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「利休にたずねよ」斜め読み2

2023年04月16日 | 斜読
西ヲ東ト/利休切腹の前年、1590年4月11日、秀吉が小田原征伐のため箱根・湯本・早雲寺に宿営していた。かつて秀吉の茶頭だった山上宗二は秀吉の怒りに触れ大坂城を放遂されていて、利休に取りなしてもらおうと早雲寺を訪ね利休の口利きで秀吉に会うも、またも悪癖で口が滑り首をはねられる場面が描かれる・・秀吉は意に染まない者には即決で死を与えるのが性癖のようだ・・。
 
三毒の焔/織田信長の菩提を弔うため秀吉が大徳寺に総見院を建て、古渓宗陳が開山となった。秀吉が母の病気平癒の祈願を宗陳に頼むが宗陳が応えなかったため、石田三成から筑紫・太宰府に旅立つよう命じられる。
 利休切腹3年前、1588年8月19日、大徳寺を出た宗陳は京・聚楽第・利休屋敷を訪ね、二畳半で利休の茶を受ける。利休は、赤い山梔子の実(くちなし=他言無用)とともに緑釉の香合を置き、人は誰も毒をもっている、毒あればこそ生きる力が湧いてくると語る。宗陳は、利休のこころの底に毒の焔が燃えていると感じる。


北野大茶会/利休切腹の4年前、1578年10月1日、秀吉は京都・北野天満宮で1600席の盛大な茶会を開く。秀吉自慢の黄金の茶室も組み立てられた。
 大茶会仕舞い後、二人だけになった秀吉は利休に、おまえの茶は侘び、寂びと正反対、艶めいて華やか、狂おしい恋を秘めていると看破する。利休は、遠いむかしに出逢ったあの女がおのれのうちで息をしているのを感じる。


ふすべ茶の湯/利休切腹4年前の1587年6月18日、秀吉は九州征伐の本陣である筑前・八幡宮境内に利休が建てた三畳の茶室に座り、利休のこしらえる席のあくまでも自然ながら吸い寄せられる色香を感じていた。
 さかのぼって島津征伐の計画を練っていたとき、利休が島津を懐柔する手紙をしたためことで九州制圧が順調に進み、秀吉は内心、利休の敵をたらし込む緩急自在の巧みさに感心した。
 秀吉が変わった趣向で茶を飲みたいと利休に言い、利休は箱崎の浜辺の松の木陰に緋色の毛氈を広げ、虎の皮を敷いて薄茶を点てたとき、秀吉に緑釉の香合を見られてしまう。秀吉が黄金千枚を出すと言うが、利休は茶のこころを教えてくれた恩義のある方の形見と首を振らない。
 ・・時間軸をさかのぼりながら利休切腹の核心が明らかにされていく。山本氏の筆裁きは巧みである・・。


黄金の茶室/利休切腹5年前の1586年1月16日、京・内裏・小御所に利休が秀吉のために黄金の茶室を組み立てる。
 黄金と鮮烈な緋色の取り合わせはあまりにも官能的である。利休の侘び、寂びの草庵とは対極にあるようだが、利休の草庵は、侘びた枯(からび)のなかにある燃えたつ命の美しさを愛した結果である。利休は、こころの底に暗く深い穴があいていて、そこから吹いてくる風で狂おしく身悶えてきた。利休は、秀吉の命を受けたとき、あの女の白い肌こそ黄金と緋色に映えてさぞや美しかろうと、黄金の茶室を考案したのである。


白い手/利休切腹6年前の1585年11月、京・堀川一条で聚楽第に飾る魔除けの瓦を焼く職人・あめや長次郎を宗易=利休が訪ね、毅然として気品があり、掌になじみ、こころに溶け込んでくる茶碗を頼む。長次郎がなんども粘土をひねり、なんど捏ねても命のこもった茶碗ができない。
 宗易は、緑釉の香合からみずみずしい潤いのある桜色の爪を出して長次郎に見せ、長次郎はその爪から白い指、白い手のすがたを思い浮かべ、茶碗を完成させる。宗易は長次郎に、桜色の爪の女に茶を飲ませたい、それだけを考えて茶の湯に精進してきたと話す。
 ・・ついに利休の草庵の茶の原点が明かされる・・。


待つ/利休切腹9年前、1582年11月7日、秀吉は明智光秀を討ち、織田信長の葬儀を終え、山崎・宝積寺城に陣を構え、柴田勝家との決戦を前に天下統一の瀬戸際と苛立っていた。
 宗易=利休は2畳、竹格子の窓、潜り戸(躙り口)の茶室・待庵を作り、秀吉を招く。宗易は、すぐそこに天下が転がっている、秀吉に天下を取ってもらおうと、あらかじめ筵で覆い育てておいた季節外れの筍を出す。珍味に気分をほぐした秀吉は宗易に、筍を騙すほどの極めつきの悪人、と声をかける。
 ・・勘のいい秀吉は宗易=利休の気遣いの裏にある知略に気づいたようだ・・。


名物狩りでは将軍足利義昭をかついで上洛し、機内を席巻した37歳の織田信長が、堺衆に矢銭二万貫を要求し、名物の茶道具を並べさせて目利きをする。49歳の宗易=利休は信長の器量の大きさに驚き、近づいて損はないと思う。
 妾宅である宗恩の家でくつろいでいる宗易に、顔なじみの今井宗久、津田宗及が訪ねてきて、信長が南蛮の女を所望、そんな妙案は宗易しか考えつかないと頼み込む。
 宗易は甘美で妖艶な香りの満ちた閨房をしつらえ、高麗の女に韓紅花の着物を着せ、高麗のことばで美しいを意味するアルムダプッタと声をかけて安心させる。
 信長は大いに満足し、翌朝、宗易の点てた茶を飲みながら、おまえはよほどの悪人、若いころに海賊をしただろうと話す。それを聞いた宗易は、堺の浜の小部屋の攫われてきた女の命の美しさの記憶が、年とともにこころのなかで艶やかさを増しているのに気づく。


もうひとりの女/千与四郎=宗易=利休の家は堺・今井町で干し魚、納屋貸しを営む大きな問丸で、大勢の奉公人が住み込みで働く。宗易34歳の1555年6月、妻たえは夫与四郎が茶の湯の帰りに若後家の宗恩の家に寄ったまま帰らないことに腹を立て、宗恩の家に出かけると宗恩は夜明け前に帰ったと言う。
 もう一人の妾のおちょうに確かめると、おちょうは6月のよく晴れた朝は浜の納屋に一人でいることが多いと言い、宗恩も同意し、木槿が咲いたからと付け加える。
 たえが浜の古びた納屋に行くと、小さな納屋のなかで与四郎が白い木槿の花を前に、薄茶を点てた高麗茶碗を置き、木槿の花に高麗のことばで美しいを意味するアルムダプッタと声をかけていた。
 ・・高麗の言葉、高麗茶碗、木槿の花が出そろい、終盤に向かう・・。
 
紹鷗の招き/武野紹鷗は堺会合衆筆頭格の大分限である。紹鷗は、阿波を地盤とし飛ぶ鳥を落とす勢いの三好長慶からの注文で高麗の王家の姫を買い、武野屋敷の土蔵は茶室を造るため壊してしまったので、千与四郎の父・魚屋千与兵衛の土蔵に匿わせた。
 武野紹鴎は茶の湯の名人として名高く、名物道具を多数所持し、新しく茶室を建てたばかりである。19歳の与四郎も茶の湯の数寄者で、紹鷗から佗茶を学びたいとなんども訪ねていて、紹鷗も与四郎の才を認めていた。
 1540年6月、与四郎は土蔵に匿われた高麗の女と逐電する。紹鷗は、三好長慶からの注文で買った高麗女を連れて出奔するとは与四郎はまことの茶人と思う。


は、息をつかさない勢いで語られる与四郎と高麗の高貴な女の逃亡劇であり、緑釉の香合、寂び枯れた草庵の謎の原点である。読んでのお楽しみに。


夢のあとさき/1951年2月28日、京・聚楽第・利休屋敷・一畳半、切腹した利休に宗恩がかけた白の小袖に鮮血の赤がひろがる。宗恩は床に置いてあった緑釉の香合に気づき、香合を石灯籠に投げつけ粉々に砕けた、で幕となる。
 秀吉の所望を断り切腹の一因となった緑釉の香合を秀吉に渡すぐらいなら利休に代わり宗恩が粉々に砕いた、と考えてもいいが、利休のこころの奥に生き続けていた高麗の女の形見を利休の死に添わせようと宗恩が粉々に砕いた、と思いたい。


 利休の侘び寂び、一畳半の茶室の創意に高麗の女を登場させたユニークな視点の物語に引き込まれた。女の形見である緑釉の香合を切腹の理由にからめたのもユニークである。利休、秀吉が中心だが、秀吉が天下を取るころの歴史のせいりにもなった。 
(2023.4)

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