三十年の長きにわたって美竹教会の兄弟姉妹を導いてくださった上田光正牧師の最後の説教、
テキストは「ヨナ記」2章5節~11節 と 「使徒言行録」20章17節~38節
タイトルは「神とその恵みの言葉」でした。
今日のテキストの中では32節の言葉が中心になりますが、20章全体が何度読んでも感銘深く、
私は座右の銘としてきました。
今日が最後の説教になりますが、キリスト者にふさわしい「お別れの言葉」や「告別説教」として
大学教授のように自分の研究を優しく語るということもありますが、神の御言葉を取り次ぐことが任務の
牧師の私は毎週が最終のつもりで語ってまいりました。 (牧師とは指し示す「指」になりきることです。)
パウロは復活のイエスに出会って回心し伝道師となりましたが、パウロの回心によって教会も
大きく回転しました。パウロの三大事業、その一つは書き残した手紙、新約聖書27巻のうちの13巻が
パウロによる手紙だということ、二つ目は、教会をたくさん建てたこと、三つ目は、ユダや人の教会と
異邦人の教会の和解を図ったことです。
小アジアの中心の町、エフェソにいたパウロは必ず殺されると分かっていましたが、この時エルサレムに
行こうとしていました。 行かなければユダヤ人と異邦人の和解が成り立たない、
命を失うことになっても行かねばならないとパウロは考えていました。
エルサレムの教会からは歓迎されましたが、結局ユダヤ人に捕らえられローマに連れて行かれて最後は殉教しました。
しかしパウロのとって殉教は喜びと勝利でした。
今日のテキストにはエフェソの教会員との別れの様子が著者ルカによって生き生きとえがかれています。
今生の別れは悲しいことです。 しかしこの時の別れは勝利と確かな喜びに満ちていました。
闘いの苦しみにもかかわらず勝利の喜びで教会を生かしていたのは復活の主イエスの命です。
甦りの主が私たちの真ん中に立っておられますから、私たちは哀しみに会っても打ちひしがれることはないのです。
礼拝とは常に別れを含んでいて、ある意味で一期一会と言えます。
私は神とその恵みの言葉に委ねるつもりで説教も祈りも行ってきました。
御国での再開と言う事実があるからです。 家族に対しても同じことです。
「別れ無き別れ」と言った説教者がおりましたが、死を予感したある牧師は最期の時、家族に「今、わたしは神と
その恵みの言葉をあなた方に委ねる」と言ったそうですが、これは家族にとって最高の言葉となりました。
私は教会員にも家族にもこの聖句を心に持って生きてきました。
自分も含めて(教会員も)全家族を神とその恵みの言葉に委ねる思いを持ってきました。
20章28節~29節は、自分自身からも、自分たちの兄弟姉妹の中からも残忍な狼が現れることへの
パウロの警告です。
自分の人生は自分の選択で成り立っていると思うのは間違いで、人生も家も家族も教会もすべては神のもので、
自分が狼にならないように注意しなくてはいけません。
32節の御言葉には教会を建てる、作り上げる力があります。
何故なら、キリストは甦られキリストが主となられたのですから。
美竹教会では最近三人の若い方が洗礼を受けられました。 これからの長い人生にはいろいろなことがあると
思いますが、聖書、説教には何度倒れても神の恵みが受け継がれる力があります。
教会は復活の主の身体です。 私たちは地上で別れても主の御国で再会します。
全員が神の国に入りたいものです。
聖別された人々と共に御国を受け継ぐために、主が来られる日まで祈り、礼拝を続けましょう。
(以上、文責はゆうゆうにあります。)
公園の<ルリビタキ(♂)>もついに北の国に戻って行きました。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
上田先生と今日でお別れ、ということで多くの方が礼拝に来られました。
上田先生ご夫妻、Y・М神学生をお送りする食時会にもたくさんの方が残られました。
別れは本当に寂しく悲しいことです。
上田先生は「日本基督教団曳舟教会」の牧師としてこれからも神様の御言葉を語られるそうです。
お三人の新しい歩みに神様の恵みが豊かにありますように! 心からお祈り申します。
これからは新牧師の左近の豊先生に導かれて神さまを中心とした教会をしっかり建てるよう、私も祈り続け、
礼拝に出席してゆこうと思います。
テキストは「ヨナ記」2章5節~11節 と 「使徒言行録」20章17節~38節
タイトルは「神とその恵みの言葉」でした。
今日のテキストの中では32節の言葉が中心になりますが、20章全体が何度読んでも感銘深く、
私は座右の銘としてきました。
今日が最後の説教になりますが、キリスト者にふさわしい「お別れの言葉」や「告別説教」として
大学教授のように自分の研究を優しく語るということもありますが、神の御言葉を取り次ぐことが任務の
牧師の私は毎週が最終のつもりで語ってまいりました。 (牧師とは指し示す「指」になりきることです。)
パウロは復活のイエスに出会って回心し伝道師となりましたが、パウロの回心によって教会も
大きく回転しました。パウロの三大事業、その一つは書き残した手紙、新約聖書27巻のうちの13巻が
パウロによる手紙だということ、二つ目は、教会をたくさん建てたこと、三つ目は、ユダや人の教会と
異邦人の教会の和解を図ったことです。
小アジアの中心の町、エフェソにいたパウロは必ず殺されると分かっていましたが、この時エルサレムに
行こうとしていました。 行かなければユダヤ人と異邦人の和解が成り立たない、
命を失うことになっても行かねばならないとパウロは考えていました。
エルサレムの教会からは歓迎されましたが、結局ユダヤ人に捕らえられローマに連れて行かれて最後は殉教しました。
しかしパウロのとって殉教は喜びと勝利でした。
今日のテキストにはエフェソの教会員との別れの様子が著者ルカによって生き生きとえがかれています。
今生の別れは悲しいことです。 しかしこの時の別れは勝利と確かな喜びに満ちていました。
闘いの苦しみにもかかわらず勝利の喜びで教会を生かしていたのは復活の主イエスの命です。
甦りの主が私たちの真ん中に立っておられますから、私たちは哀しみに会っても打ちひしがれることはないのです。
礼拝とは常に別れを含んでいて、ある意味で一期一会と言えます。
私は神とその恵みの言葉に委ねるつもりで説教も祈りも行ってきました。
御国での再開と言う事実があるからです。 家族に対しても同じことです。
「別れ無き別れ」と言った説教者がおりましたが、死を予感したある牧師は最期の時、家族に「今、わたしは神と
その恵みの言葉をあなた方に委ねる」と言ったそうですが、これは家族にとって最高の言葉となりました。
私は教会員にも家族にもこの聖句を心に持って生きてきました。
自分も含めて(教会員も)全家族を神とその恵みの言葉に委ねる思いを持ってきました。
20章28節~29節は、自分自身からも、自分たちの兄弟姉妹の中からも残忍な狼が現れることへの
パウロの警告です。
自分の人生は自分の選択で成り立っていると思うのは間違いで、人生も家も家族も教会もすべては神のもので、
自分が狼にならないように注意しなくてはいけません。
32節の御言葉には教会を建てる、作り上げる力があります。
何故なら、キリストは甦られキリストが主となられたのですから。
美竹教会では最近三人の若い方が洗礼を受けられました。 これからの長い人生にはいろいろなことがあると
思いますが、聖書、説教には何度倒れても神の恵みが受け継がれる力があります。
教会は復活の主の身体です。 私たちは地上で別れても主の御国で再会します。
全員が神の国に入りたいものです。
聖別された人々と共に御国を受け継ぐために、主が来られる日まで祈り、礼拝を続けましょう。
(以上、文責はゆうゆうにあります。)
公園の<ルリビタキ(♂)>もついに北の国に戻って行きました。
美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
上田先生と今日でお別れ、ということで多くの方が礼拝に来られました。
上田先生ご夫妻、Y・М神学生をお送りする食時会にもたくさんの方が残られました。
別れは本当に寂しく悲しいことです。
上田先生は「日本基督教団曳舟教会」の牧師としてこれからも神様の御言葉を語られるそうです。
お三人の新しい歩みに神様の恵みが豊かにありますように! 心からお祈り申します。
これからは新牧師の左近の豊先生に導かれて神さまを中心とした教会をしっかり建てるよう、私も祈り続け、
礼拝に出席してゆこうと思います。