ゆうゆうの教会便り

私の教会のこと、教会生活をボチボチと・・・・

久しぶり~!! 公園!

2021-04-12 18:17:31 | 今日の聖句
そして、久しぶりのブログ更新です。
コロナ禍のせいでしょう、家で鬱、鬱、鬱、と過ごしていました。
思い煩いをやり過ごすことが出来ず、一つひとつが重荷に感じられます。
何をするのも億劫で殆ど家に籠もっていました。
時間はあるのに何もする気が起きません。パソコンを開けるのも億劫でした。

今日! 晴天で風が穏やかな今日、久しぶりに公園にでかけました。
青い空、白い陽の光、爽やかな風、何よりも新緑の美しさ、清々しさ!
野鳥好きの友にも会えました。
サンコウチョウ(♂)の二本の長い尾はなぜ渡りの前に抜けてしまうのか?
生え変わるときはどんな風に生えてくるのか? 
アノ長い羽は尾ではなく飾り羽で、渡りに邪魔なので換羽期に抜けるらしい・・・
そんな埒もない、楽しい!話をしました。 


今日の公園です。





そして今日の聖句です。
旧約聖書から、今日読んだ「申命記」9章1節~7節です。


09:01聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく
強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、 09:02民は、あなたの
知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、「誰がアナクの子孫に立ち向かい
えようか」というのを聞いたことがあろう。 09:03しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす
火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、
主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい。 09:04あなたの神、主が
あなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを
導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。
この国々の民が神に逆らうから、
主があなたの前から彼らを追い払われるのである。 09:05あなたが正しく、心がまっすぐで
あるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、
主が彼らを追い払われる。またこうして、主はあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに
誓われたことを果たされるのである。 09:06あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を
与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。
あなたはかたくなな民である。
09:07あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。
あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた。

4節:主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを
導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。
6節:あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのでは
ないことをわきまえなさい。

一潮、心に響く聖句です。

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「罪」の分からない罪深い私

2021-03-18 17:50:26 | 今日の聖句
新約聖書は今、「ローマの信徒への手紙」を読んでいます。
今日の聖句は7章14節~25節です。

07:14わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、
罪に売り渡されています。 07:15わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
07:16もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
07:17そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪
なのです。 07:18わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知って
います。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 07:19わたしは自分の
望む善は行わず、望まない悪を行っている。 07:20もし、わたしが望まないことをしているとすれば、
それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 07:21それで、
善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
07:22「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 07:23わたしの五体にはもう一つの法則が
あって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
07:24わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救って
くれるでしょうか。 07:25わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。


今、教会はレントの時です。 十字架に向かってイエス様が苦しみながら歩まれています。
神の御子イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださり血を流され黄泉に下り、その後復活なさい
ました。私たちも感謝を持って主の御苦しみを偲ぶ時なのだと思います。
私たちは罪深い人間だ、と聖書では、特にパウロは繰り返し語っています。(と思います)
実は、本当のことをいうと、私は自分がどれくらい罪深いのかよく判っていません。
聖書で言われている「罪」を理解できていないのだと思います。
私の「罪」とは具体的にどんな「行為・思い」を言うのでしょう? 漠然と感じてはいるのですが
しっかり理解できていません。
「神様の御顔を見ない、神様に背を向ける」これが最大の罪、でしょうか?
そしてヘブライ人への手紙や牧会書簡の言っている「生活規範」を破ること、つまり「律法」に
背くこと、これも罪なのですよね?きっと。 行いを正しく、気持ちを神様に常にフィードバック
しながら、神様の御顔を仰ぎながら生きること、それが罪深くないということなのでしょう。
罪=神に背くこと、神様の方を向かないこと
 =道徳的、倫理的に悪いとされること(律法との関係)ということでしょうか。
そして罪が許されるのは行いでなく信仰による、という理解で、良いのかな~~?
あ~、私はなんと罪深い人間だ!と強く思う、イエスを三度知らないと言ってその後、号泣した
ペトロのような激しい体験をしないので、鈍感な私は自分の罪深さに思いが至らないのでしょうか。
イエス様がその血で私の罪を贖ってくださったということの実感がもっとあれば、私は罪深い人間だ
という実感がもっとあれば、主の復活(イースター)の喜びが爆発的に湧き上がるのだと思います。
私は自分を造られたのは神様だという信仰で十分感謝、喜びなのですが、罪贖われた喜びの実感は
まだイマイチのような気がします。

 私の持っている唯一の聖書の参考文献「聖書事典」をまたまた読みました。
これまで何回読んだでしょうか。何回読んでも新鮮にウーム、と唸る私の記憶力の悪さ!!
****************************************************************
旧約聖書における「罪」
古代イスラエルの人々が考えていた罪を全く独自なものとみなすわけにはいかないが、それを表現する
ヘブライ語が数多く存在することから、彼らがこの問題を比較的深く考えていたと言うことはできる
かもしれない。様々な厳しい集団的体験を自らの罪の結果とみなして受け入れざるをえなかった歴史の
中で、罪に関する彼らの理解が幅広く展開されていったのだろう。
罪概念に集約されていく多数の用語のうち主なものは、日本語では「的を外す」「悪を行う」「背く」
などと訳されている。古代イスラエルではこのような事態は人間と人間の間のみならず、人間と神の
間にも想定されている。旧約聖書における罪の具体相を見てみると、まず単純な過失、これも神との
関係のうちに置かれることによって一段と重みを増す。罪の心情的・倫理的意味合いが現れる。
古くからあった祭儀的ニュアンスも加わる。その中には集団的なものも個人的なものもある。
集団的罪理解は神と民との契約という思想と結びついている。古代イスラエルにおいて罪の概念は
実態的概念よりも、人間と神の関係を示す概念としてとらえられたように見える。それは、神から離反
する人間のあり方に集約されることによって、新約聖書における罪概念につながっていく。


新約聖書における「罪」
キリスト教的な罪理解は、新約聖書に表されたキリスト論、特に、パウロの思想と結びつく形で組織化
されていった。新約聖書でも「罪」を表すギリシア語は複数あるが、その中心は元来「的をはずす」と
いう意味の言葉であったが、70人訳聖書を通して道徳的意味合いが強くなり、旧約聖書に見られる
多数の用語を吸収しつつ、キリスト教的罪概念を形成していった。
① 共観福音書と使徒言行録
福音書記者の描くイエスは罪について真正面から語らず、山上の説教に代表され言葉伝承や放蕩息子の
たとえなど、人間の罪の現実を示唆する。その主たる意味は神と律法からの離反である。イエスは自ら
「罪人を招く」ことにより、その克服を志向する。ここでは罪は、人間にとって避けられない現実で
あるとともに、乗り越えられるべきものとしてとらえ直されている。
その可能性を開くのがイエス・キリストなのである。

➁ ヨハネ文書
ヨハネによる福音書では、イエスと啓示者と認めないことが罪と考えられている。
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなた達は言っている。
だからあなたたちの罪は残る」(ヨハネ15:22)ということになる。この見方は、光と暗闇、命と死など
の表象をとおして語られる二元論的発送法と重なり合っており、罪の状態を脱して啓示者へ向かう決断が
求められる。

③パウロ書簡
パウロにおいて罪理解ははじめて、救済論の重要な契機として深化されることになる。
彼の救済論は、人間における罪の普遍性を解くところから出発する。「一人の人によって罪が世に入り、
罪によって死が入り込んだ」罪の起源をアダムに帰する。パウロの思想の最重要点は、この罪が同じく
一人の人イエス・キリストによって贖われるというところにある。パウロの罪理解が一歩進んでいる点は、
人間の罪を単なる律法違反としてとらえるのではなく、律法の要求を自力で満たそうとする人間の自己
正当化の努力を最大の罪としてとらえてところにある。

「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7:7)と
彼は言う。こうした自己矛盾におちいっている人間がそこから救い出されるためには、イエス・キリストの
十字架の贖いに示された「神の義」を信仰を持って受け入れるしかない。
自力によらず他力による救済を説く論理の典型といえよう。
④ その他の文書
ヘブライ人への手紙は持続する教会における生活規範の問題が現れ、牧会書簡にいたると、それが中心問題
となる。罪認識がパウロ以前の状態に戻ってしまうことにもなりかねない。ここにはまさに、救済論を
めぐる永遠のジレンマがあると言えよう。  (土屋博)

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番(つがい)で巣作りする<エナガ>です。
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Zoomで「聖書探訪」

2021-02-19 22:04:59 | 今日の聖句
詩篇139篇 
139:01【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
   主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
139:02座るのも立つのも知り遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:03歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
139:04わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:05前からも後ろからもわたしを囲み御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:06その驚くべき知識はわたしを超えあまりにも高くて到達できない。
139:07どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:08天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。
139:09曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
139:11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
139:12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち闇も、光も、変わるところがない。
139:13あなたは、わたしの内臓を造り母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。
   御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。
139:15秘められたところでわたしは造られ深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
   まだその一日も造られないうちから。
139:17あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
139:18数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。

139:19どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。
139:20たくらみをもって御名を唱えあなたの町々をむなしくしてしまう者。
139:21主よ、あなたを憎む者をわたしも憎みあなたに立ち向かう者を忌むべきものとし
139:22激しい憎しみをもって彼らを憎み彼らをわたしの敵とします。

139:23神よ、わたしを究めわたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。
139:24御覧くださいわたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。

美竹教会では月2回、Z00mミーティングで「聖書探訪」というものをやっています。
私は昨日、初めて参加いたしました。
聖書のどの箇所を探訪するのか、事前にわからなくて週報などをウロウロ探してミーティングには
遅刻してしまいました。 (-_-;)  後で聞くと「聖書探訪」で聖書のどの箇所を取り上げるかは、その時まで
わからないようです。 探訪だからネ! (^^)
昨日「探訪」したのは詩篇139篇でした。たまたま詩篇の中で多分、私が一番好きな詩で嬉しかったです。
要約(解説)が画面に映し出され、左近深恵子牧師からご説明いただいたのですが、
悲しいことに、よる年波か能力か、画面から要約が消えると私の頭からも殆ど消えてしまいました。<(_ _)>
19節から22節は自分の周囲の敵に対する言葉で、詩の調べが変化しているそうです。
そして最後の23、24節はまた主への(穏やかな?)祈りで終わっているそうです。
下線は私が引いたものです。こういう言葉が私の神様への信仰の基(幹)になっているような気がします。
納得できるというか、神様しかいない、神様だけは、という思い(信仰)に繋がっている気がします。
私の信仰はとても後ろ向きなのではないか、独りよがりなのではないか、時々不安になります。
確かな信仰を持つためにも教会のミーティング等にもう少し参加しなくては。


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夕暮れ時、梅の花と<ヒヨドリ>です。
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神様だけ・・・・・

2021-02-09 12:51:21 | 今日の聖句
今日の聖句は 「詩篇」121篇 です。

【都に上る歌。】
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。


私は今、膵臓癌に侵された姉のことで立ち止まっています。何をしたら良いのか分からず
ウロウロしています。姉の気持ちを推し量ることはできません。手紙を書こうとしても
なんと書いてよいのかわかりません。電話もそうです。これまでのように気楽な話や真剣な話、
なにを話しても言葉が、声が、フワフワ流れて消えていくだけのような気がします。
姉を慰める言葉が思い浮かびません。
姉は神様のことも聖書のことも私よりずっとよく知っていて、私はいつも姉に教えてもらって
いました。子供の頃から姉は私の信仰にとっては師のような、先生のような存在でした。
質問することや自分の神様への心を話す(告白?)することはできても、うまく言い表せませんが、
聖書のこと、神様のことを中々私からは話しだせません。 
今、何ができるか、何をしたら良いかわかりません。
こういう自分の気持ちは友人にも話せず、話す気持ちになれません。
私には真の友人はいないなぁ、と思い知ります。
ただ、私はいつも神様に話をします。そして聖書を読みます。
神様は何時も共にいてくださり、私の最期のときまで一緒にいてくださいます。
神様は私の真の友人、そして聖書は灯台の灯火です。
病気の進行が止まり、姉が少しでも長く健やかに平安に過ごせますようにとお祈りしています。

以前、神様だってあまりみんなからウダウダ、ゴチャゴチャした話をされても困るよねぇ、と
言われたことがありますが、それでも私はいつも神様に祈り願っています。

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<ウバユリ>の種の殻に止まった<ウグイス>です。
凛々しい顔立ちに惹かれます。
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聖書の音読

2021-01-10 16:29:00 | 今日の聖句
旧約聖書は今「レビ記」を読んでいます。
「出エジプト記」は主の幕屋建設で終わり、続く「レビ記」は、幕屋における捧げ物の
記述から始まって様々な戒めが記されています。
祭司職に関する(つまり「レビ的な」)諸規定が記されているそうです。

今日の聖句は「レビ記」9章1節~11節です。

「レビ記」9章1節~
09:01八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、
09:02アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を
焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。 09:03またイスラエルの人々に
こう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす
献げ物として、 09:04また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更に
オリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される。
09:05彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、
共同体全体は進み出て、主の御前に立った。 09:06モーセは言った。これは主があなたたちに
命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである。 09:07モーセは
アロンに言った。祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、
あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。
これは主が命じられたことである。 09:08アロンは祭壇に進み出て、自分の贖罪の献げ物として
若い雄牛を屠った。 09:09アロンの子らが血をアロンに手渡すと、彼は指を血に浸して祭壇の
四隅の角に塗り、残りの血を祭壇の基に流した。 09:10また献げ物の脂肪と腎臓と肝臓の尾状葉を、
主がモーセに命じられたとおり、祭壇で燃やして煙にした。
09:11しかしその肉と皮は宿営の外で焼却した。

再び緊急事態宣言が出されたコロナ禍の東京。
所属している会の集会や例会が取りやめというケースが増えました。
独り暮らしの私の場合、友人知人と電話でのお喋りもしない日などは、気づくと一日中無言と
いう日があります。その対策の一つとして、そうだ!聖書の音読をしよう!と閃きました。
面白いことに、音読って読むことに集中するせいでしょうか、意外と内容が頭や心に残らない
ことがわかりました。そこで次はスマホのレコーダーに録音して聞き直すことにしてみました。
これが大正解、なかなかいい調子です。
二度読むことでこれまでより内容が頭に残るし、少し滑舌の悪くなった後期高齢者の私にとって
音読は顔の筋肉と脳のストレッチにもなるような気がします。
特に「レビ記」などは漢字ビッシリ、内容は面白くもない(スミマセ~ン)戒めや規律みたいな
文章ばかり! 声に出して読むと舌を噛みそうです。
試しに「ヤキツクスササゲモノ」などという言葉を呪文のように三回も唱えてみてください。
立派な早口言葉になり、大いに口の体操になりますよね~。(^-^)/

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礼拝のネット配信しています。 礼拝説教が載っています。

”緊急宣言”のせいか、今日は礼拝に来られた方が先週より少なかった気がします。
礼拝堂では三密を避けて座り、マスクは勿論のこと、手指の消毒、換気も十分(過ぎて、寒い!)
されているので、まあ安心です。私の場合は往復の電車も空いていてこれも、まあ安心です。
礼拝に出てみ言葉の説き明かしをお聴きできる幸いを心から感謝しています。



公園で投げられるパン屑をキャッチする<ユリカモメ>です。
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今、夢見ること

2021-01-06 15:15:02 | 今日の聖句
今、新約聖書は「ヨハネによる福音書」を読んでいます。
四つの福音書の中で、私が一番心打たれる福音書です。
今日の聖句は「ヨハネによる福音書」8章48節~59節です。

ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然では
ないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。
わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。 わたしは、自分の栄光は
求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。 はっきり言っておく。
わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが
悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。
ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。
わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。
預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、
わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちは
この方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは
知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。
しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。 あなたたちの父アブラハムは、
わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、
イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」
すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。
しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。


 やっぱり又コロナのことです。<(_ _)>
新型コロナウィルスに感染された方はもちろん、最前線で頑張っていらっしゃる
医師・看護師をはじめとする医療関係の方々、老人施設や保育所、学校などで
働く方々、学生の皆さん、飲食店や観光業界の方々、各種事業主の方、会社で働く
方々、音楽や演劇、絵画など芸術に携わっている方々・・・・そして職や家を
失った人々。今、世界中すべての人が困難な試練に立ち向かっています。
安全なワクチンの開発、有効な治療薬の一日も早い開発が待たれます。
どうか神様が研究者の方々の力を強めてくださいますように!!

このコロナ禍もいつかは必ず収束し終息することと思います、心からそう望みます。
そしてその時、この試練を乗り越えた時に人はどんな道を歩むでしょう、と考えます。
これまで通り欲望の赴くままに、自然を破壊し経済効率で人間を含めた総てを測る
という道を変わらずに突き進んでいくのでしょうか。
私は、その時こそ人々が、人間は勿論、全てが神様の被造物であることを知るように
なってくれますようにと祈っています。
多くの人が聖書の神様の御言葉を知り、信じる者となってほしいと祈ります。
多くの人が
「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言9章10節)
ということを信じることを夢見ています。

(安全なワクチンや有効な治療薬は人間の叡智の結晶、最新精鋭の科学技術によって
もたらされるのですよね。私の言ってることは矛盾しているのではないか?
弱い思考力で全く自信がありません・・・・)

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新春の明るい陽射しの中<ピラカンサにメジロ>です。
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妹の孫娘

2020-11-23 12:43:11 | 今日の聖句
今日の聖句は「ルカによる福音書」 21章1節~4節 です。

21:01イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
21:02そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 21:03言われた。
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。

21:04あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から
持っている生活費を全部入れたからである。」

妹の孫娘は新型コロナウィルス感染拡大の直前に大学を休学してオーストラリアに行きました。 
アルバイトをしながら大好きな料理の道を学ぶ専門学校に通うためでした。
オーストラリアへ旅立つ前、妹は孫娘に「何かあったら教会に行きなさいね。」と言って
おいたそうです。
半年たった今、コロナ禍の影響で孫娘は日本に帰ることができないでいます。

は アルバイトも見つからず、苦しい生活を送っている彼女と妹のメールのやりとりです。

「この間、教会のバザールに行ったら、缶詰をとても安く売っていたのでたくさん買ってきて、
本当に助かった~~ 礼拝で献金があったけど、お金が無いのでどうしようか迷って100円だけ
してきた、あれでよかったのかな~」
「100円は Haru にとって精一杯の献金だから良かったと思うよ。 神さまにお祈りしなさいね。」 
「お祈りって何を言えばいいの?」 
「神さまに感謝しなさい。健康で無事に過ごさせていただいていること、何でも感謝の言葉を・・・・」

岐阜に住む私の妹はクリスチャンではありません。でも東京に来ると私と一緒に美竹教会の礼拝に
出席するのをとても楽しみにしています。
「私はクリスチャンではないけれど、実家にいた頃のお母さんや姉さんの生活から、心の中に自然と
神様のことがあるのかもしれないね~」と妹は言います。
妹のアドバイスから教会にいった孫娘の Haru。その心に神様の御言葉は残るかもしれません。
そんなふうにして神様の御心は伝わっていくのかもしれません。
私は、妹が神様の御国と民として歩む日が来ますように、その機会を与えてくださるよう
神さまにいつもお祈りしています。


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コスモスの蜜を吸う<ツマグロヒョウモン(♀)>です。
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群衆の力

2020-11-11 12:23:11 | 今日の聖句
「マルコによる福音書」11章1節~11節

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、
イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、
まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここに
お返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないである
のを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいて
どうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれに
お乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って
道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや
夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。


「マルコによる福音書」15章6節~14節

ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき
人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、
いつものようにしてほしいと要求し始めた。 そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放して
ほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた
からである。 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうして
ほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」 ピラトは言った。「いったい
どんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。

新約聖書は「マルコによる福音書」を読んでいます。
今日の聖書箇所は、ベトファゲとベタニアでは「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福が
あるように」とイエスを賛美した民衆が、エルサレムで祭司長たちに扇動されると「十字架に
つけろ」と叫ぶという所です。ベトファゲやベタニアで讃えられていた主が、すぐ近くの
エルサレムでは十字架の判決を受けるって、この民衆の変わり身は何??と思います。

一人ひとりは穏やかで冷静でもいられる人間ですが群れをなして「民衆」となると強力なパワーを
持ちます。一人では生きられない人間(私)は様々な群れ(団体)に所属していますが、その多くは
人畜無害というか、それほど深刻になる問題を抱えてはいないつもりでいます。
でも、気づかないだけで私も何かに対して大きな負担や圧力をかけているかもしれません。
普通に生活していることがすでに何か(例えば地球環境や人間以外の生物等)に対して負の存在
なのかもしれません。群衆の中の一人として、今自分はどちらを向いているのか、自分が属している
群れは何をしようとしているのか、冷静に考えられますように!



「新共同訳聖書」の載っている地図です。
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「ソドムのための執り成し」

2020-09-12 17:11:49 | 今日の聖句
日の聖句は「創世記」18章20節~33節 です。

主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。
わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか
見て確かめよう。」
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に
滅ぼされるのですか。 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、
その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者
一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずは
ございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきでは
ありませんか。」
主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、
町全部を赦そう。」
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、
五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。
もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかも
しれません。」
主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。
もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。

何千年も昔、アブラハムは神様とこんな会話をしたのですね。
頑張るアブラハム、この箇所を読むと、なんとなく(^^)となります。
町が滅ぼされるかどうか、かなり深刻な話なのですが・・・・

美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。

昔の職場の先輩から「気分転換に10月に北海道ツアーに参加しましょう」とお誘いを受けました。
往復の飛行機代、4泊の宿泊ホテル代、レンタカー代で5万円という安さだそうです。
北海道内はレンタカーの移動で、自分たちで自由にコースを決められるそうです。
レンタカーって大人4人が乗って5日間、車を乗り回す。
かなりな「蜜」ではありませんか。道中、お喋りの花も咲きそうです。
怖がりの私は未だに友人知人との会食やお茶もできないでいます。
正直にそう言ってお断りしました。幸い他の方が加わってくださり、私が抜けてもメンバーは
無事にツアーに申し込めたそうで、それはそれで良かった、です。
Go Toキャンペーン、Go Toトラベルが宣伝されています。
観光業界の方々にとっては死活問題だと思います。
若い現役の友人は出張などでマスクをして国内を飛び回っています。
スウェーデンではマスクをする人は殆どいなくても感染者数は激減しているとか。
コロナ感染、どう捉えたら良いのでしょう、どう考えたら良いのでしょう。
自己責任で自分で判断して行動するしかありませんね。
収束はどんな形で私達にもたらされるのでしょう。



夕方に向かって白から徐々に色濃くなる美しい<酔芙蓉>
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気分、上向かないナァ~

2020-09-02 13:15:30 | 今日の聖句
「ヨハネの黙示録」を読み終わって、新約聖書は「マタイによる福音書」を読み始めました。
今日の聖句は「ヨハネの黙示録」 3章14節~20節です。

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された
万物の源である方が、次のように言われる。 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく
熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。
熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、
哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさない
ように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。
わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に
入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。


コロナと猛暑の中でも私の穏やかな日常生活は維持されています。
毎日の生活の中で、神様に感謝することが私にはたくさんあります。
日々の糧を感謝、雨露を凌ぐ住まいを感謝、取りあえずの健康を感謝、
与えられて続けられている学びの場や、三密を避けながらでも友人知人との交わりを感謝、 
会議ソフト(Zoom)での教会の集まりにも参加できました、感謝です。
(9/4 追記です (・・;):何よりも神様を創造主として崇める信仰に導かれ、神のみ国の民として
 歩む平安を与えられたことへの感謝。)
 
以前からニュースをはじめとするTVの報道番組はあまり見ていませんでした。
コロナ禍にあって、少しは情報を得なくてはと思いNHKの7時のニュース番組だけは見ることにしたのですが、
最近はそれもまたサボり始めました。
コロナ感染への緊張と猛暑で老体は疲れ始めました。
政治、経済、気象、社会情勢、何を見ても聞いても全てが厳しすぎます。
年齢的な衰えのために気力も減少気味なのでしょう、なかなか視線が上向きません。
先日、アフガニスタンの母子家庭の様子をニュースで見ました。戦争のトバッチリを受けて(戦闘で、では
ありません)父親は亡くなり、親戚の家に身を寄せた一家の話でした。
12歳の長男が母の作るコロナ対策のマスクを街頭で売って日々を凌いでいます。
学校にゆくなどは夢のまた夢です。平和になってくれたら・・・・というお母さんの言葉が胸を刺します。

アフガニスタン紛争、シリア内戦、クルド対トルコ紛争、リビア内戦、イエメン内戦、
アメリカの人種差別抗議デモ、ベラルーシの大統領辞任を求めるデモ、香港の民主化デモ・・・・・ 
パンデミックの脅威の中でも人間同士の闘争や憎しみは変わることなく、減ることもありません。
温暖化する地球で南極の氷は5年前の三倍速で溶けているそうです。
新型コロナウイルスの登場も、鎮火できない大規模の山火事も・・・・温暖化は地球の様相を加速度的に
変えているように感じます。
日本でも気候は年々厳しくなっています。流域の村をいくつも飲み込む大雨、台風災害、命を危険に晒す
ほどの猛暑・・・これからも年々状況は厳しさを増すのではないでしょうか。

人間には、創造主なる神を知り、謙虚に知恵を活かし平和・平等を実現する賢さは無いのでしょうか。
世俗を避けて地下や洞窟で祈り続けたキエフのロシア正教の僧侶のようになる勇気は私には無いけれど、
できることなら世の中のことを知りたくない!と逃げたくなる時があります。
こんな私を、積極的に動かない生ぬるい状態でノウノウとしている私を、神様は許してくださるでしょうか。
何もなし得ぬ人間の自分を持て余します。
今日このごろ、気分も視線もなかなな上向きません、困ったことです。(T_T)


美竹教会のホームページです、クリックしてお訪ねください。
↓ 所用でお休みした30日の礼拝説教の最後の部分です。テキストは創世記2:15~18他
よろしかったらHPから全文を是非お読みください。
私は今、始めて読みました。 (-_-;)

『神さまは、ご自分に信頼しきれずに道を見失う私たちの罪を深く嘆き裁く方であります。二人を去らせなければ
ならない神さまの嘆きは、どれほど深いことでしょうか。私たちが神さまに背を向け、自分の利益のために他者をも、
神さまをも背く私たちに対する神さまの嘆きの深さが、み子の十字架に示されています。神さまは背く私たちと、
裁きをもって関わることを止められてしまわれず、私たちを赦しへと導くための裁きを、み子の命の値をもって
下されました。無防備な私たちを私たちには造り出すことのできない装備で装い守ってくださいます。私たちの
背きから生じる敵意や無関心、責任の押し付け合いが、世界で猛威を振るっています。人の背きが茨やアザミの
ように茂る中を、神さまに従う道を進む私たちのために、み子は十字架で死んでくださいました。自らは不十分な
装備しか用意できない私たち一人一人を贖いのみ業で包むために、み子の贖いという、私たちには造り出すことの
できない衣で包んでくださっています。
パウロはローマ書で、主イエス・キリストを身にまといなさいと記しています(13:14)。ガラテヤ書では、
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ていると記しています(ガラテヤ3:27)。
またⅠコリント書では、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着る時、死は勝利に
呑み込まれたと書かれている言葉が実現すると述べています(Ⅰコリント15:54)。
キリストの贖いの御業を心から感謝し、祈りをささげます。』

  
  子ども達は楽しい夏休みを味わえたでしょうか。
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