1/3 今年の初歩きとして長崎街道「直方~黒崎」まで歩きました。
博多駅発7時27分の電車に乗り直方駅に着いたのが8時40分。
私、今年まだ初詣には行っていません。
今回は初詣を兼ねてのウオーキングです。
先ず直方駅近くの「多賀神社」へ。
多賀神社は、黒田直方藩5万石の産土神として栄え祭神は天照大神の両親のイザナギノミコト、
イザナミノミコトです。ご利益は「家内安全、夫婦円満」だそうで家内としっかりお参りしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/99/807efcb7041d086526a9c6ae9bbdf10d.jpg)
多賀神社の横には石炭博物館があります。
館内は正月休みの為入ることが出来ませんでしたが、石炭全盛期の機関車などが展示されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/05/580c3bf4f72be2feddaae6224ccd1df4.jpg)
参拝の後、街道歩きに出発します。
遠賀川にかかる日の出大橋を渡り左折します。
今日は朝、寒かったので防寒着、手袋を付けてのウオーキングですが、遠賀川からの
風が強く冷たく吹いてきて寒いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/5e/8ec6b2574762e389d5672b9d10d3f80e.jpg)
30分ぐらい歩くと感田「阿高神社」に到着しました。
ここでもお参りします。
この神社の横には筑豊電鉄の「感田駅(がんだ)」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/96/1c65dbe0d8c167557f95c27929c596e8.jpg)
又街道は川沿いに歩きます。
この道路、歩道もガードレールもなく対向する車に注意しながら歩かなくてはいけません。
約1時間後、「木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。
この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/9d/383f851c85177e798c56effd57053394.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/0f/d273baf9ad282db4a339f5a8a5e38832.jpg)
木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。
また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で
「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、
敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために
配慮されたものと言われています。宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所
などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/fc/5ac48dfb90c32eefc2553ff96d5ef666.jpg)
※伊馬春部は、戦前から戦後にかけて小説やラジオドラマの分野で活躍した人です。(Wikipediaより)
木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。
「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役
などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った
24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。
「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/8b/67a39cf7a0c88ae364ba6f45ac47a502.jpg)
宿場内を歩いてみると何か江戸時代にタイムスリップしたようです。
私感ですが、2週間前に歩いた内野宿に比べると何かこちらの方が活気が感じられます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/45/595cd4f02bebcf601486df3ccf150fae.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/15/7f9ae37f2f9f692d8bcf2df5b57d1237.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/12/80fdbc064419aa948082e61a7d4cae3a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/49/d8801ceb04d96cdc0a334f4ec0cbb3ef.jpg)
※コテ絵は、左がダルマ、中がここの宿場踊り、右が街道を歩いた象
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/4f/452ccf1080069b1c893cca52b7a54bc3.jpg)
時間も11時半を過ぎてきました。
今日はもう一つ行かなければならない所があります。宿場町を一通り廻り、筑豊電鉄木屋瀬駅に行きます。
ここから電車で15分ぐらいの所に約30数年前によく行っていたチャンポン屋さんがあります。
そのころはJR八幡駅近くでしたが移転しましたのでそれ以来行っていません。
久しぶりにここのチャンポンが食べたくなりました。(八幡店はここの系列店があります)
永犬丸(えいのまる)駅から歩いて10分。ありました。「銀河のチャンポン店」が。
店も昔は10人ぐらい入ると一杯でしたが広くなっています。
メニューを見ていますと焼きそばもありますが、ここは迷わず「チャンポン」です。
ここのチャンポンの特徴はチャンポンの上に唐揚げが乗っています。
鶏肉がちょっと苦手な私ですが、この唐揚げは食べられます。
待つこと数分、来ました、30数年ぶりの再会です。
スープを一口すするとこの味です。味は30数年前と変わっていません。
また、お腹が減っていたのでご飯も注文しましたがこのご飯、どんぶり飯です。
いくら大食漢の私でもこんなには食べられません。家内にも手伝ってもらいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/6d/c04480019b04053fb3fb9528c902a7d5.jpg)
食べ終わり店内を見てみるともう20人ぐらいのお客さんが順番待ちされています。
私たちはすぐテーブルに座れましたがちょっとでも遅かったら随分待たされたでしょうね。
また電車で木屋瀬駅まで戻ります。
もう満腹状態ですが、再び街道を歩き出します。
真名子を通り馬場山へ。
茶屋の原に「一里塚」があります。
茶屋の原という地名は秀吉が朝鮮征伐の時ここでお茶を飲んだから付けられたとか。
長崎街道にはこういった「一里塚」が約4kmごとにあります。
飛脚とか乗馬の運賃の目安になったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/02/e193e036d0115042370db08fb5dad0bd.jpg)
ちょっとここでアクシデント発生。
チャンポンとご飯を食べ過ぎてしまったのか私のお腹がいたくなってきました。
コンビニやスーパー、喫茶店などを探しますが旧道にはそんなものがありません。
どこかないかな?と探しますがこんな時ってない時はないのですね。
前方に馬場山インターが見えてきました。ここならあるだろうと思って。
インターの事務所の人に事情を言って何とかホント何とか無事危機を脱することができました。
街道は一旦国道に合流しすぐ池田小学校前の交差点を左折します。
左側には山陽新幹線の高架が見えてきます。
しばらく新幹線を見ていますと速いですね。あっという間に私たちの目の前を通り過ぎていきます。
それに比べ私たちは、てくてく旅。何かこの対比が面白いです。
「石坂」という所に来ました。
「興玉神」の横に階段があります。
昔はあまりにも急な坂でしたのでお殿様も駕籠から降りて歩いたそうです。
登り終えたら左側に「立場茶屋銀杏屋」があります。
3年前のNHK街道てくてく旅で原田早穂さんもここで休憩されています。
銀杏屋の名のごとくお茶屋さんの横には大きな銀杏があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/03/54fadd840c979cc99657b60ba935057d.jpg)
「上津役(こうじゃく)」という町に入ってきました。
この上津役という地名はどういう由来があるのでしょうか?
いろいろ調べてみますがわかりません。
またこの辺りは「永犬丸(えいのまる)」「木屋瀬(こやのせ)」「京良城(きょうらぎ)」など
読みにくい地名があります。
国道211号線(長崎街道)を歩いていると工事区間があります。
道路拡張工事みたいです。
ここに「やから様」というのがあります。
由来を読んでみますが、見難く判読できません。あとで調べてみるとこの地区の人は
子供の癇癪を「やはら様」と言うそうです。源平合戦の折、平家の逃げ延びた母子がここに隠れて
いましたが、子供の泣き声で源氏にみつかり自害したそうです。
このやから様も工事のため移転するそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/cd/24fb43955aa367d7798891c30f5e7a96.jpg)
「凉(すずみ)天満宮」があります。
このお宮さんには伝説があります。
この神社は菅原道真をお祀りしている菅原神社です。
前の道路は旧長崎街道で境内にあった大松の下で旅人が休息したのでこの松は「夢想の松」
「凉(しず)み松」と呼ばれいつしか神社も「凉天満宮」と呼ばれるようになりました。
今では松の木も枯れてなくなってしまいましたが、次のような言い伝えが残っています。
江戸時代正徳年間(1711~1716)のある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に
上る途中、ここで休息し松の枝にお金の入った荷物を掛けた事を忘れ去ってしまいました。
翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ってみた所荷物はそのまま残っていました。
新治郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したということです。
これからこの松は「かね掛けの松」とも呼ばれるようになりました。
211号線京良城を過ぎ、焼肉屋さんの所を右折します。
この辺りが「幸神(さいのかみ)」になります。
曲がった所に「古街道」という碑が建っていました。
読むと「旧藩時代小倉より黒崎を経て肥前筑後方面に通ぜし街道なり」と書いてあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/52/aabf24eb270cacb19f71f6338d72e115.jpg)
幸神一里塚を過ぎるとお宮さんがあります。
ここが「幸神(さいのかみ)神社」です。
名前がすぐ気に入りまたお参りします。
由緒は書いてありますが、薄くなっており判読できません。
昔は街道の守り神だったのでしょうか、廻りには草鞋などが奉納されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/01/36c47666c510265d8f3d446c838830b1.jpg)
もう黒崎宿はすぐそこです。
宿場の入口には「曲里(まがり)の松林」があります。
この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で黒崎から木屋瀬にかけて
昭和20年ごろまでは多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の
面影をとどめているのみです。
松並木は幅20~30m、長さ310mで中には江戸時代から生き延びている松の木もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/f2/c832e1a3a29839e34e486c2de71474b0.jpg)
乱橋に来ました。
ここには「筑前六宿街道」の石碑が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/3a/7bc84b5bf936614795eee0216c7ce87d.jpg)
時間も5時近くになってきました。
黒崎宿の探訪は次回にして今日の街道歩きを終了します。
いよいよ次回は小倉常盤橋にゴールします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/bb/6565b7beaca137493e8e726ab13ebad9.jpg)
今回もGPSをもって行きましたがまたこのGPS機嫌が悪いのか記録していませんでした。
博多駅発7時27分の電車に乗り直方駅に着いたのが8時40分。
私、今年まだ初詣には行っていません。
今回は初詣を兼ねてのウオーキングです。
先ず直方駅近くの「多賀神社」へ。
多賀神社は、黒田直方藩5万石の産土神として栄え祭神は天照大神の両親のイザナギノミコト、
イザナミノミコトです。ご利益は「家内安全、夫婦円満」だそうで家内としっかりお参りしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/99/807efcb7041d086526a9c6ae9bbdf10d.jpg)
多賀神社の横には石炭博物館があります。
館内は正月休みの為入ることが出来ませんでしたが、石炭全盛期の機関車などが展示されていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/05/580c3bf4f72be2feddaae6224ccd1df4.jpg)
参拝の後、街道歩きに出発します。
遠賀川にかかる日の出大橋を渡り左折します。
今日は朝、寒かったので防寒着、手袋を付けてのウオーキングですが、遠賀川からの
風が強く冷たく吹いてきて寒いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/5e/8ec6b2574762e389d5672b9d10d3f80e.jpg)
30分ぐらい歩くと感田「阿高神社」に到着しました。
ここでもお参りします。
この神社の横には筑豊電鉄の「感田駅(がんだ)」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/96/1c65dbe0d8c167557f95c27929c596e8.jpg)
又街道は川沿いに歩きます。
この道路、歩道もガードレールもなく対向する車に注意しながら歩かなくてはいけません。
約1時間後、「木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。
この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/9d/383f851c85177e798c56effd57053394.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/0f/d273baf9ad282db4a339f5a8a5e38832.jpg)
木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。
また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で
「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、
敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために
配慮されたものと言われています。宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所
などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/92/592d75ef0f213603a9b040490f137231.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/fc/5ac48dfb90c32eefc2553ff96d5ef666.jpg)
※伊馬春部は、戦前から戦後にかけて小説やラジオドラマの分野で活躍した人です。(Wikipediaより)
木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。
「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役
などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った
24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。
「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/33/9d3aa9484715ac45285ae1f3553b27af.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/8b/67a39cf7a0c88ae364ba6f45ac47a502.jpg)
宿場内を歩いてみると何か江戸時代にタイムスリップしたようです。
私感ですが、2週間前に歩いた内野宿に比べると何かこちらの方が活気が感じられます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/a6/1aba3010b31f75172fcc9fd8763420cc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/45/595cd4f02bebcf601486df3ccf150fae.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/56/e38b2e26f63675b31ceff6d60c120a84.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/49/d8801ceb04d96cdc0a334f4ec0cbb3ef.jpg)
※コテ絵は、左がダルマ、中がここの宿場踊り、右が街道を歩いた象
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/31/76ec37d7e8afb8bcd6ba1dfd8daa334d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/4f/452ccf1080069b1c893cca52b7a54bc3.jpg)
時間も11時半を過ぎてきました。
今日はもう一つ行かなければならない所があります。宿場町を一通り廻り、筑豊電鉄木屋瀬駅に行きます。
ここから電車で15分ぐらいの所に約30数年前によく行っていたチャンポン屋さんがあります。
そのころはJR八幡駅近くでしたが移転しましたのでそれ以来行っていません。
久しぶりにここのチャンポンが食べたくなりました。(八幡店はここの系列店があります)
永犬丸(えいのまる)駅から歩いて10分。ありました。「銀河のチャンポン店」が。
店も昔は10人ぐらい入ると一杯でしたが広くなっています。
メニューを見ていますと焼きそばもありますが、ここは迷わず「チャンポン」です。
ここのチャンポンの特徴はチャンポンの上に唐揚げが乗っています。
鶏肉がちょっと苦手な私ですが、この唐揚げは食べられます。
待つこと数分、来ました、30数年ぶりの再会です。
スープを一口すするとこの味です。味は30数年前と変わっていません。
また、お腹が減っていたのでご飯も注文しましたがこのご飯、どんぶり飯です。
いくら大食漢の私でもこんなには食べられません。家内にも手伝ってもらいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/6d/87af661f1ee64d6fe27941313b020299.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/91/636e2c6095214518e196034eee9131ef.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/6d/c04480019b04053fb3fb9528c902a7d5.jpg)
食べ終わり店内を見てみるともう20人ぐらいのお客さんが順番待ちされています。
私たちはすぐテーブルに座れましたがちょっとでも遅かったら随分待たされたでしょうね。
また電車で木屋瀬駅まで戻ります。
もう満腹状態ですが、再び街道を歩き出します。
真名子を通り馬場山へ。
茶屋の原に「一里塚」があります。
茶屋の原という地名は秀吉が朝鮮征伐の時ここでお茶を飲んだから付けられたとか。
長崎街道にはこういった「一里塚」が約4kmごとにあります。
飛脚とか乗馬の運賃の目安になったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/d9/787fd4c710ed25457147f6209ee4273c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/02/e193e036d0115042370db08fb5dad0bd.jpg)
ちょっとここでアクシデント発生。
チャンポンとご飯を食べ過ぎてしまったのか私のお腹がいたくなってきました。
コンビニやスーパー、喫茶店などを探しますが旧道にはそんなものがありません。
どこかないかな?と探しますがこんな時ってない時はないのですね。
前方に馬場山インターが見えてきました。ここならあるだろうと思って。
インターの事務所の人に事情を言って何とかホント何とか無事危機を脱することができました。
街道は一旦国道に合流しすぐ池田小学校前の交差点を左折します。
左側には山陽新幹線の高架が見えてきます。
しばらく新幹線を見ていますと速いですね。あっという間に私たちの目の前を通り過ぎていきます。
それに比べ私たちは、てくてく旅。何かこの対比が面白いです。
「石坂」という所に来ました。
「興玉神」の横に階段があります。
昔はあまりにも急な坂でしたのでお殿様も駕籠から降りて歩いたそうです。
登り終えたら左側に「立場茶屋銀杏屋」があります。
3年前のNHK街道てくてく旅で原田早穂さんもここで休憩されています。
銀杏屋の名のごとくお茶屋さんの横には大きな銀杏があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/95/d4767f704fdb8190d88602141dd93a02.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/03/54fadd840c979cc99657b60ba935057d.jpg)
「上津役(こうじゃく)」という町に入ってきました。
この上津役という地名はどういう由来があるのでしょうか?
いろいろ調べてみますがわかりません。
またこの辺りは「永犬丸(えいのまる)」「木屋瀬(こやのせ)」「京良城(きょうらぎ)」など
読みにくい地名があります。
国道211号線(長崎街道)を歩いていると工事区間があります。
道路拡張工事みたいです。
ここに「やから様」というのがあります。
由来を読んでみますが、見難く判読できません。あとで調べてみるとこの地区の人は
子供の癇癪を「やはら様」と言うそうです。源平合戦の折、平家の逃げ延びた母子がここに隠れて
いましたが、子供の泣き声で源氏にみつかり自害したそうです。
このやから様も工事のため移転するそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/01/78cd45afcd75f41a4167ba26cc556627.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/cd/24fb43955aa367d7798891c30f5e7a96.jpg)
「凉(すずみ)天満宮」があります。
このお宮さんには伝説があります。
この神社は菅原道真をお祀りしている菅原神社です。
前の道路は旧長崎街道で境内にあった大松の下で旅人が休息したのでこの松は「夢想の松」
「凉(しず)み松」と呼ばれいつしか神社も「凉天満宮」と呼ばれるようになりました。
今では松の木も枯れてなくなってしまいましたが、次のような言い伝えが残っています。
江戸時代正徳年間(1711~1716)のある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に
上る途中、ここで休息し松の枝にお金の入った荷物を掛けた事を忘れ去ってしまいました。
翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ってみた所荷物はそのまま残っていました。
新治郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したということです。
これからこの松は「かね掛けの松」とも呼ばれるようになりました。
211号線京良城を過ぎ、焼肉屋さんの所を右折します。
この辺りが「幸神(さいのかみ)」になります。
曲がった所に「古街道」という碑が建っていました。
読むと「旧藩時代小倉より黒崎を経て肥前筑後方面に通ぜし街道なり」と書いてあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/d4/c9202740cd9881e5d10a36f7d3a24d10.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/52/aabf24eb270cacb19f71f6338d72e115.jpg)
幸神一里塚を過ぎるとお宮さんがあります。
ここが「幸神(さいのかみ)神社」です。
名前がすぐ気に入りまたお参りします。
由緒は書いてありますが、薄くなっており判読できません。
昔は街道の守り神だったのでしょうか、廻りには草鞋などが奉納されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ca/94425994a0f135f8a540b334a4ca4b8d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/01/36c47666c510265d8f3d446c838830b1.jpg)
もう黒崎宿はすぐそこです。
宿場の入口には「曲里(まがり)の松林」があります。
この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で黒崎から木屋瀬にかけて
昭和20年ごろまでは多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の
面影をとどめているのみです。
松並木は幅20~30m、長さ310mで中には江戸時代から生き延びている松の木もあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/a1/8e2e9c24373b509ee2f67e5158466308.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/f2/c832e1a3a29839e34e486c2de71474b0.jpg)
乱橋に来ました。
ここには「筑前六宿街道」の石碑が残っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/6b/ed94d74313de0f51a7939181bdfc39f0.jpg)
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時間も5時近くになってきました。
黒崎宿の探訪は次回にして今日の街道歩きを終了します。
いよいよ次回は小倉常盤橋にゴールします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/bb/6565b7beaca137493e8e726ab13ebad9.jpg)
今回もGPSをもって行きましたがまたこのGPS機嫌が悪いのか記録していませんでした。
木屋瀬宿は良く保存されていますね。町の力があって、保存に熱心な人がいる証拠です。
幸神神社には惹かれて、検索しましたら、関連があるかどうかは分かりませんが、東京都多摩郡日出町、鳥取県境港市幸神町、滋賀県大津市などにも幸神神社がありました。面白そうですね。
やはり遠賀川からの風が冷たく寒かったです。
「幸神神社」由来が消えかけてわかりませんでしたが、多分それらの神社と同じものではないでしょうか?旅の安全ということで草鞋が
納められていました。
木屋瀬宿は、もう一度ゆっくり廻ってみたい所です。
カテゴリーの中から「長崎街道歩き」をザザーッと見てみました。
すごい記録量です。
このままどうぞご無事にゴールされますように。
すごいなぁ~すごいなぁ~・・・・
寒い中の街道歩き本当にお疲れさまでした。
またチャンポン・・・懐かしい味に出合うことが
出来て良かったですね。
街道歩きをしているとタイムスリップ出来るほど
名残りが残っている場所と、ただ石碑が残っているだけの場所も・・・。
やっとゴールが見えてきました。
スタートしたころは小倉まで遠いな~と
思ってましたが何とかゴールできそうです。
昔の人はこの街道を1週間ぐらいで歩いて
いたそうです。それに比べ私は17日間も
かかりました。
明日(1/7)ゴールを目指します。
やっとゴールできそうです。
チャンポン懐かしい味でした。
(食べ過ぎましたが・・・(笑))
そうですね。宿場町など昔のまま残っていますと自分がその時代に入っていきそうです。
あと1日頑張ります。
次の街道歩き、どこにしようか目下検討中です
おはようございます。
二階の白壁が目立つ立派な宿場ですね。
こういうところは地元の方が保存に力を入れられているのでしょう。
部屋は昔のままでも大丈夫ですけど、設備関係は新しくなっていきますね。外観を壊さないように改修するのに工夫されているのでしょうね。
エアコンの屋外機が屋根に乗っていたりしたら違和感がありますもんね。
神社、落ち着いた宿場と歩き初めには良いコースだったことでしょう。
それよりなにより・・
あけまして おめでとうございます。
旧年中は 大変お世話になりありがとうございました。
本年も どうぞ よろしくお願い申し上げます。
やっと ブログ上に 戻りました。
故郷は やっぱ よか!!
しっかり 休んできたので 今年もしっかり歩こうと思っています。
サボっていたら 喝をお願いします(^^ゞ
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
今年もウオーキングがもう始まったのね。
いよいよゴールが次回になったのですね。
「長崎街道歩き」をザザーッと見てみました。
すごい記録量ですね。
説明を見ながらゆっくりと見せて頂きましたよ、有難うございました。
私は、やっと孫たちが帰り静かになりましたが
疲れがど~~~と出ました。
やはり、昔の宿場町は廻りの環境も考慮して
いるみたいです。
自販機があまりありません。
よく保存されていますね。