2018.3 岐阜城を歩く ②
2018年3月3日・土曜、6時ごろ起きる。長良川沿いは犬の散歩、ジョギングの人がちらほら通るだけで、まだ静かである。
宿の湯処は夜半で男・女が入れ替わるので、湯処・川の音に入った。内湯はシルキーバス、薬草湯で湯処・川の瀬と同じだが、露天は木曽石を使った浴槽が長良川に向かって伸び出していて、確かにせせらぎが聞こえてきそうだった。石組みに野趣味を感じるが、川の瀬の蔵の湯には及ばないかな。
朝食後、キャリーバッグをフロント預け、フロントで教えてもらった近道で金華山ロープウエイ乗り場に向かった。
しばらく歩くといかにも中国の伝統的な構えを見せる杭州門が正面に見えた(写真、web転載、後報ホームページ参照)。奥は日中友好公園で西湖を模した庭園が見える。岐阜市と杭州市の友好都市10周年を記念に整備されたそうだが、芭蕉の瀟湘八景、西湖十景にちなんで西湖を模したのだろうか。
左に杭州門を見ながら右に折れると、ロボットの顔のように見える水門が現れる(写真、web転載、後報ホームページ参照)。四角い土木構築物よりは記憶に残る。土木施設もデザインに工夫を凝らすと身近に感じられるはずだ。
その先のらせんのスロープ+階段を上り、歩道橋を渡った先が岐阜公園で、坂道の上にロープウエイ乗り場があるらしい。途中、地図には岐阜城楽市楽座、山内一豊・千代婚礼の地モニュメントが書かれていたがどちらも見流した。
「楽市楽座」は、16世紀、それまで商工業者が市座株などと呼ばれる独占的な販売権を握っていたのに対し、市場を自由取引にし経済の活性化を図ったシステムである。楽とはこの場合、自由取引を意味する。
織田信長(1534-1582)も岐阜城下で楽市楽座を積極的に進めたから岐阜城楽市楽座も間違いではないが、楽市楽座は織田信長以前から始まっていたし、豊臣秀吉はさらに積極的自由取引を推奨したから、岐阜に限られていない。物産館?観光案内所?の愛称として付けられたようだ。
山内一豊(1546-1605)は尾張の出身で、家老だった父が戦死?したあと何人かの主君に仕えたのち、信長配下になる。司馬遼太郎著「功名が辻」(book450)第1巻には、織田信長が清洲城から岐阜城に本拠を移すときに、ぼろを着た馬廻役50石として一豊が登場する。
ほどなく岐阜城下に居を構え、一豊の妻で有名な千代と結婚するから、岐阜城下に結婚の地モニュメントがあっても間違いではない。
しかし、千代の進言で藤吉郎の配下になり、千代が秀吉の長浜城を予見して長浜に居を移し、その後、家康に仕え高知城主へと出世していく。一豊・千代の人生を考えると、岐阜城下の暮らしは短く、武士としては駆け出しである。そのせいかモニュメントは簡素だった。
標高329mの金華山はかなり急峻な山である。飛騨の山あいから長良川が濃尾平野に流れ出るあたりが現岐阜で、金華山は山並みの外れ、平野の始まりに位置する。岐阜の旧名は井ノ口で、地名が地形を物語っている。
金華山頂から遠望すると、東に恵那山、木曽の山々、北に日本アルプス、西~南に揖斐川・木曽川・長良川流域の濃尾平野、はるか西に伊吹山鈴鹿山系で、金華山は平野を見下ろす鉄壁の守りの立地であることが分かる。
岐阜城を学習する。鉄壁の守りに目を付け、鎌倉時代の1201年、二階堂氏が山頂に砦を築く。二階堂氏は稲葉氏と改称したので、金華山はそのころ稲葉山と呼ばれた。
砦はその後放置され、室町時代の15世紀中ごろ、斉藤家が城を築き、居城とした。1533年、のちの守護斎藤道三(1494?-1556)が稲葉山城主となる。1547年、美濃進出を目指して、信長の父・織田信秀が稲葉山城に攻め込むが大敗する。
織田信長が那古屋城主だったころで・・2018.3名古屋城を歩く参照・・、美濃攻略が難しいと考えた信長は斎藤道三と和睦し、1548年、道三の娘濃姫と結婚する。いわゆる政略結婚である。
1555年、信長は尾張の中心に位置する清洲城主織田信友を攻め落とし、清洲城に移る。1556年、道三は息子義龍との戦いで敗死・・戦国時代、親子、兄弟、肉親の戦いは珍しくなかった・・、信長は応援に駆けつけるが退却する。
1560年、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破る。勢いに乗った信長は、父を敗死させて稲葉山城主になっていた義龍が急死し息子が後を継いだ期を狙って、1561年、稲葉山城を攻めるが、敗退する。それほど稲葉山城は難攻不落ということのようだ。
1563年、信長は美濃攻略のため、小牧山城を築き、本拠を移す。信長は美濃各地を攻め、1567年、ついに稲葉山城を手に入れ、本拠を移す。それまで井ノ口と呼ばれていたが岐阜と改め、稲葉山城も岐阜城と改称した。
だから、「岐阜」は信長に始まったのである。
信長は天下統一を目指して、1575年、安土城に移り、岐阜城は嫡男信忠が城主となる。1582年の本能寺の変以降、岐阜城主は次々と変わったが、関ヶ原の戦いで西軍に付き、1600年、落城する。
徳川家康は、1601年、岐阜城を廃城とし、天守、櫓、石垣までも移築し、稲葉山を立ち入り禁止としたそうだ。
明治43年1910年、木造で岐阜城天守が再建され、1943年、火災で焼失する。1956年、鉄筋コンクリート造3層4階の天守閣が再建され、1975年、隅櫓が完成した(写真、天守閣)。
絵図などの資料が少ないから、ほかの城を参考に再建したので、復元にはほど遠いらしい。稲葉山は明治に入ってから金華山と呼ばれるようになったそうだが、根拠は不明である。続く
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