほどでは無い作品です(糸井重里の声は大いに苦手でしたが...)。
観た時に『パンダ・コパンダ』のリメイクっぽいよな~と思ったのを憶えてます。
でもって、その場所自体が異界の延長線でもあるというのは『パンズ~』と似ているということになるのかしらん?
チョークの扉は越境ではありますが、チョークで描くだけで行けてしまうという所が面白いと思いました。そして、そのチョークの扉は他の人にも見えるわけですし(扉の大きさはアリスを想起させます)。
『ローズ・イン~』と『パンズ~』どちらも大いに好きなモノとしては、その本質の相違点こそが面白いわけでした。
似たようでいて正反対の方向性を持っている映画ですよね。
『ローズ・イン~』は、『未来世紀ブラジル』や『ラスベガスをやっつけろ』のダーク系/バッド・トリップ味と、『バンデッドQ』や『バロン』、『フィッシャー・キング』の方向が見事に合体していてテリー・ギリアムの総集編的な作品だと思ってます。
まあ、ギリアムにとっては描き方の差こそあれ、結局は同じ方向性なのだとも思いますが...。
歴史的な背景を持ってはいますが、私は残酷味な童話としてのキャラ設定や残虐描写という風に考えてます。
「~トトロ」は子供とつきあって何回も観ているので(笑)
異界からの使者(ミニトトロ/虫)のコンタクトによって異界へ誘われるという点と、異界と現実界が区分されていながらも自在に行き来するという点で、「トトロ」と「パンズ~」は構造的によく似ていると思います。
ただテイストはものすごく違って、それは状況設定を楽園願望的な日本の農村とするのか、疎外の極地であるスペイン内戦とするのかということをとってみても制作者の意識の違いというものが明らかだなあと。。
確かに「トトロ」はちょっと苦手で「パンズ~」はかなり好きという感覚もそういうところの違いからくるでしょうね。
で、残酷童話としてとらえるというのも正解かもしれませんね。グリム童話が、たとえ書かれた時代のリアルを反映していたとしても、現代の異文化の我々が読めば全体が「残酷な童話」としてしかくくれませんからね。「パンズ~」もスペイン内戦が伝説になるくらいに時代がくだれば、いまグリムを読むような感じで観ることになるのかも。
そのころまで映画は残るのか?という大いなる疑問はありますけどね。