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その日暮らし

田舎に暮らすこの虫は「カネ、カネ、カネ」と鳴くという。

雲と自由が棲むという里で百姓に成りきれるかな?

旅は道連れ…お相手は?

2024-03-08 09:37:14 | 転職

鳥居と参道…『おやじぃ』は修験者かい?

鬱蒼と茂る杉木立の参道…行ったこともないくせに、勝手に「四国八十八か所」や「熊野古道」をイメージしております。『会津仏教と羽黒修験が交流する要衝の地』…またぞろ、難解な教育委員会のお触書がある^^; そういえば、山形県内の神社仏閣に「湯殿山」の石碑がある山岳信仰の何故?どうやら「羽黒山」は現世、「月山」は死後の世界、「湯殿山」は来世(生まれ変わり)の幸せを祈る民間信仰の山だったらしい。仏教の開祖とされる「ゴータマシッダールタ」さえ、存命していた年代は複数説あり、その教えを仏典としてありがたく体系化し、さらには庶民に分かり易く、布教、解説してくれたのだろうけれど、それぞれの宗派の「真髄」というものを『おやじぃ』は知らない。また、自分で選んだ訳でもない…そこに「お寺」があったから^^; 死んだら、ありがたい戒名をいただいて、お経を読んでいただいて…これは、もはや『葬式仏教』であって「宗教」ではなく、「三宝(仏、経、僧)」に帰依せよとお経を読まれても何のことやら分からない。『僧教不在』とも言えるわなぁ…。(熱心に教えを説いておられるお坊さんには申し訳ない^^;)
死んでお経を上げていただいて、それで浄土に導いていただけるなら『いいとこ取り』である…ただ言えることは、宗教としての仏教が広まった背景には『現世から救済』という要素が巧みに取り入れられていたに違いない。古来より庶民は何がしかの苦しみを持ち続け、『救済』を求め続けてきたのかも知れない。現世においては『政(まつりごと)』が、庶民救済の旗頭であっても良いはずではあるけれど、「政治不信」がはびこるのは、『救済』の手段が「お金」に置き換えられたからに他ならないなどと、『小さな巡礼の旅』の折り返し地点に立って振り返ってみましたよ。(今朝はマジメに^^;)


お金、食欲と煩悩の中をさ迷って…

さて、昨年の暮れに連れ合いを亡くした叔母を見舞ってみました。ゲ!…やっぱり入院していたかぁ。敵(連れ合い)を亡くして、意気消沈する時期が来るに違いないと思っていたのでありますが…92歳の叔母も一気に老け込んだような気がする。(頭とお口はしっかりしております^^;)巡礼の際に笠に書かれる「同行二人(どうぎょうににん)」の文字…常に、弘法大師と常にあるとの意らしいのだけれど、松尾芭蕉の「おくのほそ道」にも登場するこの言葉は、紀行の中では、病気の「曽良」との別れの際に用いられ、古典の教師は、『一人は「己」であり、一人は「己の影」である。』と解釈されていたようである。口喧嘩をしていても「同行二人」…長く夫婦を続け、欠ければそうもなる。『おやじぃ』の場合は、背中に取りつかれていると思っておりますが(笑)
はてさて、「己」と「己の影」が常に一緒に歩いているとするならば、『独り旅』もまた寂しくないかも知れないけれど、「影」に語り掛けても応えてくれないので、おしゃべりな『おやじぃ』の場合の『死出の旅』は、弘法大師や観音さまもよろしいけれど、うら若き女性に手を引かれたならば、勇んで出掛けてしまうかも知れない。(何とバチ当たりなことよ^^;)「現世」に悩み苦しみ、「来世」に期待したとしても、明るい未来が待っているなどと期待してはいけない。ましてや「死後の世界」に何かを求めても仕方がない。(第一、還って来た人を知らないから誰も保証できないのだよ。)『世界三大詐欺師』などと言ってもいけない。それぞれの『教え』は正しいものだったはずだから…後から捻じ曲げてしまったのも「現世の人」である。ならば「現世」では、『政』が救済の手段として、「己」と「己の影」も平等に照らすことが可能なのだろうけれど…『煩悩』という海を泳いで楽しむのも生きていればこそ。「無いないナイ」とばかり言わずに「有るあるアル」と探し回る旅を続けてみますかね…そうねぇ「お相手」は、今のところ「影」でも充分でありますよ(笑)

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