吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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媛社神社の社稷神祭祀 No552

2020-08-18 09:58:13 | 神霊界考察
ヒメコソ神社については
『鳥栖市姫方町の姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社 No544』でブログ記事にしているが
ヒメコソ五社について以下に示すような漢字表記となっている。
姫古曽神社  鳥栖市姫方町
媛社神社   福岡県小郡市大崎
比賣語曽社  豊後国国東郡姫島
姫社神社   岡山県総社市福谷1423
比賣許曽神社 大阪市東成区
この中で『社』と書いてコソと読ませている神社が2社あるが
この社の意味が気になっていた。

それと同時に呉音霊=呉音神=斎姬山門五音大神が
周や中国長江の呉国で姬氏にどのように祭祀されてきたのかを調べていたが
ある時、御神霊にそれは社稷壇による祭祀と伝えられた。
社稷(しゃしょく)とは社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称らしい。
どうも斎姬山門五音大神は社稷壇といっても
土地神にも穀物神にも当てはまらない気がする。
中国の歴史をみると国は出来ては滅ぶことを繰り返しているが
社稷壇にて御神霊が自分の国に留まるように祈願していたように思える。

中国においては天子という呼び名が秦の始皇帝以降に皇帝になると
天地をまつる郊祀(こうし)という祭祀に切り替わっている。
郊祀は天の主宰神への祭祀である南郊と、
地の自然神への祭祀である北郊とに分けられる。
この場合に斎姬山門五音大神は主宰神でも自然神でもないので
本来は客人神(まろうどがみ)という範疇になるように思える。
そしてこの頃から祭祀からは除かれてしまったのではなかろうか?

日本において社稷神という石碑を見かけることがあるが
この中には姬氏の祭祀の名残りがある。
同様に姫社神社というのは姬氏の社稷祭祀の神社ということになろう。



東周列国志にも社稷の文言は出てくるようで
参考までにガイド本を添付しておく。

 楚の昭王は社稷・陵墓を棄てて敗走

 昭王の母であり秦の哀公の娘が伯嬴

ついでにこの東周列国志の中で秦の哀公が八句の命題を出しそれに伍子胥が答えている。

 

今回注目したいのは以下の二点である。
天地の間は五という数字を基本としている。
五行の中では土が最も大切と答えている。
土は社の初文であり土とは饅頭形に縦長にまるめて台上におき社神とする意。
社は地主であり産土神のことをいう。

五とはまず火・水・木・金・土の五行の事であろうが
社稷五祀の五行神のことも考慮したい。
木に勾芒(こうぼう)、火に祝融(しゅくゆう)、
土に后土(こうど)、金に蓐収(じょくしゅう)、水に玄冥(げんめい)を配している。
日本では木に久久能智神、火に迦具土神
土に埴安姫神、金に金山姫神、水に罔象女神を当てることが多い。

春秋左氏伝によれば特に社稷に祀る神として
「后土を社と為す」とある。
そして后土を句龍のこととしている。
※左氏伝「共工氏之子句龍,能平水土,祀之為社神」
※左氏伝「共工氏有子曰句龍,佐顓頊,能平九土,為后土,故封為上公,祀以為社」
※百科 句龍=即后土氏,相傳為共工氏之子。
「能平九土」,因治水土有功,顓頊任命其為土正官。
句龍被後世祀為后土之神,是掌管社稷、土地的社神。

后土は中国道教では最高位の全ての土地を統括する地母神とされる。
また社稷の中央に植える樹をもって田主というが
田主神は神農とされる。
つまり木を神籬として神農神を祭祀し
それを后土句龍が輔弼している構図となる。

※《周禮 地官 大司徒》「設其社稷之壝而樹之田主。」

これは妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神を祭祀するにあたり
日本に留め置く役割としてハミト大神とハヅキ大神を配置している構図と
似ているようにも思える。
斎姬山門五音大神を田主とした場合に
この二女神のうちのどちらかは稷神(穀物神)で
もう一方は社神(土地神)の役割であろう。

2020/08/19 19:53:32のはいせ様のコメントで
この祭祀について「悠紀殿、主基殿みたいですね。」と類似性を指摘された。
この件について類似している部分と違う部分の2点について
私見を述べさせていただきたい。
まず悠紀殿、主基殿を社と稷に当てはめるのは難しい。
この大嘗祭の儀式が共食により皇祖神の神徳を自身に受けて
神人合一を図る儀式であることは間違いないのだが
悠紀殿、主基殿にそれぞれ祭られる神霊が
天照大神の一柱しか知られていない。
これが最大の違和感の原因である。
天照大神の血統としては素戔嗚尊との間の宇気比で
八王子が産まれているが
素戔嗚尊とは兄弟であり夫神ではないことになっている。
また伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』『豊受皇太神御鎮座本紀』)では
雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「一所にのみ坐せば甚苦し(痛苦し)」
「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、
等由気大神を我許もが(我が元へ)」と伝えられたとある。
これで豊受大神を外宮に祀るようになったとされているが
これとて天照大神の夫婦神とは言えない。
天照大神を女神としても男神としても良いのだが
天皇の大嘗祭の儀式に悠紀殿、主基殿の二つがあるという事は
もともと夫婦神の祭祀では無かったのかという疑問が強く残る。

いろいろと調べていたら『出雲王国とヤマト政権』
富士林雅樹 著の中に興味深い記述を見つけた。





この出雲の祭祀が天皇の祭祀より古くからあると仮定すれば
この祭祀が大嘗祭の由来である可能性は高いと思う。
このように祭祀する御神霊が夫婦神であれば
祭祀における皇后の役割も天皇と同等という事になるし
悠紀殿、主基殿の二つあることの辻褄も会う。

斎姬山門五音大神を田主とした場合に
この二女神のうちのどちらかは稷神(穀物神)で
もう一方は社神(土地神)の役割と記載したが
この二女神は斎姬山門五音大神の夫婦神ということになろう。


※少彦名神を祀る鞍馬の由岐神社はもともと靫明神と言われている。
徒然草に「世中の騒がしき時は、五条の天神に靫をかけらる。
鞍馬にゆぎの明神といふも、靫かけられたりける神なり。」とあるのだが
これは伝染病に罹患した家にあるいは謹慎処分を受けた人の家に
靫を掛けて少彦名神の封印をしていたという意味であるが
同時に少彦名神に女神の性質を観て取っている。
また鋤(スキ)は田を耕す道具であり確かに男性の特徴ともなる。
参考までに弥生時代の鋤を添付するが
三叉鉾を彷彿とさせるデザインとなっている。

 


この記事は推定部分を近日中に修正する可能性があります。

社稷石碑は岡山県笠岡市用之江 用之江の辻堂にもある。





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10 コメント

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五行・十干・十二支 (さくら)
2020-09-17 22:48:53
五行・十干・十二支のメモ
http://1gen.jp/1GEN/NAN/ETO.HTM
この中で、
五行の土饅頭について調べていましたが、、、
十干の干は、塩干の「星」なのです。ここでは、日の区分とされています。十二支は「月」の区分。
そこから、年の干支となるのですが、、、
坂越の大避神社の十二の謎は、、、
名前はオオサケではなく、オオヒであり、
大いなる「干・星」の事ではないかと感じます。
それで、一直線上に妙見寺があると思うのです。

※これはリンク先の抜粋文を読むことにより、そのように感じました。

『大撓が、五行の実相を採り上げ、北斗星の柄の指すところを占い、はじめに甲乙という十干を作り、日に名づけ、これを幹といい、次に子丑という十二支を作り、月に名づけ、これを支と言った。天に事があると、日を用い、地に事があると、辰(月)を用いた。このように天地・陰陽の別があった。だから支・干の名があるのである』(後漢:蔡(巡-之/邑)(さいよう):《月令章句》)

「幹とするのは、大本を成就する意味であり、支とするのは、枝葉にわたるつとめの意味だとしている。この日と辰。幹と支で、あらゆる事をつとめて成就する。それ故、支幹と言ったのである。また干の字に作るのも、(竹/幹)の意味であって、物が竿の上にあって、真っ直ぐに立ち、はっきりとしているようなものである。だからまた竿とも言っている。」《中村璋八》

干支というのは、いわば、一本の樹木によって宇宙を表現しようとしているものであるとも言えます。宇宙樹。そこに天地に起るすべての現象が表現されていると考えたわけですね。

<つまり、私の言う生根神社の鈴、金銀二個を置いてきた「鐘の成る木」とは。形状が宇宙樹を指していると感じたからになります。>


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三叉矛 (さくら)
2020-09-13 21:27:52
記事に写真で、弥生時代の鋤を添付されていますが、
家で祭壇に飾っている、京都大将軍八神社=妙見神の色紙に、この印「三叉矛」を見つけました。
という事は、鋤を表し、京都の「ゆき」は五条天神の少彦名神であり、鞍馬寺の由岐神社という事になるのでしょう。
由岐神社
http://www.yukijinjya.jp/about/index.html




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ゆきとすき (さくら)
2020-08-22 11:38:09
田主神ということで、検索をかけました。
豊来する神で、移動していて、天竺などの言葉があります。
あと、飛鳥坐神社に行きまして、気になりました。
事代主+八重歯なのですが、、、
祭神は、児都味歯八重事代主神
御神徳として
事代主神には「都味歯八重事代主神」「於天事代於虚事代玉箋入彦厳之事代主」という尊称があります。
天地、宇宙に広がる御神徳が八重に積み重なっている神様です。
また、むすひの神として、相ふさわしいものを結びつけ、「創造、創作の導きの神」として、芸術方面の人々にも信仰されています。

ここには、おなり神事があります。田の神を祀りますので、原型を感じます。

※事代主ということは『事』は事始、祭事で『代主』 は、『田主』すなわち田の神であります。
とネット検索ででてきました。
一言尼古大神とのことです。葛城疋田になります。
葛城の一言主神社との関係が気になるのですが、

調田坐一事尼古神社より抜粋
賀茂氏とされている、
「建角身命」は、神武天皇が大和へ侵攻してきた時、そのさきがけを担ったとしています。
そして、その功績により山城の国を賜った、と。
古事記に
「其地より幸行でまして、忍坂の大室に到りたまふ時に、尾ある土蜘蛛八十建その室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建膳夫を設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、おしへたまはく、『歌を聞かば、一時共に斬れ』とのりたまひき。かれその土蜘蛛を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、
忍坂の 大室屋に
人多に 来入り居り
人多に 入り居りとも
みつみつし 久米の子が、 
頭椎い 石椎いもち
撃ちしてやまむ。
 みつみつし、久米の子らが、
 頭椎い 石椎いもち
 今撃たば善らし。
 かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。」

土蜘蛛塚は、一言主神社の境内と、高天彦神社の側にあり、それらの土地は、賀茂の本拠地です。この土蜘蛛と賀茂の関係は深いようなんです。

同じ賀茂の名前を戴きながら、道案内役となった、建角身命。下鴨神社の祭神。八咫烏。
土蜘蛛として撃たれた人々。呉系姫氏、楚系熊氏
抜粋終わり
※これは、よく考えておきたい思います。
二手に分かれたのか?賀茂氏と概念上の息長氏(八十建土蜘蛛もしくは蘇我系手長足長)

「悠紀田」と「主基田」の由来として、はひもろぎ逍遥さまが紹介されていました。
https://lunabura.exblog.jp/30277980/




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九州と句竜 (さくら)
2020-08-21 20:38:56
{国語・魯語上}には、”共工氏は九州に覇を唱え、その子は后土と言った。九州を平定し故に社を為し祀られた。”とあり、后土が社神として見られます。

九州とは、日本の九州を指すのか?と疑問に思いました。
九州(中国)
九州(きゅうしゅう、くしゅう)とは中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。中国では天下、世界全体の意味で用いられる場合もある。

※古代中国全体の古称でした。そこから、日本の九州は名付けられたのでしょう。古代中国の民がこぞって渡来してきているからでしょうね。
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后土神と句竜と七天女 メモ (さくら)
2020-08-20 22:34:14
后土神
羌人(きょうじん)の治水神だった共工の子である句竜(こうりゅう)という竜形の神が后土になったといわれている。古い時代、共工は羌人の最高神として中国の支配者になったが、このとき后土が大地を平定するという活躍をしたので、地霊として社(神社)に祀られ、土地神になったのだという。
 大地の神である后土は同時に、地下にある幽都という暗く陰鬱な死者の世界の統治者だといわれており、土伯(どはく)という配下がいるという神話もある。土伯は虎のような顔、目が三つ、牛のような体でものすごいスピードで邪悪な人間を追いかけ、その角で刺し殺す幽都の門の監視者である。

五佐
『欽定礼記義疏』巻59「春曰其帝太皞。其神句芒。夏曰其帝炎帝。其神祝融。中央曰其帝黄帝。其神后土。秋曰其帝少皞。其神蓐収。冬曰其帝顓頊。其神玄冥。」
※四季、春夏秋冬+中央(黄帝・后土神)

共工の臣相柳(そうりゆう)は九首の竜で,そのゆくところは谷となり,血が流れて五穀生ぜず,禹に殺された。…

七天女・・・メンバー
玉皇大帝 - 天帝。七仙女の父、玉帝と称され、仙人たちからは陛下と称される。
王母娘娘 - 瑤池金母・玉帝の皇后、黄帝を助ける筆頭の女仙
西王母 - 崑崙山上に住する女神。東王父に対応する。
九天玄女 - 黄帝を加護し、蚩尤を倒す霊宝護符や兵法を授けられている。
碧霞元君 - 万能のご利益を授けられている。
素女 - 房中術を授けられている。
后土 - 黄帝を補佐したとされる女神。
旱魃 - 黄帝が蚩尤と戦った時、蚩尤陣営の風雨を司る雨師と風伯に対抗している。
雲華夫人 - 黄帝が炎帝と戦った時、西王母に派遣された黄帝を助ける女仙1161
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うみうし⇒アメフラシ (さくら)
2020-08-20 14:36:43
すみません<(_ _)>
訂正です。
五色浜海岸「ヒロイソ」で「うみうし」を観察したと書いていますが、もしかすると、アメフラシかもしれません。
五色浜に行く時の目印は、六地蔵という地名から海岸に下っていくというものでした。
ウミウシは綺麗な色で
アメフラシは茶色でした。
どちらも、軟体ですが、角があり、
貝類ですが、貝殻は背負っていません。
ナメクジが同じ仲間かもしれません。

それで、ナメクジがでてきましたので、、、
三すくみの事を思い出しました。
原文「螂蛆食蛇、蛇食蛙、蛙食螂蛆、互相食也」

螂蛆はムカデのこと。正三角形の配置構造を連鎖構造に言葉として表記した。「じゃんけん」の勝負とは異なるが、互いの影響を説明するうえで「三つ巴」や「三すくみ」と表現される説明が多くの理論で利用されている。
※正三角形なのです。
それで、三上山とは、三すくみのことだと思いました。
それに、今、赤松氏の書写山円教寺の瓦、三つ巴は、三上山を表していると感じました。
そこに、性空上人乙天若天図が所蔵されているという事になります。

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五のお話し~続き (さくら)
2020-08-19 21:03:32
はいせ様
岡山姫社神社のお札もらうなんて、、余程の事でしょうねぇ。氏子総代は小幡さんかもね。
私は、光の交差とチリチリ舞い散る光景だけでした。
あの時は、正装に着替えて、白いブラウスとふんわりスカートに足元。靴まで気にしてました。
私の姫コソ神参拝は、岡山と大阪のみです。
大阪は鶴橋と、あと記事に載っていない高津宮と姫島神社ですね。
后土神が祀られてるのは、大阪住吉大社ですね。
それ以外は、観たことないのです。
ネットで検索しますと、出雲大社入り口、平沢地区に石碑があるようです。
后土神を検索画像を観て、八代の龍王神ってこんな感じかな。
目が赤いのです。

丹後、五の神様のお話しの続きがあります。
甲山はひぐらしが大音量で鳴いています。
でも、鳴き声は晩秋を感じ、涼やかな気配を漂わせています。
長男は、そのまま帰宅し、
私は、一路、福島神社に向かいます。
漁港があり、小島にその小社があります。
浮き、が鈴代わり、賽銭箱代わりになっていました。
いかにも、海の神様です。突端に位置していまして、小山の天辺からほぼ360度海にお祈りをして、引き返します。
物足りなく想い、別の豊玉姫神行きたいと思います。
それで、急遽、「蛭子神社」が近いので、ココに行きたいとわがまま言いました。
多分、福島神社が元社で、蛭子神社が本社だと思いました。
それで、蛭子神社近くにきますと、看板で「小天橋」が有名なような感じで看板がでています。
入り江が入り組んでいて、牡蠣の殻が小山のように盛られていて、再利用するのかな?とか思います。
ナビに、鳥居マークが有りましたので、ここがきっと「蛭子神社」だと想い、私だけ参拝に行ってくると降りました。
そこは、小さな神社ですが、先ほどの福島神社と変わらない感じです。
鳥居に入る前に、トリの陰を感じます。
あっ、鷹か、何か、飛んでいるのかな?
と空を仰ぎますが、何もいないのです。不思議だわ・・
と思いながら、参拝して、、、
お賽銭を入れようと、カバンの口を開けると、
上から、ばたばたと羽のあるものが私の手に当たって、カバンの中に入ったのです。
今のは、何?幻覚?後から調べよう。
そこの神社は、何も書かれていないのです。由緒も、名前も何もない。
とりあえず、カバンの中に入ったのは、蝉かな?と感じます。
ごそごそとしましたが、何も入ってないのです。
まぁいいや。気のせいかもしれない・・と思い直します。
それで、夫がもう少し先に「蛭子神社」があると教えてくれました。
先ほど拝んだ名前のない神社は蛭子さんじゃなかった・・・
急いで、「蛭子神社」に向かいます。
豊玉姫神が祀られているのですが、、、
実は、一番気になりましたのが、摂社で
五元五柱神と書かれた「大川神社」になります。
先ほど、五箇で比沼眞名井神社で、、、
また、五なのか?
この大川神社
大川神社は京都府舞鶴市字大川に鎮座している神社です。大川神社の創建は顕宗天皇元年(485)、冠島から金色の鮭に乗り由良川を上がってきた神が地元の漁師に自らを祀るように告げたことから宮柱を立て奉祭するようになったのが始まりと伝えられています。現在の祭神は保食神ですが、元々祀られていたという大川の神の詳細は不明とされ、出現自に左手に五穀の種、右手に養蚕の桑の種子を持ち金色の鮭に乗っていたことから農家や養蚕、漁師などから信仰が篤く、境内周辺に古墳が点在していることから当地方の開発神だったとも考えられます。
江戸時代に入ると田辺藩主細川家が崇敬庇護し境内が整備され、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され明治5年(1872)に郷社、大正8年(1919)に府社に列しています。祭神:保食神。相殿:句々廼馳命神(木神)、軻遇突智神(火神)、埴山姫神(土神)、金山彦神(金神)、罔象女神(水神)。

※蛭子神社の大川神社・五元五柱神は
保食神、大己貴神、少彦名神、植安姫神、大土御祖神となり、舞鶴の大川神社とは違うのです。
大川をオカと読む。この川上が岡田だから、あるいはそうかも知れない。それなら大川はクガとも読めないこともない。もしそうなら玖賀耳御笠の神社であったかも知れなくなる。
お犬様信仰であり、
建立が5世紀と歴史ある神社。祭神のうち、土の神様の使いとしてお犬様を近隣に派遣して四足獣の害から住民を守ってきた。狛犬は獅子に近いが、吽像に角があるといった古式な形態を踏襲している。

その後、五色浜に行きました。また、「五」かと思いながら、「うみうし」の泳いでいる姿を堪能しました。









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怖いんですけど~ (はいせ)
2020-08-19 19:53:32
悠紀殿、主基殿みたいですね。
ネット情報より悠紀・主基とは『大嘗祭における祭儀に関する名称。〈ゆき〉は斎忌,由基,〈すき〉は次,須伎などとも記す。悠紀国,主基国の斎田の新穀が,それぞれ大嘗宮の東の悠紀殿,西の主基殿で神饌に供された。悠紀・主基の国郡は卜定によって選ぶのが原則で特定されていなかったが,平安中期以降は悠紀は近江国,主基は丹波国と備中国が交互に選ばれ,郡のみが卜定された』とのこと。

怖いのはここからです。
私、岡山の姫社神社のお札を偶然氏子総代の方にいただいてお祀りしているのですが・・・。神棚がなくて額縁を自分で作ったのです。厚紙に麻の葉模様(天津金木)を貼り、お札を中心に。その上に木の形(世界樹をイメージ)にくり抜いた厚紙を貼り、お札が丁度木の中心に透けるよう設置。そして余白部分に日月星、海、花、草などを書き込んで額縁に見立ててます。裏は金ぴかの紙を貼って宇気母智神のお札を貼ってます。そして北側にお祀りし、その前に水色の龍神のハガキ・青銅鏡・黒曜石のペーパーナイフ・ブレスレットを置いています。
何なんでしょうか?この記事拝見して背筋が寒くなりました。確か年末の大繁忙期に寝る間を惜しんで絵を描いたんですよ。素人作製なので人様には見せられないのですが。

求菩提山で鬼を封じた場所を「かめのお」というのですね。「すさのお」も「お」だなぁと気になって「すさ」を調べたら「朱砂」「寸莎」が出て来ました。「小麻賀多」が「駒形」になったという話もあるようで。庶民の想像力はすごい。
炎帝神農氏調べた時に気になってた方々がいっぱいです。雷神がいませんけど~系統が違うのかなぁ。雷神アピールすごいんですけどね。
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五箇と久留と角のお話し (さくら)
2020-08-19 16:30:48
この夏は、熊本の八代龍王神社、八代妙見神社、青井阿蘇神社に行く予定で、宿も2泊押さえていました。
7月上旬、球磨川の氾濫を目の当たりにします。
追い打ちをかけるように、567による第二波の猛威により、長時間の移動リスクを避けて、後ろ髪を引かれながら、京都丹後に振り替えました。
この場所丹後を選んだのは私ではないです。
それで、熊本に比べると近い丹後なので、私が行きたい神社を二つ連れていってくれるというのです。
「志布比神社」と「福島神社」を選びました。
また、相変わらずマイナーな聞いたこともない「志布比神社」?と聞かれて、私の父方祖父母の縁だと言い、
「福島神社」は豊玉姫神が祀られているようなので、ここに行きたいと。
伝えていました。

綾部辺りのSAで、熊の牙をもつおじさんの目利きで選んでもらった鹿角細工を購入して、ウキウキして、車中で鹿角の写真を撮ったりしていました。
長男とは別行動で、(長男はバイク。私達より30分ほど先に家を出る)丹後の甲山レストランで待ち合わせです。
私達は高速なのですが、、熊の牙をもつおじさんと長話したせいか、高速を降りたところで、長男がもう待ち合わせの甲山に着いたと連絡がありました。
それで、夫が高速なのに、地道のバイクに負けた!と切れ気味に、丹後峰山の道を走っていると、、、
交差点のようなところで、パトカーとすれ違います。
普通に走っているし、私はシートベルトもしているのに、何故かパトカーがランプを鳴らしながら、、何か拡声器で言っているのです。
音楽を聞いているので、よく聞こえなくて、はぁ?何も悪いことしてないのに、なんでパトカー付けてくるの?
「五箇」と書かれたバス乗り場近くで、車を止めます。
よくよく、話を聞くと、一旦停止違反らしいのです。
夫がかなりの塩対応でしたが、警官の方も慣れているでしょう。
それも、一週間前に別場所の一旦停止注意勧告をうけたばかりだったのです。
なんか、点数がどうとか話していましたが、、、
半沢ドラマみたいに、顔芸土下座したら?許してくれたかもよ・・・とか言いましたが、国家権力には逆らえないと。ここで、罰金7千円決定です。
その「五箇」の側に、「ヒヌマナイ神社」の案内がありました。比沼眞名井ですね。比ですね。
「五」って、平家の「五箇荘」の「五」でしょう。
ヒヌマナイ神社も平家と何か因縁があるのな?と感じました。






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甘い粉に惑わされる (さくら)
2020-08-19 15:20:41
吉田様
いつも、丹念に調べられて恐れ入ります。
その博識をいつも参考に勉強しています。
私の浅い知識では、姫コソのコソは、
私は宇治が昔「許」の国と呼ばれていて、宇治の祖という「許」「祖」かな?とずっと、思っていました。
コが「古」と言う字のときは、「布留の言」が重なると想い、そこで、物部氏という古代氏族が重なります。
しかし、コソが、呉と楚という大陸由来となると、九州熊本や、南九州辺りが日本最初の到来地となります。
元々宇治氏は京都に居たのだというお話しは、嘘なのか?それとも、先祖返りして、また古巣にもどる。
何となく、本拠地宇治を追い出されたような気配はします。宇治氏の元祖と言うべき人物に、相撲のお話しがありました。相撲ですので、阿多隼人、大隅隼人。
彦坐王と麻呂子皇子は同一人物のような気配ですが、、、
麻呂子とは、当麻皇子とも言います。
当麻蹴早が思い起こされます。
野見宿禰と相撲をして、穴師坐兵主神社の側に二人とも祀られています、、神事相撲は7月7日です。
ごちゃごちゃと同じようなお話しが名前を変えて、重なり合っています。

=宇治の歴史=
宇治の歴史は、二世紀、今日の「木幡」という地名のおこりと言われる、許国(このくに)が宇治地方に成立していたところにさかのぼる。この時代の日本列島には多くの小国家が郡立していた。ちなみに「木幡」は「許の国の端」、つまり「許端」からきているといわれる。

亀岡の小幡神社のことも、本当は「木幡」「黄旗」かな?と思っています。つまり、いつも出てくる祖祭神、彦坐王は山城宇治と何らか関わりがあると、それも久留米、久米、久留と関わるでしょう。
岡山姫社神社の氏子に「小幡」氏の古文書があることを知ったことは上田氏の大きな功績ですけどね。
宇治の許波多神社
※姫社神社の本来の名前の波多と同じ字になります。
http://www.y-tohara.com/kyou-kohata.html
二社ありますが、どちらも祭神は忍穂長根命です。
「忍穂耳」とされていますが、「忍骨」命だと思います。元々、姫呉楚で十分なのですが、日本では、山城国宇治が基本ではないかと感じています。
宇治の祖が呉楚だということです。

それで、比賈語曾(大分)は語、言葉、語るですので、そのまま、比賈という字・語の曾ですね。
この比賈は、「比」は、六甲比女神だったり、護比君神だったりの「比」です。したしむ・・・
3215
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