吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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聖徳太子と熊本八代の八大龍王神 No378

2014-06-11 12:01:14 | 神霊界考察
以前、『毘沙門天の謎 No333』
平安時代中期に毘沙門天のメッカである信貴山の中興の祖である命蓮が
毘沙門天王の中に八大龍王神の一人で水神の難陀龍王を感得したことについての
見解を述べている。
この時には「もっともこれは信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性もある。」
というようなことを述べているが
この記事についてはいくらか修正させていただきたい。

それは聖徳太子が信貴山に祀った毘沙門天及び寅寅寅のミトラと八大龍王神が
自分の中で繋がっていなかったからだ。
同時にこの縁を繋いだ存在として法華経の八歳の童女でもある龍女が
変成男子して少彦名神になり五行の土に水氣をいれるために仕組んだ
神仕組みであることと理解していたからだ。

さて本日聖徳太子と八大龍王神とのつながりについて感得があったので
まず信貴山縁起絵巻での絵空事の可能性については除外したい。
今は信貴山の中興の祖である命蓮が八大龍王神を信貴山頂に祀った経緯には
必然性があったことを確信している。

昨日 八代の白龍神の写真を掲載したが
その縁で知りえた情報といっていいかもしれない。
古代八代に火(肥)の葦北国造に吉備津彦命の子供の三井根子命がなっている。
そして三井根子命の子供で葦北国造刑部靫部阿利斯登という人物がいた事が知られている。
どうもこの一族が八大龍王神を八代で祭祀していたようだ。
八代という名称も八代の八竜山 竜峰山 竜ヶ峰などの龍の名前も
この一族が八代に八大龍王神を降臨させた事に因むと思われる。
阿利斯登の子供が日羅で墓も坂本村久多良木字馬場の地蔵堂前に現存する。

宣化のときに、新羅が任那を侵略しようとする戦いが起きて
大伴金村の命でこの阿利斯登、日羅の親子は軍を率い任那に派遣されている。
大伴金村と阿利斯登との関係は、たぶん継体天皇21年(527年)の磐井の乱が関係している。
562年に新羅が任那を侵略してしまうのだが、
この阿利斯登、日羅の親子は日本へは帰国せずに百済に居付いてしまう。
大伴の失脚で帰るに帰れなかったものと思われる。

敏達天皇の要請により日羅は583年日本に帰国することになる。
その目的は「任那の回復策」であったのだが
日羅は結局は日羅と共に来日した百済人に暗殺されてしまう結末となる。

日羅は百済官人であったのだが、
なぜか9歳の聖徳太子が日羅に会いたがり
『聖徳太子伝暦』や『今昔物語』によると
出会った日羅は聖徳太子に対して「敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王」といったと言う。
伝承としては聖徳太子の師事したのは百済の日羅上人と
高句麗の高僧である慧慈の二人と云われている。

聖徳太子が師事したといっても百済官人である日羅から
何を学んだというのかが疑問であり、
一番の日羅の功績は百済から日本へ仏像を持ち込んだことだろうと考えていたが
実は日羅は幼少の聖徳太子に八大龍王神の降臨の秘儀を伝えたのであろう。

聖徳太子の超人的な記憶力や聞取り能力等は
八大龍王神の降臨の秘儀によるものと考えると納得出来るものがある。
聖徳太子により日本初の毘沙門天王が出現した寅寅寅の年は587年で
太子14歳の時と云われている。
聖徳太子にとって八大龍王神降臨が最初でありこの霊験により
毘沙門天を顕現させることが出来たという訳である。


しかし聖徳太子伝では八大龍王神縁起は消されてしまっている。
理由は日羅に秘儀ゆえに口止めされていたからであろう。

八大龍王神は役小角がを日本に勧請し奉斎したことで知られるが
役行者=役小角は624~710年と云われているので
聖徳太子の時代は50年以上も遡ることになる。

日羅の一族が住む九州熊本の八代で
飛鳥時代にはすでに祭祀されていたという八大龍王神とは
どういう経緯の神霊なのだろうか?

突飛ではあるが幣立神宮の縁起では
モーゼ・キリスト・釈迦・孔子も若き頃に八大龍王のいるこの地で
修行したという伝承があるのでそういう話でも良いのかもしれない。

しかしこの日羅の一族が製鉄を掌握した吉備津彦系であることを考慮すると
もともと八岐大蛇を祭祀していたものが
日羅により八大龍王神に昇格させられたものとも考える事ができる。

この日羅の持つ霊的パワーであるが
龍神のコントロールを自分が完璧に出来るだけでなく
それを幼少の聖徳太子に伝える事が出来たとすると
未来に亘っての掌握力まで要求される事になる。
たぶんそれは自分の命を削って為されたものであろうとしても
驚異的なものだと思われる。

日羅が勝軍地蔵として後世に伝わっているのも
聖徳太子が恩に報いているのであろう。

愛宕修験談の江戸時代前期『愛宕山神道縁起』の中の古縁起、
あるいは同時期の『山城名勝志』「白雲寺」の項の縁起によれば
大宝年間に修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に愛宕山太郎坊に出会う。
ここで愛宕山太郎坊の霊力により
龍樹菩薩・毘沙門天・愛染明王・富楼那尊者との霊流が繋がったと言うことになっている。
この愛宕山太郎坊とは『今昔物語集』等では日羅のこととされている。
だとすると役小角が龍樹菩薩により八大龍王神を降臨させるのも
日羅との縁あってのことということになる。


参照

国宝太子絵伝
『聖徳太子十二歳「難波館において百済国より帰朝した僧日羅にちらに会う」』


聖徳太子に対面する右が日羅 左が慧慈










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2 コメント

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Unknown (ulala)
2014-06-11 08:48:59
伝承としては聖徳太子の師事したのは百済の日羅上人
そして、愛宕山太郎坊でもあったなんて。
全く知らない歴史の一面、でもありえそうですね。
となると、聖徳太子はいなかった説は、その名前では存在してなかったということでしょうか。
以前羽曳野にある野中寺の弥勒菩薩の台座に彫られた字を見てヘェ~と思いました。
あれもウソとは思えませんでした。
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吉田一氣 (ulalaさまへの返信)
2014-06-11 14:36:52
歴史は今も生きているかのごとく
ころころと表情を変えますからね。
ところで聖徳太子がいないとしても
八代出身の日羅が百済の高官になり
日羅が仏像を日本に持ち込んだ事は
事実だと思われます。
例えばその仏像のひとつが善光寺にあります。
『善光寺縁起』によると、昔、インドの話ですが
月葢長者の娘である如是姫が重病になり、
阿弥陀如来にお祈りして救ってもらいました。
そこで、長者は、お釈迦さんにお願いして龍宮城からもらった金で
一光三尊の阿弥陀如来像を作りました。
この如来像は後に百済(朝鮮半島南西部)の聖明王が
日本に献上したとされますが
これを仕切ったのが日羅といわれています。
百済から日本に伝えられ、蘇我稲目のお寺に安置されました。
仏敵である物部氏は、その後この如来像を難波の堀江に投げ込みました。
この如来像は本田善光の前に現われ、
「信濃に連れて行くように」と命じました。
善行は妻子と共に如来像を尊崇して善光寺を建てたといわれています。
日羅はそういう活躍をしているので
なんとしても仏教伝には入れたい人物となり
聖徳太子が仮想としても日羅は登場する事になるかと思います。
八代にも百済来地蔵という日羅由来の仏像が伝来しています。
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