吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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タチバナの契り No551

2020-07-23 13:24:37 | 神霊界考察
女山神籠石の調査を今年5月にしたのだが
この女山神籠石は山頂の山内古墳を守るように設置されている。
1号墳は上部が剥き出しになっているものの
2号墳は原型を留めていて内部に入る事が出来る。
この古墳は6世紀のものだと言われているが
新羅と手を結んでいたとされる磐井の乱以降のものとなる。
この古墳石室の中では構成された石が見事に輝いていた。
スマホの明かりしかなかったのでボンヤリとした明かりではあったが
居心地の良い空間だと感じられた。

  

  古墳内部側面

  古墳内部天井部



この古墳探訪の後に天草の装飾古墳の事が気になり出したのだが
6世紀後半に九州では新羅が禁句となったようである。
『八代の河口から眺めた八代妙見霊ライン』
白木山や白木平という言葉が気になると記載したが
一番気になっているのが八代妙見霊ラインを
東側に伸ばした先に宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門の
神門神社(みかどじんじゃ)があることである。
伝承では660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の
禎嘉王とその子の福智王がたどり着いた場所だという。
現在は百済の里と呼ばれ百済王伝説を今に伝える由緒ある神社とされる。
ただ滅びた百済の王族を本当に「みかど」と呼んでいたのであろうか?

さて筆者が祭祀する『妙見妙音妙理の統括尊たる斎姬山門五音大神』という
御神霊は紀元前の中国春秋時代の終わりの姬氏九州渡来時代と
背振山乙護法童子祭祀時代との二度の祭祀の形跡が日本で認められるが
日本の九州における呉系姬氏と同じ境遇の楚系姬氏(熊氏)の
江南から渡来の両者が和睦したのが
姫社の郷の福岡県小郡市の媛社神社~鳥栖市姫方町の姫古曽神社
のあたりだと筆者には感じられる。
周の文王の時代に中原の蛮族から楚は生まれるが
鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられている。
姓は羋で鬻熊から氏を熊としている。
周の国姓は姬なので呉系も楚系も姬姓を敬っている。
これをもって私的感応で姬呉楚和睦タチバナの契りと成したと感じている。
タチバナが「橘」であるのか「立場違い」の意味なのかは図りかねるが
後世においてこの姬呉楚和睦タチバナの契りは
タナバタノ契りと転化されてしまい七夕祭りとなってしまったようである。
春秋時代の長江流域において橘はすでに栽培されていたようである。

参考『中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史』
「尚書 禹貢」より、長江流域の揚州の箇所で貢物として『厥包橘柚』というように
橘のことが記載されている。
屈原の楚辞九章「橘頌」にも橘が出てくると記載されている。
『后皇嘉樹、橘徠服兮。』
=『橘樹是后土皇天所生的美好樹木,生長在南方楚地,天生就適應當地的水土。』

一方七夕祭りは中国では乞巧奠(きっこうでん)と言われているが
伝承の開始は漢時代と思われるがお祭り化されたのは唐時代となる。
そして日本に伝わったのは奈良時代ということになる。

古代九州での呉系と楚系の勢力範囲については
未整理であるが神来貴船神社と菊池山門は呉系だと思われる。
実際のところ熊氏の候補は熊本、球磨郡、熊襲(熊楚)や熊毛郡など
多岐にわたるので楚系がある時代において圧倒的勢力であったのは間違いない。

「古代吉備之国発祥之地」碑のある岡山県総社市の姫社神社(ひめこそ)に
参拝したのはいつのことだったか思い出せないが
ここの祭神は新羅に繋がる阿加流比売である。
「古代吉備之國波多波良郷鉄造之神社」
姬呉楚がここでは新羅のヒボコ伝承で上書きされている。
キビのキは姬氏でビは姓の羋ビから取られていることから
古い時代に鉄の利権で呉と楚が手を結んだ事が推察される。
その後に秦氏が新羅由来と上書きしたのであろう。
余談ではあるが、さらに近代においては
上田正昭という京都府亀岡市曽我部穴太の小幡神社宮司の
開化天皇を祭るはずの小幡神社を秦氏系との錯誤をする御仁が
『東アジアと海上の道』という著作で古代より朝鮮が日本を導いたと強調している。
特に秦氏に対しての熱弁はすごく例えば以下のようにプロパガンダしている。
「朝鮮半島南部の当時、新羅と呼ばれていた国から
日本へ渡ってきた集団のひとつが秦氏です。
新羅の古い石碑に6世紀のはじめに朝鮮半島の慶尚北道に
波旦という地名があったことが記されています。
ここが秦氏のルーツではないかと考えています。
その後、日本に渡ってきて、飛鳥時代、5世紀の後半の頃から葛野盆地、
今の京都盆地の開発を始めたわけです。
その頃に創建されたのが、おなじみの伏見稲荷大社で和銅4年(711)に
秦伊呂巨(イロコ)によって創建されたと伝えられています。
そして、松尾大社がありますよね。これを作ったのがやっぱり秦氏でね。
秦都理(トリ)が社を大宝元年(701)に作ったといわれています。
松尾の神様というのがつまりは秦氏であったということ。
広隆寺の前身も葛野秦寺、葛野にあった秦氏の寺です。
それが後に広隆寺となり、平安時代に場所も現在の位置に移りました。
彼らは葛野大堰も作りました。
今でいう、灌漑や治水のための「ダム」で、京都の発展に大きな役割を果たします。
そういうのを考えても、いかに秦氏というのが京都の発展に大きく貢献したかが分かりますね。」
文化も技術も百済の神道も朝鮮由来で日本に教えてやったと言っているのだ。
だから彼に言わせれば七支刀も朝鮮王朝から配下の日本に下賜されたものとなる。
外道極まるものが小幡神社社家の上田家の養子となって
津田左右吉的な思想を広めて左巻きから日本古代史の第一人者と呼ばれ
勲二等瑞宝章を受章するのだから世も末と言っていい。

さて
このようなことを鑑みると八代では呉系の歴史が新羅で上書きされた後に
百済で再度上書きされた可能性が高い。
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27 コメント

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オレンジの片割れ (はいせ)
2020-07-24 17:12:14
スペイン語では運命の相手や最高の相棒のことを『オレンジの片割れ』というそうです。このタチバナの契りが元になっていたら面白いなと思いました。
日本だと赤い糸の相手となりましょうか?元ネタは太平広記(978年成立)の青年と老人と傷を受けた3歳の娘の話という説が有力なようですが・・・。同様な話をどこかで読んだと思っていたのですが、「今昔物語」に記載されているものを吉田様が『咤枳尼天の日本仏教への影響  No388』で紹介されていました。

ニギハヤヒ神が日神(火神)とされた理由を探していて、ネット情報で「蚩尤は日神とされていた」との記載があり、蚩尤は銅や鉄を冶金したらしいし、炎帝神農氏族の流れを汲んでいるから・・・火はわかるけど日?
最終的に蚩尤は”銅頭鉄額”や”八肘八趾”、”人身牛蹄、四目六手”、”羽2本”と宇佐の鍛冶翁みたいな容姿とされてますけども。亡くなって楓の木になったというのもやはり「赤、朱」が象徴だったからでしょうか。

もう一度、炎帝神農氏を調べていて、獐鼠と巴豆(ハズ)とお茶の話が出て来ました。
ハミト大神のコメントで、「子神みたいな存在のトキハ大神、トモエ大神みたいな(方を感じる)」と記載していましたが、ハズキ大神が「巴豆木」大神だと大国主神とそれを助けた鼠みたいな感じでいろいろ妄想が働きます。鼠が根(の国)に住むだとスセリ姫も絡んでくるのかなと。
自分の妄想だとどう考えても江南ダイレクトの左周りしか出てこないのですが、「はず」で変換したら「幡豆」が一番最初に出て来ましたので・・・。でも「幡」は「秦」ではないと思ってます。

この辺りのことはさくら様はじめどなたかが調査されていたように感じます。
そういえば女山神籠石の辺りは「卑弥呼の里」とも言われていますね。
神門神社の「唐花六花鏡」のレプリカの青銅鏡を以前作成していますが、花びらの部分の磨きが大変でした。ああいう形を作るのは日本人の職人魂のような気がしますけども・・・。
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日本のアカデミズム (さくら)
2020-07-25 01:22:07
実に残念です・・・
私にとって、全く手に届かない京都大学の入学なのですが、、記事に書かれてる上田さん京都大卒であり、名誉教授となっています。
最初は国士舘大学卒で宮司さんやりながらどうして京大に入学できるのか?
よくわからない構造なのですが、、、
学歴ロンダリングの一種でしょうか。
どうしても、京都大学卒の威光がきらめきますよね。

ところで、亀岡市曽我部穴太は、、、
私が気にして通っている、独鈷山の近くになります。
必ず、佐伯稗田野神社にお参りをしてから、独鈷山に向かうのですが、、、この前偶々、蛭子社のところで、「曽我」さんのお名前を観ました。
あれっ、このアタリに、「曽我」さん住んでおられるのね。
どうしても、「曽我」さんのイメージは北朝鮮に拉致されたというイメージが強く、日本海側なのかと思っていました。
佐伯の地に曽我さんというのが、何か暗示していると感じていました。
それで、独鈷山で冠をかぶしたのですが、方向として曽我部穴太方に向いていますので、牙をむいて威嚇しているのかもしれないです。
小幡神社
第10代崇神(すうじん)天皇の命により派遣された※四道将軍のひとり、丹波地域を治めた丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)が、第9代開化天皇を主神として祀っ たことに始まるといわれ、開化天皇の御子 の彦坐王(ひこいますのみこ)とその御子小俣王(おまたのみこ)の3代を奉斎し ています。また社伝等によると、708年(和銅元年) に、丹波国司大神朝臣狛麻呂(おおみわのあそんこままろ)が霊域に社殿 を建立され、927年(延長5年)に編纂さ れた『延喜式』「神名帳」にも記載された古社です。

※あーこれはダメでしょう。神社名が小幡なので、「秦氏」と思ったのではないでしょうか?
そこから読み解いていったという単純なものだと思います。


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ジャックと豆の木 (はいせ)
2020-07-25 14:32:17
ハズキ大神の漢字を「巴豆木」大神と想像した時に、「ジャックと豆の木」が浮かんで来ました。
ジャックはトランプの11。絵札では一番下で家来、労働者、船乗りの意味だとか。ただし、トリックスタートしての役割もあるとのこと。
ジャックと豆の木のあらすじはWikipediaより「ジャックは牝牛を売りに行く途中で老人に会い、牝牛と魔法の豆を交換する。その豆を庭に植えると巨木に成長し、雲の上の巨人の城に辿り着く。巨人の妻の手助けでジャックは金の卵を産む鶏、金と銀の入った袋、歌うハープを巨人から奪うが、気がついた巨人が追いかけてきた為、豆の木を切り倒す。巨人は木から落ちて死んでしまう。ジャックはそれを見て心を入れ替えて真面目に働くようになり幸せに暮らす。」という内容です。
何だかツヌガアラシトの話と似ています。牛と丸い魔法アイテムを交換するっていうのが・・・。

海人族って氏族と一緒に移動してたのでしょうか。
海神は渡しの神でもあるし、海によって海流の特徴も違うから、海人族って意外と土着なのではと思ってます。
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とこたち (さくら)
2020-07-25 15:59:23
因縁でしょうか。
頭が痛くて、、、半分床(トコ)から離れられない状態です。
はいせ様もここにコメント書くって、頑張ってるなぁ・・・
無理しないようにね。
吉田様も、神山女古墳の写真を撮りに行っているし、、
調べ直しましたら、違います「女山神籠石」です。
大変ですよ((+_+))
私はパスさせていただきましたが、、、
それでもこんな頭痛で臥せっています。

それで、ジャックと豆の木と巴豆木と書かれているでしょう。ハは、辛(カラマンダリン)で書いた「大きな把手のある大きな直針」のことらしいのです。
でも私は、注射の採血の色と解釈して、血脈のことを書いたはずです。
採血結果の事も書きました。

それで、秦氏の出自は波旦らしく、、、
羽豆、幡豆、波豆と調べていたのですが、、、
豆は否定です。
矢筈も考えていて、、矢はや(八)であり、天皇の数字なのですが、天皇が筈(秦氏ではない)という事を表しているのではないかと、、
波豆八幡神社ってあるのです。
千刈池とか書かれていて、、、
体調が良くなったら、、様子は見てこようと思います。

海人族って、大山祇神もお祀りしているので、私も土着のような気がします。

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吉田一氣 (さくら様への返信)
2020-07-26 00:56:13
上田正昭という御仁はそう簡単に尻尾をつかませない
狐の曲者つまり外道で間者ですね。
この小幡神社は大本教出口王仁三郎(上田 喜三郎)の実家である
上田家の産土神社でした。
それで王仁三郎の最初の感応はこの神社であったといいます。
上田正昭と大本教については以下が参考になるかと。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f3d1425b4817d39650a4bdd9071eb7b5
ここでは次ページで上田正昭のことを左翼と言っていますが
私はその思想ではなく権力志向のずる賢いところに
虫唾が走るのです。
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吉田一氣 (はいせ様への返信)
2020-07-26 01:37:56
巴豆木という常緑亜高木なるものがあるのですね。
初めて知りました。それにしても
https://www.uchidawakanyaku.co.jp/tamatebako/shoyaku_s.html?page=257
巴豆について記載されている最後の文言の
「一般的には猛毒とされるものであっても,
豊富な知識と経験をもとに適切に用いれば特効薬にもなりうる。
まさに,毒と薬は表裏一体ということでしょう。」
に驚かされました。
ハミト神を波水戸神としてハズキ神は波月神とか葉月神程度にしか
理解できていませんでしたので
なるほどと唸ってしまいました。

返信する
竜の眠る星 (はいせ)
2020-07-26 11:27:29
長雨、冷夏だと清水玲子さん著の「竜の眠る星」をそういうときに読んだなぁと思い出します。
ここ数日、何だか何度も「竜の眠る星」というキーワードが思い出され、ジャックと豆の木から、「竜の眠る星」の主人公の一人がジャックという名のアンドロイドだったことも思い出し、何かあるのかと思いました。あらすじをみたら、海の中で生活する一族と長命な一族の覇権争いを軸に展開していく物語でした。
『思いは巡りそこにかえるのだ、何度も、何度でも』みたいなセリフがあったように記憶していますが・・・。

『巴豆』のリンクありがとうございます。古代には安全な下剤がすごく重宝されたと聞いたことがありますが・・・。吉田様がハヅキではなくハズキと記載されていたので、月ではないことを主張したいのかと思っていました。
あと、母性というと甘やかな気がしますが、飴と鞭ではないかと思っています。荒ぶれるご神霊を律するのですから毒も持っていないと。

炎帝神農氏について再調査の中で、以下の2点が気になっています。ネット情報より抜粋。
・神農氏の姓は姜氏で火徳王と言われた。母は女登と言い、女娲氏の女である。神龍との間に生まれ、姜水で育ち歴山と号し、また烈山氏とも言った。
・神農氏は誤って断腸草を食べてしまい、解毒のため茶を飲んだが効果が及ばず腸全体が千切れて亡くなった。
4月以降、何度か夜中の腹痛で苦しんでますが・・・。
腹痛しんどいですわ~。
以下、ちょっとやりすぎ感がありますが、面白かったので
天竜楽市様
https://ameblo.jp/starless43/entry-12530781620.html

あれ?また認証番号が5768なんですけど~?
返信する
橘は楚ですか? (さくら)
2020-07-26 22:01:13
亀岡の小幡神社の祭神は、日子坐王であり、
それは、散々、新羅やヒボコや百済やと書き換えられているのです。
彦坐王と息長氏と日本武尊
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%BD%A6%E5%9D%90%E7%8E%8B%E3%80%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%B0%8A%E3%80%81%E6%81%AF%E9%95%B7%E6%B0%8F/
http://shinyash.jp/hikoimasu.html
私が調べたのでは、彦坐王⇒息長日子王⇒吉備品遅君、上道氏、針間阿宗氏などになりますので、秦氏ではないのです。
それに、久留の神系列にもなります。

私は、コメントに書きましたが、亀岡穴太寺では、上田喜三郎さんの先祖の円山応挙(上田主水さん)との感応が、京都の妙見神社に参拝後に行った、京都八大神社、竹内御殿曼殊院で不思議出来事がありました。その時は、なんのことやらわからなくて、とりあえず、幽霊絵と円山応挙について調べていました。

上田正昭さんは、残念ながら、、、間者と思われても仕方ないですね。
小幡神社の奥社の高熊山にて、正昭氏には血脈のない小幡明神は降りてこなかったと思います。8001


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吉田一気 (さくら様への返信)
2020-07-27 03:56:55
天竜楽市様のブログの紹介ありがとうございます。
現実の神霊の動きを抜きにした歴史的な背景は
ほぼ私が述べたいことと同じだと思います。
最近記憶が断片化されていますので
この文章を覚えておいて今後の呉系渡来の歴史的な説明の
下書きにしたいと思います。
「特に周(姫姓)や殷(子姓)の王女が他国へ嫁ぐと○姫、○子と呼ばれていたこと」
これが事実ならとても興味深いです。
ただ炎帝系が日本で天皇になったというのは
違うでしょうね。
姫ということで言えば黄帝が姬姓ですけど
日本から大陸に移り住んだのが三皇という伝承も
無視できないものがあります。
日本のホモサピエンスの歴史は3万8000年前の旧石器時代に始まり日本の縄文時代の始まりが
1万6500年という事を忘れてはいけません。
その中でクナト神は北方を経由して日本に来たドラヴィダ人
(シュメール人)と考えています。
さらに天皇の血統はもともとは血ではなくて霊統から
スタートしているようですので
呉系姫氏が天皇とつながると考えるのは早計でしょうね。
それでも倭人と呼ばれた人たちが呉系との混血である
可能性は高いと思います。5551
返信する
(゜-゜) (さくら)
2020-07-27 13:02:47
はいせ様が張り付けてくださった「天竜楽市」様ブログの解説をありがとうございます。
過激な学習内容でしたので、、吉田様の感応と重ね合わせた感想を戴きました。
それで、クナト神の事も書かれていて、これは北方を経由しての渡来人(シュメール人)なのですね。
((+_+))
大丈夫かなぁ・・・
そんな大昔の人類のこと・・・
シュメール??また調べときます。
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