ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

Thomas Tallis の音楽

2014-03-17 20:02:20 | その他
トマス・タリスという人の音楽をネットで初めて聴きました。

↓ Wikipedia の解説です。

トマス・タリス(Thomas Tallis, 1505年頃 - 1585年11月23日)は、16世紀イングランド王国の作曲家、オルガン奏者。
青年期にはロンドンの教会やウォルサム・アビー修道院(1536年頃 - 1540年)のオルガン奏者をつとめ、
カンタベリー大聖堂での職を経た後、1542年より、弟子のウィリアム・バードと共に王室礼拝堂のオルガン奏者となった。

タリスの仕えた国王は、テューダー朝のヘンリー8世、エドワード6世、メアリー1世とエリザベス1世である。
カトリックとプロテスタントが激しく対立する宗教改革の時代に生きたため、ラテン語および英語による作品が残されている。
残された作品の数は少ないが、素朴で美しく慎ましい感情が表現されている。
タリス自身はカトリックであったが、プロテスタント向けの英語の詞で作曲されている。

1575年にタリスとバードは、エリザベス女王から五線紙に音楽を印刷するための許可を得た。
タリスはまた、エリザベス女王によって年30ポンド相当の収入が得られる土地を与えられた。

<作風>
この時期のオルガンはショート・オクターブもまだ用いられていた時代なので、
器楽作品から地味で目立たない印象を与えることが多い。
しかし、タリスが名声を決定的にしたのは「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」のような
過剰多声楽曲である。
和声的には単純でも、聴取の限界を超えた声部が幾重にも重なり、他にありえない荘厳さを生み出す。
後半、バス声部の完全四度進行の反復が宗教的な瞬間の創出に成功しており、数度のゲネラルパウゼで聴神経が一挙に引き締まる。
この時代には当然和声理論は確立しておらず、同時代のイタリアのルネサンス音楽よりも簡素な対位法の下で
自由に旋法内の音を選べたがゆえの表現であった。

1567年に書かれた「大主教パーカーのための詩編曲」の第3曲の旋律は、後にヴォーン・ウィリアムズが
「トマス・タリスの主題による幻想曲」に用いたため、特に有名になった。
また、この第9曲は「タリスのカノン」という別名を持っている。

<主要作品>
・「エレミアの哀歌」 The Lamentations of Jeremiah
・「4声のためのミサ曲」 Mass for Four Voices
・「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』」Spem in alium
・モテット 「主よ、我が罪を消したまえ」 Absterge Domine
・ミサ曲「めでたし清らかな乙女」 Missa Salve intemerata
・「大主教パーカーのための詩編曲」 Archbishop Parker's Metrical Psalter

音楽には(も?)詳しくない私には作風の解説を読んでもよくわかりませんが、過剰多声楽曲とか、聴取の限界を超えた、
という感じはなんとなくわかります。 衝撃的な!美しさです。


「40声のモテット『我、汝の他に望みなし』Spem in alium はここをクリックしてお聴きください。

「エレミアの哀歌」The Lamentations of Jeremiah はここをクリックしてお聴きください。




今日の写真は<トンビ>です。 
昔は東京にも普通にいたらしいのですが、今は珍しいです。


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「永遠に真実なる神」

2014-03-16 22:48:37 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ダニエル書」6章19節~28節 タイトルは「永遠に真実なる神」でした。

ダニエル書は、神の永遠、復活について初めて語った書です。
世の中がどう変わろうとも神の真実は変わらない、激変の時代、神の真実を信じる事のみが平安の道だったのです。
形は違うがこの70年の日本も大層変わりましたが、望みに向かう最後の頼りはとこしえの神、救い主イエスに
信頼することが平安の源なのです。

BC612年にアッシリアが滅び、バビロニア帝国となり、女がその子供を煮て食べるとまで言われた捕囚の苦しい時代、
しかしそのバビロニアもわずか三代でおわりペルシャ帝国が支配する、ダニエルはこの激動の時代の人でした。
数百年の内に帝国が現れては消えて行った時代をダニエル書は描いています。
神を信じる目で見れば、決して消えない真の神が見え、それにより頼む者は絶望することなく永久の命を得る、
ダニエル書が繰り返し書いていることです。

ペルシャの総督の一人に選ばれ、王に忠実で汚点が無く、王からの信頼が絶大であったダニエルは周囲の高官の
妬みを買いました。
三か月間、ダレイオス王しか礼拝してはいけない、という王の署名した命令にもかかわらず、ダニエルは己の神(ヤーウェ)
への礼拝を普段と変わらず続けました。
ダニエルの信仰の節操をついて、陥れようとした高官たちの罠でした。

ダニエルは落ち着いて冷静に「獅子の穴に落とされる」刑罰を受けましたが、署名した王自身は大切に思うダニエルを
そのような目に遭わせてしまったことに激しく動揺しました。
地上の権力に頼る王の弱さ、あわてぶりと、神への忠実を守るダニエルの冷静さが対照的です。

獅子の穴に落とされるダニエルの物語は3章19節からの「炉に投げ込まれる三人の若者の物語」と同工異曲です。
神は真実で信じる者は守られた、というのはダニエル書のテーマなのです。
3章の物語では、炉の中の四人目の人はイエス・キリストと捉えることに無理はありません。
(旧約聖書には新約が預言されているとみるのは間違いではありません。)

聖書の福音の中心は「神、共にいます(インマヌエル)」ですから、私たちはどんな時でもたった一人で頑張っているのではなく、
常に神が共にいてくださいます。
この御子なる神は私たちの心の支えです。
熱い炉や獅子の穴より深い黄泉に降られたイエスは復活されました。

ダニエル書3:18「たといそうでなくても」という信仰がキリスト教の信仰です。
ダニエルは苦難の時代に永遠の神を信じて平安と希望を持ちました。

聖書の伝えるインマヌエルのメッセージ、常に神が共にいることを信じて日常を生きること、神を神として礼拝する時
(利益信仰や甘い信仰ではなく)私たちはわがままな自分を忘れ無私になれるのです。
歴史は移り変わりますが、より頼むのはただ一人、永遠を支配している神のみです。
ダニエル書はそのことを示しています。

ダニエルに対する主の最後の言葉 12章13節
終わりまでお前の道を行き、憩に入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、
お前は立ち上がるであろう。


ダニエルを永遠に忘れることなく、終わりの日には永遠の命を与えてくださる神を私たちも終わりまで信じて、
信仰の生涯を全うしましょう。
                                 (以上、文責はゆうゆうにあります。)




川の翡翠(♂) 日差しは明るく春めいて来ました。


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あと半月で美竹教会の牧師は上田先生から左近豊先生に変わります。
今日は「左近先生をお迎えするにあたって」ということで教会員懇談会が開かれました。
なんとなく、サワサワしてきました。 
上田先生ご夫妻、Y・М神学生とのお別れももうすぐです、三月は別れの淋しい月ですね。 (T__T)
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レント第10日(土)

2014-03-15 23:16:02 | 今日の聖句
レントカレンダー、今日の聖句は「イザヤ書」40章28節~31節です。

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
倦むことなく、疲れることなく その英知は究めがたい。
疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 
主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない。


「イザヤ書」のこの聖句はお気に入りで、私の聖書にはお気に入りマークがついていました。 (^-^)



川岸の河津桜が咲いて<ヒヨドリ>が蜜を吸いに来ていました。


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明日の主日礼拝は午前10時半からです、どうぞ教会の扉を押してお訪ねください。
重荷を負う人、人生の目的を見失っている方、教会できっと希望を見いだせますよ。
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「コヘレトの言葉」

2014-03-14 15:30:29 | 聖書
昨夜「箴言」を読み終わりました。
今夜から「コヘレトの言葉」を読み始めます。 まずは「聖書事典」で解説を・・・・・・

「コヘレトの言葉」
コヘレトの言葉は12章からなっていて、新共同訳の聖書では例外的にまったく小見出しをつけていない。
冒頭の「なんという空しさ、すべては空しい」という有名な言葉にはじまり、きわめて特色ある思想を展開しているが、
容易に論理的一貫性を見極めることはできない。

万物の無常を認め実体性を拒否する思想は旧約聖書では他には見られたい。
構成としては、全体として脈絡を書いた金言を集めた印象があるが、内容は固有性の強い、考え抜かれた
知恵の言葉を集めたものである。

コヘレトの言葉の思想は一切は空しいことに根底を置いているのが特色だが、これは現実を透徹した認識であって、
単に「なんという空しさ」という詠嘆を意味するものではない。
一切のことはめぐりめぐって循環しており、一定の確固たる目的があるものとは思えない。「かつてあったことは、
これからもある」「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と断定している。

コヘレトは神を畏れ敬うことを否定しているのではなく、むしろ、結局神を畏れ敬うことのみが根本的に重要であることを
確認しているのである。
神は全世界を創造され、その美しさを否定するのではないが、創造世界の矛盾や悪と思われるものも限りなくある。
それらすべてのことを含めて、人智で量り難い神の知恵と慈しみを忘れてはならない。
人間はどこまでも謙虚で、神を畏れることが大切であると言っている。

天地創造の神の業、終末における神の審判、人間のなすすべてのことについての責任、これらは聖書の根本的な教えであるが、
これらすべてを固定的に考えてはならない。
人生には悲惨も多いが、また神が与えられる幸福と快楽も感謝すべき賜物である。
これらの思想はヘレニズム時代に到達された認識である。


コヘレトはヘブライ語の「招集する者」を意味するが、職務を表すと考えられる。
コヘレトは「エルサレムの王、ダビデの子」(コヘ1:1)と記されているのでソロモンを指すことになる。
ソロモンは偉大な賢者であり、箴言も巣櫓門の著作とされている。
しかし箴言の現実的な教訓とコヘレトの言葉の「空」のおしえとは性格が異なる。
多くの学者は、コヘレトとヘレニズム時代になって無常観や、さらには仏教的思想などの影響も受けた
前2世紀後半の知者であると推定している。

                           (↑ 以上「聖書事典」より抜書き、解説は木田献一氏による)



春浅い公園の小川で<クイナ>がザリガニを捕っていました。


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レント第8日目

2014-03-13 21:34:44 | 今日の聖句
レントカレンダーの今日の聖句は「エレミヤ書」29章11節~14節です。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。 
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈りを求めるなら、わたしは聞く。
わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、
わたしに出会うであろう、と主は言われる。
わたしは捕囚の民を帰らせる。 わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、
またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として
追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。



囚われ、奴隷としてバビロンへ連れて行かれたイスラエルの民を、主はいつか必ず
エルサレムに呼びもどしてくださる、とエレミヤは(主のみ旨を)預言しました。



小さな春・・・開き始めたネコヤナギの花を摘まむ<ヒヨドリ>です。



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若い頃に美竹教会を離れ40年以上「放蕩息子状態」だった私が、再び神さまに導かれて教会に戻ったのは三年前でした。
美竹教会に昔日の面影はなく、礼拝に集う方は私も含めて高齢な方が多く、人数もとても少なくなっていました。
教会員の減少はいつごろから始まったのでしょう。 
過去に何かがあって急激な減少があったのでしょうか。 それとも自然減少?なのでしょうか。

4月からおいでになる左近先生はこのような美竹教会をご存知でしょうか、様々なことがとても心配です。
まずこの現状を認識して、今の美竹教会にできる「福音の伝道」を無理せず焦らず続けてゆけたらと、神さまに祈る毎日です。
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「御言葉を食べて生きる」

2014-03-12 20:50:50 | 「先週の講壇より」
  3月2日(日)の礼拝説教の一部が「先週の講壇より」として週報に載りました。

  説教のテキストは「エゼキエル書」3章1節~11節 と 「ヨハネによる福音書」6章66節~71節
  タイトルは「御言葉を食べて生きる」 でした。

  

   上田先生の説教の全文は美竹教会のホームページ「9.説教集」に載ります。
   皆様、是非お読みください。


上田先生の説教は、残り16日(日)と30日(日)の二回だけになりました。
23日(日)は4月から新しい任地で伝道を始められるY・М神学生がなさいます。
牧師ご夫妻とY・М神学生(4月からは牧師となられます)の強力な三人がいなくなる美竹教会、
4月からはどんな風になるのでしょうか。 
神さま、元気ではつらつと信仰生活、伝道活動をやって行けますように私たち教会員の健康をお守りください。


  
  <ウグイス>
  笹薮などの蔭で地鳴きする鶯を見るのは結構難しいです。
  動きも早くて私のような素人がカメラに収めるのは至難の業。
  そんな鶯があまりに近くに出てきて、ギョッとなって撮った一枚です。 
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讃美歌326番 「光に歩めよ」

2014-03-11 23:22:21 | 讃美歌
讃美歌326番 「ひかりにあゆめよ」

原作者Barnard Barton(1784-1849 イギリス人)は「クエーカーの詩人」と言われる。
クエーカーの学校で教育を受けた後、地方の銀行で長年勤めるかたわら、いくつかの詩集を出版した。
この詩は188番「みかみのことばよ」と共に彼の代表作の一つである。

作曲は Samuel Stanley(1767-1882 イギリス人)
イングランド中部の中心であり、ロンドンに次ぐ大都市Birminghamで生涯を過ごした。
Stanleyはこの町のある集会所で歌唱指導をはじめたが、有名となってその後、大きな礼拝堂に招かれた。
53歳まで33年間そこで仕事を続けた。
彼はまたチェロを奏し、バーミンガム劇場及びフェステイバル合唱協会の管弦楽団に加わっていた。
作曲としては,合唱曲及び讃美歌を多数残している。
この曲は”Warwick”と言う曲名で1800年頃、詩篇第23編「主はわが牧者なり,われ乏しきことあらじ…」の曲として発表されたが、
原曲はいま少し変化のあるものであったらしく、詩篇歌の伝統的なスタイルに対して、この曲は非常に装飾的なスタイルとして注目された。
爾来この曲は、色々な歌詞に配されて英米で普及した。
曲名”Warwick”の意味はわからない。


↑ 以上の解説はネットからの引用です。

日本語の歌詞

  1.  ひかり に あゆめ よ, さらば ふかき
     みたま の まじわり たえず ぞ あらん.

  2.  ひかり に あゆめ よ, さらば また と
     この よ の けがれ に そまず ぞ あらん.

  
  3.  ひかり に あゆめ よ, さらば くらき
    たにま を ゆく とも, やすく ぞ あらん.

  4.  ひかり に あゆめ よ, さらば はか も
    くちざる さかえ の かど と ぞ ならん.

  5.  ひかり に あゆめ よ, さらば きえぬ
    ひかり の みかみ は こころ に まさん.



Barnard barton の作った詩 “Walk in the light: so shalt thou know”

  Walk in the light: so shalt thou know
  That fellowship of love
  His Spirit only can bestow
  Who reigns in light above.

 
  
  Walk in the light: and sin abhorred
  Shall ne’er defile again;
  The blood of Jesus Christ, thy Lord,
  Shall cleanse from every stain.

  
  Walk in the light: and thou shalt find
  Thy heart made truly His
  Who dwells in cloudless light enshrined
  In whom no darkness is.


Samuel Stanley が作曲した曲“Warwick”の歌詞です。

  Lord, in the morning Thou shalt hear
  My voice ascending high;
  To Thee will I direct my prayer,
  To Thee lift up mine eye.
  

  Up to the hills, where Christ is gone
  To plead for all His saints,
  Presenting at His Father’s throne,
  Our songs and our complaints.

  Thou art a God before whose sight
  The wicked shall not stand;
  Sinners shall ne’er be Thy delight,
  Nor dwell at Thy right hand

メロディはココをクリックしてお聴きください。


<タシギ>です。 長い嘴を柔かい泥に刺し込んで餌を捕ります。


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「たといそうでなくても」

2014-03-09 21:36:34 | 説教
今日の礼拝説教 テキストは「ダニエル書」3章16節~30節
タイトルは「たといそうでなくとも」でした。

今日の聖書の話は・・・・・・
バビロニアはネブカドネツァル王の時、イスラエルの民にとっては「バビロン捕囚」の時代のこと。
ダニエは王の夢解きをして絶大な信頼を得、バビロン全州を納めるほどになった。
優秀で眉目秀麗の三人の若者、シャドレク、メシャク、アベド・ネゴもダニエルの推薦もあり、
王に重く用いられ若くしてバビロン州の行政官に任命された。

王は巨大な金の像(王の神の像、偶像)を造り、国中の高位高官たちにその除幕式に出るように、
金の像にひれ伏して拝まないものは燃え盛る炉に投げ込むと命じ、すべての人はこれに従った。
そのなかで、像を拝もうとしないでユダヤ人のシャドレク、メシャク、アベド・ネゴをカルデア人は王に密告した。
王は「金の像を拝むならそれでよし、拝まないつもりなら直ちにお前たちを炉に投げ入れる。
お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と三人に問いただした。
三人は「わたしたちの仕える神はその燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。
そうでなくでも、私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも決していたしません。」と答えた。
怒った王は三人を七倍も熱くした炉に投げ入れた。
ところが炉に投げ込まれた三人は神の子のような姿の人と共に、四人で炉の中で自由に歩き回っていた。
驚いた王の呼びかけに炉の中から出てきた三人はその体が損なわれていないばかりでなく、火のにおいすらなかった。
・・・・・・・・というものです。


今日は18節の「そうでなくても、私たちは王の神々に仕えることも拝むこともしません」という言葉を中心に学びましょう。
「そうでなくとも・・・」という言葉は三人の青年の信仰の真髄、いや私たちの信仰の真髄を表しています。
王に重用されたとはいえ、バビロン捕囚のイスラエルの民はみな奴隷の身分で、三人の青年も名前を変えられていました。

「そうでなくとも」神の思し召しは働く、肉体の滅びは滅びではなく、神を神としないことが滅びである。

この「ダニエル書」はバビロン捕囚の400年後、BC2世紀ころに書かれ、大いに人々は慰められキリストを待ち望む気持ちを強く持ちました。

日本のクリスチャンは人口の1%ですが、韓国のクリスチャンは人口の30%に達しています。
韓国の教会は日本政府侵略の50年間、それは受難の時でした。
本来の名前を日本人のように変えられたり、また日本の神社への礼拝を強要される中、韓国の教会は非暴力で抵抗しました。
教会を国民の祈りの場として守り、多くの殉教者も出しました。

この時から韓国の人々は教会を信頼し始め、その後、祈りによる信仰のリバイバル(復興)が起きたのです。
教会の歩みを通して一般の人々はキリスト教への信頼を強めました。

当時のキリスト教の先輩を軽々に批判することはできませんが、自戒の思いを込めて、日本のキリスト者が軍部への
協力さえしたことは神の前に懺悔すべきことです。
日本の教会は世の中に迎合しすぎたと言えましょう。 


今日、私たちが信仰に立って生きるという事はどういうことが考えてみると、今、迫害は無く命を懸ける出来事はありませんが、
毎日の生活が殉教であるべきと言えます。

イエスは「山上の説教」であなた方は地の塩であると言われました。
この世にあって、たとえ弱い光でも光り続けることが求められています。
世の中の教会への期待は、この世の指針、羅針盤のようなものです。
人生を前向きに生きる、明るく光っていることが期待されています。
血を流すことだけが殉教ではなく、毎日の小さな技があかしであり殉教です。

主が共に在ることを表す。

「たといそうでなくても」少しでも神の御言葉、キリストの愛を証しして生きることができます。
救いは来ないかも知れない、と思う時があっても、それでも信仰の道を伝えることが大切。

終わりの日の復活までを考えると私たちは勝ち得て余りあるのです。
肉体的限度はあるがそれを超えて神がある、まず神がいまして、その後に人間が来るのです。
人間の力を頼み、それだけを頼りに生きていては真の希望はありません。
自分中心の考えを捨て神をかんがえることによって平安が生まれます。
自分のことを考えず神にすべてを委ねる、そして神はすべてを聞いていてくださいます。

神の御栄のために命を捧げる、そのために私たちは生かされている、幼子のように純真な信仰を持ちたいものです。

                                          (以上、文責はゆうゆうです。)



<カシラダカ>という野鳥です。

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讃美の言葉

2014-03-08 15:35:15 | 聖書
聖書を読む

「レントカレンダー」第4日(土)の聖書は「イザヤ書」58章9節~11節 と 「詩編」86篇です。

詩編86篇5節~10節
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。
あなだを呼ぶ者に 豊かな慈しみをお与えになります。
主よ、わたしの祈りをお聞きください。
嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。
苦難の襲うときわたしが呼びもとめれば
あなたは必ず答えてくださるでしょう。
主よ、あなたのような神は神々のうちになく
あなたの御業に並ぶものはありません。
詩よ、あなたがお造りになった国々はすべて
御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。
あなたは偉大な神 驚くべき御業を成し遂げられる方
ただあなたひとり、神。



一応毎日、旧約聖書と新約聖書、最近はそれに加えて「レントカレンダー」の当日分と
「日々の聖句―ローズンゲン」の当日分、を読むようにしています。
そして祈りの前に「詩編」を一篇読みます。

私の祈りは「神様ああしてください、これをお守りください」と言った願い事が多くて
感謝の言葉が少ないのですが、さらに神への賛美の言葉となると祈りの最初の「聖名を讃美します」
だけと言えるくらい少ないのです。
これではイケナイ、と「詩編」を読んで神様を讃美する言葉を学ぼうと思っているわけです。

今日の「レントカレンダー」の「詩編86篇」はダビデの詩ですが、神様への讃美の言葉が
美しく詠われています。
このように神様への讃美の言葉が祈れたら素晴らしい、と思います。



白梅の蜜を吸いにきた<メジロ>です。


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明日は主日礼拝の日、午前10時半から始まります。
重荷を負って苦しんでいる方、生きる目的を持たないで悩んでいる方、
どうぞ一度、教会の扉を押して訪ねてみてください。
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灰の水曜日

2014-03-06 15:02:47 | 今日の聖句
戴いた「レントカレンダー」によるとレントは「灰の水曜日」から始まるようです。
今年は何日が「灰の水曜日」で何日が「イースター」なのか、戴いたレントカレンダーでは分かりません。
多分、昨日が「灰の水曜日」だろうと決めて、夕べからレントカレンダーの聖句も読むことにしました。

昨日(水曜日)の聖句は「ヨエル記「2章12節~18節でした。

「ヨエル記「2章12節~18節 <主の慈しみ> 
主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き叫んで・
衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。」
あなたたちの神、主に立ち帰れ。
主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み
くだした災いを悔いられるからだ。
あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し 
あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を 残してくださるかもしれない。
シオンで角笛を吹き断食を布告し、聖会を招集せよ。
民を呼び集め、会衆を聖別し 長老を集合させよ。
幼子、乳飲み子を呼び集め 花婿を控えの間から 花嫁を祝いの部屋から呼び出せ。
祭司は神殿の入り口と祭壇の間で泣き 主に仕える者は言うがよい。
「主よ、あなたの民を憐れんでください。
あなたの嗣業である民を恥に落とさず 国々の嘲りの種としないでください。
「彼らの神はどこにいるのか」と
なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」


毎日、日課として(ダラダラと?)読むのとは違ってピンポイントの聖句は新鮮に感じられます。 (^-^)




公園の池にいる<バン>という野鳥です。
春にはこの池で卵を産んで雛を孵します。


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