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2016.11出雲大社 一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・四の鳥居→境内へ、庁の舎解体中

2019年12月23日 | 旅行

2016.11 島根を行く ②宇迦橋大鳥居 勢溜大鳥居 中の鳥居 銅鳥居 庁の舎 神祜殿        <日本の旅・島根の旅>

 一の鳥居は堀川に架かった宇迦橋のかたわらに立っている。
 出雲大社由緒によれば、八雲立つ出雲国は大国主大神によって築かれ、豊葦原の瑞穂の国と名付けられた。国づくり後、大国主大神は天照大御神に瑞穂の国を譲り、天照大御神は大国主大神のために宇迦山の麓に宮殿を造営したそうだ。
 出雲大社とは、天照大御神によって造営された、大国主大神を祀る社なのである。出雲大社の建つ宇迦山の麓を堀川が流れていて、堀川にかけられた橋が宇迦橋と名付けられ、一の鳥居は宇迦橋の大鳥居とも呼ばれた。

 宇迦橋の大鳥居は見上げるほど大きい。どっしりと構えている。かつて大社駅からの参拝者は、大鳥居に迎えられ、出雲大社の荘厳さを感じ、気持ちを引き締めたのではないだろうか。遠目からは石造に見えるが、コンクリート造である。
 神門通りのところどころに、袋を担ぎ、口ひげを伸ばした笑顔のだいこく様の石像や兎の石像が飾られている。これは神門通りを盛り上げようとした近年の作であろう。だが、人通りは少ない。

 神門通りを北に進む。右に前述した出雲大社前駅のモダンな建物があり、電車を待つ人がいる。店構えも増え、店をのぞく人やそぞろ歩く人が増える。
 右手の空き店舗を改装した?「神門通りおもてなしステーション=大社観光案内所」は下るときにパンフレットなどをもらった。国の登録有形文化財に指定されている古風な「日の出館」を眺め、まんじゅうの老舗田原屋をのぞく。左の老舗竹野屋旅館はシンガーソングライターとして知られる竹内まりあの実家だそうだが、歌には疎く歌のイメージが湧いてこない。
 このあたりまで来ると人出が多くなる。右手の食事処で前述の出雲・割子そば+寿司セットを食べた。
 すぐ先が東西に抜ける国道431号線、通称神迎の道である。左に進むと神々が上陸する稲佐の浜で、神々は神迎の道を上り、出雲大社に参集するとされる。

 神門通りの正面が参道で、始まりは勢溜セイダマリと呼ばれる広場になっている。勢溜とは出陣のために軍勢が集まる場所の意味だが、かつてこのあたりに大きな芝居小屋があり、大勢が集まったことから勢溜と呼ばれるようになったそうだ。参道の始まりだから、稲佐の浜に上陸した神々が勢溜に参集した、と解釈した方が神話のイメージにあう。
 勢溜に立つ二の鳥居は杉材で、1968年の再建である(写真)。高さは9mに近く、勢溜の大鳥居と愛称される。プロポーションがよく圧倒するような感じはないが、近づくと大きさを実感できる。一礼し参道を進む。
 
 神門通りは勢溜に向かってゆるやかな上り勾配だが、勢溜からは参道が下っている。下り参道は珍しい。勢溜の大鳥居から出雲大社までは直線で500~600mだが、松林のあいだに下り参道が伸びているので、遠近感が強調される。下り参道は厳かさの演出だろう。
 右手に祓社ハラエノヤシロと呼ばれる社が建つ。祓戸ハラエド四柱ヨハシラの神が祀られていて、参拝者はここで身を清める・・お宮通りからの参拝者は神楽殿前の祓社で身を清める、というのが習わしらしい。習わしに詳しくなかったが、社に一礼し、過ぎる。
 ほどなく、石積み護岸の素鵞スガに架かった祓橋ハラエノハシと呼ばれる石橋を渡る。出雲大社の西側に流れる素鵞川がこのあたりで東に折れ、大社の東側を流れる吉野川に合流する。素鵞川と吉野川が大社の結界を形作っているようだ。祓橋で改めて気持ちをすがすがしくし、大社に向かえということであろう。

 祓橋を渡ると中央の参道は砂利敷きに変わり、進入禁止になる。参拝者は両側に分かれた石敷きの参道を歩く。松並木が参道を覆っていて、松の参道と呼ばれる。松並木保全のため進入禁止になったそうだが、神話の国らしく、松の参道は神々の渡る道と思えば厳かさを感じる。
 松林のなかに中の鳥居と呼ばれる三の鳥居が見える(写真)。鉄製だが、松林のあいだに立っているので鉄製とは気づきにくい。鳥居前で砂利敷きの松の参道に入り、一礼して石敷きの参道に戻る。

 左右の石敷きの参道は松並木が途切れたあたりで中央に合流し、石畳の広場になる。左に手水舎があり、参拝者が清めている。正面に四の鳥居が立つ(写真)。ここから出雲大社の神域である。鳥居は銅製で、銅鳥居と呼ばれる。
 一の鳥居はコンクリート、二の鳥居は木、三の鳥居は鉄、そして四の鳥居は銅だった。材料の違いにどんな意味があるかは、パンフレットにもweb情報にも記されていない。
 四の鳥居は1580年に長州藩祖毛利輝元(1553-1625)からの寄進で建てられた。当初は木造だったそうだ傷みが進み、長州藩2代藩主毛利綱広が1666年、現在に残る銅鳥居に建て替えた・・輝元は藩祖、長州藩初代は秀就・・。
 材料の違いは寄進者の選択によるようである。江戸中期の銅鳥居は歴史的価値があり、国の重要文化財に指定されている。

 銅鳥居の軸線は奥に見える拝殿の軸線とずれている。退出するとき、背中、お尻が拝殿・本殿の後ろ正面にならないようにずらすことがある、とほかの神社で聞いたことがある。出雲大社もそうした理由であろう。 銅鳥居で一礼し、境内に入る。

 境内西側は工事用パネルで囲われていた。かつて、ここには菊竹清訓氏(1928-2011)設計の庁の舎チョウノヤ(1963年竣工)が建っていたはずだ(写真、web転載)。
 庁の舎はコンクリート打ち放しで、南北両側の構造体となる壁には稲穂をモチーフにした浮き彫りが施され、南北の壁の頂部に建物を支える長さ40mの2本のプレストレストコンクリート梁をのせ、東西を八の字に開いた水平ルーバー+ガラスとした簡潔だが力強いデザインである。

 大学生のころに建築デザイン雑誌に庁の舎が紹介され、感銘というより衝撃を受けた。40mの長大な空間を柱無しで建てるため、コンクリートの梁にあらかじめ引っ張りの力を加えたピアノ線を入れておく構造法は聞いたことはあっても見るのは初めてである。
 30年ほど前、島根の研究会に出張したとき、時間のやりくりをして庁の舎を見学し、造形力を実感した。その後、築地松の調査を重ねているうち、菊竹清訓氏が稲刈り後に出雲平野に出現する大きな稲掛けに発想のヒントを得て、長大な梁、水平ルーバー、稲穂の浮き彫りのデザインになったのであろうと、確信した。

 庁の舎の向かい側、境内の東側に建つ神祜殿シンコデン(写真、30年前撮影)も菊竹清訓氏設計で1982年に竣工している。反り上がった大らかな屋根のデザインから、これは築地松民家に発想のヒントを得たと確信した。風土に根ざす建築デザインの一手法である。
 残念ながら、庁の舎は老朽化のため解体中だった。菊竹事務所のデザインで新たな庁の舎が建てられるらしい。時代は革新していく。続く(2019.12)

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