よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

長崎街道を歩いています№9(武雄・高橋~牛津宿)

2011-04-09 14:49:29 | 長崎街道歩き
3月27日長崎街道(武雄・高橋~牛津宿)約25kmを歩きました。
福岡を7時15分に出発し、途中小城に立ち寄り武雄温泉駅に着いたのが9時10分。
車を駅に置き、ここから前回ゴール地の高橋駅まで歩きます。

高橋駅に着いたのが9時45分。
ここから今回の街道歩きのスタートです。

この街道歩きには、前からGPSが必要だなと思っていろいろ探してみると値段も
手ごろでGPSウオッチというのを見つけ出し今回初めてこれをつけての街道歩きです。
それと、前回道を間違えたので今回は事前にコースをチェックし特に曲がり角などには
蛍光ペンで印を入れていました。

今回の歩行GPS

【北方宿】
長崎自動車道の高架を通り過ぎると北方宿に入ってきます。
民家の前に追分石が立っています。
もう古くて読めませんが、多分「さが」「たけお」「いまり」と書いてあるんでしょう。

この北方は、合併により武雄市に入っていますが元々は杵島郡でした。
杵島郡というと真っ先に思い出すのが「杵島炭鉱」。
炭鉱絵馬が奉納されていると聞いて「大崎八幡宮」へ。
本殿に入ると神事が行われているのか中には入れませんでした。
本殿の外から見てみると炭鉱絵馬がありません。
天井絵は、十二支が書かれていました。


北方宿本陣は、この八幡宮から少し入った所にありました。
江戸時代、旅人は旅籠がある塚原宿に泊まり北方宿は通過するだけの宿場でした。
本陣は天保10年に建てられ伊能忠敬も宿泊した記録があります。
北方は、国道から少し外れているのでしょうか、古い家が立ち並んでいます。
木ノ元集落に着きました。
左手に「稲主神社」があります。
五穀豊穣を願ったのか、境内の狛犬の所に俵の石碑が建っています。

木ノ元神社を過ぎると今はトタンで覆われていますが、藁葺きの屋根があります。
何か、昭和半ばにタイムスリップしたような感です。

しばらく街道を歩いていると石楠花の寺・高野寺という看板がありちょっと覗いて
みたくなり街道を離れる。残念ながら石楠花はまだ咲いてなく4月中旬ぐらいに
なろうという住職さんの話。諦め再び街道へ。

「追分」という信号に出てきた。
ここから「塩田」と別れる。
長崎街道は、昔は塩田を通るルートだったが、塩田は、川の氾濫が多く、いつの間にか
武雄のルートが定着した。

「焼米宿」という説明看板がある。近くには、焼米溜池もある。
長崎街道25宿には入っていない。
説明文を読んでみると
「船運みにも恵まれた船津で上使屋はなく、旅籠、船宿があって酒屋、茶屋、味噌、
醤油などの日用雑貨店がある庶民の宿場だった。
寛政12年(1800)鍋島治茂公は、白石地方の新田が開発され灌漑用水、干害防止を
兼ねた焼米溜池を築造させた。」

因みに「焼米」という地名は、武内宿禰が来たとき住民達が焼き米を
献上したからとか?
また、「武雄」の名は武内宿禰のお父さんの名「武雄」からとったとか。

「福母地蔵」を通り、大町町役場近くに来ると「土井家住宅」の看板がある。
「土井家住宅」は、19世紀初頭から江戸末期まで造り酒屋だった。
明治初期農家の土井家の所有になった。国の重要文化財になっている。

このあたりは、昔の大きな家が多い。
また、赤レンガの倉庫など歩いていて楽しむことが出来る。

また、お地蔵様も赤レンガで囲われている。

【小田宿】
「小田宿」に入ってきた。
街道の家々には「小田宿」の旗を立てている。民家の玄関先には「千切り大根」に
するためであろうか、切った大根を干してある。

「横辺田代官所跡」がある。
説明文によると
「文明15年(1483)肥前の国主藤原朝臣家兼公が現在の砥川町、江北町、大町町、
北方町の六角川北岸の北郷地域を総称して横辺田と称し領有したことに始まる。
享和元年(1801)に佐嘉本藩の直轄地として藩主鍋島治茂公(第8代)が七代官所の
一つに入れ明治9年(1876)に廃止されるまでの172年間横辺田、東郷、白石中郷、
南郷、六角郷、橋下郷、成瀬郷、北方郷、塩田郷、吉田郷、嬉野郷、能古見郷、
七浦郷、須古郷、など15の郷を嘉永2年(1849)には諫早代官所の所轄地域も
横辺田代官所に合併されて民政の安定と課役を司り行政所轄の中心所在地であった。」

現在は、何も無く、大きな椋の木が植えられている。

「馬頭観音」に着いた。
奈良時代の天平9年(739)僧行基がこの地に居た豪族親娘の情愛や孝行話に感動して
かつては海辺にあった大楠に馬頭観音様を彫りあわせて人馬の安全と健康を守る為
祈願したといわれる。
然し、江戸時代の嘉永4年(1851)側の観音堂が火災に合い楠樹に延焼し、観音像は
難を免れたが焼け跡から風化腐朽を早め現在は尊像をみることはできない。

観音堂に行ってみると天井には馬の絵がたくさん描かれていた。

小田宿は、各民家の軒先に「小田宿」の旗を立ててある。
これも町おこしの一環だろうか?
民家の玄関先にはビオラがきれいに咲いていた。
歩きつかれた私達を和ませてくれる。



小田宿追分石跡のあった「中島商店」に差し掛かった。
河島さんの地図ではここを右折と書いてある。
この中島商店の家も大きい。昔は商家だったのだろうか?
尚、この追分石、現在は江北中学校に移設されています。


街道は田園地帯になった。
今日は、天気がよく、私のDバックの後につけた「鯉のぼり」が勢いよく泳いでいる。
街道歩きの先輩のRさんが鯉のぼりをつけて「東海道」を歩かれたので私も真似して
鯉のぼりをつけて歩いている。

「朝鍋宿」というバス停に差し掛かった。朝鍋宿は、この街道の宿場町にない。
説明文もないので帰ってネットで調べるがわからなかった。

街道は、JR肥前山口駅に着いた。
前回の街道歩きはここを終点にしていたのだが道を間違えたりして来れなかった。
今回は、事前にコースを予習していたからここまで間違えなく歩いている。

「カンカン石」という所にやってきた。
そこに置いてある小石でこの石を叩くと「カンカン」という音がする。
面白いので何回かやってみる。端の方を叩くとならない。真ん中あたりで音が
しているみたいだ。この石、磁鉄を含んでいるのでこんな音がするそうだ。


【牛津宿】
六角川を渡ると牛津に着いた。
昔、牛津は小城郡の中に入っていたが、2005年旧小城郡の小城、三日月、牛津、
芦刈の4町が合併し新しく「小城市」になった。人口約46000人。
牛津は長崎街道沿いの宿場町「牛津宿」として、また有明海に面した港町で
西の浪花と呼ばれるほど商人の町として栄えた。小城支藩の米、佐賀の物流を
扱う卸問屋が集まったので賑わい「港には百石船が目白押し」といわれていた。
牛津のことを歌ったものに「一(市)は、高橋、二(荷)は牛津」
「牛津 津でもち 駅でもち 町の栄えは店でもつ」というのがあった。
物資は有明海から牛津川をさかのぼる船によって運ばれました。

牛津駅にある長崎街道銅板。当時の牛津宿のことが描かれている。

牛津駅構内

時計を見ると午後4時。今日の街道歩きはここまでとするが
武雄まで戻る電車を見ると少し時間があったので駅の裏にある「旧田中丸邸」に
行くことにする。
「旧田中丸邸」は、現在牛津会館、赤レンガ会館になっているが、
田中丸氏は牛津商人の代表格で三代目田中丸善蔵氏は、日清戦争で財をなし
佐世保に玉屋デパートを創業した人です。
玉屋デパートは全盛期には、小倉、博多、佐賀、長崎、佐世保、伊万里と
店舗があった。
その田中丸さんの自宅が「牛津会館」倉庫が「赤レンガ館」になっている。

この田中丸邸を見学したらちょうど帰りの電車の時間迫ってきた。(次回続き)


  ※本日の交通費  駐車場代(武雄駅)400円
           牛津~武雄JR  360円
























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