ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

リングサイドで恋をして・第10話/オランダ紀行・中編

2012年07月27日 | RSで恋をして

今回はツアーのメーンである97年2月2日の「フリーファイト・ガーラ」。

アムステルダムで開かれた格闘技イベントの思い出を語る。

まず印象に残ったのが、リングを囲むゲストの格闘家の豪華な顔ぶれ。

「欧州空手界の巨人」ジョン・ブルミン。「キックの帝王」ロブ・カーマン。

日本でも有名なアーネスト・ホーストやバス・ルッテン。ジェラルド&ニコのゴルドー兄弟。

イベントを主催したリングス・オランダの総帥クリス・ドールマンの大物ぶりがうかがえた。

次に印象に残ったのが、華やかなゲスト陣とは裏腹に、不透明な試合が続いたこと。

メーンは、ディック・フライがペドロ・パームを相手に、

ヒジ打ちやサッカーボール・キックを連発したあげく、1Rノーコンテスト。

成瀬はヴァレンタイン・オーフレイム(注1)を相手に、目尻を切って1Rドクターストップ負け。

長井はヨープ・カステルを相手に、急所へのヒザを食らって1RKO負け。

ジャパン勢の試合もスッキリしない結果が続き、田村がアンドレ・マナート(注2)を

スリーパーでしとめたのが唯一の救いだった。

ただ、後にリングスやPRIDEで活躍するギルバート・アイブル(注3)が前座を務めるなど

格闘技王国オランダの有望株を見ることができた大会でもあった。

最後に印象に残ったのが、サプライズな出会い。

大会終了後、帰りのバスを待っていたツアー一行の前を見覚えのある長身の男が通った。

「わあ、アーツだあ!」

異国のスポーツホールのロビーで、思わず発した日本語の叫びに、

こちらを向いたピーター・アーツの満面の笑みが今も忘れられない。

自分の価値を理解している者、自分をリスペクトしてくれる者を

見つけた時に、ヒトはあんな表情を見せるのか・・・としみじみ思い出す。

この後、ロビーは即席のサイン会&撮影会となったが、周りのオランダ人たちが

「このジャパニーズどもは何を騒いでいるんだ?」という表情をしていた記憶がある。

ワタシたちは逆に「アンタらは地元なのに、この男を知らんのか?」と言いたかったが。

ちなみに、このころのアーツは、すでに94年・95年のK-1GPを制していたが、

96年は3連覇を逃し、マイク・ベルナルドに3連敗(反則負け含む)と不振にあえいでいた。

しかし、上記の出会いの直後、97年3月に96年王者のアンディ・フグをKOして復活。

ワタシは「アーツが2号とツーショット写真を撮ったから」(注4)と今も信じて疑わない。

(第11話に続く)


注1・2010年K-1GP王者&ストライク・フォース元ヘビー級王者の

アリスター・オーフレイムの実兄。97年当時の兄弟の体格を思い出すと、

現在のアリスターの肉体は何か打ってやっているとしか思えん。

注2・オランダの名門「メジロジム」の現会長。94年のK-1GPにも参戦。

現在はアンディ・サワーほかのセコンドに付く姿が日本でもおなじみ。

注3・第4代リングス無差別級王者。しかし、戴冠直後に専属契約を無視して

PRIDEに電撃移籍。強いことは強いが、リング内外の素行に問題が多い選手である。

注4・ワタシは2号に「格闘技あげまん」の異名を付けている。

2号が見そめたり、いっしょに写真を撮ったりしたプロレスラーや格闘家、

相撲取りはその後、ブレイクするケースがかなり多いので。

3号もその血を引くらしく、赤ちゃんの時に初めて写真を撮ったプロレスラーが、

98年夏に来道していたバトラーツ時代のアレクサンダー大塚だった。

アレクは直後の同年10月のPRIDE4の総合デビュー戦で、

「路上の王」マルコ・ファスにTKO勝ちという大金星を挙げている。


リングサイドで恋をして・第9話/オランダ紀行・前編

2012年07月11日 | RSで恋をして

97年1月31日。ワタシたち夫婦は成田空港の出発ロビーにいた。

7泊8日の新婚旅行(披露宴が3月だったので婚前旅行とも言える)に選んだ

リングス・オランダ・ツアー(スペイン観光のオプション付き)を控えてワクワクしていた

<ワタシにとっては初めての海外旅行でもあった。

このツアーの参加選手は、前田日明、長井満也、成瀬昌由、田村潔司の4人。

そして島田二等兵裕二レフェリー。間近で見る日明兄さんはタテにもヨコにも分厚く、

とりあえずうかつに近づいてはいけない人だと直感した。

「バキ」の渋川先生が頑丈な扉や断崖絶壁を幻視した感覚に近いと思うが、

それでもお近づきになりたくなるのが、プオタのつらいところである。

なお、当時の週刊プロレスからは鈴木健記者、犬童嘉弘カメラマンが同行した。

余談だが、犬童カメラマンは今年3月のリングス後楽園大会でもお見かけしたが、

見た目が15年前とほとんど変わらない。あの若さの秘密は何なのか?


KLM便で12時間の空の旅を終えて、アムステルダム入り。

スキポール空港から宿泊先のビクトリア・ホテルに到着後、

日明兄さんが開口一番、フロントに問いかけた言葉を今でも覚えている。

「ウェイン・ブリッジ・カム・ヒア?」

実に分かりやすい英語だった。

「滑舌の悪さ」がよくネタにされる日明兄さんだが、むしろ英語向きの舌なのかも。

それはともかく「ウェイン・ブリッジ」の名前が出たことにまず驚いた。

元イングランド代表のSB・・・ではもちろんない。

英国修行時代の若き日明兄さんの世話をした伝説の名レスラーにして、

83年にその日明兄さんに欧州ヘビー級王座を明け渡した方である(注1)。

「クイック・キック・リー」(注2)とブリッジの再会は、プオタとしてぜひ見ておきたいと思い、

しばらくロビーを歩き回ったが・・・結局、ブリッジは来られなかった様子だった。

だが、オランダ1日目にして、日明兄さんと欧州の縁の深さを改めて知らされた出来事だった。

(第10話に続く)


注1・この王座を手土産に、日明兄さんは83年に凱旋帰国。

新日本の第1回IWGP決勝リーグ戦に「欧州代表」として出場している。

注2・日明兄さんの英国修行時代のリングネーム。

英国で活躍した「サミー・リー」(タイガーマスクになる前の佐山聡)の弟というギミックだった。

この2人は新日本離脱後、旧UWFで凄まじい「兄弟ゲンカ」をやらかすことになる。


リングサイドで恋をして・第8話/入籍

2012年06月28日 | RSで恋をして

第1話で述べたように、ワタシと2号が入籍したのは96年9月22日。

出会いのきっかけをくれたデル様の誕生日に合わせた。

後にリセットの誕生日とも重なるとは、当時の2人には知る由もなかった

そして、晴れて夫婦となった2人が初めて足を運んだプロレス・格闘技イベントは、

これまた2人には縁が深いリングスだった。

第8話は入籍3日後、96年9月25日のリングス札幌中島大会の思い出を語る。


この時期のリングスは、9月の札幌大会を経て、10月~翌年1月の4カ月間で

団体の頂点を決める「メガバトル・トーナメント」を開催する年間スケジュールだった。

このため、札幌大会は毎年、トーナメントの行方を占う好カードが用意されていた。

96年も長井満也×高阪剛の日本人対決や、

ハンス・ナイマン×ビターゼ・タリエルの重量級打撃対決といったカードが並んだ。

しかし、ワタシと2号の注目は一つのカードに絞られていた。

田村潔司×ヴォルク・ハン

田村はこの年の5月にUインターを退団して、リングスに移籍。

6月のリングス初戦で、ディック・フライをスリーパーで下してから3連勝していた。

ファイターとしての田村には好感を持っていたワタシと2号だったが、

「半ば外様の田村に勝たせるのはここまで。4連勝もされてはリングスがナメられる」

と、ハン戦に関しては意見が一致していた。

また、田村が下した相手は、フライやウィリー・ピータースといった用心棒上がりと

キック・ボクサーのモーリス・スミス。つまり、打撃自慢の選手ばかりだった。

ハンのサンボならば、リングスの奥深さを田村に教えてくれる。そんな期待もあった。

この試合、ハンは田村の前蹴りでKO寸前に追い込まれるシーンもあったが、

最後は田村をアームロックで葬り、ワタシと2号の期待に応えた。

見たいモノが見られたこの白星は入籍のご祝儀だったと今でも勝手に考えている。

一敗地にまみれ、悔しそうに花道を引きあげる田村に、

「たむらぁ! これがリングスだぁ! よく覚えておけぇ!」

とワタシはハイ・テンションで絶叫。いま考えると、何もそこまで・・・と思わなくもない。

なお、田村はこの後、10月からのメガバトル・トーナメントを勝ち上がり、

翌年1月の決勝戦に進出。アキレス腱固めでまたもハンに敗れたが、

この2回目の対決こそは、第1次リングス史上、屈指の好試合だったと思う。

そして、トーナメント終了後にリングスのオランダ遠征に参加した田村は、

のこのこ新婚旅行にやってきた、ハンの威を借るプオタにリベンジすることになる。

・・・というわけで、次回からは97年2月のリングス・オランダ・ツアーの思い出を語る

<エピソードが多いので計6回を予定


余談になるが、この札幌大会から16年。

今年3月に復活したリングスの第2回大会が、9月23日に後楽園ホールで開かれる。

改めて、リングスはワタシと2号の記念日と縁深い団体だなあ、とつくづく思う

<チケットは来月2日から発売。もちろん買うとも(宣伝)

(第9話に続く)


  • J1

FC東京0対1柏 G大阪2対2名古屋 ガンバが勝ち点1上積み。新潟がブービー転落。

ナビスコ杯はBグループの清水・鹿島に続いて、AグループのC大阪・仙台が決勝T進出。

  • 欧州選手権

スペイン0対0(4PK2)ポルトガル 隣国対決はスペイン辛勝。連覇に王手。 

  • ホークス

マッチ三番の打順変更も奏功して、5回に4点を挙げて逆転勝ち。

攝津、8回2安打1失点の好投で7勝目。

なお、攝津はこのまま平日登板を続けて、オールスター後の8月1日(水)に

地元・秋田でのビジター楽天戦に登板するとみる。好天になればいいね。


リングサイドで恋をして・第7話/みちのく二人旅

2012年06月14日 | RSで恋をして

第6話まで96年1~7月に起きたことを語った。

この期間、2人を取り巻くスポーツ・シーンで思い出深い出来事と言えば、

コンサドーレ札幌の誕生&伝説の厚別開幕戦に尽きる。

物語の本筋に無関係なので省くが、2人の間にプロレスに加えて

サッカーという軸ができたことは、お互いの仲をより深めたと言える。

一方、当時の共働きに加えて、「週末の厚別参り」という

新しいデートコースの誕生は、初対面の時に交わした

「みちのくプロレスを本場の東北へ見に行く」という約束の先送りにもつながっていた。

しかし8月に入って、「何が何でも東北に行かなくては!」と

2人に決意させる衝撃のニュースがプロレス界を駆け巡った。

第7話は「みちのく二人旅」の思い出を語る。


さて、この96年夏にプロレス界がどうなっていたかと言えば、

ジュニアの戦いが空前の盛り上がりを見せていた

6月にシングル8戦すべてがジュニアのタイトル戦という

前代未聞の大会「スカイダイビング-J」が日本武道館で開催。

そして、この大会での獣神サンダー・ライガー(新日本)の呼びかけに応じる格好で、

8月にはジュニア8冠統一トーナメント「J-クラウン」が両国国技館で開かれた(注1)。

・・・しかし、トーナメントの「発起人」と言えるライガー当人は

ウルティモ・ドラゴン(当時WAR)のラ・マヒストラルの前に、あっけなく1回戦敗退。

両国から遠く離れた札幌で、ワタシと2号はこの知らせに爆笑した。

ワタシ「言い出しっぺなのに、ま~た、やっちゃったよ」

2号「ホント、大一番であっさり負けるクセが治らないよねえ」(注2)

しかし、大会終了後に凶報。

「ライガー脳腫瘍」「近日中に手術へ」「長期欠場・引退のおそれも」

2人でライガーを笑ったからバチが当たった・・・当時は真剣に後悔した。

そして続報。

「手術前の最後の試合は、8月18日のみちのく青森大会に決定」

以前からの約束(注3)を守って、みちのくのリングに上がり、

サスケの代役(注4)として、メーンを務めた後に入院するという。

泣かせる

「これは何を置いても青森に行こう。考えたくはないが、ライガー最後の雄姿かも」

2人の思いは完全に一致し、場所が比較的近い青森という幸運もあって、

すぐに0泊2日、夜行列車の車中泊を伴う青森弾丸ツアーを敢行することになった。

2人で足を運んだ青森。2人で足を運んだみちのくプロレス。

主役のサスケ不在は残念だったが、

「ライガー・浜田・浪花×東郷・TAKA・船木」というメーンの6人タッグには大満足。

会場の観客全員がライガーの味方で、何をやっても大歓声。

相手のルード役の海援隊トリオも、さぞ仕事のやり甲斐があったと察する。

ライガーの頭を攻めるだけでも、悲鳴とブーイングが沸き起こったのだから。

そして、ライガーが3カウントを奪った瞬間にまた大歓声。

「病気を治して、また必ずみちのくのリングに帰ってきます!」というマイクにも

「ありがとう!」「ずっと待っているぞ!」という祈りのようなエールがとんだ。

・・・あれから16年。

ライガーはその後、レーザーメスでの腫瘍切除を経て早期復帰を遂げた。

毛根以外は至って元気だ。

確かに身体は重くなり、あまり空中技を出さなくなったが、今なおジュニアの重鎮である。

今年のスーパーJrは決勝T進出を逃したが、8月は「ふく面Wリーグ戦」に参戦予定。

「必ずみちのくのリングに帰る」という約束を何回も果たしている。

12日深夜のTBS「テベ・コンヒーロ」では、いじられ倒されていたなあ

元気な復帰の祈りが叶ったことはうれしい・・・しかし、少し元気すぎるかも。

「もしかして16年前はダマされた?」という疑念が、頭をよぎることもなくはない。


それにしても、大会自体は面白かったが、当時の青森市に抱いた印象は最悪だった。

というのも、当時は市内に「青森県民」「青森県営」(注5)と似た名称の体育館があり、

県外から訪れるみちのくプロレスのファンをしばしば混乱させていたからだ。

ワタシたち2人も、危うく引っかかる寸前だった。

「みちのくがなければ、この地に来ることは二度とあるまい」とお互いに思った。

しかし6年後。2人はプロレス会場としての青森県民体育館の「最期」を見届けることになる。

(第8話に続く)


注1・8月2~5日の4日間、新日本G1と併催された。

国内外5団体の王者8人が参戦し、ザ・グレート・サスケが初代8冠王者に。

注2・「ライガーは大きな大会のシングル戦、それも外敵に弱い」というのが

ワタシたち夫婦の持論。94年スーパーJカップのサスケ戦や95年「10・9」の佐野戦、

そして、今年のスーパーJrの初戦のPAC戦などが、その良い例と考える。

まあ、実際はシングル戦も強いし、負けた後にリベンジしているケースが目立つが。

「ライガーに勝った」という勲章を手に、ひと皮むけたレスラーも多いので問題なし。

注3・ライガーは94年から「みちのくに上がりたい」としばしば口にしており、

参戦が内定したこともあったが、本人の骨折などで延び延びになっていた。

注4・「J-クラウン」の決勝のウルティモ戦で、トペ・コンヒーロの着地に失敗。 

サスケは初代8冠王者の座と引き換えに、頭蓋骨骨折で長期欠場を余儀なくされた。

注5・この96年8月の会場は「青森県民」。前年95年の「ふく面Wリーグ戦」決勝戦で、

ドス・カラスがサスケをパワーボムで葬った会場は「青森県営」である。ややこしや。


リングサイドで恋をして・第6話/挨拶

2012年05月31日 | RSで恋をして

明日から6月。J1は中断中だが、欧州選手権&ロンドン五輪が近づいてきた。

五輪イヤーの夏と言えば、「こち亀」日暮そして「2号父との初対面」を思い出す。

第6話は、結婚をめざす全ての男に待ち受ける難関をどのようにクリアしたかを振り返る。


96年7月20日。2号の倶知安の実家に挨拶に行った日をよく覚えている。

晴れた暑い日だった。そして、日差しに当てられたのか緊張からか、 

実家に着くやいなや、ワタシの紹介もそこそこに、2号が寝込んでしまった。

「娘さんをワタシに下さい」という男と、その男と初めて向かい合う娘の父が、

クッション役の娘をいきなり欠く緊急事態である。とても場が持たない

2号父「込み入った話は後回しにして、テレビでも見ようか」

ワタシ「そうですね。きょうからアトランタ五輪が始まりますし」

お互いにテレビに場つなぎを求め、押し黙って開会式の様子を眺めていた。

しかし、その沈黙は聖火を点灯する瞬間、異口同音の叫びで破られた。

「うわ!モハメド・アリだ!」

第2話で述べたように、2号父は大のボクシング好き。

ボクシング・ファンとプオタの間で話題を共有するには、

これ以上の人物はいないというレジェンドのご登場である(注1)。

そこから先は「キンシャサの奇跡」とか「猪木戦から20年」とか、

それまでの沈黙がウソのように話題が次々に出てきた。

開会式に続く「金メダル候補の紹介」では、アマレス3連覇を目指していた

アレクサンダー・カレリンの雄姿に「リングスで見たいですね」「ああ、いいねえ」と妄想話。

まさか3年後、カレリンが本当にリングスに登場し、日明兄さんの死に水を取ろうとは

夜が更けて、ようやく2号が起き出したころには、

ワタシ「これからお父さんと男子柔道95キロ超級の試合を見るんだ」

2号父「具合が悪かったら、おまえはまだ寝ていなさい」

主役だったはずの2号をなぜか仲間外れにする有り様

2人のお目当ては、後にプロレス・格闘技界で「暴走王」となる日本代表の小川直也

・・・ではなく、92年バルセロナ五輪で、その小川を破って金メダルを獲得後、

リングスに参戦していたグルジア代表のハハレイシビリ・ダビド(注2)だった。

ところが、いつまで待っても、その試合が放映されない。

ワタシ「やっぱり日本のテレビ局は、小川の試合しか流しませんかね?」

2号父「いや。前回大会の金メダリストだし、映像はともかく、結果は伝えるだろう」

などと気を揉んでいるうちにアナウンス。

「ハハレイシビリ選手は計量の会場に現れず、失格になりました」

深夜にコケる2人。「なんだ、そりゃあ!」とテレビに突っ込んだことは言うまでもない。

そんなこんなで、「2号との交際・結婚への承諾を得る」という当初の目的をやや見失った

きらいはあるが、ワタシはめでたく、2号父と初対面で意気投合できた。

「まあ、2人とも仲よくしなさい。今度はWOWOWのリングス中継の日に遊びにおいで」

翌日には、そんな言葉までいただき、交際のみならず、

実家への出入り&WOWOWのリングス観戦にもOKをもらえた。

7月20日以外の日だったならば、ここまで上手くコトが運んだだろうか?

格闘技が人の心を動かす力、そして「この父にしてこの娘あり」と感じ入った一日だった。


その後、2号の実家には本当によく遊びに行かせてもらった。

リングス中継のみならず、97年6月の「耳かみ事件」があったホリフィールド×タイソン戦や

2号父のお気に入りだった「悪魔王子」ナジーム・ハメド(注3)の試合なども見せてもらった。

しかし、初対面で妄想した99年2月の「前田×カレリン」を2号父が見ることはなかった。

97年11月18日逝去。享年70<W杯初出場・札幌J参入・拓銀破綻と大変な一日だった

この大一番と、97年当時2号のおなかにいた3号を見ずに亡くなったことは今も残念である。

(第7話に続く)


注1・事実、この聖火リレーにはWBAヘビー級王座に返り咲く直前のホリフィールドも

参加していたはずだが、「アリの衝撃」のせいで、よく覚えていない。

注2・グルジア伝統の格闘技「チタオバ」の猛者で、サンビストとしてもかなりの実力者。

同国出身の大相撲幕内力士である臥牙丸の師に当たる。

注3・元WBC・IBF・WBOフェザー級王者。その奇抜なボクシングは、

後に「はじめの一歩」に登場し、鷹村と世界戦を戦ったブライアン・ホークのモデルになった。

良くも悪くも常識外れのスタイルのため、熱狂的なシンパもアンチも生んだ個性派だった。

樺太生まれの昭和一ケタ世代ながら、ハメドを「こいつは面白い」と評価していた

2号父は、かなり柔軟な思考の持ち主だったと考える。