yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第32回壬申の乱ウオークin犬山 ~壬申の乱の影武者村國男依りの故郷を訪ねて~開催の条

2014-04-21 21:30:15 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 壬申の乱ウオークも予定の半分を過ぎ、次回は第32回となります。巡る場所は愛知県犬山市を中心に壬申の乱の陰の功労者とも言っていい村國男依の故郷を訪ねます。

「第32回壬申の乱ウォークin犬山市~青塚古墳、村国男依と周辺遺跡」

 実施日時   2014年5月10日(土)   (雨天決行)
 行 先    犬山市、大縣神社、青塚古墳、犬山成田山、ほか    
 交通機関   貸切バス   (2台)
 参加者数   90名
 参加費用   5,600 円     昼食代含む
 昼 食    レストランきらく 犬山市大字犬山字白山平5-2(犬山成田山正面)TEL 0568-61-0760        


 近鉄四日市駅西・四日市博物館・噴水前8:00→JR富田駅東口(国道1号線沿い)8:3 0→みえ朝日IC→(伊勢湾岸・東名阪)→大山田PA(10分)→名古屋西(名二環)→楠JCT・(都市高速)→小牧北IC→10:15大縣神社(参拝,説明)10:45→11:15青塚古墳12:00→12:20犬山成田山前・レストランきらく(昼食)(東の宮古墳の説明)13:30→13:45JR鵜沼駅前(下車)⇒(徒歩)⇒13:55村国真墨田神社14:20⇒(徒歩)⇒14:50犬山城前(自由行動)15:20(バス乗車)→15:40音楽寺16:00→ 一宮中IC(都市高速)→清洲東→(名二環)→名古屋西IC(東名阪・伊勢湾岸)→みえ朝日IC→17:30 JR富田駅東口→18:00近鉄四日市駅

主催: 久留倍官衙遺跡を考える会
共催: 三重大学人文学部伊勢湾・熊野地域研究センター

〔問い合わせ・お申し込み・連絡先 〕 久留倍官衙遺跡を考える会事務局
                  前川 勝宏 TEL/FAX 059-364-0395
 今回は壬申の乱の陰の功労者の一人・村國男依の本拠地である犬山市、各務原市の遺跡や関係地を巡ります。久しぶりに昼食もレストランを予約し、その前後に犬山城下町の町並み復元の実態を感じ取っていただこうと思っております。

 さらに、今回からしばらくは、壬申の乱開始の直前、密かに内戦の準備に当たった三人衆(村國男依、身毛君廣、和珥部臣君手)の故郷を巡ります。
 大海人皇子は旧領である美濃國安八磨郡の湯沐管理者である多臣品治に対し挙兵するよう密偵を送ります。それが村國男依でした。男依りの本拠地は村国真墨田神社の所在地から美濃国各務郡の北東部と推定できます。湯沐の所在地は不明ですが、各務郡の中心地でしょう。その管理者が多臣品治ということからすると、中央豪族多氏との関係の深い(多氏そのものの可能性も十分あります)人物でしょう。湯沐という王権の直轄地(ミヤケ)を維持管理するために伴造氏族が派遣されると共に在地の有力者も取り込まれたものと思われます。村国真墨田神社の位置するところは、木曽川が山間部から平地部に出るまさにその場所です。近世、犬山城を管理した成瀬氏もこの木曽の水運の管理が大きな目的だったと聞きます。村国真墨田神社の対岸の現犬山市東部に「入鹿池」というきんせいの用水池があり、これが「入鹿屯倉」と関係する場所だというのも興味深いものです。

 そして身毛君廣、和珥部臣君手もまた、前代から当該地を実質管理した在地有力者だと考えています。その最大の任務は長良川、揖斐川、つまり木曽三川の管理こそ彼らの仕事だったのではないでしょうか。その地を順番に訪ねます。

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岡山古窯探索~またまた空白期間!そろそろ再開すべきか、はたまたFACEBOOKかLINEかの条

2014-04-21 14:49:00 | yaasan随想
 一時復活しかかったのですが、退職前の片付けやら、引き継ぎ準備やら、なんやかやの準備であっという間に時間がなくなり、今日になってしまいました。

 あらためてご挨拶申し上げます。

 2014年3月31日をもちまして三重大学人文学部を退職しました(昔は退官と言ったのですが、この頃は事務方と同じ退職と言え!!ということでこう表現しています)。

 3月9日には盛大な退職記念パーテーも開いて頂いて、120人ほどの多くの方にご出席頂きました。特に卒業生が40人近く来てくれて、懐かしい顔、顔で埋まりました。また、久留倍遺跡を考える会を始めとする市民の方々もたくさん参加頂き恐縮した次第です。

 ありがとうございました!!

  お世話になりました!!!


ということで4月1日からブログを再開しようと思っていたのですが、大学から引き上げてきた本や資料の片付けに随分時間がかかり、さらに、授業の準備やら、たまたま当たっていた某研究会の発表やら、昨年末が閉めきりという雑誌の原稿を忘れていて、その矢の催促に追われるやらで、あっと言う間に1週間が過ぎてしまいました。すると次は4月から始まった非常勤講師の授業の準備。限られた年金生活ではお小遣いに困るので、皆さんのご配慮により今年は2コマ余り授業をさせていただくことになった。その資料作りがまた始まってしまったのです。

 皆様にはご挨拶状をお送りしないといけないのですが、それもまだ準備できておりません。失礼の段お許し下さい。

 ようやく先週が2週目で、その非常勤生活にもなれ始め、少しゆとりができたので、ブログでも書いてみようかということに。
 
 この間話題は一杯一杯あるのですが、何から書こうかな?と今度はこれが悩みの種。するとまた筆が鈍り、日曜には書き始めるつもりが今頃になったのであります。

 まずは直近の遺跡見学から書き始めることに。

 4月17日(木曜日)に四日市市垂坂の西部に位置する岡山古窯の現地見学に行ってきました。
 近鉄江戸橋駅から四日市まで行き、湯の山線に乗り換えて20分ほどこの櫻駅で下車します。そこからは院生のHTさんに車を出していただき8人の学生をピストン運転で現地まで運んでいただきました。感謝!!

 
 後で判ったのですが、四日市駅から三交バスが出ていて、赤沢北と言うところから歩けば5分ほどのところに遺跡はありました。
 

 昨年末から三重大学が所蔵する大昔の資料の整理を始めていました。大半が45年近く昔に掘られて林檎箱やら木箱に入って埃だらけのものです。収蔵されているプレハブが年代物で、教育学部の管理下にあるのですが、1階に置かれていた資料は横殴りの雨で直ぐに水浸しに。近年は木箱が腐り始めて触ることもできない状況だったのです。

 仕方ないのでそれらを今時のコンテナに移し替えるのですが、お金がないので大赤字!!退職間際に大借金を残す羽目に。でもいろいろご配慮いただいたお蔭で、何とか被害は最小限に留めることができました。事務の方々に大感謝です。

 何とか木箱はコンテナに移し替えたのですが、入っているラベルも劣化が激しく、読めないものも多数。これではせっかくの「宝物」がただのゴミと化す危険性大。そこで、今年度卒業する学生にこの遺物を資料化してみないかと言うことに。まずは地区別、窯別に遺物を集め、さらに遺物の種類毎に分けて、何がどの程度有るのかを確認する作業から始めた。あるわ、あるわ!奈良平安時代の須恵器、瓦塔、硯、瓦、焼成前線刻土器・・・。

 担当学生を決めて3人で分担して整理することに。もちろん大半が実測もされていないので、実測から始めるのだが、まずは遺跡を知ろうということで、現地踏査と相成ったのであります。これまでの報告類を見ても現地がどこなのかよくわからないのであります。そこで四日市市に尋ねたところ、現地は途中まで開発されたがその後ストップし、何もない!!というのです。目印は県小学校だから、これを目指し、その北北西に独立した丘陵があり、そこが遺跡だというのです。地図を調べると小学校の直ぐ南が県神社。これは由緒のありそうな神社だからここから始めようということで、県神社を目指して行ったのであります。もっtも現地で判ったのですが、この神社はとても新しいもので、周辺の須賀神社や天満宮を合祀した校正のものだそうです。少しがっかりしながら現地の岡を目指しました。

県神社の正面に記された由緒

 


 

 行ってびっくり見てびっくり。現地には「グリーンパーク岡山」なる立派な看板が立っているのであります。その上、この看板によると、四日市市の「市民緑地開設第1号」として2005年にできているのです。

 
 
 
 「????」みんな首をかしげました。おそるおそる中に入っていってみると遊歩道が作られており、陶芸教室用の窯までできているのです。

 
 
 「????」

さらに進むと花壇があり、作業をなさる老人の方々がおられるのです。聞いてみると、

 「アー、窯ならこの向こうの竹藪の中に遺っているよ。今年こんなパンフレットも作ったよ」

と手作りの素敵なパンフレットを下さるのです。その地図を基に現地に入ると、噂に聞くモトクロスのコースに現地は大きく改変され、あちこちに車道ができているのです。おそらく車が掘り起こしたのでしょう、現地には大量の土器が散乱しているのです。

 

 一帯行政は何をしているのでしょう?岡山古窯はそれなりに他府県にも知られた面白い窯跡です。一部は壊されたものの、当時の人々の努力で、遺跡は多くが現地に遺されたのです。そして、地元の方々はその貴重な遺跡を含む里山を大切にしようと、林を整備し、子供達、市民が集える空間を作って大切になさっていうrのです。にもかかわらず文化財行政は知らん顔。

 ホント、ダメですね。行政が文化財保護なんて大きな口をたたけるのは20年前までの話し。気力と能力のない行政にかかれば遺跡なんてひとたまりもありません。その典型は三重大学に所在する鬼が塩屋遺跡でいやというほど思い知らされましたが。

 それはともかく、私たちが早急にしなければならないことは、「岡山古窯の学術的な価値をきちんと世に出すこと」これだと実感しました。一緒に行った学生には大急ぎで、大学にある資料を整理し、まず、岡山古窯とはどんな遺跡なのかをきっちりと紹介しようではないかということにしました。

 

 

 


 私自身にも問題があることはいうまでもありません。16年間、ほとんどこれに手を付けられなかったからです。その罪滅ぼしも兼ねて、今いる学生でできるだけきちんと資料を図化しようと思います。まずは、事実関係の掌握です。外野から矢が何本も飛んで来るという噂ですが、気にしません。mmし興味のある方は是非三重大学に、現地に行ってみて下さい。


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