評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
中村獅童が横浜市職員なら
以下の論点については、昨日、「ニュース・リアルタイム」という日本テレビの番組出ていた時に気がついた(この番組には、9月にもう一度だけ出演予定があり、それ以降、予定はない)
番組中のコーナーで、公務員の飲酒運転事件について取り上げる一コーナーがあった。先ず、飲酒運転の実態を取材したビデオなどが挿入され(飲み屋から出てきた千鳥足の酔っぱらいが、車を運転して帰って行く様子である)、飲酒運転が、他人に危害を加える可能性のある重大な犯罪であることを伝える。次に、最近の飲酒運転事件について、公務員によって引き起こされたものが多いことを紹介し、さらに、地方自治体(都道府県や政令指定都市に取材)では、職員の飲酒運転に関し、(1)例外なく懲戒解雇、(2)基準を定めている、(3)個別に判断、の三通りがあり、基準が統一されていないことを報じて、この是非を問う、という構成だった。
ところで、このコーナーの時間的には少し前に、エンターテイメントのコーナーがあり、そのコーナーでは、歌舞伎俳優の中村獅童氏が、飲酒運転で書類送検されたことが報じられていたのだった。
先のようなコーナー展開の終わりに、私に振られた「(自治体によってルールに差があることについて)どう思います?」という質問に対する私の発言は、
1)飲酒運転は他人に危険をもたらすので、そもそももっと「コスト」の高い厳罰でなければならない、
2)公務員については基準が厳しい方に統一されている方が国民の期待に叶うだろう、
3)ところで、先ほどの中村獅童氏のケースは、彼が横浜市職員なら懲戒解雇である。芸能界は甘すぎるのではないか、
というような趣旨であった。文字に書くようにスッキリと話せていたか、じっさいのしゃべりを見ていないので、自信はないが、こんな趣旨だった。
(尚、このコメントは、予定外の内容であったが(特に3番が)VTRを見ながら、キャスターの笛吹雅子さんに相談してみたところ、OK(=それも一つの意見だという意味で)という感触を得て(これは私の思いこみかも知れないが)、私の責任で話したものだ。彼女は、その場でフェアな判断が出来、かつ番組を進行できる優れたニュース・キャスターだと思う)
ところで、「週刊朝日」9月22日号の梨本勝氏の「ここまで書いて恐縮です!」によると、中村獅童は10月に新橋演舞場で始まる舞台「獅童流 森の石松」に復帰するのだという。梨本氏も文中で、事件から2ヶ月での復帰が早すぎるとの意見を述べておられる。(彼が、復帰を急ぐ、家庭の事情等については、梨本氏のコラムをご参照下さい)
私としても、個人的な感情として、中村獅童氏が、2ヶ月でしれっと舞台に復帰し、メディアがこれを紹介し、実質的に舞台を宣伝するような推移は気持ちが良くない。しかし、一方で、処罰は、法的に行われるべきで、芸能人は嫌なら見なければいいのだから、謹慎を強制する事で、社会的に処罰しようとするのは行き過ぎかも知れない、とも思う。どう考えるのが、いいのだろうか。
芸能および芸能人は社会的に影響が大きいし、これに対する批判を通じて制度や社会に対して意見を述べることは、効果的だ。他方で、通常、芸能界は、話題の提供も含めて、メディアや世間を宣伝にも使う。これらのバランスを考えると、意見の根拠と責任をはっきりさせておくなら(根拠とする事実に誤りが無く、実名で自分の責任で発言するなら)個人を批判しても、構わないのではないか思える。批判的にも取り上げられることは、彼らの商売の一部といっていいだろうし、好意的なコメントだけに限る必要はあるまい。
従って、「飲酒運転事件を起こした中村獅童氏の舞台復帰は、もろもろの影響を考えると、早すぎる。人はこれを観ないことで意見表明するが効果的であろう、と私は推奨する。また、舞台復帰および事件の風化のムード作りに加担するメディアがあれば、これを批判することも重要だ」という考えを、目下の私の結論とする。
中村獅童なんて、観てやるな!
番組中のコーナーで、公務員の飲酒運転事件について取り上げる一コーナーがあった。先ず、飲酒運転の実態を取材したビデオなどが挿入され(飲み屋から出てきた千鳥足の酔っぱらいが、車を運転して帰って行く様子である)、飲酒運転が、他人に危害を加える可能性のある重大な犯罪であることを伝える。次に、最近の飲酒運転事件について、公務員によって引き起こされたものが多いことを紹介し、さらに、地方自治体(都道府県や政令指定都市に取材)では、職員の飲酒運転に関し、(1)例外なく懲戒解雇、(2)基準を定めている、(3)個別に判断、の三通りがあり、基準が統一されていないことを報じて、この是非を問う、という構成だった。
ところで、このコーナーの時間的には少し前に、エンターテイメントのコーナーがあり、そのコーナーでは、歌舞伎俳優の中村獅童氏が、飲酒運転で書類送検されたことが報じられていたのだった。
先のようなコーナー展開の終わりに、私に振られた「(自治体によってルールに差があることについて)どう思います?」という質問に対する私の発言は、
1)飲酒運転は他人に危険をもたらすので、そもそももっと「コスト」の高い厳罰でなければならない、
2)公務員については基準が厳しい方に統一されている方が国民の期待に叶うだろう、
3)ところで、先ほどの中村獅童氏のケースは、彼が横浜市職員なら懲戒解雇である。芸能界は甘すぎるのではないか、
というような趣旨であった。文字に書くようにスッキリと話せていたか、じっさいのしゃべりを見ていないので、自信はないが、こんな趣旨だった。
(尚、このコメントは、予定外の内容であったが(特に3番が)VTRを見ながら、キャスターの笛吹雅子さんに相談してみたところ、OK(=それも一つの意見だという意味で)という感触を得て(これは私の思いこみかも知れないが)、私の責任で話したものだ。彼女は、その場でフェアな判断が出来、かつ番組を進行できる優れたニュース・キャスターだと思う)
ところで、「週刊朝日」9月22日号の梨本勝氏の「ここまで書いて恐縮です!」によると、中村獅童は10月に新橋演舞場で始まる舞台「獅童流 森の石松」に復帰するのだという。梨本氏も文中で、事件から2ヶ月での復帰が早すぎるとの意見を述べておられる。(彼が、復帰を急ぐ、家庭の事情等については、梨本氏のコラムをご参照下さい)
私としても、個人的な感情として、中村獅童氏が、2ヶ月でしれっと舞台に復帰し、メディアがこれを紹介し、実質的に舞台を宣伝するような推移は気持ちが良くない。しかし、一方で、処罰は、法的に行われるべきで、芸能人は嫌なら見なければいいのだから、謹慎を強制する事で、社会的に処罰しようとするのは行き過ぎかも知れない、とも思う。どう考えるのが、いいのだろうか。
芸能および芸能人は社会的に影響が大きいし、これに対する批判を通じて制度や社会に対して意見を述べることは、効果的だ。他方で、通常、芸能界は、話題の提供も含めて、メディアや世間を宣伝にも使う。これらのバランスを考えると、意見の根拠と責任をはっきりさせておくなら(根拠とする事実に誤りが無く、実名で自分の責任で発言するなら)個人を批判しても、構わないのではないか思える。批判的にも取り上げられることは、彼らの商売の一部といっていいだろうし、好意的なコメントだけに限る必要はあるまい。
従って、「飲酒運転事件を起こした中村獅童氏の舞台復帰は、もろもろの影響を考えると、早すぎる。人はこれを観ないことで意見表明するが効果的であろう、と私は推奨する。また、舞台復帰および事件の風化のムード作りに加担するメディアがあれば、これを批判することも重要だ」という考えを、目下の私の結論とする。
中村獅童なんて、観てやるな!
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法廷闘争以外のライブドア事件
被告人、堀江貴文氏の公判がいよいよ始まりました。ある人のお話では「ホリエモンは視聴率になるけれども、村上と来ると視聴率にならない」のだそうですが、堀江氏への関心の高さを背景に、相当の量の映像が流れたようです。
裁判そのものは、粉飾について、堀江氏の明確な指示があったと立証されるのかどうかという辺りが(あとは、投資事業組合の利益が売上にできるか)問題のようですが、スピード審理でもあり、今後の展開に注目しましょう。
ここで、一つ、余談です。さる弁護士さんにお聞きした話ですが、海外の推理小説では、検事が、被告人と仲違いしたかつての仲間を証人に立てて、これを切り札に被告人を「追い込める」と思っていたら、裁判の途中で、証人が証言をひっくり返して被告人が無罪になり、実は、もともと、仲違いしたはずのかつての仲間は、証人になって被告人を救うために、仲違いを装っていたのだった、という筋書きのものがあるそうです。堀江氏の元部下で現在別の裁判の被告人の宮内氏にそれだけの胆力と演技力があれば、ものすごいドラマになりますが、宮内氏にそうした意図が無くても、彼も罪の内容を軽くしたいでしょうから、彼にどれだけ有効な証言をさせることができるかは、やはり見所です。
さて、裁判の法律論は脇に置くとして、ライブドア事件について、理解しておきたいポイントが二つあります。
一つは、粉飾であるかないかは法廷に任せるとして、自社株の売却益を売上にして利益を稼いでいるように見せた、問題の決算でのライブドアの行為は、投資家から見て極めて好ましくないものです。これが有罪にならないのなら、法の不備として、ルールを修正しなければなりませんし、この点については、「悪いものは、悪いのであり、それは明らかだ」と、私は考えています。堀江氏も、せめて「結果論ではあるが、投資家に対して、適切でない形で情報をを出したことは、悪かった」と認識すべきでしょう。
またまた、余談ですが、世間には、「堀江の破滅が見たい」というムードと拮抗するぐらい「堀江を応援してみたい」というムードを感じます。ムードのバランスが微妙なときなのだから、堀江氏は、昼飯に、今日はウニ弁当、明日は焼き肉弁当、などと、偉そうなものを喰わずに、ここは、故郷の明太子でも入ったコンビニおにぎりでも喰うべきではないでしょうか。フジテレビ以外のテレビ局は、堀江氏を早くテレビに担ぎ出したくてうずうずしているのでしょうから、誰か教えてあげればいいのに・・・・。
それにしても、2004年秋の元気に見えたライブドアが実は儲かっていなかったのだ、という事実は、興ざめです。あんな会社に、大きすぎる時価総額を与えたのは、明らかに「市場の失敗」です。
ところが、実は、市場の奥深いところは、そんなヨタヨタのライブドアが、2005年の秋には、相当に良さそうな格好にビジネスを持ち上げており、時価総額も7000億円を超えていました(時価総額がやはり大きすぎるとはいえ、好調は認めなければなりますまい)。この辺りの移ろいやすさは、ビジネスと株式市場の「汲めども尽きぬ」面白さ&扱いにくさです。
さて、もう一点のポイントは、東京地検の捜査方法の当否です。サイレントじゃないマジョリティーさんのコメントにもあるとおり、会社に大きな時価総額があるからといって、50億円強の粉飾を取り締まらない方がいい、ということは、簡単には言えませんが、あの強制捜査からの一連の地検の行動が「6000億円の時価総額を吹っ飛ばした」のは概ね事実です。
「比喩は比喩に過ぎない」、「比喩を分析してはいけない」という一般的な注意事項を心掛けつつも、一番近い比喩を作ってみると、以下の通りです。
『500万円の窃盗の疑いが極めて濃い男の罪状を固めるために検察が踏み込んで、時価7億円のマンションを殆ど取り壊したら、マンションの価値は土地代だけの1億円になってしまった』
この場合、被疑者の男以外の、マンションの住人はだれを恨めばいいのでしょうか。「君が違法なことさえしなければ、こんなことには、ならなかった」と言って被疑者の男を恨むのか、それとも「マンションを結果的にあらかた取り壊した検察」か、ということです。
捜査の趣旨自体は正当であっても、捜査の方法によっては、回復不能な大きな被害が出てしまうのであり、「どのような方法で捜査すべきか」という論点は、少なくとも、マンションの他の住人の立場(ライブドア株主の投資家)からは残るし、検察が国民のものなら、その行為の当否を検証することは必要でしょう。
裁判そのものは、粉飾について、堀江氏の明確な指示があったと立証されるのかどうかという辺りが(あとは、投資事業組合の利益が売上にできるか)問題のようですが、スピード審理でもあり、今後の展開に注目しましょう。
ここで、一つ、余談です。さる弁護士さんにお聞きした話ですが、海外の推理小説では、検事が、被告人と仲違いしたかつての仲間を証人に立てて、これを切り札に被告人を「追い込める」と思っていたら、裁判の途中で、証人が証言をひっくり返して被告人が無罪になり、実は、もともと、仲違いしたはずのかつての仲間は、証人になって被告人を救うために、仲違いを装っていたのだった、という筋書きのものがあるそうです。堀江氏の元部下で現在別の裁判の被告人の宮内氏にそれだけの胆力と演技力があれば、ものすごいドラマになりますが、宮内氏にそうした意図が無くても、彼も罪の内容を軽くしたいでしょうから、彼にどれだけ有効な証言をさせることができるかは、やはり見所です。
さて、裁判の法律論は脇に置くとして、ライブドア事件について、理解しておきたいポイントが二つあります。
一つは、粉飾であるかないかは法廷に任せるとして、自社株の売却益を売上にして利益を稼いでいるように見せた、問題の決算でのライブドアの行為は、投資家から見て極めて好ましくないものです。これが有罪にならないのなら、法の不備として、ルールを修正しなければなりませんし、この点については、「悪いものは、悪いのであり、それは明らかだ」と、私は考えています。堀江氏も、せめて「結果論ではあるが、投資家に対して、適切でない形で情報をを出したことは、悪かった」と認識すべきでしょう。
またまた、余談ですが、世間には、「堀江の破滅が見たい」というムードと拮抗するぐらい「堀江を応援してみたい」というムードを感じます。ムードのバランスが微妙なときなのだから、堀江氏は、昼飯に、今日はウニ弁当、明日は焼き肉弁当、などと、偉そうなものを喰わずに、ここは、故郷の明太子でも入ったコンビニおにぎりでも喰うべきではないでしょうか。フジテレビ以外のテレビ局は、堀江氏を早くテレビに担ぎ出したくてうずうずしているのでしょうから、誰か教えてあげればいいのに・・・・。
それにしても、2004年秋の元気に見えたライブドアが実は儲かっていなかったのだ、という事実は、興ざめです。あんな会社に、大きすぎる時価総額を与えたのは、明らかに「市場の失敗」です。
ところが、実は、市場の奥深いところは、そんなヨタヨタのライブドアが、2005年の秋には、相当に良さそうな格好にビジネスを持ち上げており、時価総額も7000億円を超えていました(時価総額がやはり大きすぎるとはいえ、好調は認めなければなりますまい)。この辺りの移ろいやすさは、ビジネスと株式市場の「汲めども尽きぬ」面白さ&扱いにくさです。
さて、もう一点のポイントは、東京地検の捜査方法の当否です。サイレントじゃないマジョリティーさんのコメントにもあるとおり、会社に大きな時価総額があるからといって、50億円強の粉飾を取り締まらない方がいい、ということは、簡単には言えませんが、あの強制捜査からの一連の地検の行動が「6000億円の時価総額を吹っ飛ばした」のは概ね事実です。
「比喩は比喩に過ぎない」、「比喩を分析してはいけない」という一般的な注意事項を心掛けつつも、一番近い比喩を作ってみると、以下の通りです。
『500万円の窃盗の疑いが極めて濃い男の罪状を固めるために検察が踏み込んで、時価7億円のマンションを殆ど取り壊したら、マンションの価値は土地代だけの1億円になってしまった』
この場合、被疑者の男以外の、マンションの住人はだれを恨めばいいのでしょうか。「君が違法なことさえしなければ、こんなことには、ならなかった」と言って被疑者の男を恨むのか、それとも「マンションを結果的にあらかた取り壊した検察」か、ということです。
捜査の趣旨自体は正当であっても、捜査の方法によっては、回復不能な大きな被害が出てしまうのであり、「どのような方法で捜査すべきか」という論点は、少なくとも、マンションの他の住人の立場(ライブドア株主の投資家)からは残るし、検察が国民のものなら、その行為の当否を検証することは必要でしょう。
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書籍「ライブドアに物申す!!」

44人の筆者が参加しており、私も数ページの原稿を書いている。
ライブドア社、ライブドア事件、堀江貴文氏についてそれぞれどう思うか、というアンケートに答えて寄稿したもので、もともと例の事件後に、ライブドア社のホームページで行われた企画がベースだ。このアンケートに、私は答えなかったのだが、その後、本を作る時に、筆者を何人か加える時に、加わったのだった。
編集者によると、筆者の一人が〆切から逃げて、出版が遅れたらしいが、堀江貴文被告の公判に間に合ったから、まあまあのタイミングだろうか。
ライブドアが巻き起こした話題や幹部の逮捕に発展した事件に関しては、あれほど話題になったが、急速に記憶が風化しつつあるように思われる。忘れても構わない事件だという意見もあるだろうし、そうせよ、と書いておられる筆者もいるが、公判が始まることでもあり、ポイントを思い出して、あれば何らかの教訓を覚えておくことは無駄ではないように思う。私は、どちらかと言えば、「ライブドア」と「ホリエモン」は覚えておく価値のあるケースだと思っている。
ポイントとして重要だと思うのは、
(1)ライブドアが急拡大できたビジネスの仕組みは何だったか、
(2)ニッポン放送を巡る攻防の意味、
(3)「国策捜査」としてのライブドア事件の捜査方法の当否、
の三点であり、敢えて付け加えると、
(4)「ホリエモン」という存在の社会的意味、
だろうか。
投資家として知っておくべきは(2)と(1)であり、特に(2)だと思うが、今後の公判の行方を見ると、最も重要なポイントとして(3)が浮上する可能性もある。
私の原稿は、楽天証券のホームページに載せた「ホリエモン論序説」を改筆したもので、主に(4)に興味を持つ視点から、(1)、(2)、(3)について書いたものだ。元原稿と、本に載せた原稿では、「堀江容疑者」が「堀江被告」になるような時間の経過による変化の外に、(2)で一点確認できたことがあったのと、(3)の視点が(弱いながらも)加わったことだろうか。
原稿をまとめながら、私の場合、事件について、検察からの情報が流される中で、これにコメントし続けてきたので、自分の立場をどこに置くかが難しかった。TVなどのコメントでは、どうしても検察サイド寄りのコメントになるし、それはそれでそう内容的に誤っていたつもりはないのだが、ライブドア事件が所謂「国策捜査」かも知れない、という視点も加えて事件を見直した場合、「粉飾は悪いとしても、50億円の粉飾で、6000億円以上の時価総額を吹っ飛ばして、投資家に大損させたあの捜査はどのくらい適切だったのか?」という疑問は消えない。この点は、公判を見ながら(幸い短期間で終わるらしいし)、改めて考えてみたい。
仮定の話で恐縮だが、ライブドアの事件がパッとしない場合、さらに村上ファンド事件も冴えない展開になる場合、東京地検特捜部はどうするのだろうか。別の事件に手を広げようとするのか、或いは、しばらくこの種のものは手掛けないのか。
村上ファンドの事件は、村上被告が裁判でどう供述するかをいわば質に取った形になっているように見える。「あまり追い込むようなら、裁判で供述をひっくり返して徹底的に争うよ」という交渉材料を彼は、検察に対して持っている。地検の個々人は基本的にこのような大きなリスクを取りたくはないのではなかろうか。「裁判ではおとなしく認めるから、彼個人や会社を徹底的には追いつめないように」という落とし所を村上被告側は作れるのではなかろうか。
村上ファンド事件でこうした展開が予想されるとした場合、地検は、ライブドアを「手柄」に出来るかどうかが問題になるが、なかなか上手く行かないかも知れない。「粉飾50億円だけ」というだけで、堀江被告を世間的にもどの程度悪者に仕立てきることが出来るかが問題になるが、堀江被告が「違法を認識しつつ、粉飾を指示した」という点がどの程度立証できるだろうか。「世間の空気」というものは移り気だから、堀江被告に対する同情論・待望論的な空気が出てくるかも知れないし、その場合、検察に批判の矛先が向かうリスクが検察側にはある。
こうした状況下で、検察は、更に手を広げるのか、それとも、この種の事件から撤退するのか。或いは、裁判と世論形成の両方で成功を納めるのか。他の事案にも影響するかも知れないし、この種の権力が、どのような考え方を持って行動するものなのかも含めて、向こう数ヶ月の動きに注目したい。
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巨人戦、視聴率低迷の理由
高校野球の決勝戦は二試合とも実に素晴らしい試合でした。私は、特に、斉藤投手の配球の上手さに感心しながら見ていましたが、試合の内容については、報道が行き渡っているので、触れません。ともかく、野球も面白い!と思える、素晴らしい大会でした。
野球といえば、巨人戦の視聴率低迷が大変な状況になっているようです。今年は、ドラマチックでかつ幸運な展開となったWBCもあったし、本来なら、野球に対する関心と共に巨人戦の視聴率も回復して良さそうなものなのですが、阪神やソフトバンク、ロッテなどが、地元にしっかり密着して(阪神は全国区だが)、そこそこにうまくビジネスを展開しているのに、巨人の人気がこんなに急に落ち込んだのはなぜなのでしょうか。
結論をおおまかに言えば、巨人には「感情移入できる物語」がないから、ということではないでしょうか。
高校野球は、プロ野球と較べて、野球そのものは素人目にも低レベルですが、一度負けたら終わりという儚さを背景にして、一回見たチームや選手をまた応援したくなる、つまり、観客・視聴者に感情移入させる舞台装置が整っています。また、一回負けると終わりの状況は、単なる「友情の物語」を超える選手の「連帯の物語」を作り出します。
また、例の○○○試合以来、世間のイメージが一転して好意的でなくなりましたが、つい最近までのボクシングの亀田選手とファミリーには、たぶん、人が最も感情移入しやすい物語である「成長の物語」がありました。父親の指導を信じて、一家で協調して、一歩一歩世界チャンピオンに上り詰めるという物語は、何ともよく出来ていました。「成長の物語」の有効性は、卓球の福原愛選手、ゴルフの横峯さくら選手(実績以上の人気がある)、などの人気にも明らかだと思います。人は、応援する選手やチームが「育つ」ストーリーを見たいのです。たぶん巨人軍全体よりも、メジャーリーグに挑戦している松井選手の方が注目されているのも、彼には「成長の物語」型の感情移入できるストーリーがあるからではないでしょうか。
ひるがえって、巨人軍ですが、最近試合を見ていないので詳しくは分かりませんが、4番が李選手で、5番が小久保選手、と有力選手を外部調達し、その前は、清原選手、ローズ選手、江藤選手など他チームの4番バッターをを取って来ては、使い捨てる(あるいは飼い殺す)、といった選手の使い方なので、巨人の若手選手にチャンスが少なく、必然的に、ファンは選手が徐々に成長するストーリーを楽しむことが出来ません。また、短期間で成果主義にさらされる大物達(必然的に個人主義的にならざるを得ない)がごろごろいるチームでは、チームに一体感があるように見えないので、「連帯の物語」にも感情移入ができません。
戦力を強化するために巨額のお金を使ってきた巨人軍ですが、気がついてみると、コンテンツとしての魅力をボロボロにしていた、ということのように思えます。
また、渡辺オーナーは、村上ファンドが大嫌いでしたし、ライブドアのような企業買収者に対しては先鋭的な批判者でしたが、野球チームを作るに当たっては、お金に物を言わせる買収者でした。「俺は金で人を買ったけれども、ぜんぜん上手く行かなかった。だから、日本では、企業買収なんて、人ごと企業を金で買うようなことはやんねぇ方がいいって、言えるんだ」とでも仰るなら、なかなかブラックなユーモアが効いていていいと思うのですが、当たり前ですが、彼から巨人軍運営に関する反省の弁は聞いたことがありません(会長に復帰されたぐらいですし)。
尚、私は、小さい頃、気がついたら巨人ファンになっていて(当時の北海道の少年にはよくあったケースです)、「ヤマザキが巨人ファンなんて、似合わないよ」と友人に冷やかされていましたが、江川投手(ヒールだが好きだった)の頃ぐらいまでは巨人ファンでした。しかし、その後、巨人軍が、長嶋監督を重用するようになってから、「選手はベストを容赦なく取ってくるのに、監督だけ能力でなく人気で選ぶなんて、スポーツに対する冒涜だ」と感じるようになり、アンチ巨人に転じました。しかし、「アンチ」も対象をよく知っていてこそ力が入るというもので、今年に至っては、もうほとんど関心を失っているので、今や「アンチ巨人」でもありません。
あ、そうだ。考えてみたら、私は、楽天を応援しなければならないのでした!(しかし、今の勝率では、「一日上がったら、二日下がる」株を買うようなものなので、相当の精神修養になりそうですね)
野球といえば、巨人戦の視聴率低迷が大変な状況になっているようです。今年は、ドラマチックでかつ幸運な展開となったWBCもあったし、本来なら、野球に対する関心と共に巨人戦の視聴率も回復して良さそうなものなのですが、阪神やソフトバンク、ロッテなどが、地元にしっかり密着して(阪神は全国区だが)、そこそこにうまくビジネスを展開しているのに、巨人の人気がこんなに急に落ち込んだのはなぜなのでしょうか。
結論をおおまかに言えば、巨人には「感情移入できる物語」がないから、ということではないでしょうか。
高校野球は、プロ野球と較べて、野球そのものは素人目にも低レベルですが、一度負けたら終わりという儚さを背景にして、一回見たチームや選手をまた応援したくなる、つまり、観客・視聴者に感情移入させる舞台装置が整っています。また、一回負けると終わりの状況は、単なる「友情の物語」を超える選手の「連帯の物語」を作り出します。
また、例の○○○試合以来、世間のイメージが一転して好意的でなくなりましたが、つい最近までのボクシングの亀田選手とファミリーには、たぶん、人が最も感情移入しやすい物語である「成長の物語」がありました。父親の指導を信じて、一家で協調して、一歩一歩世界チャンピオンに上り詰めるという物語は、何ともよく出来ていました。「成長の物語」の有効性は、卓球の福原愛選手、ゴルフの横峯さくら選手(実績以上の人気がある)、などの人気にも明らかだと思います。人は、応援する選手やチームが「育つ」ストーリーを見たいのです。たぶん巨人軍全体よりも、メジャーリーグに挑戦している松井選手の方が注目されているのも、彼には「成長の物語」型の感情移入できるストーリーがあるからではないでしょうか。
ひるがえって、巨人軍ですが、最近試合を見ていないので詳しくは分かりませんが、4番が李選手で、5番が小久保選手、と有力選手を外部調達し、その前は、清原選手、ローズ選手、江藤選手など他チームの4番バッターをを取って来ては、使い捨てる(あるいは飼い殺す)、といった選手の使い方なので、巨人の若手選手にチャンスが少なく、必然的に、ファンは選手が徐々に成長するストーリーを楽しむことが出来ません。また、短期間で成果主義にさらされる大物達(必然的に個人主義的にならざるを得ない)がごろごろいるチームでは、チームに一体感があるように見えないので、「連帯の物語」にも感情移入ができません。
戦力を強化するために巨額のお金を使ってきた巨人軍ですが、気がついてみると、コンテンツとしての魅力をボロボロにしていた、ということのように思えます。
また、渡辺オーナーは、村上ファンドが大嫌いでしたし、ライブドアのような企業買収者に対しては先鋭的な批判者でしたが、野球チームを作るに当たっては、お金に物を言わせる買収者でした。「俺は金で人を買ったけれども、ぜんぜん上手く行かなかった。だから、日本では、企業買収なんて、人ごと企業を金で買うようなことはやんねぇ方がいいって、言えるんだ」とでも仰るなら、なかなかブラックなユーモアが効いていていいと思うのですが、当たり前ですが、彼から巨人軍運営に関する反省の弁は聞いたことがありません(会長に復帰されたぐらいですし)。
尚、私は、小さい頃、気がついたら巨人ファンになっていて(当時の北海道の少年にはよくあったケースです)、「ヤマザキが巨人ファンなんて、似合わないよ」と友人に冷やかされていましたが、江川投手(ヒールだが好きだった)の頃ぐらいまでは巨人ファンでした。しかし、その後、巨人軍が、長嶋監督を重用するようになってから、「選手はベストを容赦なく取ってくるのに、監督だけ能力でなく人気で選ぶなんて、スポーツに対する冒涜だ」と感じるようになり、アンチ巨人に転じました。しかし、「アンチ」も対象をよく知っていてこそ力が入るというもので、今年に至っては、もうほとんど関心を失っているので、今や「アンチ巨人」でもありません。
あ、そうだ。考えてみたら、私は、楽天を応援しなければならないのでした!(しかし、今の勝率では、「一日上がったら、二日下がる」株を買うようなものなので、相当の精神修養になりそうですね)
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ジャーナリストのA級、B級、C級
前のエントリーの続きを少し考えてみました。
純粋にジャーナリズムのあるべき論から、私の原稿をボツにしてくれた雑誌の編集長を批判するのは簡単なのですが、現実問題として、雑誌をはじめとするジャーナリズムの関係者達も、「ごはん」を食べていかなければならない事情があるのが、難しいところです。
たとえば、テレビ局ではスポンサーの批判になるようなことを伝えにくいし、私の知っている範囲で言えば、マネー誌の編集部員は毎月分配型の外債ファンドがダメな商品であることを理由も含めて良く知っていますが、マネー誌にはそうしたファンドの広告が入るので、誌面で、そうしたファンドを悪く書くことが出来ません。
「一応はジャーナリストを名乗ってはいるものの、こうしたメディアに勤める人」の立場に身を置いて考えてみると、
(A)ジャーナリストとして大切なことを伝えるためには、自分の「ごはん」に不利に働くことでも伝えなければならないという覚悟が必要な一方で、
(B)そもそも「ごはん」を食べ続けて、またメディア自体が有効に存続していないと、本当に伝えるべき事があった時に、伝える手段を失ってしまっている、
という相反する二つの建前があります。
(B)について補足すると、「真の目的(或いは、より大きな目的)に向けた」取材のしやすさなど、将来の活動のために、現在(の小さな問題)を犠牲にするという考慮もあり得るでしょう。また、意見を発表する側としても、将来意見を伝える手段を失わないために、たとえば編集方針に対して妥協することもある、という理屈が、正否の確認が出来るかどうかはともかくとして、一応は成立するといえるでしょう。
そして、上記の「建前」の次元から一段落ちたところに、
(C)自分の生活と損得を考えると、「ごはん」で損をするようなことには関わりたくない(だって、生身の人間なんだから)、
という本音が存在します。
(A)、(B)の建前だけでも、ケース、ケースでどう判断するのか難しいところですし、そうした判断をしながらバランスを取っている状態と、(C)に支配されている状態の区別が外から見ると難しいのが現実です。皮肉な見方をすると、この区別の難しさがあるから、多くのジャーナリストが威張ることが出来るのかも知れませんし、また人々は、ジャーナリストに対して、腹を立てずに付き合う事が出来るのかも知れません(実は、これは大切な曖昧さなのかな・・・?)。
私は、ジャーナリストを名乗る人には、せめて(A)、(B)の建前の中で悩んでいるのだということであって欲しいと思っていますし、多くの場合は程度の問題ですが、(A)に徹することが出来る人を尊敬するにやぶさかではありません。しかし、現実に、(C)に支配されている人を、人自体として「非難」するところまでは、踏み込めません(「お前の有り様は、人間としてツマラナイね」というくらいのことは言えますが)。
ここで、考えてみると、生活力も、他人との対立を恐れない意思の強さをも含めて、本人の「総合的な力」があれば、(A)~(B)~(C)の中で、より(A)に寄った立場と行動を取ることが出来ます。たとえば、件の編集長さんの場合は、明らかに(C)が強いのでしょうから、こういう方を「C級ジャーナリスト」とでもお呼びすることが可能でしょう。
ジャーナリストと会った時には、相手が、A級に属する偉人なのか、平均的にはB級の悩み深き俗人なのか、主として喰うためだけにジャーナリストであるC級なのか、格付けをして付き合うと便利かも知れません。多分、程度の差があるでしょうから、B級でいうと、B+→B→B-、というくらいの段階を付けて評価するのが良さそうです。
ところで、私は、直接的に媒体側の人間ではありませんが、情報や自分の意見を他人に広く伝える手段を「ある程度は」持っている、という意味では、非常に定義を広く取った場合にはジャーナリストのカテゴリーに入るのでしょうから、なるべく(A)の純度を上げていきたいと思っています(自己評価としては、まだまだ不完全です)。
ただ、今回気付いたことですが、たとえばボツになった原稿を直ちに広く他人に伝える事が出来るという意味で、ネットとブログの存在は、ささやかながら、上記のような意味での私の力を強化しています。これはなかなか意義深いことです。
純粋にジャーナリズムのあるべき論から、私の原稿をボツにしてくれた雑誌の編集長を批判するのは簡単なのですが、現実問題として、雑誌をはじめとするジャーナリズムの関係者達も、「ごはん」を食べていかなければならない事情があるのが、難しいところです。
たとえば、テレビ局ではスポンサーの批判になるようなことを伝えにくいし、私の知っている範囲で言えば、マネー誌の編集部員は毎月分配型の外債ファンドがダメな商品であることを理由も含めて良く知っていますが、マネー誌にはそうしたファンドの広告が入るので、誌面で、そうしたファンドを悪く書くことが出来ません。
「一応はジャーナリストを名乗ってはいるものの、こうしたメディアに勤める人」の立場に身を置いて考えてみると、
(A)ジャーナリストとして大切なことを伝えるためには、自分の「ごはん」に不利に働くことでも伝えなければならないという覚悟が必要な一方で、
(B)そもそも「ごはん」を食べ続けて、またメディア自体が有効に存続していないと、本当に伝えるべき事があった時に、伝える手段を失ってしまっている、
という相反する二つの建前があります。
(B)について補足すると、「真の目的(或いは、より大きな目的)に向けた」取材のしやすさなど、将来の活動のために、現在(の小さな問題)を犠牲にするという考慮もあり得るでしょう。また、意見を発表する側としても、将来意見を伝える手段を失わないために、たとえば編集方針に対して妥協することもある、という理屈が、正否の確認が出来るかどうかはともかくとして、一応は成立するといえるでしょう。
そして、上記の「建前」の次元から一段落ちたところに、
(C)自分の生活と損得を考えると、「ごはん」で損をするようなことには関わりたくない(だって、生身の人間なんだから)、
という本音が存在します。
(A)、(B)の建前だけでも、ケース、ケースでどう判断するのか難しいところですし、そうした判断をしながらバランスを取っている状態と、(C)に支配されている状態の区別が外から見ると難しいのが現実です。皮肉な見方をすると、この区別の難しさがあるから、多くのジャーナリストが威張ることが出来るのかも知れませんし、また人々は、ジャーナリストに対して、腹を立てずに付き合う事が出来るのかも知れません(実は、これは大切な曖昧さなのかな・・・?)。
私は、ジャーナリストを名乗る人には、せめて(A)、(B)の建前の中で悩んでいるのだということであって欲しいと思っていますし、多くの場合は程度の問題ですが、(A)に徹することが出来る人を尊敬するにやぶさかではありません。しかし、現実に、(C)に支配されている人を、人自体として「非難」するところまでは、踏み込めません(「お前の有り様は、人間としてツマラナイね」というくらいのことは言えますが)。
ここで、考えてみると、生活力も、他人との対立を恐れない意思の強さをも含めて、本人の「総合的な力」があれば、(A)~(B)~(C)の中で、より(A)に寄った立場と行動を取ることが出来ます。たとえば、件の編集長さんの場合は、明らかに(C)が強いのでしょうから、こういう方を「C級ジャーナリスト」とでもお呼びすることが可能でしょう。
ジャーナリストと会った時には、相手が、A級に属する偉人なのか、平均的にはB級の悩み深き俗人なのか、主として喰うためだけにジャーナリストであるC級なのか、格付けをして付き合うと便利かも知れません。多分、程度の差があるでしょうから、B級でいうと、B+→B→B-、というくらいの段階を付けて評価するのが良さそうです。
ところで、私は、直接的に媒体側の人間ではありませんが、情報や自分の意見を他人に広く伝える手段を「ある程度は」持っている、という意味では、非常に定義を広く取った場合にはジャーナリストのカテゴリーに入るのでしょうから、なるべく(A)の純度を上げていきたいと思っています(自己評価としては、まだまだ不完全です)。
ただ、今回気付いたことですが、たとえばボツになった原稿を直ちに広く他人に伝える事が出来るという意味で、ネットとブログの存在は、ささやかながら、上記のような意味での私の力を強化しています。これはなかなか意義深いことです。
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ボツになった原稿を掲載します
金融業界関係の雑誌に、私が書いた匿名コラムの原稿がボツになりました。テーマは日銀の内部管理批判と福井総裁への批判です。
編集長氏によると、
(1)匿名での批判原稿である、
(2)日銀のような不正(出張旅費の過大請求)は他の企業にも多々あり、日銀だけを強く批判するのはいかがなものか、
(3)福井総裁個人への批判は編集方針になじまない、
(4)今後の日銀への取材のしやすさその他という考慮もある。腰が引けていると言われればそれまでですが、
ということでした。
私の反論というか言い分は、
(1)実名で掲載しても構わないし、そのコラム欄は政策に対する批判などが日頃から載っている、
(2)日銀自体の管理に問題があるということだから、他社は関係ないし、読者が判断すればいいことだ、
(3)福井総裁は公人だし、根も葉もない批判を書いているのではない、
(4)編集方針だというなら仕方がないですね、
というものでした。
編集長と話し合った結果、表現を書き替えて載せるのではなく、今回は原稿を取り下げるのが、「ありがたい」とのことだったので、これに同意して、ボツが確定しました。
以下に、原稿を内容をそのまま貼り付けます(誤字の訂正が一カ所と、フォーマットの修正がありますが)。
================================
「日銀の自力更生には限界」
日本銀行がさる八月四日付けで発表した「国内出張における航空運賃の支給に関する調査結果等」という文書がある。同行のホームページにも載っているので、是非読んでみて欲しい。日本銀行がどれくらい、たるんだ、モラルのない組織であるかが、よく分かる。
同行自身による調査で分かった範囲だが、平成一一年四月から今年の一月までの国内出張で、出張者一三三〇人に対して航空運賃の過払いが七千三百万円あったという。割引料金のチケットを使いながら、正規運賃で旅費の支払いを受ける、単純な手口だが、多くの職員が、不当なお金を着服していてもよいと考えたモラルの乏しさ。そうしたことが可能な日銀の内部管理体制に対して、疑問を持たずにいた意識の低さ。これらの持つ意味は重い。しかも、会計検査院の指摘を受けてはじめて気づいたようだ。こんな連中に検査されるのでは、民間銀行も浮かばれない。
民間会社でも、社員が、出張旅費を浮かせるようなことが、全くないわけではないが、まともな会社は、過払いが起こらないような管理ルールを作り、実行する。また、金銭管理で問題を起こすような社員は、出世させない。しかし、今回、日銀は、譴責、注意、過払い分の返還といった、要は、「注意」と「盗んだお金を戻す」だけの軽い処分にとどめた。
世間的話題からやや遠ざかったが、福井総裁の今年二月の村上ファンド解約は、常識的な解釈では内規に十分触れている。量的緩和政策解除の前の株式ファンド解約だから、世間の疑いを買うに十分であり、これに気づかぬ何たる愚鈍。こうしたうす汚い人物は、直ぐに辞任して、ゼロ金利政策解除などの重要決定に関わらないことが望ましかったが、いまだにポストにしがみついている。組織を魚にたとえて「魚は頭から腐る」とよくいわれるが、日銀にもよく当てはまるようだ。
================================
短文のコラムということもあり、強い調子で書いていますが、内容は至極妥当ではないかと思っています。
当該雑誌を批判することを特に目的とはしていないので、今回は、雑誌の名前は挙げませんが、この程度の批判原稿でも、世に出すのは結構大変なのだ、という残念なサンプルとして、公開します。
そういえば、ある雑誌に載っていた漫画「ベルサイユのバラ」の作者、池田理代子さんのインタビュー記事によると、彼女の旦那さんは、ご結婚当時、日銀にお勤めで、投資信託関係のデータに関わる仕事を所管されており、新妻である彼女に「投資信託のようなものは買ってくれるな」と強く言ったのだそうです。彼女は、当時、随分堅苦しいことを言う人だなと少々不満に思ったらしいのですが、その後、福井総裁の村上ファンド問題が出て、うちの主人は正しい立派な人だったのだ!と見直した、というような話が載っていました。
日銀にあっても、自分の仕事に関係があると思われるようなことで、疑いを受けるようなことは決してしたくない、と考えるような、真面目な人が多いのではないかと、私は推測しています。こうした真面目な職員は、福井氏のような方が総裁の地位にしがみついていることを、苦々しく思っておられるのではないでしょうか。ただ、行内での批判の声が、外に洩れてこないのは、さすが日銀(悪い意味で)と言うべきかも知れません。
それにしても、「尊敬」でなく「軽蔑」される人が中央銀行のトップというのは、国にとっていいことではありません。福井総裁には、早くお辞めになって貰えないものかとつくづく思います。
編集長氏によると、
(1)匿名での批判原稿である、
(2)日銀のような不正(出張旅費の過大請求)は他の企業にも多々あり、日銀だけを強く批判するのはいかがなものか、
(3)福井総裁個人への批判は編集方針になじまない、
(4)今後の日銀への取材のしやすさその他という考慮もある。腰が引けていると言われればそれまでですが、
ということでした。
私の反論というか言い分は、
(1)実名で掲載しても構わないし、そのコラム欄は政策に対する批判などが日頃から載っている、
(2)日銀自体の管理に問題があるということだから、他社は関係ないし、読者が判断すればいいことだ、
(3)福井総裁は公人だし、根も葉もない批判を書いているのではない、
(4)編集方針だというなら仕方がないですね、
というものでした。
編集長と話し合った結果、表現を書き替えて載せるのではなく、今回は原稿を取り下げるのが、「ありがたい」とのことだったので、これに同意して、ボツが確定しました。
以下に、原稿を内容をそのまま貼り付けます(誤字の訂正が一カ所と、フォーマットの修正がありますが)。
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「日銀の自力更生には限界」
日本銀行がさる八月四日付けで発表した「国内出張における航空運賃の支給に関する調査結果等」という文書がある。同行のホームページにも載っているので、是非読んでみて欲しい。日本銀行がどれくらい、たるんだ、モラルのない組織であるかが、よく分かる。
同行自身による調査で分かった範囲だが、平成一一年四月から今年の一月までの国内出張で、出張者一三三〇人に対して航空運賃の過払いが七千三百万円あったという。割引料金のチケットを使いながら、正規運賃で旅費の支払いを受ける、単純な手口だが、多くの職員が、不当なお金を着服していてもよいと考えたモラルの乏しさ。そうしたことが可能な日銀の内部管理体制に対して、疑問を持たずにいた意識の低さ。これらの持つ意味は重い。しかも、会計検査院の指摘を受けてはじめて気づいたようだ。こんな連中に検査されるのでは、民間銀行も浮かばれない。
民間会社でも、社員が、出張旅費を浮かせるようなことが、全くないわけではないが、まともな会社は、過払いが起こらないような管理ルールを作り、実行する。また、金銭管理で問題を起こすような社員は、出世させない。しかし、今回、日銀は、譴責、注意、過払い分の返還といった、要は、「注意」と「盗んだお金を戻す」だけの軽い処分にとどめた。
世間的話題からやや遠ざかったが、福井総裁の今年二月の村上ファンド解約は、常識的な解釈では内規に十分触れている。量的緩和政策解除の前の株式ファンド解約だから、世間の疑いを買うに十分であり、これに気づかぬ何たる愚鈍。こうしたうす汚い人物は、直ぐに辞任して、ゼロ金利政策解除などの重要決定に関わらないことが望ましかったが、いまだにポストにしがみついている。組織を魚にたとえて「魚は頭から腐る」とよくいわれるが、日銀にもよく当てはまるようだ。
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短文のコラムということもあり、強い調子で書いていますが、内容は至極妥当ではないかと思っています。
当該雑誌を批判することを特に目的とはしていないので、今回は、雑誌の名前は挙げませんが、この程度の批判原稿でも、世に出すのは結構大変なのだ、という残念なサンプルとして、公開します。
そういえば、ある雑誌に載っていた漫画「ベルサイユのバラ」の作者、池田理代子さんのインタビュー記事によると、彼女の旦那さんは、ご結婚当時、日銀にお勤めで、投資信託関係のデータに関わる仕事を所管されており、新妻である彼女に「投資信託のようなものは買ってくれるな」と強く言ったのだそうです。彼女は、当時、随分堅苦しいことを言う人だなと少々不満に思ったらしいのですが、その後、福井総裁の村上ファンド問題が出て、うちの主人は正しい立派な人だったのだ!と見直した、というような話が載っていました。
日銀にあっても、自分の仕事に関係があると思われるようなことで、疑いを受けるようなことは決してしたくない、と考えるような、真面目な人が多いのではないかと、私は推測しています。こうした真面目な職員は、福井氏のような方が総裁の地位にしがみついていることを、苦々しく思っておられるのではないでしょうか。ただ、行内での批判の声が、外に洩れてこないのは、さすが日銀(悪い意味で)と言うべきかも知れません。
それにしても、「尊敬」でなく「軽蔑」される人が中央銀行のトップというのは、国にとっていいことではありません。福井総裁には、早くお辞めになって貰えないものかとつくづく思います。
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将棋名人戦問題で考えたこと
私は将棋ファンとはいえ、目下、それほど熱心なファンではないので、将棋の名人戦問題について、詳しい事情を知らない。とはいえ、将棋がどうなるのかは、気になる問題なので、今の時点で思っていることを述べてみる。
先ず、交渉の経緯だが、将棋連盟が朝日新聞社との合意を頼りに、毎日新聞社に対して、いきなり解約通告を突きつけて、しかも、これが世の中にオープンになってしまったことは、ビジネス常識的に考えて、将棋連盟側に落ち度があったと思う。仮に、毎日新聞社から名人戦がなくなるとしても、毎日新聞社は、別のタイトル戦としてやはり伝統のある王将戦を主催する重要取引先であるし、もちろん、これまでの大スポンサーに対して失礼でもあった。
但し、今回感心したのは、この問題に対する毎日新聞社の「大人の対応」で、結果的には、将棋連盟はこれに救われたように思う。
8月1日の棋士総会の前の時点で、毎日新聞社、朝日新聞社がそれぞれ提示した条件は次のようなものだと報じられている(朝日新聞社のサイトによる)。
==================================
毎日新聞社は単独主催の継続に合わせ、(1)名人戦は7年契約とし、将棋振興金3000万円を毎年支払う(2)名人戦契約金は第66期は現行より100万円増の年3億3500万円とし、その後は毎年協議する(3)スポーツニッポン新聞社と共催の王将戦は継続する(4)全日本都市対抗将棋大会(事業規模2800万円)を創設する――と提案した。
一方、朝日新聞社は非公式な内容として3月17日付で、(1)名人戦契約金は年3億5500万円で5年契約とする(2)将棋普及協力金として年1億5000万円を5年間支払う(3)朝日オープン将棋選手権にかえ、年4000万円の契約金の棋戦を5年間実施する――との条件を示していた。
==================================
朝日新聞社側の金額を全て足し合わせても、年間5億4千5百万円。名人戦(予選としての順位戦を含む)、朝日オープンの全棋士参加規模の二つの棋戦の棋譜を売ってこれだけの収入(「大魔神」が「大暇人」になった年の佐々木投手の最後の年俸がこれくらいだったか)にしかならない、というのは、何とも厳しい現実だ。棋士総会の総投票数が191票だったから、先の数字を仮に200で割ると、一人年間272万円であり、他にも棋戦はあるが、この二棋戦の収入では、「年収300万円時代」にも及ばない(しかも羽生も森内も含めた「平均」でだ)。
毎日新聞社側の提案との比較は王将戦の契約金額が分からないので何ともいえない。また、それぞれの場合に、名人戦を契約しない方の新聞社と金額が幾らのどんな内容の契約になるかが分からないと、経済的な側面の、厳密な比較は出来ない。
棋士総会の決定は、毎日新聞と単独契約することに対して、賛成が90票、反対が101票で、将棋連盟は、朝日・毎日共催の可能性も含めて、先ずは朝日新聞社と交渉することになった。僅差ではあったが、羽生三冠、森内名人、渡辺竜王など、タイトルホルダーが毎日乗りの中で、朝日派が勝った展開は意外であった。
明確に態度を表明した羽生はさすがにひとかどの人物だと感心したが、その他の棋士が、発言しにくそうにしている様子は心配だ。考えてみると、将棋の棋士は、傾いた中小企業に勤めながらも、転職できないサラリーマン(しかも厳しい成果主義に晒されている)のようなものだ。
たとえば、毎週届く「週刊文春」には先崎八段の連載コラムがあるが、彼のような「言いたいことを言いそうな若手社員」が、絶好のネタであるこの問題に沈黙して、日常のつまらない話(敢えて言う)を書いている様子を見ると、将棋の世界の重苦しさが伝わってきて、胸が締め付けられるような感じがする。
それにしても、たぶん総額1億円くらい経済的に良さそうな朝日案に、何故タイトルホルダー達は反対したのだろうか。交渉の経緯や礼儀といった問題もあるのだろうが、朝日案の「将棋普及協力金、1億5千万円」というのがどうも胡散臭い。
棋戦としての名人戦のやりとりなら、名人戦の契約金・賞金とすればよさそうなものだが、普及協力金として将棋連盟にお金が入るなら、これは、将棋に勝ったトーナメント・プロが賞金を獲得するのではなく、たぶん将棋連盟の幹部の裁量で分配することができるお金の原資に回ることになる。そう考えると、タイトルを争うような棋士にとっては「強い者が稼ぐ」という原則に反するように思えるだろうし、逆に、タイトル争いに絡めない必然的に経済的弱者の棋士にとっては、なかなか魅力的な仕組みということになる。国連の一国一票のように、タイトルホルダーも力の落ちたフリークラス棋士も同じ一票で票決すると、こういう結果が出ても不思議ではない。なんだか夢の無い話だが、経済的推測としては、現実的だ。
毎日新聞社は、共催に応じるだろうか? 一将棋ファンとして思うに、朝日新聞にも名人戦・順位戦の棋譜が載るということなら、毎日新聞に魅力はない。かつて一時期だけだが、私は、日経+朝日の組み合わせに代えて、日経+毎日を取っていた時代がある。もちろん、目当ては名人戦・順位戦の棋譜(だけ)だった。たぶん、毎日新聞社は共催に応じないだろう、と推測する。
それにしても、名人戦・順位戦という将棋界最高レベルのコンテンツの価値が年間たかだか5億円程度という現実には愕然とする。しかも、現在主なスポンサーである、紙ベースの新聞の将来が大いに危うい。このままでは、有望な天才少年が、もうプロ棋士を目指してくれなくなるかも知れない。
将棋自体は、ルールが単純で且つ奥が深いゲームだし、「見せ物」としてのスリルも十分だ。これを理解している人口も多いし、今後の高齢化時代にもマッチしている。将棋をもっと有効に売るビジネスモデルを、羽生世代にまだ活力があるうちに(つまり数年以内に)作っていかないと勿体ないし、将来が心配だ。
(1)ネットに対応したビジネスモデルの確立、(2)TV番組としての見せ方・作り方の改造(もっとエンタメ寄り、或いは視聴者参加型など。コンピューターとトップ・プロの対決など、「脳力ブーム」でもあり、視聴率が取れそうだ)、(3)「将棋道場」のてこ入れ策、(4)国際普及(駒の改造や、外国人の天才の発掘・養成なども必要)、(5)PC携帯などのゲームビジネスへの関与、といった多くの経営課題がありそうだ。
将棋のプロではなく、経営のプロによる経営が必要な時だろう。
先ず、交渉の経緯だが、将棋連盟が朝日新聞社との合意を頼りに、毎日新聞社に対して、いきなり解約通告を突きつけて、しかも、これが世の中にオープンになってしまったことは、ビジネス常識的に考えて、将棋連盟側に落ち度があったと思う。仮に、毎日新聞社から名人戦がなくなるとしても、毎日新聞社は、別のタイトル戦としてやはり伝統のある王将戦を主催する重要取引先であるし、もちろん、これまでの大スポンサーに対して失礼でもあった。
但し、今回感心したのは、この問題に対する毎日新聞社の「大人の対応」で、結果的には、将棋連盟はこれに救われたように思う。
8月1日の棋士総会の前の時点で、毎日新聞社、朝日新聞社がそれぞれ提示した条件は次のようなものだと報じられている(朝日新聞社のサイトによる)。
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毎日新聞社は単独主催の継続に合わせ、(1)名人戦は7年契約とし、将棋振興金3000万円を毎年支払う(2)名人戦契約金は第66期は現行より100万円増の年3億3500万円とし、その後は毎年協議する(3)スポーツニッポン新聞社と共催の王将戦は継続する(4)全日本都市対抗将棋大会(事業規模2800万円)を創設する――と提案した。
一方、朝日新聞社は非公式な内容として3月17日付で、(1)名人戦契約金は年3億5500万円で5年契約とする(2)将棋普及協力金として年1億5000万円を5年間支払う(3)朝日オープン将棋選手権にかえ、年4000万円の契約金の棋戦を5年間実施する――との条件を示していた。
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朝日新聞社側の金額を全て足し合わせても、年間5億4千5百万円。名人戦(予選としての順位戦を含む)、朝日オープンの全棋士参加規模の二つの棋戦の棋譜を売ってこれだけの収入(「大魔神」が「大暇人」になった年の佐々木投手の最後の年俸がこれくらいだったか)にしかならない、というのは、何とも厳しい現実だ。棋士総会の総投票数が191票だったから、先の数字を仮に200で割ると、一人年間272万円であり、他にも棋戦はあるが、この二棋戦の収入では、「年収300万円時代」にも及ばない(しかも羽生も森内も含めた「平均」でだ)。
毎日新聞社側の提案との比較は王将戦の契約金額が分からないので何ともいえない。また、それぞれの場合に、名人戦を契約しない方の新聞社と金額が幾らのどんな内容の契約になるかが分からないと、経済的な側面の、厳密な比較は出来ない。
棋士総会の決定は、毎日新聞と単独契約することに対して、賛成が90票、反対が101票で、将棋連盟は、朝日・毎日共催の可能性も含めて、先ずは朝日新聞社と交渉することになった。僅差ではあったが、羽生三冠、森内名人、渡辺竜王など、タイトルホルダーが毎日乗りの中で、朝日派が勝った展開は意外であった。
明確に態度を表明した羽生はさすがにひとかどの人物だと感心したが、その他の棋士が、発言しにくそうにしている様子は心配だ。考えてみると、将棋の棋士は、傾いた中小企業に勤めながらも、転職できないサラリーマン(しかも厳しい成果主義に晒されている)のようなものだ。
たとえば、毎週届く「週刊文春」には先崎八段の連載コラムがあるが、彼のような「言いたいことを言いそうな若手社員」が、絶好のネタであるこの問題に沈黙して、日常のつまらない話(敢えて言う)を書いている様子を見ると、将棋の世界の重苦しさが伝わってきて、胸が締め付けられるような感じがする。
それにしても、たぶん総額1億円くらい経済的に良さそうな朝日案に、何故タイトルホルダー達は反対したのだろうか。交渉の経緯や礼儀といった問題もあるのだろうが、朝日案の「将棋普及協力金、1億5千万円」というのがどうも胡散臭い。
棋戦としての名人戦のやりとりなら、名人戦の契約金・賞金とすればよさそうなものだが、普及協力金として将棋連盟にお金が入るなら、これは、将棋に勝ったトーナメント・プロが賞金を獲得するのではなく、たぶん将棋連盟の幹部の裁量で分配することができるお金の原資に回ることになる。そう考えると、タイトルを争うような棋士にとっては「強い者が稼ぐ」という原則に反するように思えるだろうし、逆に、タイトル争いに絡めない必然的に経済的弱者の棋士にとっては、なかなか魅力的な仕組みということになる。国連の一国一票のように、タイトルホルダーも力の落ちたフリークラス棋士も同じ一票で票決すると、こういう結果が出ても不思議ではない。なんだか夢の無い話だが、経済的推測としては、現実的だ。
毎日新聞社は、共催に応じるだろうか? 一将棋ファンとして思うに、朝日新聞にも名人戦・順位戦の棋譜が載るということなら、毎日新聞に魅力はない。かつて一時期だけだが、私は、日経+朝日の組み合わせに代えて、日経+毎日を取っていた時代がある。もちろん、目当ては名人戦・順位戦の棋譜(だけ)だった。たぶん、毎日新聞社は共催に応じないだろう、と推測する。
それにしても、名人戦・順位戦という将棋界最高レベルのコンテンツの価値が年間たかだか5億円程度という現実には愕然とする。しかも、現在主なスポンサーである、紙ベースの新聞の将来が大いに危うい。このままでは、有望な天才少年が、もうプロ棋士を目指してくれなくなるかも知れない。
将棋自体は、ルールが単純で且つ奥が深いゲームだし、「見せ物」としてのスリルも十分だ。これを理解している人口も多いし、今後の高齢化時代にもマッチしている。将棋をもっと有効に売るビジネスモデルを、羽生世代にまだ活力があるうちに(つまり数年以内に)作っていかないと勿体ないし、将来が心配だ。
(1)ネットに対応したビジネスモデルの確立、(2)TV番組としての見せ方・作り方の改造(もっとエンタメ寄り、或いは視聴者参加型など。コンピューターとトップ・プロの対決など、「脳力ブーム」でもあり、視聴率が取れそうだ)、(3)「将棋道場」のてこ入れ策、(4)国際普及(駒の改造や、外国人の天才の発掘・養成なども必要)、(5)PC携帯などのゲームビジネスへの関与、といった多くの経営課題がありそうだ。
将棋のプロではなく、経営のプロによる経営が必要な時だろう。
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亀田・ランダエタ戦を見て思ったこと
私も亀田勝ちという採点はなかろうと思いました。
昨晩と今朝に分けてVTRを見た私の採点では、117-112でランダエタの勝ちです。1ラウンドはダウンがあるのでルール上は10-8、その後、8ラウンドまでは一進一退で、この7ラウンドを亀田が4つ取っていたとして、9ラウンドから12ラウンドは全てランダエタが取っているので、先のスコアになります。
ランダエタとしては、終盤に、これだけハッキリ取っていれば大丈夫だと思ったことでしょう。なぜ倒せなかったか、という疑問もありますが、かなり力の差があっても、無理に倒しに行って、倒し損なって自分がガス欠(実際には足りないのは酸素で、筋肉には乳酸が溜まる)になるリスクもありますし、カメというだけあって、亀田選手のガードの外側は堅い(内側にはアッパーを入れるスペースが頻繁にあるが・・)ので、何が何でも倒すというのは、大変な話です。ランダエタは、「まさか、これで、負け?」と思っているかも知れませんが、敵地でのタイトル戦は、倒さなければ勝てない、と覚悟するべきなのでしょう。厳しい世界です。
TBSの意を受けてか、解説の鬼塚氏が、亀田のパンチの方が効いているというようなことをしきりに言っていましたが、何を見ていたのか。ランダエタは最後まで顔が綺麗だったし、ボディーもそう効くような打たれ方をしていませんでした。その証拠に、11ラウンド目にふらふらになって、何度もクリンチしたのは亀田選手であり、ダメージの差は明らかでした。TBSは判定後に、一度もランダエタ選手を映しませんでしたが、まあ、亀田物語に忙しかったとしても、彼我のダメージが違いすぎて映せなかったのでありましょう。
亀田とランダエタの実力差は、かなりのものがあるのではないでしょうか。亀田選手は装甲車のようにガードを上げてプッシュしましたが、ランダエタはそう頻繁にロープにつまらなかったし、つまっても、殆どクリンチ無しに体をかわしていました。これは、亀田選手のラッシュに、カラダを押す力はあっても、パンチの威力がないことの証拠ではないでしょうか。ランダエタは、「怖くない」と思っていたはずです。
もっとも、ランダエタもそんなに優れた選手だとは思えません。彼は、右のガードが下がるという明らかな欠点があり、当て方は上手いけれども、パンチは手打ちです(良く言えばモーションが小さくて避けにくい)。しかも、強く打とうとすると、パンチが大きく外を回るので、避けやすそうです(これは亀田選手も一緒ですね)。ところが、亀田選手の1回のダウンは、この大回り右フックを浴びたのですから、格好が悪かった。
亀田選手は、体格・体力上の素質を認めるとしても、一番がっかりしたのは、パンチがないことです。前出のように、ランダエタは、右が下がるので、亀田選手の左ストレートが時々入りましたが、ランダエタがふらつくようなインパクトは一度もありませんでした。
これまでも、格違いの相手を一発でしとめるのではなく、ボディーで強引に倒していましたが、軽量級とはいえ、切れのいい一発パンチが無いようでは、素材として魅力がありません。
試合運びも、ガード(八の字ワンパターンで)を上げて押して行って、相手が疲れたらラッシュする、という単調な(ご本人も「ブサイクな試合」と言っていましたが・・)パターンだけなので、パンチ、テクニック共に、まだまだこれからなのではないでしょうか(パンチ力が急に育つとは思えませんが)。亀田選手は、口ぶりは派手ですが、試合振りは意外に堅実です。
それにしても、このホームタウン・ディシジョン(現地有利の判定)はいただけません。試合内容は、昨年フランスで行われた、ロレンソ・パーラ(ベネズエラ)とブライム・アスローム(フランスのゴールデンボーイ。五輪金メダリスト)ほどは離れていなかったかも知れませんが、あの試合が、ロレンソ・パーラのフルマーク勝ちであったことを思うと、今回の日本というか興業サイドのやり口は、「やり過ぎ」でしょうし、かえって逆効果になったようにも思います。もっとも、ビジネス的には、これでアンチ亀田ファンが増えて、妙に盛り上がるかも知れませんが・・。
亀田選手の次の試合の相手は、今回のタイトルを返上して一階級上げて、WBCフライ級チャンピオンのポンサクレック(タイ)でしょうか。彼は、一発で倒すような危険なパンチがないので、亀田陣営好みです。WBAのロレンソ・パーラは上手くて狡くて強いので、陣営は、彼とはやりたくないでしょう。亀田が本当に強ければ、WBCライト・フライ級のブライアン・ビロリア(ハワイ出身。パンチ有り!)と統一戦を組むところでしょうが、これはどう見ても勝ち目がありません。ちなみに、日本が認めない団体のフライ級チャンピオンは、ホルヘ・アルセ(メキシコ。人気者でファイター)、ビック・ダルチニャン(アルメニア?。たぶん同級最強の倒し屋)で、共に面白い試合を見せるので、見物人としては、彼らとやらせたいところですが、現時点では、「非人道的ミスマッチ」と言えそうです。
ところで、ボクシングの採点でいつも思うことですが、形ばかり第三国からとはいえ、今回のように興業サイドが審判にお金を払うわけで、採点が怪しくなることは今後もあると思うのですが、ジャッジ毎の採点を毎ラウンド終了時に公開したらどんなものなのでしょうか。これなら、ポイントが足りない側は必死になるし、ポイントの見込み違いで逃げて試合を落とす(デラ・ホーヤとトリニダードの試合のデラ・ホーヤみたいに)、といった後味の悪さもありませんし、余りにおかしな採点をするジャッジには、途中からブーイングが出るでしょう。また、点差が離れて、相手をノックアウト出来ないとなれば、早く諦めるでしょうから、選手のダメージも少なく済みます。
私は、怪しい判定の試合を見る度に、上記のようなことを思うのですが、「これがいい」とも思う一方、点数が分かると、粉飾してでも決算をごまかそうとする経営者のごとく、劣勢の選手が必死になって、ボクシングの試合があまりに危なく、また凄惨なものになってダメかも知れない、とも思います。
毎ラウンド採点を公表するとどうなるのか、どなたか専門家のご意見を伺いたいところです。
それにしても、多少の現地選手有利は仕方がないとしても、プロの格闘技の中でも、せめてボクシングはスポーツとして見たい、と思っている私のようなボクシング・ファンには、今回の亀田選手の試合は残念な試合でした。
昨晩と今朝に分けてVTRを見た私の採点では、117-112でランダエタの勝ちです。1ラウンドはダウンがあるのでルール上は10-8、その後、8ラウンドまでは一進一退で、この7ラウンドを亀田が4つ取っていたとして、9ラウンドから12ラウンドは全てランダエタが取っているので、先のスコアになります。
ランダエタとしては、終盤に、これだけハッキリ取っていれば大丈夫だと思ったことでしょう。なぜ倒せなかったか、という疑問もありますが、かなり力の差があっても、無理に倒しに行って、倒し損なって自分がガス欠(実際には足りないのは酸素で、筋肉には乳酸が溜まる)になるリスクもありますし、カメというだけあって、亀田選手のガードの外側は堅い(内側にはアッパーを入れるスペースが頻繁にあるが・・)ので、何が何でも倒すというのは、大変な話です。ランダエタは、「まさか、これで、負け?」と思っているかも知れませんが、敵地でのタイトル戦は、倒さなければ勝てない、と覚悟するべきなのでしょう。厳しい世界です。
TBSの意を受けてか、解説の鬼塚氏が、亀田のパンチの方が効いているというようなことをしきりに言っていましたが、何を見ていたのか。ランダエタは最後まで顔が綺麗だったし、ボディーもそう効くような打たれ方をしていませんでした。その証拠に、11ラウンド目にふらふらになって、何度もクリンチしたのは亀田選手であり、ダメージの差は明らかでした。TBSは判定後に、一度もランダエタ選手を映しませんでしたが、まあ、亀田物語に忙しかったとしても、彼我のダメージが違いすぎて映せなかったのでありましょう。
亀田とランダエタの実力差は、かなりのものがあるのではないでしょうか。亀田選手は装甲車のようにガードを上げてプッシュしましたが、ランダエタはそう頻繁にロープにつまらなかったし、つまっても、殆どクリンチ無しに体をかわしていました。これは、亀田選手のラッシュに、カラダを押す力はあっても、パンチの威力がないことの証拠ではないでしょうか。ランダエタは、「怖くない」と思っていたはずです。
もっとも、ランダエタもそんなに優れた選手だとは思えません。彼は、右のガードが下がるという明らかな欠点があり、当て方は上手いけれども、パンチは手打ちです(良く言えばモーションが小さくて避けにくい)。しかも、強く打とうとすると、パンチが大きく外を回るので、避けやすそうです(これは亀田選手も一緒ですね)。ところが、亀田選手の1回のダウンは、この大回り右フックを浴びたのですから、格好が悪かった。
亀田選手は、体格・体力上の素質を認めるとしても、一番がっかりしたのは、パンチがないことです。前出のように、ランダエタは、右が下がるので、亀田選手の左ストレートが時々入りましたが、ランダエタがふらつくようなインパクトは一度もありませんでした。
これまでも、格違いの相手を一発でしとめるのではなく、ボディーで強引に倒していましたが、軽量級とはいえ、切れのいい一発パンチが無いようでは、素材として魅力がありません。
試合運びも、ガード(八の字ワンパターンで)を上げて押して行って、相手が疲れたらラッシュする、という単調な(ご本人も「ブサイクな試合」と言っていましたが・・)パターンだけなので、パンチ、テクニック共に、まだまだこれからなのではないでしょうか(パンチ力が急に育つとは思えませんが)。亀田選手は、口ぶりは派手ですが、試合振りは意外に堅実です。
それにしても、このホームタウン・ディシジョン(現地有利の判定)はいただけません。試合内容は、昨年フランスで行われた、ロレンソ・パーラ(ベネズエラ)とブライム・アスローム(フランスのゴールデンボーイ。五輪金メダリスト)ほどは離れていなかったかも知れませんが、あの試合が、ロレンソ・パーラのフルマーク勝ちであったことを思うと、今回の日本というか興業サイドのやり口は、「やり過ぎ」でしょうし、かえって逆効果になったようにも思います。もっとも、ビジネス的には、これでアンチ亀田ファンが増えて、妙に盛り上がるかも知れませんが・・。
亀田選手の次の試合の相手は、今回のタイトルを返上して一階級上げて、WBCフライ級チャンピオンのポンサクレック(タイ)でしょうか。彼は、一発で倒すような危険なパンチがないので、亀田陣営好みです。WBAのロレンソ・パーラは上手くて狡くて強いので、陣営は、彼とはやりたくないでしょう。亀田が本当に強ければ、WBCライト・フライ級のブライアン・ビロリア(ハワイ出身。パンチ有り!)と統一戦を組むところでしょうが、これはどう見ても勝ち目がありません。ちなみに、日本が認めない団体のフライ級チャンピオンは、ホルヘ・アルセ(メキシコ。人気者でファイター)、ビック・ダルチニャン(アルメニア?。たぶん同級最強の倒し屋)で、共に面白い試合を見せるので、見物人としては、彼らとやらせたいところですが、現時点では、「非人道的ミスマッチ」と言えそうです。
ところで、ボクシングの採点でいつも思うことですが、形ばかり第三国からとはいえ、今回のように興業サイドが審判にお金を払うわけで、採点が怪しくなることは今後もあると思うのですが、ジャッジ毎の採点を毎ラウンド終了時に公開したらどんなものなのでしょうか。これなら、ポイントが足りない側は必死になるし、ポイントの見込み違いで逃げて試合を落とす(デラ・ホーヤとトリニダードの試合のデラ・ホーヤみたいに)、といった後味の悪さもありませんし、余りにおかしな採点をするジャッジには、途中からブーイングが出るでしょう。また、点差が離れて、相手をノックアウト出来ないとなれば、早く諦めるでしょうから、選手のダメージも少なく済みます。
私は、怪しい判定の試合を見る度に、上記のようなことを思うのですが、「これがいい」とも思う一方、点数が分かると、粉飾してでも決算をごまかそうとする経営者のごとく、劣勢の選手が必死になって、ボクシングの試合があまりに危なく、また凄惨なものになってダメかも知れない、とも思います。
毎ラウンド採点を公表するとどうなるのか、どなたか専門家のご意見を伺いたいところです。
それにしても、多少の現地選手有利は仕方がないとしても、プロの格闘技の中でも、せめてボクシングはスポーツとして見たい、と思っている私のようなボクシング・ファンには、今回の亀田選手の試合は残念な試合でした。
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藤原新也氏の「カメラマン」に思う
藤原新也「渋谷」(東京書籍)を読んだ。藤原新也氏は、「全東洋街道」の頃から私が大好きな写真家の一人で、写真ばかりでなく、文章もよく読んでいた。氏はいろいろな写真を撮っておられるが、メッセージ性が強い写真もあれば、色が響き合うような本能に立脚したとしかいいようのない官能的かつ絵画的な写真もあって、学生の頃から好きだった。
近刊の「渋谷」は、「アサヒカメラ」の8月号で知って、藤原氏のポートレート撮影について手の内が書かれているらしい、という俗な興味もあって、書店で買い求めた。
全体のテーマは、母と子供(特に娘)の関係から見た現代における自我の獲得の困難さのようなものなのだが、渋谷で女の子を追ってファッションマッサージ屋の個室で交わす会話の中にあった、面白い言葉が気になった。
作中の藤原氏は、ファッションマッサージ嬢のユリカに、自分が写真家であることを明かすに当たって、次のように言う。「別に写真をやっているからすごいってことないんだよ。お豆腐屋さんが豆腐を作っていることと同じなんだから。ちょっと違うところはお豆腐屋さんはお客さんを選べないけど、カメラマンは撮りたい人を選べるって事かも知れない」。本当にそう言ったのかどうか分からないが、本に載せる自分の台詞としては、自意識を隠さない、頑張ったフレーズだと思う。
細かなことを言うと、この比喩は、藤原新也氏にしては不正確かつ不用意であり、カメラマンも自分の作品を見てくれる人を選べるわけではないし、豆腐屋も、自分の好きなように豆腐を作るのだから(気骨があれば、だが)、両者は、本質的に同じなのだ。
もっとも、私が気になるのは、上記の点ではない。職業的カメラマンの、いったい何%が、「撮りたい人が選べる」のだろうか、ということなのだ。
私は仕事がら、ほぼ毎週1人強のカメラマンに会っているが、率直に言って、カメラマンとして、是非とも私の写真を撮りたくて、オフィスに訪ねてくる人はいるまい。編集者の依頼を受けて、仕事として、(つまらない、私の)顔写真を撮りに来るのだ。
しかし、幾らか強引な解釈だが、藤原氏は、自分が撮りたい人を撮るような人のことを「カメラマン」として認めており、たぶん、表現者として、認めているということなのだろう。先の台詞には、藤原氏の職業的矜恃がほとばしっている。
さすれば、私が日頃お会いするカメラマンの多くは、藤原氏的な意味では、「カメラマン」ではない、ということになるのか? 100%ではないにしても、そういうことなのだろう。
ここで、もちろん、問題は、カメラマンにとどまらない。
たとえば、「経済評論家・山崎元」も、かなりのケースで、自分でテーマを選ぶのではなく、編集者・記者(活字の場合)や、ディレクター(映像の場合)から依頼を受けたテーマについて、書いたり、話したり、している。藤原氏的な意味では、一人前でない、ということになるのだろう。これは、素直に認める方が良さそうだ。
今のところ、私は、たぶん若いカメラマンがそうであるように(私は年齢は若くないが、フリー歴はまだ浅い)、依頼されたテーマについて原稿を書いたり、コメントしたりしていること、つまり仕事があることを、肯定的に考えている。
だが、やはり、本当に言うべきことが何かを自分で捉えて、自分でテーマを持ち込んで、雑誌の原稿なり、単行本なりを書く仕事をしていくべきなのだろうとも思っている。
尚、「渋谷」は、久しぶりに彼の本を買う私のような(なまくらな)ファンにも、藤原新也の世界を十分堪能させてくれる、なかなかの読み応えの本だと思った。
近刊の「渋谷」は、「アサヒカメラ」の8月号で知って、藤原氏のポートレート撮影について手の内が書かれているらしい、という俗な興味もあって、書店で買い求めた。
全体のテーマは、母と子供(特に娘)の関係から見た現代における自我の獲得の困難さのようなものなのだが、渋谷で女の子を追ってファッションマッサージ屋の個室で交わす会話の中にあった、面白い言葉が気になった。
作中の藤原氏は、ファッションマッサージ嬢のユリカに、自分が写真家であることを明かすに当たって、次のように言う。「別に写真をやっているからすごいってことないんだよ。お豆腐屋さんが豆腐を作っていることと同じなんだから。ちょっと違うところはお豆腐屋さんはお客さんを選べないけど、カメラマンは撮りたい人を選べるって事かも知れない」。本当にそう言ったのかどうか分からないが、本に載せる自分の台詞としては、自意識を隠さない、頑張ったフレーズだと思う。
細かなことを言うと、この比喩は、藤原新也氏にしては不正確かつ不用意であり、カメラマンも自分の作品を見てくれる人を選べるわけではないし、豆腐屋も、自分の好きなように豆腐を作るのだから(気骨があれば、だが)、両者は、本質的に同じなのだ。
もっとも、私が気になるのは、上記の点ではない。職業的カメラマンの、いったい何%が、「撮りたい人が選べる」のだろうか、ということなのだ。
私は仕事がら、ほぼ毎週1人強のカメラマンに会っているが、率直に言って、カメラマンとして、是非とも私の写真を撮りたくて、オフィスに訪ねてくる人はいるまい。編集者の依頼を受けて、仕事として、(つまらない、私の)顔写真を撮りに来るのだ。
しかし、幾らか強引な解釈だが、藤原氏は、自分が撮りたい人を撮るような人のことを「カメラマン」として認めており、たぶん、表現者として、認めているということなのだろう。先の台詞には、藤原氏の職業的矜恃がほとばしっている。
さすれば、私が日頃お会いするカメラマンの多くは、藤原氏的な意味では、「カメラマン」ではない、ということになるのか? 100%ではないにしても、そういうことなのだろう。
ここで、もちろん、問題は、カメラマンにとどまらない。
たとえば、「経済評論家・山崎元」も、かなりのケースで、自分でテーマを選ぶのではなく、編集者・記者(活字の場合)や、ディレクター(映像の場合)から依頼を受けたテーマについて、書いたり、話したり、している。藤原氏的な意味では、一人前でない、ということになるのだろう。これは、素直に認める方が良さそうだ。
今のところ、私は、たぶん若いカメラマンがそうであるように(私は年齢は若くないが、フリー歴はまだ浅い)、依頼されたテーマについて原稿を書いたり、コメントしたりしていること、つまり仕事があることを、肯定的に考えている。
だが、やはり、本当に言うべきことが何かを自分で捉えて、自分でテーマを持ち込んで、雑誌の原稿なり、単行本なりを書く仕事をしていくべきなのだろうとも思っている。
尚、「渋谷」は、久しぶりに彼の本を買う私のような(なまくらな)ファンにも、藤原新也の世界を十分堪能させてくれる、なかなかの読み応えの本だと思った。
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まだ辞任しない福井総裁について
14日、おおかたの観測通り、日銀がゼロ金利政策を解除した。何日も前から、新聞が彼ら的に「裏を取って」、「ゼロ金利解除」を報じることが出来るような、政策委員たちの情報管理感覚には少なからぬ疑問を覚えるが、まあ、今回は大目に見よう(本当は、大目に見てはいけない感じだが)。
大目に見る、と済ますわけには行かないのは、福井俊彦日銀総裁の進退問題だ。
私は、別段、彼に恨みはないのだが、「彼は辞任すべきだ」という意見を持っている。だいたい、金融マンとして、「利益相反」に関する常識があれば、彼がまだ現在のポジションに留まっていることは、日銀が組織としてだらしがないということだとほぼ100%思うだろうし、金融関係者に彼をまだかばう人が居ること自体が非常に不思議なのだが、日銀と自分との各種の個人的な利害を考えると、福井氏に対して厳しい意見を言いにくい人が多いのも、一つの現実なのだろう。
私は、14日に某テレビ番組で受けたインタビュー取材でも、先ほど書いたJMM(来週月曜日に配信予定)の原稿でも、福井氏は辞任すべきだという意見を繰り返した。しかし、同じ意見を何度か言いながら、考えたことが二つある。
一つは、それが「正しい」と思っていても、他人を批判する意見を言い続けているうちに、何となく、自分のことを「他人にばかり厳しい、嫌な奴だ」と思い始めることだ。別に、私ごときがテレビや雑誌で福井氏を批判したからといって、それが決定的な影響力を持つとは思わないが、それでも、他人の足を引っ張るようなことを言っている自分のあり方それ自体は、嬉しいものではない。
ただ、正しいと思う意見を、相手や場所に関わりなく主張することは、職業が評論家でなくても重要だ。「繰り返して、飽きた」とか「自分が嫌われ者にはなりたくない」という気分で、正論を引っ込めるのは、人間のクズのすることだろう。
もう一つ思ったのは、福井氏の側では、どうしたら良かったのか、ということだ。
ことの良し悪しから言うと、彼は辞任するしかない、と今では思うのだが、たとえば、問題が起きたときに、彼が、最初から事情をすべて正確に報告し、心から陳謝し、頭でも丸めて、辞表でも出せば、果たして、(私も含めて)多くの人々は彼を責め続ける根気を持ち得ただろうか。厳密には良いことではないが、許してしまったのではないか、という気がする。今回の彼の場合には、事実が小出しに出てきたことが何とも印象を悪くした。
一般に、仕事では(たとえば原稿書きの仕事では)、高い完成度が期待できない場合は、早くアウトプットを提出する必要があるし、時間が経った場合は、完成度の高いアウトプットを出す必要がある。同様に、「謝る」場合には、少し大げさに、何らかの「サプライズ」を伴うように謝る必要があるのだが、今回の福井氏の行動は、この原則に反していた。
謝らないなら、今回でいえば、オリックスの宮内氏(村上ファンドの行動に対して責任がないとは言えないと、私は、思う)のように、だんまりを決め込むことが得策なのであろう。ちょろちょろと下手な言い訳をするというのは、福井氏が、ある意味では善人であり、能力的には小物だからだろう。その点、宮内氏は、年期の入った本格的な悪党なのだろうと感じる。
この点に関しては、村上世彰氏も説明過剰気味の「小物」であったが、例の会見にはサプライズがあったので、一時的には、好意的な印象を持つ人がいたように思う。もっとも、本人の行いがあまりに悪すぎて、この印象は長続きしなかったが・・。
それにしても、日銀は、新内規では抵触してしまうような違反を働いた人物を総裁として戴き続けるつもりなのだろうか。これは、「現行法では泥棒だけれども、昨年までの法律では窃盗として有罪ではない」というようなことを行った人物を法務大臣に任命し続けるようなものだ。
敢えていうが、彼のような恥さらしを総裁に置いたままで、民間銀行の検査など出来るものなのだろうか。
好意的に推測するなら、やはり、福井氏は辞任されるのだろう。ゼロ金利解除とセットでは辞任を発表したくなかったのかも知れないが、それなら、彼は、解除の決定前に辞任しておくべきだったし、その方が、政策決定をそれ自体として純粋に見て貰うことが出来ただろう。この程度のことをアドバイスできる側近がいないようでは、また、ごく初歩的な自浄作用をすら持ち得ないようでは、日銀という組織の将来は暗い。
大目に見る、と済ますわけには行かないのは、福井俊彦日銀総裁の進退問題だ。
私は、別段、彼に恨みはないのだが、「彼は辞任すべきだ」という意見を持っている。だいたい、金融マンとして、「利益相反」に関する常識があれば、彼がまだ現在のポジションに留まっていることは、日銀が組織としてだらしがないということだとほぼ100%思うだろうし、金融関係者に彼をまだかばう人が居ること自体が非常に不思議なのだが、日銀と自分との各種の個人的な利害を考えると、福井氏に対して厳しい意見を言いにくい人が多いのも、一つの現実なのだろう。
私は、14日に某テレビ番組で受けたインタビュー取材でも、先ほど書いたJMM(来週月曜日に配信予定)の原稿でも、福井氏は辞任すべきだという意見を繰り返した。しかし、同じ意見を何度か言いながら、考えたことが二つある。
一つは、それが「正しい」と思っていても、他人を批判する意見を言い続けているうちに、何となく、自分のことを「他人にばかり厳しい、嫌な奴だ」と思い始めることだ。別に、私ごときがテレビや雑誌で福井氏を批判したからといって、それが決定的な影響力を持つとは思わないが、それでも、他人の足を引っ張るようなことを言っている自分のあり方それ自体は、嬉しいものではない。
ただ、正しいと思う意見を、相手や場所に関わりなく主張することは、職業が評論家でなくても重要だ。「繰り返して、飽きた」とか「自分が嫌われ者にはなりたくない」という気分で、正論を引っ込めるのは、人間のクズのすることだろう。
もう一つ思ったのは、福井氏の側では、どうしたら良かったのか、ということだ。
ことの良し悪しから言うと、彼は辞任するしかない、と今では思うのだが、たとえば、問題が起きたときに、彼が、最初から事情をすべて正確に報告し、心から陳謝し、頭でも丸めて、辞表でも出せば、果たして、(私も含めて)多くの人々は彼を責め続ける根気を持ち得ただろうか。厳密には良いことではないが、許してしまったのではないか、という気がする。今回の彼の場合には、事実が小出しに出てきたことが何とも印象を悪くした。
一般に、仕事では(たとえば原稿書きの仕事では)、高い完成度が期待できない場合は、早くアウトプットを提出する必要があるし、時間が経った場合は、完成度の高いアウトプットを出す必要がある。同様に、「謝る」場合には、少し大げさに、何らかの「サプライズ」を伴うように謝る必要があるのだが、今回の福井氏の行動は、この原則に反していた。
謝らないなら、今回でいえば、オリックスの宮内氏(村上ファンドの行動に対して責任がないとは言えないと、私は、思う)のように、だんまりを決め込むことが得策なのであろう。ちょろちょろと下手な言い訳をするというのは、福井氏が、ある意味では善人であり、能力的には小物だからだろう。その点、宮内氏は、年期の入った本格的な悪党なのだろうと感じる。
この点に関しては、村上世彰氏も説明過剰気味の「小物」であったが、例の会見にはサプライズがあったので、一時的には、好意的な印象を持つ人がいたように思う。もっとも、本人の行いがあまりに悪すぎて、この印象は長続きしなかったが・・。
それにしても、日銀は、新内規では抵触してしまうような違反を働いた人物を総裁として戴き続けるつもりなのだろうか。これは、「現行法では泥棒だけれども、昨年までの法律では窃盗として有罪ではない」というようなことを行った人物を法務大臣に任命し続けるようなものだ。
敢えていうが、彼のような恥さらしを総裁に置いたままで、民間銀行の検査など出来るものなのだろうか。
好意的に推測するなら、やはり、福井氏は辞任されるのだろう。ゼロ金利解除とセットでは辞任を発表したくなかったのかも知れないが、それなら、彼は、解除の決定前に辞任しておくべきだったし、その方が、政策決定をそれ自体として純粋に見て貰うことが出来ただろう。この程度のことをアドバイスできる側近がいないようでは、また、ごく初歩的な自浄作用をすら持ち得ないようでは、日銀という組織の将来は暗い。
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日経社員のインサイダー取引に関する報道
3日の朝日新聞に、東京地検が、日本経済新聞社の社員(31歳)を、インサイダー取引の容疑で立件する方針だという記事が載っていた。事件そのものは、確か、今年の2月に発覚した、少々古いものだ。
この社員は、日本経済新聞社の広告局に勤めていた時に、企業の法定公告の情報を世間に公表される前に知り得たことから、これを基に複数回株式取引をして、数千万円の利益を得たという。これは、インサイダー取引にあたる重要情報を「出口」に近いところで利用する行為であり、情報が公開されて株価に反映するまでの時間が短いから、その他の要因で株価が影響される度合いが少なく、成功確率の高いインサイダー取引ができたものと思われる。もちろん、この行為は100%悪い。
私の記憶によると、日本経済新聞社は、基本的に社員の株式取引を禁止しているはずで、この社員は内規違反だ。上司にも監督責任があるということで、広告担当の常務が引責辞任、さらに、広告局長と金融広告部長を解任する処分を発表している。この3名については、朝日新聞の記事も名前を報じている。
これら3名の方々がその後どのようなポストに就いているのか、私は、寡聞にして知らない。場合によっては、割合早く「復活」されるのかも知れないが、まあ、それはいいとしよう。
私が納得できないのは、このインサイダー取引を行った社員の氏名と写真が報道されないことだ。彼は、31歳であり、未成年ではない。また、日経社員のインサイダー取引は、メディアへの信頼を大きく損なう、社会的にも大きな事件だ。だから、常務も辞任したのだろうし、「週刊朝日」のコラムでは田原総一朗氏が「日経の社長も辞任すべき大問題だ」といった意見を書いていたとも記憶する。
なぜ、この社員が匿名で報道されるのかが分からない。しかし、朝日新聞など、他の媒体も、概ね匿名で報道しているようだ。
マスコミの報道は、身内、特に一般社員や記者に対して甘過ぎるのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。
この社員は、日本経済新聞社の広告局に勤めていた時に、企業の法定公告の情報を世間に公表される前に知り得たことから、これを基に複数回株式取引をして、数千万円の利益を得たという。これは、インサイダー取引にあたる重要情報を「出口」に近いところで利用する行為であり、情報が公開されて株価に反映するまでの時間が短いから、その他の要因で株価が影響される度合いが少なく、成功確率の高いインサイダー取引ができたものと思われる。もちろん、この行為は100%悪い。
私の記憶によると、日本経済新聞社は、基本的に社員の株式取引を禁止しているはずで、この社員は内規違反だ。上司にも監督責任があるということで、広告担当の常務が引責辞任、さらに、広告局長と金融広告部長を解任する処分を発表している。この3名については、朝日新聞の記事も名前を報じている。
これら3名の方々がその後どのようなポストに就いているのか、私は、寡聞にして知らない。場合によっては、割合早く「復活」されるのかも知れないが、まあ、それはいいとしよう。
私が納得できないのは、このインサイダー取引を行った社員の氏名と写真が報道されないことだ。彼は、31歳であり、未成年ではない。また、日経社員のインサイダー取引は、メディアへの信頼を大きく損なう、社会的にも大きな事件だ。だから、常務も辞任したのだろうし、「週刊朝日」のコラムでは田原総一朗氏が「日経の社長も辞任すべき大問題だ」といった意見を書いていたとも記憶する。
なぜ、この社員が匿名で報道されるのかが分からない。しかし、朝日新聞など、他の媒体も、概ね匿名で報道しているようだ。
マスコミの報道は、身内、特に一般社員や記者に対して甘過ぎるのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。
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「セレブ女医」への違和感
整形外科医で47歳の女性の、大学に通う娘さんが誘拐される事件が起こり、幸い、13時間後に解決した。犯人は、身代金3億円を要求していたと報じられており、金銭目当ての誘拐と推測される。13時間というと、被害者には決して短い時間では無かろうが、事件としては短時間で、しかも怪我などが無い状態で解放されたことは大変良かった。
しかし、この事件のマスコミの報道の大半に「セレブ女医」とあるのは、いかがなものか。被害者の母親は、年収数億円に達する女医さんであるらしいが(一説には12億円とも)、高額所得者・多額の資産家は、成功した会社の社長や代々の資産家など他にも多数居るだろう。しかし、彼らがニュースの対象になったり、紹介されたりするときに、「セレブ」とは言われまい。
すると、この女医さんが「セレブ」と呼ばれるのは、マスコミ、具体的にはテレビに何度も登場しているからではないのか。つまり、マスコミは、自分たちで「セレブ」を作り上げているのだ。
私の記憶に間違いがなければ「セレブ」とは「セレブリティ」の略称であり、セレブリティに敢えて訳語を探すと「名士」(単に"名士"では輝かしさが足りないが)というあたりだろうが、その原義は「神に祝福された者」の意味だろう。マスコミは神なのか?
たとえば、ボクシングのタイトルマッチのリングサイドに、バスケットのマイケル・ジョーダンが来ていれば、「セレブリティ」として紹介されても違和感がない。特別な才能とたぶん運も持ち合わせている人と同席したことを、周囲も嬉しく思うだろう。
件の女医さんのビジネスは、テレビに出て有名になったことで大いに伸びたらしいから、女医さんがメディアに出たがることは責められまいが、これを「セレブ」だの「カリスマ」だのと、ニュース番組でまで報じるのはいかがなものか。
高額所得者であることと、娘さんと共にテレビに出ていたことなどが、犯人が彼女らに目を付けたきかっけであることを淡々と報じて、こうした形で目立ちたがることの危険を暗に滲ませるというくらいが、報道の良識だと思うが、どんなものか。
ニュースやバラエティー番組をたくさん見た訳ではないので、番組の比較は出来ないが、この種のニュースの報じ方は、情報番組のリトマス試験紙になると思う。
なお、家族の名前や写真を公表することについては、かつて、作家の村上龍さんにメールマガジンJMM(Japan Mail Media)の原稿執筆を通じて、アドバイスを受けたことがある。
これは、私の回答文の原稿の中に子供の名前が入っていた時のことなのだが、村上龍さんのアドバイスは、JMMは10万人が読んでいるが、10万という数字は、常識から外れた人が混じっていてもおかしくない数字なので、どうしてもそうしたければ別だが、家族の名前だとか住所だとかは文中に入れない方がいい、というものだった。もっともだ、と思って、ありがたくアドバイスに従った。
また、アドバイスを受けて書き換えた文章を読み返すと、始めに自分の身の回りを具体的に書いたつもりで家族の名前を入れた文章よりも、具体名を出さない文章の方が、いいたいことが正確に伝わっているし、有り体に言って品がいい(何れにせよ大した文章ではないが、二つを比較すると)のであった。
例の女医さんについては、知名度を上げたい商売熱心さや、ご本人が有名になりたいと思うこと自体を批判したいとは思わないが、家族は巻き添えにしないほうがいいと思う。そして、その方が、幾らかでも「セレブ」らしいではないか。
また、マスコミも、「セレブ」や「カリスマ」を自分で作って安売りするなことは止めた方がいいと思うし、特に報道番組にあってはそうだろう。買収防衛策の話の時にだけ、「放送局の公共性」を持ち出すのではなく、日頃から、もっと「格好を付けて」ニュースを作って欲しい。
叶姉妹のように、本人たちが「セレブ」のパロディーを演じていて、それを芸能番組などがサポートするのは、遊びとして、あるいはビジネス(セレブ屋業?)としてぎりぎり許容範囲かと思うが、今回の女医さんの「セレブ」報道はいただけなかった。
しかし、この事件のマスコミの報道の大半に「セレブ女医」とあるのは、いかがなものか。被害者の母親は、年収数億円に達する女医さんであるらしいが(一説には12億円とも)、高額所得者・多額の資産家は、成功した会社の社長や代々の資産家など他にも多数居るだろう。しかし、彼らがニュースの対象になったり、紹介されたりするときに、「セレブ」とは言われまい。
すると、この女医さんが「セレブ」と呼ばれるのは、マスコミ、具体的にはテレビに何度も登場しているからではないのか。つまり、マスコミは、自分たちで「セレブ」を作り上げているのだ。
私の記憶に間違いがなければ「セレブ」とは「セレブリティ」の略称であり、セレブリティに敢えて訳語を探すと「名士」(単に"名士"では輝かしさが足りないが)というあたりだろうが、その原義は「神に祝福された者」の意味だろう。マスコミは神なのか?
たとえば、ボクシングのタイトルマッチのリングサイドに、バスケットのマイケル・ジョーダンが来ていれば、「セレブリティ」として紹介されても違和感がない。特別な才能とたぶん運も持ち合わせている人と同席したことを、周囲も嬉しく思うだろう。
件の女医さんのビジネスは、テレビに出て有名になったことで大いに伸びたらしいから、女医さんがメディアに出たがることは責められまいが、これを「セレブ」だの「カリスマ」だのと、ニュース番組でまで報じるのはいかがなものか。
高額所得者であることと、娘さんと共にテレビに出ていたことなどが、犯人が彼女らに目を付けたきかっけであることを淡々と報じて、こうした形で目立ちたがることの危険を暗に滲ませるというくらいが、報道の良識だと思うが、どんなものか。
ニュースやバラエティー番組をたくさん見た訳ではないので、番組の比較は出来ないが、この種のニュースの報じ方は、情報番組のリトマス試験紙になると思う。
なお、家族の名前や写真を公表することについては、かつて、作家の村上龍さんにメールマガジンJMM(Japan Mail Media)の原稿執筆を通じて、アドバイスを受けたことがある。
これは、私の回答文の原稿の中に子供の名前が入っていた時のことなのだが、村上龍さんのアドバイスは、JMMは10万人が読んでいるが、10万という数字は、常識から外れた人が混じっていてもおかしくない数字なので、どうしてもそうしたければ別だが、家族の名前だとか住所だとかは文中に入れない方がいい、というものだった。もっともだ、と思って、ありがたくアドバイスに従った。
また、アドバイスを受けて書き換えた文章を読み返すと、始めに自分の身の回りを具体的に書いたつもりで家族の名前を入れた文章よりも、具体名を出さない文章の方が、いいたいことが正確に伝わっているし、有り体に言って品がいい(何れにせよ大した文章ではないが、二つを比較すると)のであった。
例の女医さんについては、知名度を上げたい商売熱心さや、ご本人が有名になりたいと思うこと自体を批判したいとは思わないが、家族は巻き添えにしないほうがいいと思う。そして、その方が、幾らかでも「セレブ」らしいではないか。
また、マスコミも、「セレブ」や「カリスマ」を自分で作って安売りするなことは止めた方がいいと思うし、特に報道番組にあってはそうだろう。買収防衛策の話の時にだけ、「放送局の公共性」を持ち出すのではなく、日頃から、もっと「格好を付けて」ニュースを作って欲しい。
叶姉妹のように、本人たちが「セレブ」のパロディーを演じていて、それを芸能番組などがサポートするのは、遊びとして、あるいはビジネス(セレブ屋業?)としてぎりぎり許容範囲かと思うが、今回の女医さんの「セレブ」報道はいただけなかった。
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幸福を計算する数式
かつて、ある雑誌の取材で、幸福を計算する数式を考えて下さい、というテーマのものがあった。
その時に捻り出した数式は、「幸福度」=平方根(「経済力」×「健康」×「人間関係」)であった。もとより、この種のものは正確・厳密なものではないし、言いたいことの幾つかが効果的に表れていればそれでいいものだろう。また、プレゼンテーションとしては、単純なものの方がインパクトがあっていい。
経済力、健康、人間関係の変数は、たとえば0~10の間の正の数字で、主観的に、しかし、相対的に定義する。相対的に定義するという理由は、他人と比較する人が多かろうが、過去の自分の状態とも比較するだろうし、両方を加味する人もいるだろうが、自分で「絶対的な」数字を認識できるほど人間は賢くない、といった幾らか意地悪なメッセージがこもっている。
尚、行動ファイナンスに親しんでいる向きは、何らかの参照点にこだわりを持つ、カーネマンの価値関数のようなポイントの計算方法を考えてもいいかも知れない。たとえば、平均を意識する人は、平均よりも5%プラスの喜びによる加点幅よりも、平均よりも5%マイナスの悔しさによる減点幅の方が2倍以上大きいだろう。まあ、この辺りは、主観的に、好みに応じて、考えてみていただきたい。
それぞれの項目を加重和的な形で集計せずに掛け算にしたのは、たとえば、お金がたっぷりあっても、健康状態がゼロと言えるほど悪ければ、楽しむこともままならないからだ。
また、人間は、自分のことを他人に認めて貰えないと幸福感を感じられない生き物でもある。お金と健康ばかりが恵まれていても、友人もなく、他人に嫌われていれば、幸福ではあるまい。経済が発達した世の中だから、お金があれば、ある程度の人間関係を作ることはできそうだが、お金だけで思う通りになるとは限らない(一例としては、さる週刊誌に「夜のM&A失敗」と報じられた、MファンドのM氏が、女子大生をタケノコ狩りを使ってホテルに込もうとした計画の失敗話などを思い浮かべて下さい)。
健康と人間関係だけ良好というのは、どうか。豊かな自然の下で暮らせば、これで幸せかも知れないが、まあ、現代の生活にあって、お金が無いのは辛い。また、食べ物を取ることが出来る豊かな自然や畑などは「経済力」の一部でもある。
三つの変数を掛け合わせた数字を平方根に放り込んでみた理由は、たとえば、稼ぐお金が2倍になっても、幸福感は、とても2倍まで増えないだろうと思ったからだ。稼ぎが4倍で、幸福感が2倍、というくらいならどうだろうか。もっとも、資産400億円の暮らしが、資産100億円の暮らしより2倍幸せかどうかは、よく分からない。たぶん、それほどでもあるまい。まあ、平方根よりも、対数でも使うともっと実感に合う数式が作れるのかも知れないが、普及品の電卓で計算できる方がいいだろう。
数式を作る時に迷ったのは、「好きなことをしている」とか、「自己実現を果たしている」とか、「正しいことに貢献している」といった、精神的な満足感を入れるかどうかだった。一般的には、これを入れることになるだろうし、人間は自己の目的が大切なのだという立場では、このいわば「価値観」変数の影響が最大でなければならない。先ほどの式に敢えて入れるなら、先ほどの幸福の値に、何らかの絶対値をプラスする形になるのだろう。しかし、これを入れると、数式で計算する面白さが無くなってしまう。また、しょせん計算できるような幸福は、遊びなのだから、単純なものでいいだろう、と考えることにした。
ちなみに、現在の、自分自身の評価は、経済力=6、健康=6、人間関係=8、というくらいの満足度だろうか。何れも改善の余地が、まだまだある。幸福度は約16.97という数字になるが、これが、どれくらい幸せなのか、単独では判断しにくい。もう少し工夫の余地がありそうだ。
皆さんも、お暇なときに考えてみて下さい。
その時に捻り出した数式は、「幸福度」=平方根(「経済力」×「健康」×「人間関係」)であった。もとより、この種のものは正確・厳密なものではないし、言いたいことの幾つかが効果的に表れていればそれでいいものだろう。また、プレゼンテーションとしては、単純なものの方がインパクトがあっていい。
経済力、健康、人間関係の変数は、たとえば0~10の間の正の数字で、主観的に、しかし、相対的に定義する。相対的に定義するという理由は、他人と比較する人が多かろうが、過去の自分の状態とも比較するだろうし、両方を加味する人もいるだろうが、自分で「絶対的な」数字を認識できるほど人間は賢くない、といった幾らか意地悪なメッセージがこもっている。
尚、行動ファイナンスに親しんでいる向きは、何らかの参照点にこだわりを持つ、カーネマンの価値関数のようなポイントの計算方法を考えてもいいかも知れない。たとえば、平均を意識する人は、平均よりも5%プラスの喜びによる加点幅よりも、平均よりも5%マイナスの悔しさによる減点幅の方が2倍以上大きいだろう。まあ、この辺りは、主観的に、好みに応じて、考えてみていただきたい。
それぞれの項目を加重和的な形で集計せずに掛け算にしたのは、たとえば、お金がたっぷりあっても、健康状態がゼロと言えるほど悪ければ、楽しむこともままならないからだ。
また、人間は、自分のことを他人に認めて貰えないと幸福感を感じられない生き物でもある。お金と健康ばかりが恵まれていても、友人もなく、他人に嫌われていれば、幸福ではあるまい。経済が発達した世の中だから、お金があれば、ある程度の人間関係を作ることはできそうだが、お金だけで思う通りになるとは限らない(一例としては、さる週刊誌に「夜のM&A失敗」と報じられた、MファンドのM氏が、女子大生をタケノコ狩りを使ってホテルに込もうとした計画の失敗話などを思い浮かべて下さい)。
健康と人間関係だけ良好というのは、どうか。豊かな自然の下で暮らせば、これで幸せかも知れないが、まあ、現代の生活にあって、お金が無いのは辛い。また、食べ物を取ることが出来る豊かな自然や畑などは「経済力」の一部でもある。
三つの変数を掛け合わせた数字を平方根に放り込んでみた理由は、たとえば、稼ぐお金が2倍になっても、幸福感は、とても2倍まで増えないだろうと思ったからだ。稼ぎが4倍で、幸福感が2倍、というくらいならどうだろうか。もっとも、資産400億円の暮らしが、資産100億円の暮らしより2倍幸せかどうかは、よく分からない。たぶん、それほどでもあるまい。まあ、平方根よりも、対数でも使うともっと実感に合う数式が作れるのかも知れないが、普及品の電卓で計算できる方がいいだろう。
数式を作る時に迷ったのは、「好きなことをしている」とか、「自己実現を果たしている」とか、「正しいことに貢献している」といった、精神的な満足感を入れるかどうかだった。一般的には、これを入れることになるだろうし、人間は自己の目的が大切なのだという立場では、このいわば「価値観」変数の影響が最大でなければならない。先ほどの式に敢えて入れるなら、先ほどの幸福の値に、何らかの絶対値をプラスする形になるのだろう。しかし、これを入れると、数式で計算する面白さが無くなってしまう。また、しょせん計算できるような幸福は、遊びなのだから、単純なものでいいだろう、と考えることにした。
ちなみに、現在の、自分自身の評価は、経済力=6、健康=6、人間関係=8、というくらいの満足度だろうか。何れも改善の余地が、まだまだある。幸福度は約16.97という数字になるが、これが、どれくらい幸せなのか、単独では判断しにくい。もう少し工夫の余地がありそうだ。
皆さんも、お暇なときに考えてみて下さい。
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「劇場型捜査」について
「村上世彰氏無罪の論点など」のエントリーに、「所長」と名乗る方から頂いたコメントに、今回の検察の捜査は、W杯前のタイミングを意識した、「劇場型捜査」(上手いネーミングです。座布団一枚!)だが、本来彼らは「メディア受け」を意識すべきではない、というご指摘を頂きました。
検察が「メディア受け」する必要はない、とのご意見は、私も、もっともだと思いますし、そう期待します。彼らは公務員なのだから、是非そうあって欲しい、というのが、先ずは建前論として正論でしょう。
しかし、現実問題としては、検察の皆様も出世その他を意識する生身のサラリーマンであり、世間の人でもあるので、「メディア受け」を自分に有利に使いたいと思うインセンティブが存在ます。また、村上世彰サンもそうでしたが、「高級」を自認する公務員の多くは、強い自己アピール欲求の持ち主です。この現実には、どう対処したらいいのでしょうか。
「劇場型行政」が行われることにはやむを得ない面があるとすると、この場合に、次に期待したいのは、メディアが検察をはじめとする行政に利用されないことであり、彼らのチェックです。
しかし、メディアにこうした役割を期待するのは、「木によりて、魚を求む」の類でしょう。メディアの側では、「劇場型」の行政の動きは、いい「ネタ」になるし、視聴率その他の商業主義の論理を優先せざるを得ないので、結局、彼らは「劇場」の演出に協力することになります。むしろ、積極的に協力することが多いと言ってもいいでしょう。
では、どうするか? 結局のところ、劇場の観客側、つまりニュースを見る側が、目立ちたがりどもの「意図を見抜いてバカにする」という、いわば「鑑賞眼」をもち、軽蔑をほどよく表出しなければならないということでしょう。
下手な演技にはすかさず笑う!ということが必要であり、観客のレベルが上がってはじめて、大根役者が鍛えられるのでしょう。結局、「劇場」を観る側の影響(したがって責任)こそが重大だ、ということです。
尚、こうした議論の論調は、ややもすれば(時に私も)「怒る」ということになりがちですが、この場合に適切でかつ強力なのは「笑う」ではないかと思います。もっとも、あまりに不適切な場合には、「笑う」だけでは済みませんが。
検察が「メディア受け」する必要はない、とのご意見は、私も、もっともだと思いますし、そう期待します。彼らは公務員なのだから、是非そうあって欲しい、というのが、先ずは建前論として正論でしょう。
しかし、現実問題としては、検察の皆様も出世その他を意識する生身のサラリーマンであり、世間の人でもあるので、「メディア受け」を自分に有利に使いたいと思うインセンティブが存在ます。また、村上世彰サンもそうでしたが、「高級」を自認する公務員の多くは、強い自己アピール欲求の持ち主です。この現実には、どう対処したらいいのでしょうか。
「劇場型行政」が行われることにはやむを得ない面があるとすると、この場合に、次に期待したいのは、メディアが検察をはじめとする行政に利用されないことであり、彼らのチェックです。
しかし、メディアにこうした役割を期待するのは、「木によりて、魚を求む」の類でしょう。メディアの側では、「劇場型」の行政の動きは、いい「ネタ」になるし、視聴率その他の商業主義の論理を優先せざるを得ないので、結局、彼らは「劇場」の演出に協力することになります。むしろ、積極的に協力することが多いと言ってもいいでしょう。
では、どうするか? 結局のところ、劇場の観客側、つまりニュースを見る側が、目立ちたがりどもの「意図を見抜いてバカにする」という、いわば「鑑賞眼」をもち、軽蔑をほどよく表出しなければならないということでしょう。
下手な演技にはすかさず笑う!ということが必要であり、観客のレベルが上がってはじめて、大根役者が鍛えられるのでしょう。結局、「劇場」を観る側の影響(したがって責任)こそが重大だ、ということです。
尚、こうした議論の論調は、ややもすれば(時に私も)「怒る」ということになりがちですが、この場合に適切でかつ強力なのは「笑う」ではないかと思います。もっとも、あまりに不適切な場合には、「笑う」だけでは済みませんが。
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シンドラーの危険
港区のマンションで、高校生がエレベーターに挟まれて、亡くなった事件は、まったく胸が痛む悲しい事件だ。
この事件に関しては、8日夕刻にシンドラー社の日本法人の家宅捜索があり、マスコミ各社は、早速これを報じた。事実を報じること自体は悪くないと思うのだが、エレベーターの事故は、メーカーの責任かも知れないし、保守会社の(たとえば「○○ビルシステム」といった名前)責任かも知れないし、建物の持ち主の責任かも知れない。8日の時点では、責任を特定することは難しいし、シンドラー社が、「事実関係が明確になるまでコメントできない」とした態度は、全く正当だ、と思った。
しかし、シンドラー社に踏み込む検察を麗々しく映すTVの映像を見ると、「シンドラー社は悪い」という印象が刷り込まれる。また、夜のある局のニュースを見ると、会見をしないシンドラー社の広報担当の社員に、「会見ぐらいできるでしょう!」とマスコミのだれかが罵声を浴びせ、社員が「逃げる」ように見える映像を映している。「シンドラー社、謝罪せよ!」というマスコミ側の思いこみを幾らか感じた。
もちろん、TVの速報性は重要だし、ガサ入れの映像からいろいろなことが分かる場合もあるので、ガサ入れの映像を流すことが悪いと言うつもりはないが、そうした報道が持つ危険もある、という認識は重要だろう。
また、上記のメディアの姿勢の問題は別として、ビジネスの教訓の観点で考えると、シンドラー社は、今回、広報戦略に失敗している。もっと先手を打って、状況をコントロールすることを試みるべきだろう(単に、ビジネスの立場からだが)。この種の事件のトラブルシューティングでこそ、広報担当者の真価が問われる。
この事件に関しては、8日夕刻にシンドラー社の日本法人の家宅捜索があり、マスコミ各社は、早速これを報じた。事実を報じること自体は悪くないと思うのだが、エレベーターの事故は、メーカーの責任かも知れないし、保守会社の(たとえば「○○ビルシステム」といった名前)責任かも知れないし、建物の持ち主の責任かも知れない。8日の時点では、責任を特定することは難しいし、シンドラー社が、「事実関係が明確になるまでコメントできない」とした態度は、全く正当だ、と思った。
しかし、シンドラー社に踏み込む検察を麗々しく映すTVの映像を見ると、「シンドラー社は悪い」という印象が刷り込まれる。また、夜のある局のニュースを見ると、会見をしないシンドラー社の広報担当の社員に、「会見ぐらいできるでしょう!」とマスコミのだれかが罵声を浴びせ、社員が「逃げる」ように見える映像を映している。「シンドラー社、謝罪せよ!」というマスコミ側の思いこみを幾らか感じた。
もちろん、TVの速報性は重要だし、ガサ入れの映像からいろいろなことが分かる場合もあるので、ガサ入れの映像を流すことが悪いと言うつもりはないが、そうした報道が持つ危険もある、という認識は重要だろう。
また、上記のメディアの姿勢の問題は別として、ビジネスの教訓の観点で考えると、シンドラー社は、今回、広報戦略に失敗している。もっと先手を打って、状況をコントロールすることを試みるべきだろう(単に、ビジネスの立場からだが)。この種の事件のトラブルシューティングでこそ、広報担当者の真価が問われる。
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