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2008「済南・青島のドイツのまちづくり比較」=かつての中国・山東の中心・済南では清・独折衷デザイン

2017年05月15日 | studywork

2008 「済南との比較を通してみた中国・青島旧市街にみられるドイツのまちづくり」 日本建築学会中国大会

1 はじめに 
 1897年、中国の膠州湾に侵攻したドイツは、翌1898年に独清条約を締結し、膠州湾一帯551k㎡の99年租借とともに、青島-済南430kmおよび鉱山のある博山までの支線40kmの鉄道敷設、ならびに鉄道沿線15km以内の採掘権を獲得した。膠州湾では、それまで漁業を営む寒村であった青島が本拠とされ、原野を新たに開発する都市計画が実施された(詳しくは、2005年度、2006年度、2007年度日本建築学会大会学術講演梗概集参照)。
 一方、済南は、いまから2600年も昔に城郭がたてられたのが始まりとされ、以降、山東における政治、経済、文化の中心地として、戦国時代には食塩の集散地となるなど交易の中心地として栄えた歴史をもつ。そのため、ドイツは済南旧市街の北側に鉄道を敷設し、済南駅は旧市街西はずれに、新たな街区は旧市街の西、駅の南に計画された。応じて、済南新旧市街に近代建築が建てられ始めた。ドイツは1914年に撤退し、代わって日本が青島に進駐するため、ドイツによる都市建設は中断する。本稿は、1897-1914年の済南、青島のドイツによる都市建設を比較し、青島の都市計画の特徴を見いだすことを目的とする。青島の現地調査は2004・2005・2006・2007年の夏期・春季に、済南の現地調査は1999年5月、2007年9月に行った。
2 済南・青島の街区構成 
 済南の近代建築を綿密に調査した資料として「中国近代建築総覧・済南編」(中国建築工業出版社1996年2月)がある。主編は中国近代建築史研究会・日本亜細亜近代建築史研究会で、日本側は藤森照信氏、村松伸氏、大田省一氏である。これには、127の近代建築が、分布図とともに、写真、および現 ・旧名称、住所、構造、階数、設計年・竣工年、設計者・施工者などが収録されている。図1は、資料に記載の分布図に、設計年または竣工年がドイツ占領期にあたる建築を抜き出し記載した図である。この図と、08年度に報告した図2・1918年における青島の街区構成とドイツ建築の分布を見比べると以下のことが推察できる。

 ①済南では歴史のある旧市街がすでに形成されているため、旧市街の西方に新街区が計画され、旧市街の東にも建築が建てられた。
 ②青島では海沿いのドイツ人居住区、中山路北東の中国人街区、駅~中山路のあいだの商業区と地域的な性格付けがみられるが、済南の新街区には後述のドイツ建築の種別を含め、地域的な性格付けは
うかがえない。とりわけ、青島の中国人街区に相当する街区は、既存の中国人の都市にドイツが進駐するということもあって、済南には存在しない。
 ③青島の街区構成は格子状グリッドを基本にするが、済南ではT字・食い違いの通りや斜めの通りがあり、不整形な街区構成になっている。

 これは、既存の街区構成に新たな開発をすりあわせたことも一因であろうが、ドイツ人による都市計画が青島に集中していて済南ではドイツ人の指導を受けた中国人が主体的に都市計画を進めたのではないか、あるいはドイツ撤退後に都市改造が行われたのではないか、と考えられる。言い換えれば、青島の旧市街、とりわけ中国人街区は、中国におけるドイツの都市構想の貴重な遺構である。

3 済南・青島のドイツ建築 

  「中国近代建築総覧・済南編」をもとに、設計年または竣工年の分かる主なドイツ建築28棟を年代順に整理すると、現中国工商銀行(元銀行1901・写真1)、現済南市人民政府機関(元徳国領事館1901・写真2)、現済南市鉄路局(元府邸1909・写真3)、現洪家楼天主堂(元天主教堂1909・写真4)、現山東医科大学医院食堂(元教堂1909・写真5)、現山東医科大学医院管理棟(元宿舎1911・写真6)ほかとなる。建築種別は、銀行、徳国領事館、住宅、別荘、鉄道駅、教堂、病院など、生活に関連した施設が多く、ホテルや商業建築、事務所建築、軍事関係、政府関係はみられない。建物の配置も、現山東医科大学、鉄道駅周辺、新街区の大通り(現経二路)周辺、西方の天主堂周辺に集中する。
 設計者をみると、ほとんどが不詳となっており、中国人名を除いては、洪家楼天主堂および陳家楼天主堂にCorbinian Panggerの名がみられるだけである。写真6に顕著にみられるように青島のドイツ建築とはかけ離れた外観も少なくなく、済南では中国人の設計、施工が中心で、その結果、清+独の折衷デザインが採り入れられたと考えられる。また、済南の冬はかなり厳しいそうで、山東医科大学ではコロニアルスタイルや列柱の回廊は壁で塞いだそうで、同様にドイツ建築のスタイルが改変されている事例もみられる。加えて、済南火車駅(1909)が解体されるなど、都市発展や老朽化によりドイツ建築が失われつつある。
 対して、青島では、ホテル、商業建築、住宅、集合住宅をはじめ、徳国海軍大楼(1899)、青島火車駅(1901・写真7)、徳国郵政局(1902)、徳国警察(1905)、総督府(1906・写真8)、総督官邸(1907・写真9)、基督教福音堂(1910・写真10)、さらに英国領事館(1907)、美国領事館(1912、)膠州法院(1914)など、ドイツ租界地としての行政機能を軸に軍事機能、都市機能を支える建築が多岐にわたって建設されている。その配置も、総督府を中軸とした法院・領事館などの建築群、海沿いのホテル・銀行・郵政局などの建築群、中山路沿いの銀行・商業施設などの建築群、青島火車駅周辺のホテル、警察などの建築群、中国人街区の中庭型集合住宅群とそれぞれの地区の性格付けを反映しつつ、特徴的な景観がつくり出されている。
 このことは、青島が中国におけるドイツの本拠地として、基本的な機能を備えた都市として計画されたことをうかがわせる。青島のドイツ建築の外観(写真7~10)も進駐した中国への偉容を誇り、あるいは当時のドイツの最先端のデザインであるゼツェッションなどを採り入れた国威を見せる表現がうかがえる。加えて、これらの建築が街区構成とともによく保全されていることも青島の特徴
である。

4 おわりに
  済南の街区構成、ドイツ建築と比べ、青島では、都市としての基本的な機能がそれぞれの性格付けを反映した街区として計画され、それぞれに特徴的な外観の建築群が建てられていて、しかも街区構成、ドイツ建築が、ドイツ撤退後の日本占領期、近代中国期を経るなかでよく保全されてきた。とりわけ、中国人街区は、済南にもみられず、ドイツの中国における都市構想を示す貴重な遺構である。現代の中国では急速な都市発展が進められ、青島でも一部の街区構成、ドイツ建築が失われているが、一方、青島火車駅が鉄道再開発にもかかわらず保全され、総督官邸が迎賓館として活用されるなど、保全活用の気運は決して低くない。中国人街区をはじめ、ドイツの都市構想の遺構のいっそうの保全活用を期待する。

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