yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

研究余録  鈴鹿関と不破関の条

2006-07-03 01:01:38 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
人間追い込まれれば追い込まれるほどもっと先に逃げようとするものです。

ここをクリックしてランキング登録にご協力下さいよろしくお願いします。

 上石津町の西高木家陣屋跡を訪れた後、午後から本来の仕事である講演に向かいました。久しぶりに垂井町を通り、藍川の側で昼をいただいて、午前中に見た西高木家のお陰でなぜか心も落ち着いて講演の心構えをすることができました。お題は「不破関と鈴鹿関」でした。
 西濃地域の合併では当初、上石津町だけではなく関ヶ原町も垂井町も合併対象だったと聞いていたのですが、なぜか両町は合併協議会から離脱し、結局は上石津町が飛び地になってしまうなど、今回の合併の弊害モデルのような形で落ち着いたようです。もし大垣市になっていれば、美濃国分寺・尼寺、美濃国府、不破郡衙、不破関等々日本古代の極めて重要な遺跡群が一市に所在することになり、優れた調査技師の下で一括して統一した方針の下に調査研究することができる!と、大いに期待したところなのですが果たせませんでした。残念!

 実は三重大学に赴任して直ぐの年に私は「美濃国府」の調査のため不破郡垂井町に一ヶ月ほど泊まり込んで発掘調査をしたことがあるのです。だから、周辺の遺跡群も学生達と一緒に随分訪ね歩いたものです。もちろん不破関は人を案内してまで数回訪れたことがあります。おそらく潜在意識として、いずれ鈴鹿の関を掘りたい、調査・研究したいという意欲があったから、熱心だったのだと思います。いや、実は「美濃国府」の調査ももっとやるつもりでしたから、いつか不破関も・・・、と予定していたのです。
 しかし、今から考えると、あの当時は結局、不破関の一部分を見ていただけで、関の本質は全く分かっていなかったと大いに反省しています。あのまま調査などしなくてよかったと、今頃気付いた次第です。

 今回、講演会の準備をしながら、不破関の「土塁」がなぜあのような位置に設けられたのか、どのような土木工事を経て建設されたのかについて、ようやく具体的に考えることができたのです。それもこれも、鈴鹿関の西築地跡を発見するという手がかりを与えてくれたからなのです。講演のために不破関の報告書や関ヶ原町史を読み直し、三関を貫く可能性のある三つの事柄に気付いたのです。
 その第一は、不破関も鈴鹿関もこれまで土塁と呼ばれてきた施設は築地塀ではないかということです。


(長岡宮築地跡。『向日市埋蔵文化財調査報告書第9集』1980年より)

 私はもう27年も前になりますが、長岡宮で官衙の囲繞施設である築地跡を初めて発掘調査しました。平城宮ですら誰も本格的な築地跡を掘った人がいなかったので手探り状態での発掘でした。でもそのお陰で、律令国家が築造した築地塀の工事過程やその構造を詳細に知ることができました。今回その経験が大いに役立ちました。不破関の「土塁」の図面を見て驚いたのです。そっくりなんです!!


(築地築造工程の復原模式図)

 土塁は帯状に延びる土の山ですが、築地は土の山の上に屋根が着いているのです。一般的にはお寺の塀やお役所の塀に用いられる装飾性の高い囲繞施設なのです。もちろん両者では屋根に瓦が葺かれ、のきさきには文様を持つ軒瓦が載せられて、装飾性をさらに高めていました。お役所では築地の表面に漆喰が塗られ、柱は朱で彩られていたと思われます。日本の築地塀は必ずしも防御性が高いわけではなさそうで、築地は度々破損したようです。このため専門の修理担当の役所・修理官が置かれ、瓦をストックして補修に当たっていたようです。築地塀からはたくさんの「修」「理」と刻印した瓦が出土します。
 そんな不安定なものがなぜ関所に?
 そうです!そこが今回の大発見の大いなる意義なのです。
 以前から日本の関所はさほど軍事的機能には重きを置いていないという考えがありました。都で異変が起こると「固関」といって、三関を閉鎖させるのですが、その大きな目的は反乱者の東国への脱出の防御でした。敵の大群が押し寄せるのを防ぐというより都からの脱出を防ぐというかなり二次的なものでした。
 だから山のような土塁が必要なのではなく、「ここが関所だぞ!」と威厳を示せればよかったのです。機能より見栄えのようです。


(すごくよく似ているでしょう!長岡宮の築地と。確信に近いものがあります。夏が楽しみです。)
 第二に、不破関の関司推定地周辺や今回の鈴鹿関西築地跡出土の瓦類が、いずれも八世紀中頃の特徴を持っていることです。これまでにも三関がいつ設置されたのかということについてはいろいろな議論がありました。少なくとも大宝律令に記載されているということは701年にはその存在が確実視できるのですが、それがどこまで遡るかが問題だったのです。不破関で出土する瓦のうち最も古いものがその第Ⅰ型式と名付けられた瓦群で、川原寺系の文様構成を持ち、7世紀末のものではないかといわれています。鈴鹿関については壬申の乱における『日本書紀』の記事に「鈴鹿関司」の名前が出てき、「関」の存在を推定する研究者もいますが、後の潤色だという意見も強いようです。今のところ鈴鹿関については考古資料からは年代を推定できません。ですから、依然として創出時期については決着が見られないのですが、少なくとも8世紀中頃には鈴鹿・不破両関で築地塀が存在したことが判明したのです。これは大変大きな発見です。
 というのはこの頃、両関をめぐる重大な「事件」があるのです。聖武天皇の東国行幸です。740年10月29日に平城京を後にした天皇は大和の柘植から名張を経て伊勢に入り河口、一志と泊まった後、鈴鹿郡の赤坂頓宮に入り、以後、壬申の乱における大海人皇子の行程を辿るかのように進みます。そして、12月1~5日不破郡に滞在するのです。桑名から当伎郡の養老を通って不破関に入るコースは、前回ご紹介した伊勢東街道であった可能性が高いと思われます。両関から出土した遺物の年代観から、まさに両関はこの頃整備されているのです。聖武行幸の前に事前に整備されたのか、行幸後に訪問先を整備したのか、今のところ出土遺物などからは判明しませんが、そのどちらかであることは間違いないようです。
 そして第三に気付いたことは、不破関と鈴鹿関の規模や構造に多くの共通点があることです。公表されている地図を検討すると、今回見つかった鈴鹿関はどうも北西角の築地である可能性が強いのです。その形がまた既に調査されている不破関の北西コーナーとそっくりなのです。不破関と鈴鹿関が同時期に同一規格で整備されたと仮定して、不破関の検出済みの「土塁」を鈴鹿関に被せると、南西隅が観音沖遺跡、東辺が関中学校校庭付近にかって存在したとされる痕跡に見事に合うのです。おそらくこれが『続日本紀』に出てくる「西城」でしょう。あるいは西内城の記述から考えると西外城なのかもしれません。
 いずれ調査が進めば詳細はまた判明してくるのでしょうが、招かれた講演会を契機に勉強させてもらったお陰で、三関に関する大枠を何となく捕まえたように思っています。


(学生達の右側にあるのが発見されたA築地で、不破関にも北西コーナーに北西方向に少し延びる築地跡が確認できる。偶然とは思えない。)

 8月21日からは亀山市教育委員会と三重大学考古学研究室共同で、記念すべき鈴鹿関第一次発掘調査に着手します。学生達とこの前泊まったあの鈴鹿峠自然の家に泊まり込んでの調査です。是非興味をお持ちの方はこの夏鈴鹿関へお越しください。もちろん、差し入れを忘れないでね!!(但し最近の学生はあまり呑みませんから、酒より肉がいいかも?!!なお、お泊まりいただくことも可能ですが、雑魚寝で、風呂は車で移動です。飯も自炊ですからあまりたいしたものはありません(だから肉!?もちろん山田博士のぶよぶよの贅肉はいりませんからね!!)。


(昔懐かしい小学校の朝礼台のある鈴鹿峠自然の家。安くてちょっと不便だけれど、いいところですよ。)

 是非学生達と活発な議論をしてやってください。お待ちしています。
 
 久しぶりに充実した一日であった。

 後はなかなか進まない原稿!!昨日今日と何回書き直したことか、進んでは戻り、戻っては立ち止まり。アー、神様私にもう少し文才を!!

ランキング登録もよろしく