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モロタイ島と第二次世界大戦

2020-12-06 11:22:45 | Weblog
モロタイ島と第二次世界大戦
第二次世界大戦を覚えている地元の人々は、
1944年から1845年のモロタイでは、数え切れない軍事活動が行われ、

ダルバ湾に沿って機体が離陸して着陸し、数千種類の軍用ブーツが陸を進み、
そして海軍の船舶は、毎日の運搬や武器を運んでいたそうです。

当時のモロタイは、第二次世界大戦中にフィリピンとボルネオで日本軍との
戦いを攻撃した連合軍の戦略的基地だったそうです。

1944年9月15日、米国とオーストラリアの連合軍が
西太平洋の最高司令官ダグラス・マッカーサー大将の指導の下、モロタイの南西の角に上陸した。

モロタイは、日本軍の指揮官はわずか500人の兵士しか島に残していませんでした。

日本がモロタイを捨てたとき、
マッカーサー将軍は日本からフィリピンを取り戻すため戦略的立場にあると
考えていた島を黄金の窓として考えていました。

50,000人以上の連合軍の軍隊をモロタイに定住させました。

ある時点で、モロタイには6万人以上の兵士がおり、
ベット数1,900の大きな病院があり、近くには忙しい海軍基地もありました。

その後、オーストラリア軍はモロタイから北ボルネオへの攻撃を狙いました。

この活動は、1945年に日本人が降伏して第二次世界大戦が終わるまで続きました。

島を離れる前に、連合軍は、すべての構造物を焼失させたと言われています。

1974年、一人の日本人兵士、中村輝夫氏が、
モロタイのジャングルから数十年間戦争が終わったことに気づかずに現れました。

今日、モロタイは太平洋劇場での第二次世界大戦の軍事演習の記憶になっており、
フィリピンの自由に対する戦いの役割はほとんど忘れられています。

53,000人の人口を持つ島自体は、今や熱帯の楽園に戻っています。

第二次世界大戦の結果
島を占領した連合軍は、予定通りに大量の建設部隊を送り込み、基地設営を開始した。

建設作業にはオランダ軍民政班の徴用した現地人も参加した。
日本軍の建設していた飛行場を拡張する計画であったが、
やはり地質的に困難と判明したため、新規に滑走路が建設された。

10月4日には1500m滑走路が大型爆撃機の作戦可能状態に整備され、
ボルネオ島のバリクパパン攻撃などに利用された[。

その後も基地の拡張は進められ、
10月17日には2100mの第二滑走路が完成、
11月には約250機の航空機が展開するようになった。

レイテ島の戦いなどにおいて、
モロタイ島は空襲拠点や後方基地として重要な役割を果たした。

太平洋戦争終戦時の日本陸軍第2軍の降伏式典も、モロタイ島で行われている。

終戦時に660名の日本兵が投降したが、一部の日本兵は日本の降伏を知らず、
なおもジャングル内で生き延びた。

例えば1956年には9人の元日本兵が発見され、日本に帰国した。

1974年末には高砂義勇隊の中村輝夫(本名、スニオン、李光輝)が発見され、台湾に帰国している。

※日本兵として出兵し、戦い、長い期間現地で潜伏していた結果
日本は敗戦し、台湾を手放し、日本ではなくなっていた。
戦争の被害者である中村さんの心境は計り知れませんが、
さぞかし複雑な心境であったと思います。

二度とあってはならない事件です。風化させないためにも
この地で戦争に参加せざるを得なかった人々への哀悼を込めて
木を植えて「平和の森」を後世に残したいと願っています。

モロタイ島で共生の森づくり支援






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