評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
筆坂秀世「日本共産党」に見る、人生の急所
筆坂秀世さんの「日本共産党」という本を読んだ。この小文では政治家としての彼や日本共産党を論じるわけではなく、一人の人の人生について感想を述べるだけなので、「さん」付けとする。
この本(新潮社新書)は、共産党の元幹部(ナンバー・フォーだったらしい)が党の実態を赤裸々に書いたということで話題の本だが、何となく気になって、買ってみた。共産党という政党については、また気が向いたら何か書くかも知れないが、この本で一番気になったのは、筆坂さんが、党幹部を降ろされて、最終的には離党に至ったきっけとなった、セクハラ事件の、事後処理についてだ。
ご本人の名誉に関わることなので、詳しくは、この本を読んでいただきたいと思うが、筆坂さんは、後に彼を訴える女性と秘書と三人で、カラオケボックスに行って、その女性と何度かダンスを踊り、デュエットなどを嗜む。その際に、肩に回した手が腰に降りた、ということで、これが、「党の大幹部にこういうことをされ大変なショックを受けた」というその女性の訴えにつながる。
セクハラに厳しい外資系の会社にお勤めの方などは、「筆坂さん、あなた、ガードが甘いよ」と言いたくなる展開だろうが、同書によれば、訴えを受けて、筆坂さんは大いに反省して党の処分に従う。
党幹部が彼に下したの処分は、最初は「警告」ということだったが、その後、「甘い処分ですますなら、世間に公表する」という、共産党内部に通じた者からのものらしきFAXが書記局に入って、これに慌てた共産党指導部は、急遽彼の処分を「警告」から「罷免」に変更する。
筆坂さんは、この問題をいわば自らの身から出たサビと受け止めて、従順に党の処分を受け入れるのだが、問題はここからだ。共産党は、筆坂さんに対して、個人として対外的に説明責任を果たすことを厳禁するのだ。表面的には、被害者の気持ちを慮ってとの説明だったが、脅しによって処分を変えたプロセスが露見することをおそれた党幹部の保身が本当の理由ではないか、というのが、同書での筆坂さんの推測だ。
ここで、彼は、「当時の私は精神的にも追いつめられ、そこまでの判断は出来なかった」といっているのだが、除名覚悟で、参議院議員として、同時に、筆坂さん個人として、対外的な説明を行うことを躊躇した。
思うに、この時、筆坂さんは、自分個人の置かれた立場・権利・義務といったことと、所属組織である共産党の利害、共産党幹部の利害、などの諸々を、客観的に較べることが出来なかったのだろう。比喩的に言うと、自分と組織との距離感と位置関係が分からなかった。
結果的に、その後、筆坂さんは共産党内で居場所が無く、「生ける屍」と自称するようなどん底の状態の下で、離党を決意するにいたる。第三者的には、後から離党するぐらいなら、あのとき、事実を全て公表した方が爽やかであったろうし、ひいては、共産党の為にも良かったろうに。。。
筆坂さんのケースのような当人の問題以外にも、不正な決算操作とか、法令に違反しそうな仕事の進め方とか、会社の不正の告発とか、個人の立場と価値観を大切にすべきか、組織に従うべきか、の選択を迫られるときが、運が悪いと、人生には時々ある。
こうした場合、「常に」、個人としての価値観とプライドを尊重することが大切なのだが、組織の中に強く組み込まれていると(マジメな人は、自分で自分を組み込んでいることが多いが)、こうした時に、適切な判断が出来ない。ここが急所なのだが、一頑張りができないで、プライド、ある意味では人生で一番大切なものを腐らせてしまうのだ。これでは、幸せになれるはずがない。
組織には、それ自体としての意思もないし、個人は、個人に対する義理はあるが、組織に対しては義理など無い。組織は、それぞれに、これを利用する「人」によって動かされているにすぎない。
「日本共産党」は、こうしたことをあらためて考えさせてくれる、妙に印象的な本だった。
それにしても、この組織は、アタマに「日本」と付けているだけあって、日本の、会社のようでもあり、学校のようでもあり、また、官庁のようでもあり、日本の組織のある種の特色を、純化させて肥大させたような形で保存している感がある。多くのビジネス・パーソンが、「おお、これは、わが社のことではないか!」と思って読める本である。
この本(新潮社新書)は、共産党の元幹部(ナンバー・フォーだったらしい)が党の実態を赤裸々に書いたということで話題の本だが、何となく気になって、買ってみた。共産党という政党については、また気が向いたら何か書くかも知れないが、この本で一番気になったのは、筆坂さんが、党幹部を降ろされて、最終的には離党に至ったきっけとなった、セクハラ事件の、事後処理についてだ。
ご本人の名誉に関わることなので、詳しくは、この本を読んでいただきたいと思うが、筆坂さんは、後に彼を訴える女性と秘書と三人で、カラオケボックスに行って、その女性と何度かダンスを踊り、デュエットなどを嗜む。その際に、肩に回した手が腰に降りた、ということで、これが、「党の大幹部にこういうことをされ大変なショックを受けた」というその女性の訴えにつながる。
セクハラに厳しい外資系の会社にお勤めの方などは、「筆坂さん、あなた、ガードが甘いよ」と言いたくなる展開だろうが、同書によれば、訴えを受けて、筆坂さんは大いに反省して党の処分に従う。
党幹部が彼に下したの処分は、最初は「警告」ということだったが、その後、「甘い処分ですますなら、世間に公表する」という、共産党内部に通じた者からのものらしきFAXが書記局に入って、これに慌てた共産党指導部は、急遽彼の処分を「警告」から「罷免」に変更する。
筆坂さんは、この問題をいわば自らの身から出たサビと受け止めて、従順に党の処分を受け入れるのだが、問題はここからだ。共産党は、筆坂さんに対して、個人として対外的に説明責任を果たすことを厳禁するのだ。表面的には、被害者の気持ちを慮ってとの説明だったが、脅しによって処分を変えたプロセスが露見することをおそれた党幹部の保身が本当の理由ではないか、というのが、同書での筆坂さんの推測だ。
ここで、彼は、「当時の私は精神的にも追いつめられ、そこまでの判断は出来なかった」といっているのだが、除名覚悟で、参議院議員として、同時に、筆坂さん個人として、対外的な説明を行うことを躊躇した。
思うに、この時、筆坂さんは、自分個人の置かれた立場・権利・義務といったことと、所属組織である共産党の利害、共産党幹部の利害、などの諸々を、客観的に較べることが出来なかったのだろう。比喩的に言うと、自分と組織との距離感と位置関係が分からなかった。
結果的に、その後、筆坂さんは共産党内で居場所が無く、「生ける屍」と自称するようなどん底の状態の下で、離党を決意するにいたる。第三者的には、後から離党するぐらいなら、あのとき、事実を全て公表した方が爽やかであったろうし、ひいては、共産党の為にも良かったろうに。。。
筆坂さんのケースのような当人の問題以外にも、不正な決算操作とか、法令に違反しそうな仕事の進め方とか、会社の不正の告発とか、個人の立場と価値観を大切にすべきか、組織に従うべきか、の選択を迫られるときが、運が悪いと、人生には時々ある。
こうした場合、「常に」、個人としての価値観とプライドを尊重することが大切なのだが、組織の中に強く組み込まれていると(マジメな人は、自分で自分を組み込んでいることが多いが)、こうした時に、適切な判断が出来ない。ここが急所なのだが、一頑張りができないで、プライド、ある意味では人生で一番大切なものを腐らせてしまうのだ。これでは、幸せになれるはずがない。
組織には、それ自体としての意思もないし、個人は、個人に対する義理はあるが、組織に対しては義理など無い。組織は、それぞれに、これを利用する「人」によって動かされているにすぎない。
「日本共産党」は、こうしたことをあらためて考えさせてくれる、妙に印象的な本だった。
それにしても、この組織は、アタマに「日本」と付けているだけあって、日本の、会社のようでもあり、学校のようでもあり、また、官庁のようでもあり、日本の組織のある種の特色を、純化させて肥大させたような形で保存している感がある。多くのビジネス・パーソンが、「おお、これは、わが社のことではないか!」と思って読める本である。
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「優雅な暮らしにおカネは要らない」
「優雅な暮らしに、おカネは要らない」(アレクサンダー・フォン・シェーンブルク著、畔上司訳、集英社インターナショナル刊)を読んだ。なぜ、こんな本を読んだかというと、自分の消費癖をいささか重苦しく感じていたからなので、この本の主張に対して、私は、いくらか好意的なバイアスを持っているかも知れないということを、あらかじめ申し上げておこう。
さて、この本だが、簡単に言うと、幸せに暮らすために必要なのは、おカネよりも、良い人間関係と趣味の良い教養だ、と主張している。
著者は、新聞社にリストラされた記者だが、「フォン」が示すように、没落したとはいえ貴族であり、本当に生活の危機に晒されているというわけではないので、ドイツでも、「こいつに、本当に貧しい人のことが分かるか」という議論が起こるなど、毀誉褒貶があり、このこと自体が、この本のセールスに貢献したらしい。
著者は貴族ではないかとか、本当に生活に困ってはいないはずだ、ということを理由に、内容そのものに基づかずに、この著作を批判する人は、たぶん、本人の心が卑しい(「貧しい」よりも、もっと悪い!)にちがいない。
このことは、この本の日本語訳の前書きを書いている森永卓郎さんの「年収300万円時代」を、「森永さんは自分がもっと稼いでいるくせに」と批判した人々の心の卑しさと同様だ。人は、他人を批判するときに、実は、自分の心の中の汚い部分を、他人を鏡として映して批判していることが多いものなのだ。
森永氏の同著作は、この種の、嫉妬が中心的な判断原理になる卑しい人を判別するリトマス試験紙としては、なかなか有用な本だった。私は、ある経済番組に出演したときに、その番組の女性キャスターが、「森永さんは、自分自身が、あんなに稼いでいるくせに、年収300万なんて本を書かれても、素直には読めない」と言っていたのを聞いて、「ああ、世の中には、卑しい人というのは、いるものなのだなあ」と実感した記憶がある。
ちなみに、私自身は、あの本については、300万円で心豊かに暮らせる具体的なノウハウが乏しいことを不満に思った。「みんな、年収300万円くらいになってしまうぞ」というあの本の脅しにバランスするほど、年収300万円の暮らしも悪くないということが、十分説明されていないように感じたのだった。
さて、このドイツの貴族が書いた本だが、大いに賛同するところもあるのだが、無教養な人間には徹底して冷たい。また、現在低収入でも、将来の生活不安を抱かないためには、相当の力量(コネも含む)と、計画性が必要だ、ということは指摘しておきたい。
いささか乱暴だが、はっきり言うと、無教養な人の場合は、この本の主張するように生きるよりも、適当に努力して、お金をたくさん稼いで、消費の刺激に身を任せる方が、遙かに簡単に幸福感が得られるだろう。
だが、そんなものは真の幸福ではない、とこの本はケチをつけている。これは、単なる金持ちに対する批判であると同時に、バカ(TVのCMを見て商品を買うような人)に対する嘲笑でもある。一つの見解であるとは思うが、この種のバカは簡単には治らないのだから、ある種差別的でもあるし、少なくとも優しくはない(そこが面白いところでもあるが)。
それにつけても、この本を読むと、人にとって、幸福感とは、他人に認められることであると同時に、他人に対して優越していると感じることなのだな、としみじみ感じる。人間とは、何とも業の深い生き物だ。
さて、この本だが、簡単に言うと、幸せに暮らすために必要なのは、おカネよりも、良い人間関係と趣味の良い教養だ、と主張している。
著者は、新聞社にリストラされた記者だが、「フォン」が示すように、没落したとはいえ貴族であり、本当に生活の危機に晒されているというわけではないので、ドイツでも、「こいつに、本当に貧しい人のことが分かるか」という議論が起こるなど、毀誉褒貶があり、このこと自体が、この本のセールスに貢献したらしい。
著者は貴族ではないかとか、本当に生活に困ってはいないはずだ、ということを理由に、内容そのものに基づかずに、この著作を批判する人は、たぶん、本人の心が卑しい(「貧しい」よりも、もっと悪い!)にちがいない。
このことは、この本の日本語訳の前書きを書いている森永卓郎さんの「年収300万円時代」を、「森永さんは自分がもっと稼いでいるくせに」と批判した人々の心の卑しさと同様だ。人は、他人を批判するときに、実は、自分の心の中の汚い部分を、他人を鏡として映して批判していることが多いものなのだ。
森永氏の同著作は、この種の、嫉妬が中心的な判断原理になる卑しい人を判別するリトマス試験紙としては、なかなか有用な本だった。私は、ある経済番組に出演したときに、その番組の女性キャスターが、「森永さんは、自分自身が、あんなに稼いでいるくせに、年収300万なんて本を書かれても、素直には読めない」と言っていたのを聞いて、「ああ、世の中には、卑しい人というのは、いるものなのだなあ」と実感した記憶がある。
ちなみに、私自身は、あの本については、300万円で心豊かに暮らせる具体的なノウハウが乏しいことを不満に思った。「みんな、年収300万円くらいになってしまうぞ」というあの本の脅しにバランスするほど、年収300万円の暮らしも悪くないということが、十分説明されていないように感じたのだった。
さて、このドイツの貴族が書いた本だが、大いに賛同するところもあるのだが、無教養な人間には徹底して冷たい。また、現在低収入でも、将来の生活不安を抱かないためには、相当の力量(コネも含む)と、計画性が必要だ、ということは指摘しておきたい。
いささか乱暴だが、はっきり言うと、無教養な人の場合は、この本の主張するように生きるよりも、適当に努力して、お金をたくさん稼いで、消費の刺激に身を任せる方が、遙かに簡単に幸福感が得られるだろう。
だが、そんなものは真の幸福ではない、とこの本はケチをつけている。これは、単なる金持ちに対する批判であると同時に、バカ(TVのCMを見て商品を買うような人)に対する嘲笑でもある。一つの見解であるとは思うが、この種のバカは簡単には治らないのだから、ある種差別的でもあるし、少なくとも優しくはない(そこが面白いところでもあるが)。
それにつけても、この本を読むと、人にとって、幸福感とは、他人に認められることであると同時に、他人に対して優越していると感じることなのだな、としみじみ感じる。人間とは、何とも業の深い生き物だ。
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コスモバルクの快挙
サッカーの代表決定のニュースに隠れた形になったが、北海道競馬所属のコスモバルク号が五十嵐冬樹騎手を背にシンガポール・エアラインズ・インターナショナル・カップ(国際G1)に勝ったことは、なかなかの快挙だ。賞金は邦貨換算で1億1千万円を超える立派なG1である。
2000メートルのレースを、二番手から抜け出して勝ったもので、着差は1馬身3/4の完勝だ。中距離で平均~ハイペースを先行して頑張るのが同馬の得意パターンだが、勝ちタイムを見ると2分7秒台であり、決して、軽い楽な馬場ではなかったようだ。
日本調教馬の国際的なレベルは確実にアップしている。今後、ハーツクライとディープインパクトが欧州の大レースに挑戦する予定らしいが、どのような結果が出るか楽しみだ。
尚、日曜日の新設G1、ビクトリアマイルの結果は、サンデーサイレンス産駒が1~3着を占めて、相変わらず強いが、サンデーサイレンスの子供は今年の3歳馬がラスト世代であり、そろそろ後継血統の本流がどの種牡馬になるのかが気になるところだ。
2000メートルのレースを、二番手から抜け出して勝ったもので、着差は1馬身3/4の完勝だ。中距離で平均~ハイペースを先行して頑張るのが同馬の得意パターンだが、勝ちタイムを見ると2分7秒台であり、決して、軽い楽な馬場ではなかったようだ。
日本調教馬の国際的なレベルは確実にアップしている。今後、ハーツクライとディープインパクトが欧州の大レースに挑戦する予定らしいが、どのような結果が出るか楽しみだ。
尚、日曜日の新設G1、ビクトリアマイルの結果は、サンデーサイレンス産駒が1~3着を占めて、相変わらず強いが、サンデーサイレンスの子供は今年の3歳馬がラスト世代であり、そろそろ後継血統の本流がどの種牡馬になるのかが気になるところだ。
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ジーコと王貞治
私はサッカー通でも野球通でもないが、両競技をテレビで見ながら勝手なことを言う一オヤジとして、印象を言ってみると、サッカーのジーコ監督と、野球の王貞治監督との間に共通点を感じる。
二人は共に選手時代には神格化寸前の名選手であり、その後、監督になった。
監督として二人が似ているのは、優れていると認定した選手に対する期待であり信頼の固定性だ。二人とも「優れた選手が、能力をきちんと発揮すれば、自ずと結果はついてくるはずだし、それ以上を望むことは邪道だ」と思っているような印象がある。王監督でいうと、特に初期の用兵は、今日も「鹿取」、明日も「鹿取」という具合に、メンバーを固定するワンパターンであった。共に、一流選手に対する要求水準が高い。
王監督に関して言えば、その後、配下の選手が必ずしも自分の選手時代のような能力と精神を備えているわけではないことを理解して、それなりの部下を、与えられたなりに、それなりに使うことを覚えたように見える。しかし、彼の用兵にはサプライズが乏しい、という傾向は残っているようだ。ソフトバンクでもそうだし、WBCでも用兵は、オーソドックスそのものだったように思う。最大公約数的な納得性はあるが、サプライズが乏しい。つまり、弱兵を率いて、効果的にギャンプルを行うタイプではない。
ジーコもこのタイプではないかと思うのだが、さて、どうか。
一つ残念に思うのは、彼が鹿島アントラーズの選手兼指導者だった時代に発揮した選手育成の能力を、彼が代表監督になってから、発揮していないように見えることだ。代表監督は、必然的に、戦力を「選ぶ」ことと「使う」ことに特化する「勝負師」なのだが、この点、ジーコ監督は、希代の負けず嫌いではあるものの、選手選択が頑固でサプライズがない、という印象がぬぐえない。つまり、強い相手には勝ちにくい監督なのだ。
サッカーの日本代表の最大の問題は、誰もが指摘する決定力不足だが、ジーコは彼自身が日本のFWを育てなかったし、たまたま目下調子のいい選手を使って勝負しようというギャンブルを行うとは思えない。相変わらず、走ったり、相手を交わしたりすると、精神的にも肉体的も「心臓がバクバクして」、蹴った玉がゴールマウスのクロスバーの上に浮いてしまうような、心身どちらかで「ハートの弱い」選手ばかりが前線にいるのは気になる。もっと「ハートが強い」奴はいないのか。
ジーコ自身は、超負けず嫌いと同時に、なかなかの強運の持ち主だから、W杯で、日本代表が一次予選を勝ち抜く可能はゼロではないが、順当に行けば、ブラジルとクロアチアが一次リーグを突破するのだろうと私は予想している。ただ、組み合わせ的に、日本は最初にオーストラリアと当たり、ブラジルがクロアチアと当たるという進行順序は、日本に有利だと思う。サッカーは、実力差があっても、引いて戦うと引き分けが狙えるし、勝ちに行くと危ないゲームだから、日本が最初にオーストラリアから勝ち点3を取り、クロアチアがブラジルに敗れると、クロアチアが焦る可能性があるし、日本は、残り二つを引き分け狙いで戦える。
尚、正直に言っておくが、私はW杯で日本代表を応援していない。あたかもサラリーマンの仕事ぶりのようなせせこましい日本代表の組織サッカーは好みではないし、日本代表を応援するなら、馬鹿になって大騒ぎをしてもいいと思っているらしき人々には共感を感じない。興味の問題としては、他国よりも日本代表が出る試合の方が面白いが、TVの前では日本代表を応援しないつもりだ。日本代表がもっと魅力的なチームになれば将来応援することもあるだろうが、今のチームなら、南米や欧州の代表チームを応援したい。
二人は共に選手時代には神格化寸前の名選手であり、その後、監督になった。
監督として二人が似ているのは、優れていると認定した選手に対する期待であり信頼の固定性だ。二人とも「優れた選手が、能力をきちんと発揮すれば、自ずと結果はついてくるはずだし、それ以上を望むことは邪道だ」と思っているような印象がある。王監督でいうと、特に初期の用兵は、今日も「鹿取」、明日も「鹿取」という具合に、メンバーを固定するワンパターンであった。共に、一流選手に対する要求水準が高い。
王監督に関して言えば、その後、配下の選手が必ずしも自分の選手時代のような能力と精神を備えているわけではないことを理解して、それなりの部下を、与えられたなりに、それなりに使うことを覚えたように見える。しかし、彼の用兵にはサプライズが乏しい、という傾向は残っているようだ。ソフトバンクでもそうだし、WBCでも用兵は、オーソドックスそのものだったように思う。最大公約数的な納得性はあるが、サプライズが乏しい。つまり、弱兵を率いて、効果的にギャンプルを行うタイプではない。
ジーコもこのタイプではないかと思うのだが、さて、どうか。
一つ残念に思うのは、彼が鹿島アントラーズの選手兼指導者だった時代に発揮した選手育成の能力を、彼が代表監督になってから、発揮していないように見えることだ。代表監督は、必然的に、戦力を「選ぶ」ことと「使う」ことに特化する「勝負師」なのだが、この点、ジーコ監督は、希代の負けず嫌いではあるものの、選手選択が頑固でサプライズがない、という印象がぬぐえない。つまり、強い相手には勝ちにくい監督なのだ。
サッカーの日本代表の最大の問題は、誰もが指摘する決定力不足だが、ジーコは彼自身が日本のFWを育てなかったし、たまたま目下調子のいい選手を使って勝負しようというギャンブルを行うとは思えない。相変わらず、走ったり、相手を交わしたりすると、精神的にも肉体的も「心臓がバクバクして」、蹴った玉がゴールマウスのクロスバーの上に浮いてしまうような、心身どちらかで「ハートの弱い」選手ばかりが前線にいるのは気になる。もっと「ハートが強い」奴はいないのか。
ジーコ自身は、超負けず嫌いと同時に、なかなかの強運の持ち主だから、W杯で、日本代表が一次予選を勝ち抜く可能はゼロではないが、順当に行けば、ブラジルとクロアチアが一次リーグを突破するのだろうと私は予想している。ただ、組み合わせ的に、日本は最初にオーストラリアと当たり、ブラジルがクロアチアと当たるという進行順序は、日本に有利だと思う。サッカーは、実力差があっても、引いて戦うと引き分けが狙えるし、勝ちに行くと危ないゲームだから、日本が最初にオーストラリアから勝ち点3を取り、クロアチアがブラジルに敗れると、クロアチアが焦る可能性があるし、日本は、残り二つを引き分け狙いで戦える。
尚、正直に言っておくが、私はW杯で日本代表を応援していない。あたかもサラリーマンの仕事ぶりのようなせせこましい日本代表の組織サッカーは好みではないし、日本代表を応援するなら、馬鹿になって大騒ぎをしてもいいと思っているらしき人々には共感を感じない。興味の問題としては、他国よりも日本代表が出る試合の方が面白いが、TVの前では日本代表を応援しないつもりだ。日本代表がもっと魅力的なチームになれば将来応援することもあるだろうが、今のチームなら、南米や欧州の代表チームを応援したい。
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ゴーストライター
「『投資バカ』につける薬」(講談社)という本が出来上がった。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062820102/qid%3D1145518535/250-6775549-4639426
表紙はたいへん洒落たイラストで、これまでに出した本の中でも出色の出来映えだが、帯に比較的大きく私の顔写真があって、こいつこそが「投資バカ」だ、という佇まいの本になっている。書店で見ると恥ずかしかろうが、平積み期間は短いかも知れないから、恥ずかしい思いが出来る期間は「ありがたい」と思わねばならない。
ゴーストライターという仕事は、皆様、よくご存じだろう。この本は、「山崎元著」だが、他人が相当量の文章を書いたという意味では、「ゴーストライター」による、と分類して良いのかも知れない。ただし、後書きには本の成り立ち(私が話し、ライターがまとめ、後から私が手を入れた)とライターのお名前も書いてあるので、「ゴースト」=「幽霊」というのは適当でないかも知れない。
これから本を作る可能性のある方のために、工程を簡単にご紹介しておくと、先ず、ライター・編集者に対して主に私が内容を語るレクチャーというかインタビューというか、要は「話」の時間を、1回3時間くらい、4回取った。次に、1~2ヶ月で、ライターが文章をまとめてくれたので、これに対して、私が二度手を入れた。手を入れる期間は、それぞれ一週間くらいで、実質は、一回目が8-10時間、二回目が3-4時間くらいだ。それ以外に、挿入コラムや、前書き、後書きを自分で書いている。私が使った時間は、自分で書く場合の、たぶん三分の一くらいだろう。
手入れは、かなり徹底的にやったので、いわゆる「赤」が入っていないページは目次や章のトビラ以外にはたぶんないし、多くのページは真っ赤になった。1ページに十数行くらい加筆した箇所が十数カ所ある。今、できあがりの本を読み返すと、文章の癖はほぼ完全に私のものになっていると思う(文章鑑定力に自信はないが、何せ、私は本人だ)。もともとの文章は、かなり丁寧な話し言葉的書き言葉で、私の日頃の文章の癖とは違ったものだったので、好みに合わせて修正した。この出来上がりなら、「山崎元著」と言っても自分として違和感はない。
この種の作り方で書いた本は、もう一冊ある。倉田真由美さんとの共著の「ダメだ! この会社」(小学館)なのだが、この本についても、ライターのお名前は後書きに書いておいた。そういえば、amazonのこの本のレビューの中に「山崎元特有のもってまわったいやらしい文体も、他書ではイヤミたらしく感じるものだが、本書の場合はうまく機能している。」という評があった。「山崎元の文体は、山崎元以外が書いた方が機能する」のかも知れない。尚、私の本のレビューなどはまだマシな方であり(過分のお褒めと思う物もあるし)、本を書くと、この程度のことは言われるものなので、いちいち目くじらを立てないよう、あらかじめご注意申し上げておく。amazonのレビューに怒り心頭の評論家のコラムを読んだことがあるが、まあ怒っても仕方がないよ。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875456/qid%3D1145520263/250-6775549-4639426
自分としては、他人が下書きした物も、自分が一から書いた物も、最終的に自分で赤を入れて、「山崎元著」で出すことを納得した場合は、自分の「著書」であると認識している。但し、痛くもない腹を探られるのは不本意だし、他人の代わりに文章を書くという仕事は非常に大変なものに違いなかろうと思うので、後書きに、「ライター」であることを明記して、ライターのお名前を書くことにしている。
世の中には、本を書く以外にも忙しく、物理的にこんなに書けるはずがない、というペースで本を出される方もいるが、多くは、上記のような工程で作られたものだろう。単行本の打ち合わせや、雑誌の取材を受けながらの雑談で、「私は、○○さんのゴーストをしています(或いは、したことがあります)」と名乗るライターも少なくない。「ゴースト」を使った時には、ゴーストへの感謝も込めて、使ったと堂々と書けば良さそうなものだと思うが、どうなのか。ある程度以上の「量」を発信するためにはやむを得ないことだし、出来上がりに責任を持てばいいのだから、恥ずかしいことではあるまい。
但し、ゴーストを使うことが常に上手く行くとは限らない。内容がスッキリ理解できていないライターの場合や、論理展開の感覚がちがう人の場合、文章を直しながら、「これは無理だ」と思ったり、「申し訳ないけれども、ボツ」と決断したりしたことがある。後者についても、丸々一冊の原稿が出来てからボツにしたケースが記憶にある限りでも二回ある。
有名な「バカの壁」(養老孟司著、新潮新書)が、やはり養老先生以外の方が下書きしたようだから(本に書いてある)、セールス上は、ゴーストライターに書いて貰うのも悪くないのかも知れないが、作業中の気分としては、自分で書くのが無難ではある。ただし、その場合は、時間をどのように割り振るかに関して、ある種のプロジェクトマネジメントの技術と、もちろん自己管理が重要になる。
表紙はたいへん洒落たイラストで、これまでに出した本の中でも出色の出来映えだが、帯に比較的大きく私の顔写真があって、こいつこそが「投資バカ」だ、という佇まいの本になっている。書店で見ると恥ずかしかろうが、平積み期間は短いかも知れないから、恥ずかしい思いが出来る期間は「ありがたい」と思わねばならない。
ゴーストライターという仕事は、皆様、よくご存じだろう。この本は、「山崎元著」だが、他人が相当量の文章を書いたという意味では、「ゴーストライター」による、と分類して良いのかも知れない。ただし、後書きには本の成り立ち(私が話し、ライターがまとめ、後から私が手を入れた)とライターのお名前も書いてあるので、「ゴースト」=「幽霊」というのは適当でないかも知れない。
これから本を作る可能性のある方のために、工程を簡単にご紹介しておくと、先ず、ライター・編集者に対して主に私が内容を語るレクチャーというかインタビューというか、要は「話」の時間を、1回3時間くらい、4回取った。次に、1~2ヶ月で、ライターが文章をまとめてくれたので、これに対して、私が二度手を入れた。手を入れる期間は、それぞれ一週間くらいで、実質は、一回目が8-10時間、二回目が3-4時間くらいだ。それ以外に、挿入コラムや、前書き、後書きを自分で書いている。私が使った時間は、自分で書く場合の、たぶん三分の一くらいだろう。
手入れは、かなり徹底的にやったので、いわゆる「赤」が入っていないページは目次や章のトビラ以外にはたぶんないし、多くのページは真っ赤になった。1ページに十数行くらい加筆した箇所が十数カ所ある。今、できあがりの本を読み返すと、文章の癖はほぼ完全に私のものになっていると思う(文章鑑定力に自信はないが、何せ、私は本人だ)。もともとの文章は、かなり丁寧な話し言葉的書き言葉で、私の日頃の文章の癖とは違ったものだったので、好みに合わせて修正した。この出来上がりなら、「山崎元著」と言っても自分として違和感はない。
この種の作り方で書いた本は、もう一冊ある。倉田真由美さんとの共著の「ダメだ! この会社」(小学館)なのだが、この本についても、ライターのお名前は後書きに書いておいた。そういえば、amazonのこの本のレビューの中に「山崎元特有のもってまわったいやらしい文体も、他書ではイヤミたらしく感じるものだが、本書の場合はうまく機能している。」という評があった。「山崎元の文体は、山崎元以外が書いた方が機能する」のかも知れない。尚、私の本のレビューなどはまだマシな方であり(過分のお褒めと思う物もあるし)、本を書くと、この程度のことは言われるものなので、いちいち目くじらを立てないよう、あらかじめご注意申し上げておく。amazonのレビューに怒り心頭の評論家のコラムを読んだことがあるが、まあ怒っても仕方がないよ。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4093875456/qid%3D1145520263/250-6775549-4639426
自分としては、他人が下書きした物も、自分が一から書いた物も、最終的に自分で赤を入れて、「山崎元著」で出すことを納得した場合は、自分の「著書」であると認識している。但し、痛くもない腹を探られるのは不本意だし、他人の代わりに文章を書くという仕事は非常に大変なものに違いなかろうと思うので、後書きに、「ライター」であることを明記して、ライターのお名前を書くことにしている。
世の中には、本を書く以外にも忙しく、物理的にこんなに書けるはずがない、というペースで本を出される方もいるが、多くは、上記のような工程で作られたものだろう。単行本の打ち合わせや、雑誌の取材を受けながらの雑談で、「私は、○○さんのゴーストをしています(或いは、したことがあります)」と名乗るライターも少なくない。「ゴースト」を使った時には、ゴーストへの感謝も込めて、使ったと堂々と書けば良さそうなものだと思うが、どうなのか。ある程度以上の「量」を発信するためにはやむを得ないことだし、出来上がりに責任を持てばいいのだから、恥ずかしいことではあるまい。
但し、ゴーストを使うことが常に上手く行くとは限らない。内容がスッキリ理解できていないライターの場合や、論理展開の感覚がちがう人の場合、文章を直しながら、「これは無理だ」と思ったり、「申し訳ないけれども、ボツ」と決断したりしたことがある。後者についても、丸々一冊の原稿が出来てからボツにしたケースが記憶にある限りでも二回ある。
有名な「バカの壁」(養老孟司著、新潮新書)が、やはり養老先生以外の方が下書きしたようだから(本に書いてある)、セールス上は、ゴーストライターに書いて貰うのも悪くないのかも知れないが、作業中の気分としては、自分で書くのが無難ではある。ただし、その場合は、時間をどのように割り振るかに関して、ある種のプロジェクトマネジメントの技術と、もちろん自己管理が重要になる。
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トリノを見て、採点競技について考える
トリノで冬期オリンピックが開幕した。ここのところ、テレビの情報番組に関わる機会が多いこともあって、無関心でも居られないので、開幕初日の幾つかの競技を、原稿書きをしながらテレビ観戦した。ジャンプの原田選手のあっけない失格で何やら日本選手のツキが落ちたような流れで始まったオリンピックだが、初日の目玉は、上村愛子、里谷多英両選手が出場する女子モーグルだった。
結果は、上村選手5位、里谷選手は15位だった。里谷選手の15位は、第二エアの着地失敗ということで分かるのだが、上村選手が、3位、4位の選手とどのように違うのかは、少なくとも素人である筆者には分からない差だった。
第二エアの「コーク720」とやらの完成度が高かったので、もっと高得点が出ても良かったのではないかとも思った。あれだけの大技をきれいに決めたなら、少々タイムが遅くても問題ないではないか。要は、採点者の主観に大きく左右されている競技なのではないか、という印象を持った。
尚、念のため言っておくが、筆者は、むしろアンチ・ナショナリストであって、日本選手を応援するのが当然だというような感覚は持っていない。上村選手は、あの競技にあって殆ど無駄な素晴らしいルックスを持っているが、これも関係ないとも一応言っておく。
冬季オリンピックは、フィギュアスケートを筆頭に、審判員の採点が勝敗を左右する競技が多い。ジャンプのような目的が明確に見える競技でさえも、飛型点という曖昧な要素がある。
どちらかというと曖昧が嫌いな筆者は、競技としては、たとえばスピードスケートやアルペン・スキーのような、タイムで勝敗を測るものの方が、客観的で純粋なスポーツとして見られるので、爽やかだ、という感想を持たないではない。採点競技に、ある種の「不純」があることは確かだ。
国や、人脈、スポンサー、それに容姿などが影響するように見える女子のフィギュア・スケートなどは、ショーとして見るには良くても、スポーツとして評価するには躊躇を覚える。(たとえば、日本の女子の最終選考会、中野友加里選手の点は不当に低かったと思った)
しかし、物の見方を変えると、ビジネスパーソンの評価などは、上司との人間関係や、血筋、学歴などが評価に影響を与えることが日常の、大変曖昧な世界だ。しかし、曖昧ながらも、損得、勝ち負けのある勝負の世界でもある。冬の五輪に多い採点競技は、こうした現実社会の勝負を模したものだとはいえないか。
たとえば、容姿が不利なフィギュアスケート選手は、ジャンプの回転数など、目に見える実績を見せないと評価されないのは、現実世界に、良し悪しは別として、よくあることだ。
これは社会の縮図なのだとすれば、採点競技にも、人間そのものを賭けたある種の純粋な戦いを見ることが出来る。
結果は、上村選手5位、里谷選手は15位だった。里谷選手の15位は、第二エアの着地失敗ということで分かるのだが、上村選手が、3位、4位の選手とどのように違うのかは、少なくとも素人である筆者には分からない差だった。
第二エアの「コーク720」とやらの完成度が高かったので、もっと高得点が出ても良かったのではないかとも思った。あれだけの大技をきれいに決めたなら、少々タイムが遅くても問題ないではないか。要は、採点者の主観に大きく左右されている競技なのではないか、という印象を持った。
尚、念のため言っておくが、筆者は、むしろアンチ・ナショナリストであって、日本選手を応援するのが当然だというような感覚は持っていない。上村選手は、あの競技にあって殆ど無駄な素晴らしいルックスを持っているが、これも関係ないとも一応言っておく。
冬季オリンピックは、フィギュアスケートを筆頭に、審判員の採点が勝敗を左右する競技が多い。ジャンプのような目的が明確に見える競技でさえも、飛型点という曖昧な要素がある。
どちらかというと曖昧が嫌いな筆者は、競技としては、たとえばスピードスケートやアルペン・スキーのような、タイムで勝敗を測るものの方が、客観的で純粋なスポーツとして見られるので、爽やかだ、という感想を持たないではない。採点競技に、ある種の「不純」があることは確かだ。
国や、人脈、スポンサー、それに容姿などが影響するように見える女子のフィギュア・スケートなどは、ショーとして見るには良くても、スポーツとして評価するには躊躇を覚える。(たとえば、日本の女子の最終選考会、中野友加里選手の点は不当に低かったと思った)
しかし、物の見方を変えると、ビジネスパーソンの評価などは、上司との人間関係や、血筋、学歴などが評価に影響を与えることが日常の、大変曖昧な世界だ。しかし、曖昧ながらも、損得、勝ち負けのある勝負の世界でもある。冬の五輪に多い採点競技は、こうした現実社会の勝負を模したものだとはいえないか。
たとえば、容姿が不利なフィギュアスケート選手は、ジャンプの回転数など、目に見える実績を見せないと評価されないのは、現実世界に、良し悪しは別として、よくあることだ。
これは社会の縮図なのだとすれば、採点競技にも、人間そのものを賭けたある種の純粋な戦いを見ることが出来る。
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取材される立場について
原稿を自分で書いたり、テレビで話したりする仕事の他に、インタビューなどの取材を受ける仕事がある。通常は、取材を受けて、後から送られる原稿を確認して、「OK」と伝えたり、修正を連絡したり、という手順になる。
概ね、自分で原稿を書くよりも楽なのだが、時には、「行数を変えずに修正せよ」というような先方の指定を守るのに四苦八苦したり、言ったことが全く誤解されているのを見つけて、修正に時間が掛かったりする。後者の場合、単に時間が掛かるだけでなく、腹が立つこともあるので、インタビューを受けるときに、字数と行数を聞いておいて、自分で書けば良かったと思うこともある(たまには、本当にそうすることもある)。だが、多少の苦労をしても、最終的には、「出してもいい」と思う記事になることが多い(そうでなければ、取材を受けること自体が合理的でない)。
しかし、時には問題がこじれることがある。たとえば、先方がまとめようとする記事の本文の一部や、別枠のインタビュー・コラムのような形式で、先方が取材内容を使おうとするケースで、こちらが考えているのと反対だったり、無関係だったりするようなコンテクストの中で、こちらの発言が利用される場合だ。
このような場合、こちらとしては、自分の名前・発言・写真などを使って欲しくないが、先方は、原稿の〆切もあれば、ページレイアウトの都合もあるので、なかなか取り下げが難しいことがある。こうした場合は、取材に応じたことを本当に後悔することになる。
こうしたときに、名前・発言・写真などの掲載が、法的にどの程度拒否できるものなのか、確かめておかなければならないと思うのだが、本当のところ、まだそこまで確認できていない。(どなたか、参考書でも教えてくれないものか・・・)
また、新聞や雑誌の場合、関連する原稿全体を見せてくれるとは限らない。一応、こうした媒体には「編集権」というものがあることになっており、親切な記者が原稿全体を見せて確認しようとすると、ウルサイ先輩に怒られることがあるという。
尚、自分の意図とアウトプットが一番乖離する可能性が大きいのは、テレビのVTR取材だ。どの部分を使われるか分からないし、どんな流れの中で使われるかによって、少なくとも印象は大きく違う。VTR取材の場合は、相手との信頼関係が重要だ。生番組なら出るけれども、VTR取材は原則お断りという人もいるらしいが、気持ちは分かる。「後から編集できる」ということは、「失敗しても大丈夫」ということであるよりも、「編集によって内容が変わるリスクがある」ということだ、と覚えておくほうがよい。
雑誌や新聞の場合も、本文中に引用される形の場合には取材する側の誤解も含めて意味が変わることがあるし、全文を確認しても、見出しの付け方でニュアンスを変えられてしまうことがある。
最近受けた取材で、1200字くらいのインタビュー原稿の全文を確認したのだが、全体を通じて「今後、量的緩和の解除による長期金利の上昇が株価への不安材料だ」という趣旨の文章の、最後の部分にある、「量的緩和解除が先に延びた場合には、株価が大幅高になる可能性がある」という補足説明があるところを見出しに立てられて、唖然としたことがある。(ヤラレタ!)
新聞など〆切を急ぐ媒体の場合は、私の発言としてカギ括弧に入る部分だけ確認させて貰えると有り難い、と頼むことが多く、多くの場合この希望は聞いて貰えるが、取材を受ける以上は、先方が内容を誤解する可能性も含めて、取材者が正しいと思った通りに報じられても文句が言えないのだ、と最終的には覚悟しておく必要がある。
そういう意味では、取材される側になることはリスクがあるが、私の場合は、仕事柄、意見を届けるチャネルは多く欲しいし、名前が出ることは(悪い内容でなければ)仕事のプラスになるので、取材はできるだけ受けるようにしているし、相手に関しても、○○新聞なら受けるけれども、××出版の取材は受けない、というような分け隔てはなるべくしない方針だ。
多くの場合は、取材する側とされる側は持ちつ持たれつの協力関係にあり、いわば「繰り返しゲーム」だから、お互いに便宜を図り、信頼関係を保とうとするのだが、それは、先方にとってこちら側の利用価値が無くなるときには、裏切られる可能性があるということだから、特に、一回限りの取材を受ける相手には注意するべきだろう。
取材する側の誤解ということも多いものだし、「繰り返しゲーム」的な関係にはないことが多いだろうから、一般の方は、私よりももっと慎重に取材を受ける必要があると思う。
なぜ、わざわざ、こんな辛気くさいことを書く気になったかというと、さる雑誌のライターと、状況的に修正のしようが無さそうな(救いようのない)原稿の修正について、現在、メールでやり取りをしているからだ。これは、後悔の多い結果になりそうで、こういう引っかかり案件があると、他の原稿を書いている間も、何とも憂鬱だ。
概ね、自分で原稿を書くよりも楽なのだが、時には、「行数を変えずに修正せよ」というような先方の指定を守るのに四苦八苦したり、言ったことが全く誤解されているのを見つけて、修正に時間が掛かったりする。後者の場合、単に時間が掛かるだけでなく、腹が立つこともあるので、インタビューを受けるときに、字数と行数を聞いておいて、自分で書けば良かったと思うこともある(たまには、本当にそうすることもある)。だが、多少の苦労をしても、最終的には、「出してもいい」と思う記事になることが多い(そうでなければ、取材を受けること自体が合理的でない)。
しかし、時には問題がこじれることがある。たとえば、先方がまとめようとする記事の本文の一部や、別枠のインタビュー・コラムのような形式で、先方が取材内容を使おうとするケースで、こちらが考えているのと反対だったり、無関係だったりするようなコンテクストの中で、こちらの発言が利用される場合だ。
このような場合、こちらとしては、自分の名前・発言・写真などを使って欲しくないが、先方は、原稿の〆切もあれば、ページレイアウトの都合もあるので、なかなか取り下げが難しいことがある。こうした場合は、取材に応じたことを本当に後悔することになる。
こうしたときに、名前・発言・写真などの掲載が、法的にどの程度拒否できるものなのか、確かめておかなければならないと思うのだが、本当のところ、まだそこまで確認できていない。(どなたか、参考書でも教えてくれないものか・・・)
また、新聞や雑誌の場合、関連する原稿全体を見せてくれるとは限らない。一応、こうした媒体には「編集権」というものがあることになっており、親切な記者が原稿全体を見せて確認しようとすると、ウルサイ先輩に怒られることがあるという。
尚、自分の意図とアウトプットが一番乖離する可能性が大きいのは、テレビのVTR取材だ。どの部分を使われるか分からないし、どんな流れの中で使われるかによって、少なくとも印象は大きく違う。VTR取材の場合は、相手との信頼関係が重要だ。生番組なら出るけれども、VTR取材は原則お断りという人もいるらしいが、気持ちは分かる。「後から編集できる」ということは、「失敗しても大丈夫」ということであるよりも、「編集によって内容が変わるリスクがある」ということだ、と覚えておくほうがよい。
雑誌や新聞の場合も、本文中に引用される形の場合には取材する側の誤解も含めて意味が変わることがあるし、全文を確認しても、見出しの付け方でニュアンスを変えられてしまうことがある。
最近受けた取材で、1200字くらいのインタビュー原稿の全文を確認したのだが、全体を通じて「今後、量的緩和の解除による長期金利の上昇が株価への不安材料だ」という趣旨の文章の、最後の部分にある、「量的緩和解除が先に延びた場合には、株価が大幅高になる可能性がある」という補足説明があるところを見出しに立てられて、唖然としたことがある。(ヤラレタ!)
新聞など〆切を急ぐ媒体の場合は、私の発言としてカギ括弧に入る部分だけ確認させて貰えると有り難い、と頼むことが多く、多くの場合この希望は聞いて貰えるが、取材を受ける以上は、先方が内容を誤解する可能性も含めて、取材者が正しいと思った通りに報じられても文句が言えないのだ、と最終的には覚悟しておく必要がある。
そういう意味では、取材される側になることはリスクがあるが、私の場合は、仕事柄、意見を届けるチャネルは多く欲しいし、名前が出ることは(悪い内容でなければ)仕事のプラスになるので、取材はできるだけ受けるようにしているし、相手に関しても、○○新聞なら受けるけれども、××出版の取材は受けない、というような分け隔てはなるべくしない方針だ。
多くの場合は、取材する側とされる側は持ちつ持たれつの協力関係にあり、いわば「繰り返しゲーム」だから、お互いに便宜を図り、信頼関係を保とうとするのだが、それは、先方にとってこちら側の利用価値が無くなるときには、裏切られる可能性があるということだから、特に、一回限りの取材を受ける相手には注意するべきだろう。
取材する側の誤解ということも多いものだし、「繰り返しゲーム」的な関係にはないことが多いだろうから、一般の方は、私よりももっと慎重に取材を受ける必要があると思う。
なぜ、わざわざ、こんな辛気くさいことを書く気になったかというと、さる雑誌のライターと、状況的に修正のしようが無さそうな(救いようのない)原稿の修正について、現在、メールでやり取りをしているからだ。これは、後悔の多い結果になりそうで、こういう引っかかり案件があると、他の原稿を書いている間も、何とも憂鬱だ。
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