よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

奥州街道➆3日目「越堀宿~芦野宿~白坂宿」(栃木県那須町~福島県白河市)

2022-04-19 19:57:44 | 奥州街道(奥州道中)

【越堀宿~芦野宿~白坂宿】

夫婦石 説明文によると、 「今から数百年前、戦国の世に1組の男女あり 敵に追われ、この地に逃げ来り あたりは一面の芦の茂みにて身を隠す処無く ふと見ると、其の中に大きな石があり
男は女を抱えて此の巨岩の割れ目に身を隠した。その時、追手は此の石のそばに来た。すると白蛇が2匹現れ巨大な石がゆれ動くのを見て、恐れおののき逃げ帰った」とのこと
二人はこのお石様のおかげで命を救われ、この地に住みつき、二人仲良く田畑を耕して暮らしたと言う。時代の移り変わりとともにこの地に二人が住み誰言うとなく、見落石が、「めおと石」となり、そして何時の頃からか、この石をご神体・夫婦石として祀り縁結びの夫婦石神社となったとか。

 

夫婦石の一里塚 江戸日本橋より43里(約172km)

 

芦野宿に入りました。芦野宿の都市的な発生は天文年間(1532~1555年)又は天正18年(1590)に領主である芦野氏が居城である芦野城を築いた際にその城下町として計画されたのを

起源としています。芦野家は那須地方を領した那須家の一族で那須資忠の4男資方が当地に配され、地名に因み芦野氏を称し芦野氏を祖として長く那須家に仕え那須七騎に数えられていました。

戦国時代末期になると那須宗家が弱体化したを機に独立を図り、天正18年(1590)の小田原の役では当時の当主芦野盛泰は逸早く参陣し豊臣秀吉に謁見した事で領地を安堵されています。

一方、宗家那須家は参陣しなかった事で改易となり、那須地方は領土を安堵された那須一族が分割して統治する事になりました。さらに、芦野家は慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には

東軍に与して行動した事により3千石に加増され交代寄合の旗本に格付けされました。交代寄合旗本は参勤交代が義務付けられる一方で、城郭を持つ事が許されなかった事から居城だった

芦野城を廃城とし、二ノ丸があった場所に新しく陣屋を構え明治維新まで当地を支配しました。

陣屋町に奥州街道を引き込む事で宿場町(芦野宿)としても整備し、天保14年の奥州道中大概帳によると、家数168軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、宿場人口350人

(男160人、女190人)と下野国(栃木県)にある奥州街道の宿場町として大きい方の部類でした。

芦野宿の主要道の中央には用水用の水路が設けられ、宿場の出入口は枡形状に鍵型になっていいました。現在でも、芦野宿には旧武家屋敷だった平久江家住宅(那須町指定文化財)や

陣屋の裏門(那須町指定文化財)、芦野家歴代の菩提寺である建中寺(芦野氏歴代の墓は那須町指定史跡)、日本三所聖天に数えられる三光寺、芦野家の崇敬社である健武山湯泉神社

(御神木である大杉は栃木県指定天然記念物)などの史跡が点在し宿場町らしい町並みも僅かに見られます。又、郊外には歌枕にもなり松尾芭蕉が「奥の細道」でも訪れた「遊行柳」があり

文人墨客も芦野宿を利用しています。

  

民家の玄関先には、昔の屋号が常夜灯のように付けられています。

 

丁子屋は、昔は旅籠でしたが、今は、ウナギ料理で有名なお店で、奥には、安達家蔵座敷が残されています。この蔵座敷は、身分の高い武士や旅人が宿泊する際、火災や外敵から守るという

安全を考えて造られています。

  

  

芦野宿の本陣跡は、「ストーンプラザ」という石の美術館になっていました。設計は、世界的に活躍されている隈研吾氏で那須山が噴火してできた芦野石が使われています。

 

先を進むと国道294号線に合流します。合流したところに産直店があったのでそこでおにぎりを買い昼食にします。

 

この産直店の近くに松尾芭蕉が訪れた「遊行柳」があります。

遊行柳は古くから歌枕の地として知られ、平安時代後期の歌人西行法師は「新古今集、山家集」の中で「道のべに 清水流るるや柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」との和歌を詠んでいます。

案内板によると「諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るる柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊話上人が当地方巡行時、柳の精が老翁となって現れ上人から

十念と念仏礼を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲にに作られ、又種々の紀行文に現れ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。

老樹巨木崇拝仏殿史的発掘、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。那須町教育委員会 」とあります。室町時代後期には観世信光が西行法師の和歌を題材として上記の案内板のような

内容の謡曲「遊行柳」を創作しています。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の際、那須温泉にある「殺生石」の後に訪れたのが、この「遊行柳」で、

田一枚 植て立去る 柳かな」の句を残しています。松尾芭蕉は西行法師を敬愛しており、「奥の細道」も西行法師の旧跡を訪ねるといった側面もあります。

芦野宿の領主である芦野民部資俊は俳号を桃酔という俳人で、松尾芭蕉の門人、江戸蕉門の1人でもあり、芭蕉には自分の領地である芦野宿にある西行法師の縁の「遊行柳」をぜひ見せたいと

懇願していたとされます。根元に建立されている芭蕉句碑は寛政11年(1799)に江戸の俳人である井上春蟻が建立したもので句碑には芭蕉が詠んだ「田一枚 植て立去る 柳かな」の句と

「江戸 春蟻建立」が刻み込まれています。江戸時代中期には与謝蕪村も訪れており「柳散り 清水涸れ石 ところどころ」の句を残しています。「遊行柳」は謡曲の題材となり西行法師、

松尾芭蕉、与謝蕪村の縁の地として貴重な事から那須町指定史跡に指定されています。

遊行とは、全国を行脚する僧のことで時宗では最高位の僧のことを遊行上人といい、遊行柳は、時宗との関わりからの呼称です。箱根駅伝の難所の藤沢の遊行寺とも関係します。

 

諭農の碑 板屋(いたや)の国道294(旧奥州街道)の坂の途中西側に建っています。嘉永元年(1848)4月建立で、撰文は芦野の戸村忠熙恕(とむらただひろ)によるものです。

碑は芦野石で高さ170㎝・幅は80㎝ほどの板状で、正面に磨いた面に字を彫りこんでいます。

碑に刻まれている文字は、全文約700字からなっています。碑文の主な内容は農民に農耕上の指導を具体的に述べています。病虫害の駆除から予防、米の保存法、饑饉(ききん)に備えての貯米・

貯穀、饑饉の時の食物栽培、食物の製法、ひもじい人への看護と食事の与え方にまで及んでいます。

 

 

 

寄居に来ました。寄居は、芦野宿と白坂宿の間の宿です。

「松本家」は、問屋を勤め、寄居西組の名主を兼ねました。「大島家」は、茶屋本陣を勤め、寄居町組の名主を兼ねました。大島家は今はだれもいないようです。

 

  

福島県との県境に来ました。県境を挟んで栃木側は「境の明神(玉津島神社)」です(女神)。天喜元年(1053)4月紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請した峠神で寄居の総鎮守でした。

 

  

福島側の境の明神は、「住吉神社」です(男神)。文禄4年(1595)白河を支配していた会津蒲生氏の創建。現存する小祠は、弘化元年(1844)の建立。境内には、芭蕉の句碑

「風流のはじめや奥の田植え唄」があります。

  

 

白河二所之関址 

白河の関は古くから二所ノ関と呼ばれ、八溝準平原の中を横断する奥州路はここで道を幾通りにも選べるのである。白河楽翁公により指定された今の旗宿道は其の一本である。然しこれより西側三キロの所を通っている白坂道は昔からよく利用され、古の関蹟にみられる関の男女の明神址があり、古関の体裁をもっともよく保ちながら、白坂の関址は全く無視されて来た。余、多年関境の研究に没頭し、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に祈念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものである。

  昭和五十七年五月建立
  理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三
  白河関守 石井浩然

ここには、「お休所南部屋七兵衛」がありました。八戸藩主南部直房が参勤の度に「境の明神」に詣でた後、この茶屋で名物の「千台餅」を賞味したことから「南部屋」と称しました。

尚、大相撲の二所ノ関部屋は、この白河の二所ノ関に起因します。

 

 

白坂宿は、下野国(栃木県)と陸奥国(福島県他)の国境の陸奥側に設けられた最初の宿場町で、近くには金売吉次の墓(八幡神社境内)があります。金売吉次は金山の開発により莫大な利益を

得た大商人で、源義経を奥州平泉の藤原秀衡の元まで送りと届けたという伝説の人物です。全国には金売吉次の墓が点在しそれに纏わる多くの伝説が残されています。

国境には下野国と陸奥国の両側に「境の明神」が勧請され境界の守護神として旅人の道中安全が祈願され、周囲には「境界石」や番所が設けられていました。さらに下がった所には弘法大師や

松尾芭蕉が喉を潤したと伝わる「衣がえの清水」や「戊辰戦役大垣藩士戦死之所」などの史跡が点在して白坂宿に入ります。松尾芭蕉は奥の細道の際、奥州街道を北上し、ここから分岐して

古代の関所で歌枕の地である白河の関に向っています。白坂宿は天正18年(1590)小田原の役の後に行われた奥州仕置きの際、豊臣秀吉が伊達政宗に命じて開かされたのが集落としての

始まりとされ、奥州街道が正式に開削すると宿場町として整備されました。江戸時代後期に本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、家屋71軒、人口289人(男139人、女150人)と

白河城下に近かった事から大きくは発展しなかったようです。本陣は代々白坂周右衛門が問屋も兼ねてその役を担い、菩提寺である観音寺も宿場内に境内を構えています。

   

 

 

駆け足だったけど、大田原宿~白坂宿まで約35km車で走りました。歩きだったらこの区間交通の便が悪いので3日はかかっていたと思います。

明日は、白坂宿~白河宿を歩きます。

 

 


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