2月23日紀伊国屋サザンシアターで、井上ひさし作「シャンハイムーン」を観た(丹野郁弓演出)。
凝りもせずにまた観てしまった。彼の芝居は説教臭さを我慢すれば何かしら勉強になるし・・・と思って。しかしありがたいことに今回は合唱がなかった!
役者たちの下手な合唱を聴くのは責め苦以外の何物でもないし、それ以前に合唱曲自体がたいてい恥ずかしくなるほどひどい出来だから。
晩年の魯迅は国民党政府によって弾圧され、地下に潜る生活を余儀なくされる。その時彼をかくまったのが上海の内山書店店主である内山完造とその妻だった。魯迅の熱烈なファンである医者と歯科医も援助の手を差し伸べようとする。彼らは皆日本人である。魯迅は妻を北京に残し、現在は第二夫人許公平と暮らしている・・・。
あちこち病気を抱えていながら徹底した医者嫌いの魯迅を、何とかだまして診察しようとする医者たちが笑いを誘う。
魯迅役は村井国夫。いつもながら安心して見ていられる。珍しくコミカルな演技も。
歯科医奥田愛三役の土屋良太は初めて観たが、うまい。
魯迅は後半「人物誤認症」という怪しげな病にかかり、加えて失語症になるという設定で、作者はまたも笑いを取ろうとするが・・・。
この作品にもやはり説教臭いセリフがダイレクトに語られるシーンがあり、客席を白けさせる。
例えば「日本人はこうだ、中国人はこうだ、と決めつけるのはよくない。日本人にも中国人にもいい奴もいれば悪い奴もいる・・・」といった調子。
まさにお説ごもっともだが、劇場は学校の教室ではない。それをダイレクトに言わずして観客をしてそう思わしめるのが芝居であり文学というものではないか。
そう言えばシェイクスピアにはたまに冗長な所もあるが、ありがたいことにお説教は皆無だ。(そんなセリフを聴いたら当時の観客、いや聴衆は怒り出したかも知れない。)
だいたいチラシに作者自身が「なかなか感動的な物語です」と書いているのからしておかしい。
感動的な作品を書きたいと思うのは勝手だが、出来上がった作品が感動的かどうかを決めるのは観客であって決して作者ではないのだから。
自分でそれを言っちゃあおしまいだろうが。
登場人物は善人ばかり。しかも皆オーバーに涙ぐむので、日頃は涙もろい筆者でさえ白けてしまった。
客を泣かせたいなら役者は泣かない方がいい。これは常識だろう。その点、演出にも疑問を感じた。
凝りもせずにまた観てしまった。彼の芝居は説教臭さを我慢すれば何かしら勉強になるし・・・と思って。しかしありがたいことに今回は合唱がなかった!
役者たちの下手な合唱を聴くのは責め苦以外の何物でもないし、それ以前に合唱曲自体がたいてい恥ずかしくなるほどひどい出来だから。
晩年の魯迅は国民党政府によって弾圧され、地下に潜る生活を余儀なくされる。その時彼をかくまったのが上海の内山書店店主である内山完造とその妻だった。魯迅の熱烈なファンである医者と歯科医も援助の手を差し伸べようとする。彼らは皆日本人である。魯迅は妻を北京に残し、現在は第二夫人許公平と暮らしている・・・。
あちこち病気を抱えていながら徹底した医者嫌いの魯迅を、何とかだまして診察しようとする医者たちが笑いを誘う。
魯迅役は村井国夫。いつもながら安心して見ていられる。珍しくコミカルな演技も。
歯科医奥田愛三役の土屋良太は初めて観たが、うまい。
魯迅は後半「人物誤認症」という怪しげな病にかかり、加えて失語症になるという設定で、作者はまたも笑いを取ろうとするが・・・。
この作品にもやはり説教臭いセリフがダイレクトに語られるシーンがあり、客席を白けさせる。
例えば「日本人はこうだ、中国人はこうだ、と決めつけるのはよくない。日本人にも中国人にもいい奴もいれば悪い奴もいる・・・」といった調子。
まさにお説ごもっともだが、劇場は学校の教室ではない。それをダイレクトに言わずして観客をしてそう思わしめるのが芝居であり文学というものではないか。
そう言えばシェイクスピアにはたまに冗長な所もあるが、ありがたいことにお説教は皆無だ。(そんなセリフを聴いたら当時の観客、いや聴衆は怒り出したかも知れない。)
だいたいチラシに作者自身が「なかなか感動的な物語です」と書いているのからしておかしい。
感動的な作品を書きたいと思うのは勝手だが、出来上がった作品が感動的かどうかを決めるのは観客であって決して作者ではないのだから。
自分でそれを言っちゃあおしまいだろうが。
登場人物は善人ばかり。しかも皆オーバーに涙ぐむので、日頃は涙もろい筆者でさえ白けてしまった。
客を泣かせたいなら役者は泣かない方がいい。これは常識だろう。その点、演出にも疑問を感じた。