熊本の霊ラインについては
『項目と目次』にその全貌を記載している。
『独鈷山の伝承』を参考にしていただきたい。
さて聞いた古老の話では独鈷山の龍は
独鈷山を三巻し花岡山を三巻する長さだというが
そういう伝承もあながち理由が無い訳ではなさそうだ。
先週私もその伝承の真相を目の当たりに知ることが出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/61/4d/e66356c4096291d1c5545d92f43ab7cc_s.jpg)
橋を渡ろうとして怪しげな気配に驚いた。
まるで龍の尾のように見える靄が山裾に出ていた。
その靄はまるで生き物のように動いていた。
カメラを取り出して撮影した最初の一枚である。
この写真は実際に私が感じた映像に近づけるために
コントラストを強調してある。
後方にあるのが金峰山で前方にある二峰の山は名もなき山である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/02/ae/a45a5fa37018255e0ac4931b5df99b05_s.jpg)
右手になる独鈷山を見ると山頂にまで靄が出ていた。
それで独鈷山の裏側に回ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/cf/52f5500d53cea58bd8ee4e36d99a1b59_s.jpg)
最初見た時には靄は独鈷山の山頂に登っていたのに
今は花岡山の山頂に靄は登っている。
古老が言う独鈷山を三巻して花岡山を三巻するという話を
彷彿とさせる。
この靄は井芹川により作られたものだとしても
それが花岡山にまで流れていくというのには違和感がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/18/5d/997dfc4a47ca8bef694d261312647d8d_s.jpg)
信仰心のないものには不思議な自然現象に見え
私には独鈷山龍の復活の象徴に思える出来事であった。
『項目と目次』にその全貌を記載している。
『独鈷山の伝承』を参考にしていただきたい。
さて聞いた古老の話では独鈷山の龍は
独鈷山を三巻し花岡山を三巻する長さだというが
そういう伝承もあながち理由が無い訳ではなさそうだ。
先週私もその伝承の真相を目の当たりに知ることが出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/61/4d/e66356c4096291d1c5545d92f43ab7cc_s.jpg)
橋を渡ろうとして怪しげな気配に驚いた。
まるで龍の尾のように見える靄が山裾に出ていた。
その靄はまるで生き物のように動いていた。
カメラを取り出して撮影した最初の一枚である。
この写真は実際に私が感じた映像に近づけるために
コントラストを強調してある。
後方にあるのが金峰山で前方にある二峰の山は名もなき山である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/02/ae/a45a5fa37018255e0ac4931b5df99b05_s.jpg)
右手になる独鈷山を見ると山頂にまで靄が出ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/66/ed/9736fdb9de973b63c0162846fc2b3a37_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/66/72/24da4a85f190b0552197df08fb70810d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/08/d6/156b71678ebeb08a478a108017d70a4a_s.jpg)
それで独鈷山の裏側に回ってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3f/10/a9b6b3bf34ef7ba9e7cb9273f7fbe8ed_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/67/cf/52f5500d53cea58bd8ee4e36d99a1b59_s.jpg)
最初見た時には靄は独鈷山の山頂に登っていたのに
今は花岡山の山頂に靄は登っている。
古老が言う独鈷山を三巻して花岡山を三巻するという話を
彷彿とさせる。
この靄は井芹川により作られたものだとしても
それが花岡山にまで流れていくというのには違和感がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/18/5d/997dfc4a47ca8bef694d261312647d8d_s.jpg)
信仰心のないものには不思議な自然現象に見え
私には独鈷山龍の復活の象徴に思える出来事であった。
凄い自然現象に出会われたのは、きっと見てほしいという見えない世界からの意思をも感じました、素晴らしい!
ちょうど私も昨日からまいまいず井戸という物を知りまして山と水には蛇のとぐろのような物が必ず存在するではと考え始めました。関東伊豆諸島にある井戸で火山灰土壌で直線的に掘れない場合にかたつむり状の螺旋描きながら掘ったような井戸です。蛇のとぐろっぽくて。水神が蛇なのも納得してしまいました。龍蛇神として考えると写真の雲も同じように思いました。
九州の事なにもわからないので吉田さまの研究を今後拝見させて頂きたいです。
一つだけ質問させてください。
九州にはまいまいず井戸のような物はないのでしょうか?火山灰土壌であるところでの農業、生活の井戸はこの形ではなかったのか?知りたいです。鹿児島では玉の井という豊玉姫?との伝説のあるかなり古い井戸がありますが、地形的にも違うように思います。まいまいず井戸があればかなり広大な沼や池になっている可能性も?特に阿蘇にはそんな遺跡ないのか?あれば教えて頂きたいです。
お忙しいと思いますのでお時間ある時で十分です。
関東にみられるカタツムリ井戸ですね。
残念ながら九州にはほぼないのではないでしょうか?
40年前の話ですが浅い井戸でも
結構水が溜まっていました。
得に熊本地方は阿蘇も含めて
自噴湧水が多いので井戸そのものが少なかったです。
それにしてもいい写真ですね。巨大な白い龍の壮大さ感じました。ありがとうございました。8300?0はスタートでしょうか?九州の勉強始めます。
大変ご無沙汰しております。蘇我氏と言えば、飛鳥時代に藤原氏によって「悪者」扱いされた上に、歴史の表舞台から退場させられていますね。
蘇我氏の末裔を名乗った長曽我部氏も、関ヶ原の合戦で徳川勢に敗北してからは土佐を追われてますし、本当に不遇な一族だな~と思います。最近の研究では、聖徳太子の正体は蘇我馬子その人ではないか?という学説が有利視されている様ですね。だとしたら、皇極・天智・天武・そして中臣鎌足は、聖徳太子の理想を復活させる等と口で言っておきなら馬子の子孫の入鹿を惨殺していますから、とんだ偽善者ですよね?所で四国は武家政権以降、蘇我氏の末裔を名乗る長曽我部氏が四国を統治します。四国には大和や出雲、そして吉備に勝るとも劣らない位、神代からの伝承が残っています。徳島県に八倉比売(やくらひめ)と呼ばれる女神様を祀った神社がありますね。その神社のによれば八倉比売とは天照大神の事で、何と天照大神の葬儀の様子まで伝承が残っているのです。
四国の風土史を研究なさっている方によれば、八倉比売=神功皇后か卑弥呼ではないか?との事。つまり八倉止神社は神功皇后の墓所の可能性があるそうです。
中国の歴史書(魏誌倭人伝、晋書、好太土王碑文)を元に神功皇后と武内宿禰が三韓征伐を行った事を史実っすると、神功皇后と仲哀天皇の年齢差が少なくとも50歳となってしまい、夫婦とするに大きな無理があるのだとか。神功皇后と仲哀天皇も実在性が疑われており、考察が非常に難しい所ではあります。しかしながら欠史八代の天皇のうち何人かが重祚だったり、皇族の誰かの別名を別人として別の時代の人物を挿入していたりして、系図を意図的に書き換えていた可能性を考慮すると神功皇后と日本武尊を同世代の人間でかつ婦と考えるのが自然だとか。武内宿禰=日本武尊=蘇我氏の祖先で、八幡神社の祭神の一柱にまでなったと仰っています。蘇我氏は武内宿禰を始祖としていると言われています。
四国には長曽我部氏の足跡と同じ位神功皇后と武内宿禰の足跡も残されていました。
応神天皇の和名にはタラシが入っていないから、直系の子孫ではないものの、傍系では繋がっており、もう片方の血統が物部系なのだとか。
気比神宮の誉田分と伊沙汰分の名前の交換は、後の応神天皇(姓は物部氏だが、半分蘇我氏傍系)が蘇我系大王の正統後継者である事を示す為のエピソードだそうです。物部(忌部)の故地は越(こし)の国だと言っていました。血塗れのイルカのエピソードは、やはり蘇我氏と物部氏(忌部氏も)が藤原系にクーデターで滅ぼされた事を表すエピソードに他ならないとも書かれてました。
菅原道真の菅原姓も蘇我原から派生したものらしく、天満宮も八幡宮と共に蘇我氏と関係ある事になります。
出雲王国は、富氏→蘇我氏→物部氏の順番で日本列島にやってきたそうです。最近では、蘇我氏の起源は遥か小アジアで、中国大陸と朝鮮半島を経由して列島に移り住んだのでは?とする仮説があります。蘇我氏の祖先の中には、大陸や半島に定住した者もおり、その中に斯露国(後の新羅)の王朝の一つである昔氏になった集団がいたという仮説まであるらしいですね。景行天皇と壹与も蘇我氏の出身だったから、藤原一族が必死で歴史上から存在を抹殺しようとした。所が、中国の歴史書には卑弥呼と壹与、そして景行天皇の功績がしっかりと残ってしまっている。その為に日本武尊・武内宿禰と神功皇后という人物を創造して、蘇我・物部朝の系図を書き換えた。そして中国の魏の時代には存在すらしていなかった新羅を含めた三韓征伐という事件を捏造して、彼らがいつの時代の、どこの出自人間なのか分かりにくくした、と言った所でしょうね。
中国側の記録にも卑弥呼の勢力は朝鮮半島南部(伽那・任那)にまで及んでいたとあるので、この史実を元にしたのでしょう。但し、蘇我氏と昔氏を同族とすれば、この頃の邪馬台国と昔氏は同盟関係と考えた方が遥かに自然です。そこで邪馬台国が伽那・任那に援軍を送ったと解釈するのが一番自然でしょう。
卑弥呼を大日霊女とすれば、彼女は和睦の為に日向から出雲(蘇我氏)に嫁いでいた可能性も0ではない様な気がします。
日本と新羅の関係がいよいよ悪くなるのは日本が藤原政権に、新羅が金氏朝に交代した後の話です。この時から日本も大王から天皇という名称を使い始めます。
恐らく多くの研究者が神功皇后と武内宿禰の三韓征伐を史実と捉え、この事件を新羅成立以降の5世紀前半に推定しており、更に多くの学者が414年説を採用しています。確かに414年は好太土王碑文にもある様に、高句麗がヤマトと新羅の連合軍に敗北したとされていますし、中国側もきちんと記録を残しています。
但しこれを神功皇后と武内宿禰の三韓征伐にしてしまうと、雄略天皇の即位年と時代が合いません。雄略天皇は倭の五王として知られる武で「ワカタケル」に充てるのが最も中国側の資料とも矛盾が無い様なので、これには嘘や改竄は無いと思います。雄略天皇は418年に中国皇帝の使者に「新羅や安東都護府と協力して、高句麗と百済を抑える」という宣誓文を送っています。
そこで日本国内の学者達は「武内宿禰も神功皇后も、実は雄略天皇一人の実績を二つに分割しただけ。」と唱えています。ところがそうすると「巫女的な力を持った皇族の女性の神託」と「最前線の大将にも従軍する気丈な女傑」の部分がごっそり無くなります。このエピソードは何処から持ってきたと言うのでしょうか?今の所雄略天皇の母や后妃に神功皇后や卑弥呼並のシャーマン的な能力を持った女性の姿は見られません。正にあちらを立てればこちらが矛盾すると言った具合です。更に雄略は新羅の援軍として朝鮮半島に遠征しているので、古事記と日本書記にある様な三韓征伐とは内容も矛盾します。
これは雄略イコール応神の重祚説を持ち出しても、適合性を見いだせません。