キハダに道明寺が紛れ込んでも分からない…
農業の経営収支を取りまとめ、さて、確定申告書の出力となったところで毎年つまづいてしまう。後からリリースされる「申告書作成モジュール」をセットアップしないのが原因のようでありますが、どうせ赤字経営だし、提出しなくたってねぇ…。(青色申告は、記帳・申告して恩恵が与えられるのだよ^^;)一方、長男『ポン太郎くん』の場合は、山形県最低賃金の支給であるにも関わらず、立派な納税者なのだよ。(経営者としての『おやじぃ』の無能さの結果であり、昨年10月から、その最低賃金も改正されているから、賃上げしなければいけないのだよ。)専従者給与なんざぁ、支給額を下げることも可能であり、税金を掛からなくすることなどいとも簡単なのだけれど、社会人として『お小遣い』の支給では情けない。『おやじぃ』とて勤めを辞めた途端に、某ネット銀行の与信枠審査を通らなかったという苦い経験もあって、最低賃金だけは保証しようと『意地』だけは貫いている。むしろ、最低賃金でも税金は掛かる…そういう制度設計になっているのでありますよ。
そんな訳で、この5年間、オッカーの『扶養家族』として生活している『おやじぃ』である。(生活費はちゃんと出しているのにねぇ…あくまで税上の『扶養家族』であるけれど、その内に『不用家族』と呼ばれるようになるかも知れない^^;)申告書の作成作業につまづくと、必ず『悪の誘い』がありまして、直ぐに応じてしまう。缶ビールの買い置きを切らしておりましてねぇ…こちらも『扶養家族』の一員として友人が差し入れてくれた「糖質カット」のおビールをひと缶拝借した。糖質カットの物足りない部分は「道明寺」で糖分補給…『オジSUN』たちの行動は意味不明である(笑)
右から読んでも左から読んでも…
さて、何故に国語の教科書(縦書き)は右書きなのか…万年筆でも筆であっても、右から書くと紙を擦ってにじむのに?最も有力な説は、昔は巻紙に書いたからというところに落ち着くらしいのだけれど、どうも合理的ではないような気がする。しかし、よくよく考えてみると、お習字の時間は、紙(机)から筆を持つ手が離れているのである。鉛筆やボールペンでそこそこの字が書けると自負する『おやじぃ』が、お習字嫌いなのは、これが原因かも知れない。(筆圧を微妙に調節することが出来ないんだわねぇ…まぁ、いいか。どうせ揮ごうを依頼されるような立場にもないし、のし袋に名前を書く程度だから^^;)
はてさて、神社・仏閣で見る「手水舎(ちょうずや)」でありますが、手を洗って「禊ぎ(みそぎ)」を済ませるというのも簡略化した形態である。ましてや「心を洗え」などと言われましても、そもそも「心」というものがどこに存在するのかさえ分からない。したがって、「心が洗われる…とき」というものは、美しく、清浄なものに触れた(観た、感じた)ときを指すのかも知れない。神社・仏閣、ご神体、ご本尊もまた、「穢れ(けがれ)」を嫌い、手を合わせるのも、その一瞬だけ心が「無垢(むく)」になれるからかも知れない。(まぁ、家内安全、合格祈願、ライバルを蹴落とすなど雑念まみれのお願いをする方もいらっしゃるかも知れないけれどね^^;)ならば、世間で言う偉い『政治屋さん』に手を合わせましょうか…この場合、手を洗ってから拝むのではなく、「穢れ」に塗れないように拝んでから手を洗いなさいと取説が必要かも知れない。いやいや、こちらが「手を洗う」のではなく、偉い方に「足を洗って」いただく方がよろしいのかも知れないねぇ…徹夜で申告書を完成させたので、今朝はここまで。チャンチャン(笑)