ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

大祭司イエス

2014-05-22 22:17:28 | 今日の聖句
今日の聖句は 「ヘブライ人への手紙」4章14節~16節  「偉大な大祭司イエス」です。

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、
わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、
わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に
近づこうではありませんか。


以前、ブログで参照させていただきましたが、日本基督教団荒川教会の国府田裕人牧師の
「聖書のお話:ヘブライ人への手紙」で易しく解説なさっています。
 
私達人間が自分の信仰を量ったり、それによって凹んだりするのは間違いなのだ、とよく分かりました。 
そして心から感謝です。

***************************************************** ↓ 国府田牧師の解説です。 下線は私が引きました。

わたしたちには大祭司、神の子イエスが与えられていると言うことです。
ユダヤの人々は、神さまと自分たちの生活を結びつけるための務めをもった祭司という人たちを大切にしてまいりました。
その祭司たちの長が、大祭司であります。

みなさんは自分と神さまを結びつけるものは何だとお思いでしょうか。
神さまの愛でありましょうか。 あるいはわたしたちの信仰でありましょうか。 
愛にしろ、信仰にしろ目に見えるものではありません。 
たとえば、神さまがわたしたちを愛して下さっているということは、どのように分かるのでしょうか? 
人生というのは良いことばかりあるわけではありません。 わたしはもう神さまに見捨てられたのではないかしらん? と疑い、
信じられなくなることだって起こるかもしれないのです。 あるいは自分には神さまに愛される資格がなくなったと思い込んで
しまう時もあるかもしれません。 信仰も同じです。 自分が信じられるときはいいけれども、信じられなくなったら、
神さまとわたしたちの結びつきはなくなってしまうということになるのです。

ユダヤの人々は、神さまと自分たちの結びつきを、そういう主観的なものに頼ってかんがえませんでした。
神さまがお立てになった祭司、特に大祭司が、神さまとわたしたちを結びつけて下さっていると考えたのです。
神さまの愛を信じられなくなるような現実においても、自分がいかなる罪人であっても、大祭司が神さまとわたしたちの間に立って、
絆となってくださると考えていたのです。
だから、わたしたちは神さまと一緒に生きることができるのだと信じるのです。


『ヘブライ人への手紙』もそうなのです。 神さまの愛を感じるとか、わたしたちの信じる気持ちがすごく強いとか、
そういう主観的なことではなくて、イエスさまがいらっしゃるということ、それが神さまとわたしたちの絆の確かさなのだ
というわけです。

悲しいことや辛いことばかりで、神さまの愛が見えなくなることがあるかもしれません。
自分なんか神さまに愛されるはずがないと思ってしまう時もあるかもしれません。
今まで素直に信じられていたことが、信じられなくなってしまうこともあるかもしれません。そういう時にも、
《わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている》ではないか、と語るわけです。

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春紫苑に止まった<アオスジアゲハ>です。


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6月から隔週の礼拝前の時間を使って「聖書の学び(全6回)」が始まります。
礼拝後はなるべく早く帰宅しなくてはならない私は、礼拝前のこの集まりはとても嬉しく、楽しみです。
それにしてもシンデレラではあるまいし、12時に教会を飛び出さなくてはならない私の縛りはいつまで続くのでしょうね~ (T__T)
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