ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

お地蔵さんがずらり 憾満の路と滝尾の路

2018年11月23日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年11月23日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第26回(2018年第36回)、「憾満の路と滝尾の路(日光)ウォーキングに参加した。

今回は、日光大谷川の憾満ヶ淵を散策する「憾満の路」と、白糸の滝にある滝尾神社を訪ねる
「滝尾の路」を歩くものである。

三中地区公民館で待っていると、


6時46分、常南交通のバスがやって来た。


三中地区公民館を7時ちょうどに出発し、天川団地入口、土浦市民会館へと回り、
今回の参加者23名が揃った。
7時20分、予定通り土浦市民会館を出発し、


7時29分、常磐道土浦北ICを通過


運転手さんによると、朝食弁当の提供元が変わったそうだ。
これまでよりやや大きめのおにぎりだったが、しっかりと握られており、お腹いっぱいになった。
『美味しかった』と高評価だった。


常磐道はいつもより混んでいた。
この日は3連休の初日で、天気は良いとの予報なので当然かもしれない。


7時50分、友部SAで最初の休憩を摂り、


北関東道を走る。


東北道宇都宮JCTを日光宇都宮道路へ。
東北道はそれほど混んではいなかった。


日光宇都宮道路を走り、


9時22分、日光口PAに到着
『素晴らしい天気だよね~っ』


ここで昼食の弁当を受け取った。
この日の弁当は何だろう? 楽しみである。


9時40分、日光ICを通過して、


日光市街地を走る。


車窓に神橋を見ながら進むと、


9時50分、日光総合会館に到着した。
駐車場はほぼ満車状態だったが、中型バスが止まれる場所が一カ所だけ空いていた。
駐車場の係員がダメ出しするのを運転手の押しの一手で押し通し、何とか止めることに成功。
『いやぁ 大した度胸だよねっ』 『自分だったら別の駐車場を探すだろうなっ』


バス運転手さんに、憾満ヶ淵から戻って来た時に、車内で弁当を食べるかもしれないことを伝え、快諾を得た。
この日の日光の予想最高気温は8度前後、天気が良くても8度では寒過ぎるので、バス車内での弁当を
考慮してもらったという次第。
9時58分、TKさんを先頭に憾満ヶ淵を目指して出発!


後に続く皆さん
『弁当を食べる場所を心配しなくて良かったよねっ』


10月5日の「旧水戸街道と戸定邸」以来の参加となるSZ子さん。
今日は腰の状態はかなり良いそうだ。


憾満ヶ淵へ。


大谷(だいや)川に架かる含満大谷橋を渡る。


大谷川(上流)
『この上流が憾満ヶ淵になるんだねっ』


今シーズン目にする最後の紅葉かもしれない。


道端に佇むお地蔵さんの前を通り過ぎると、


西町太子堂があった。
この太子堂には聖徳太子が祀られており、一説には聖徳太子が諸国の名工を集め、
技術の粋を尽くした法隆寺を建設したことにあやかり、技量の向上を願って信仰するようになったという。
古い記録によると最初の祀が建てられたのは元和三年(1617)から安永四年(1775)の間。
嘉永二年(1849)の送帳も残されている。
その後数回建て替えられ、現在の祀は昭和62年(1982)に建設された。
(説明板)


公園のような芝生の広場(ストーンパーク)を進んで行くと、


慈雲寺の山門があった。


慈雲寺の山門を潜ると、右側に憾満ヶ淵が姿を見せた。
水量は多く、流れる水もきれいだ。


慈雲寺本堂
承応三年(1654)に憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の
像を祀った。
当時の建物は明治三十五年(1902)九月の洪水で流失し、現在の本堂は昭和四十八年に復元された。
七月十四日に輪王寺により盂蘭盆会の法要が営まれる。
(説明板)


慈雲寺本堂を過ぎると、路端に赤い帽子を被ったお地蔵さんが並んでいた。
慈眼大師天海の門弟や、有縁の僧俗が「過去万霊・自己菩薩」のために、
親地蔵と石地蔵約100体を刻み「並び地蔵」とした。


苔の緑と赤い帽子が印象的な並び地蔵である。


憾満ヶ淵は、男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地と云われる。


並び地蔵
行きと帰りで数が異なると云われ、化け地蔵と呼ぶ人もいるそうだ。


憾満ヶ淵
川の流れが不度明王の墓言を唱えるように響くので、晃海大僧正が墓言の最後の句「カンマン」をとり、
憾満ヶ淵と名付けたという。


並び地蔵
いったいいくつ並んでいるのだろう。
列座の奥の親地蔵と他の地蔵のいくつかが明治35年(1902)の大洪水で流失し、
当初100体余りあった並び地蔵は、現在74体しか残っていない、そうである。


霊庇閣(れいひかく)
承応三年(1654)慈雲寺創建のとき、晃海大僧正が建立した四阿造りの護摩壇で、
対岸の不動明王の石像に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行った。
この2m余りの不道明王像は今はない。
当時の建物も流失し、礎石のみになっていたが、昭和四十六年に輪王寺によって復元された。
(説明板)


並び地蔵はまだまだ続いている。


『こんなにたくさんのお地蔵さんを見るのは初めてっ』


並び地蔵


これもお地蔵さん?


憾満ヶ淵
護摩壇対岸の岸壁には「かんまん」の梵字が刻まれていたそうである。


並び地蔵を過ぎて進むと、


水門が現れた。


水門を迂回する形で大日橋へ通じる道を進む。


落ち葉に覆われた細い路があったので、これも大日橋へ通じる路だろうと思い、


先を行く人の後を追って進むと、前方に落差のある流れと水門らしきものが見えた。


先ほどと同じような水門があったが、行き止まりになっていた。
先を進んでいた人は忽然と姿を消してしまっていた。
『どこに行っちゃったんだろうねっ?』


『右手には大谷川が流れているし、川に沿って行けば何とか行けるでしょう』
ということで、半ば強引に林の中を進む。


次第に藪の丈が大きくなり、藪をかき分けて進むことに。
『いやぁ これは参ったねっ』


林の中を進み、大日橋を目指すがなかなか辿り着けない。
『この林の中を進んで正解だったのかねぇ』
少々不安になってきた。


林の中を彷徨うこと10分余、糠塚稲荷という小さな社の鳥居を見つけた。


鳥居の前に石段があり、石段を下りると大日橋へ通じる道へ出た。


『最初からこの道を進んどけば良かったんだよねっ』
仰るとおりです。
行き止まりの水門の所で引き返しておけば良かった、と反省しきり。


大日橋へ。


大日橋だ。
『立派な吊り橋だよねっ』


10時49分、大日橋を渡る。


大日橋から日光男体山が見えた。
『山頂はかなり雪が積もってそうだねぇ』


大谷川の下流
この辺りから下流が憾満ヶ淵と呼ばれる景勝になっている。


大谷川を渡り、田母沢御用邸を目指す。


住宅地を進んで行くと、


10時58分、国道120号に合流した。


11時ちょうど、日光植物園前を通過


蓮華石の前を通過
昔、この地域に雄石・雌石など七個の大石があった。蓮華石もその一つである。
これらの石は子供の良い遊び場となったので、「お坊石」とも呼ばれ、子供の守護神とされた。
この石は、蓮華石村(今の花石町)の町名の由来ともなった。
かつてはここにお堂があり、「蓮華石地蔵」が祀られていた。
(説明板)


国道120号を田母沢御用邸へ


11時9分、田母沢御用邸に到着


ここで一休みしていこう。


田茂沢御用邸のベンチで一休み。


田母沢御用邸御車寄
田母沢御用邸は、日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時赤坂離宮などに使われていた
旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に
大正天皇(当時皇太子)のご静養地として造営された。


建物の広さは4500㎡、部屋数は106。
明治32(1899)年から昭和22年まで3代にわたる天皇・皇太子が利用した御用邸で、
江戸・明治・大正と三時代の建築が融合し、建築学的にも大変貴重であるといわれ、
これほど大規模な木造建築は全国でも珍しい。


田茂沢御用邸の紅葉
緑と紅のコントラストが美しい。


一息入れた後、田茂沢御用邸を後にして日光総合会館へ。
一休みしていたら、身体が冷えて来た。
『やっぱり寒いねぇ』


国道120号沿いの紅葉(1)


紅葉(2)


国道120号はかなり渋滞していた。


11時33分、日光カステラ本舗前を通過


『日光カステラの看板が目立つねぇ』
『日光名物って言えばやっぱり羊羹だよねっ』
自分はどちらかと言うとカステラの方が好きなのだが・・・


日光総合会館へ


11時38分、バスに到着


バス車内で弁当タイム(1)
『この寒さじゃ外では食べられないよねっ』


弁当タイム(2)
『バスで弁当は正解だねっ』


この日の弁当


12時27分、弁当タイムも終り、後半(滝尾の路)の出発だ!
先ずは神橋を目指す。


右手に大谷川の流れを見ながら進むと、


右手に日光金谷ホテルが見えた。
『一度泊ってみたいわねっ』


12時36分、神橋に到着
神橋は、大谷川に架かる長さ28mの総朱塗りの美橋である。
天平神護二年(766)日光開山の祖、勝道上人一行が、ここの激流を渡れず、神の加護を求めたところ、
赤青2匹の蛇が両岸を結び、無事に渡れたとの伝説がある、そうだ。


続いて日光橋


日光橋前の交差点を横断し、日光山輪王寺へ。


輪王寺入口に建つ勝道上人(しょうどうしょうにん)像
日光山は天平神護二年(766)に勝道上人により開山された。
以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、
関東の一大霊場として栄えた。


江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、
日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えている。


輪王寺「三仏堂」はまだ工事中だったが、左半分は修理が終って見れるようになっていた。
右半分は、仮囲いで覆われており、全容は見ることが出来ない。


輪王寺東門を出て東照宮への参道を進む。
大勢の人が東照宮への参道を行き来していた。
ここで記念撮影をと思っていたが、この人混みでは断念するのが賢明だろう。


石鳥居を潜って東照宮表門へ。


この日は、東照宮は表門前までとし、二荒山神社へ向かうことにした。


絢爛豪華な五重塔前を通過し、


二荒山神社の参道(上新道)へ。


二荒山神社の参道(上新道)を進む。


二荒山神社の参道を進むと、山門が。


山門に続いて銅鳥居を潜って進むと、13時2分、拝殿に到着した。
日光の二荒山神社は初めてである。


二荒山神社に参拝!


境内には親子杉、


夫婦杉、


御神木の三本杉などの巨木がある。
いずれも見応えがある。


二荒山神社を後にして、滝尾の路へ。


常行堂(じょうぎょうどう)
嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって、比叡山延暦寺の『にない堂』に模して建立された。
その昔、常行堂では、常行三昧という仏様の周りを歩きながら念仏を唱える修業が行われていた。
その為、内陣は本尊の周りをぐるりと回れる造りになっている。
現在では、回向(先祖供養・水子供養)の道場となっている。


滝尾の路へ向かう前に二荒山神社の大鳥居をバックに記念撮影を済ませた。


大猷院(たいゆういん)は、徳川三代将軍家光公の廟である。
常行堂前の右手の細い路が滝尾神社方面への入口になっているが、気が付かなかった。


ここが滝尾の路の始まりである。
滝尾神社、白糸の滝の標識が見える。


滝尾の路は、最初は緩やかな上りになっている。


空烟(くうえん)地蔵
勝道上人が男体山に登ろうとして道を探していた時、地蔵尊が現れて導いたと云われる場所。
その八百年後、延宝年間(1675年頃)家光の忠臣、老中阿部豊後守忠秋の墓を家光の
霊廟の一角に造った際、上人の伝えを聞いた阿部家が石像と常夜灯を造立した。
忠秋の墓は、この地蔵と背中合わせの大猷院内にあるが、忠秋が空烟と号したので、
空烟地蔵と呼ばれる。
(説明板)


次第に急な上りになってきた。


樹齢数百年と思しき杉の巨木が続く。


急な坂道を上り詰めた所に輪王寺行者堂(県指定有形文化財)が建っていた。
修験者の修行場として建てられた切妻造りの簡素な建物である。
創建は、平安時代、山岳信仰の盛んな頃と思われるが、現在の建物は輪王寺明細帳によると、
天正三年(1575)桜本坊宗安再興と伝えられている。
その後幾度か修理を経て今日に至っている。
正面の一間は土間で、二間目から一段高くなっており、奥の一間に壇を設けて、
役小角(えんのおずぬ)と前鬼・後鬼二体を配している。
(栃木県教育委員会 日光市教育委員会)


坂道を上りきった行者堂の先で一休みだ。


こんどは滝尾の路の石段を下って行くと、


「大小べんきんぜい」の碑
古くはこの辺りに栃御門(桜門)、下乗石、木の鳥居などがあり、これから先は滝尾神社の
聖域に入るので、大小便を禁ずる碑が建てられた。
庶民にも読めるようにと、「大小便禁制」のうち大小のほかは、「平仮名」で書かれているのが珍しい。
(説明板)


石畳の滝尾の路を進むと、


白糸の滝があった。
天狗沢にかかる高さ約10mの滝。
弘法大師修行の場と伝えられる。
文明十八年(1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れ、その時の紀行文「廻国雑記」に
次の和歌が詠まれている名瀑。
世々を経て 結ぶ契りの 末なれや この瀧尾の たきの白糸
(説明板)


白糸の滝から流れる稲荷川の支流を渡ると、滝尾神社への石段が続いている。


急な石段を上って行くと・・・


別所跡
東照宮の遷座以前、日光参詣の中心はこの滝尾周辺であった。
日光責めで有名な輪王寺の「強飯式」も、ここが発祥の地である。
明治になって別所は廃絶
永正六年(1509)日光に来た連歌師、宗長の紀行文「東路のつと」には、
「ここより谷を見おろせば、院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とあり、
盛時の様子が忍ばれる。
(説明板)


影向石(ようごうせき)と石祠
影向とは、神仏が仮の姿をとって、この世に現れること。
弘法大師(空海)が弘仁十一年(820)にこの地に来て、奥の大岩のあたりで神霊の降下を
祈願したところ、美しい女神が現れたと伝えられている。
(説明板)


運試しの鳥居
元禄九年(1696)に、三代将軍徳川家光の忠臣梶定良が奉納したもので、
鳥居の額束の丸い穴に小石を三つ投げ、穴を通った数で運を試したという。
御影石 明神造り


滝尾神社楼門
堂々たる構えである。


滝尾神社(たきのおじんじゃ)
楼門を潜ると重要文化財に指定されている拝殿・唐門・本殿がある。
滝尾神社は日光二荒山神社の別宮である。
元は今の別所跡にあり見事な舞台造りの建物と云われており、日光山の中心として栄えた。
祭神は田心姫命(女峰山の神)
明治の神仏分離までは楼門に空海筆と云われる「女体中宮」の額が架かり仁王像が置かれていたと云う。
また石鳥居の右には鐘撞堂、影向石付近には阿弥陀如来を安置する如法経堂もあった、とのこと。


参拝を終え、滝尾神社を後にする。


白糸の滝を右手に見て、石畳の路を下る。


行者堂への分岐点を過ぎ、


石畳の路を下る。


『ほんと 石畳は歩きづらいわよねっ』


石畳の路は続く。


石畳を嫌った連中は並行する工事用道路を進んでいる。
やはり石畳を歩くより早い。


石畳の路と工事用道路が合流した。


三尊像?と


菅原道真を祀る北野神社の鳥居を過ぎ、


さらに続く石畳を下って行くと、


開山堂(重要文化財)があった。
堂内には約4.5mの地蔵菩薩及び日光開祖勝道上人とその十大弟子の木造が安置されている。
上人は、弘仁八年(817)に83歳で亡くなり、この地に葬られた。
毎年四月一日に開山会が執行される。


開山堂の左側には将棋の駒を飾った観音堂がある。
別名「産の宮」と云う。
将棋の駒の香車は前に進むだけなので、安産と結びつけて妊婦が観音堂の駒を借りて
家の神棚に祀ると無事出産出来るという。
出産したら新しい駒を返納する、そうである。


奉納されている将棋の駒は全て香車であることから香車堂とも云われた。


ゴールの日光総合会館を目指す。


地図には載っていない複雑な小道が多く、やたらと駐車場がある。
どこを歩いているか見当がつかないが、とにかく下って行けば何とかなるだろう。


右折左折を繰り返しながらも何とか神橋近くまで下って来た。


深沙王堂(じんじゃおうどう)
別名蛇王権現
勝道上人一行を山菅の蛇橋(伝説)で渡した深沙大王(毘沙門天)を祀る。


もう少しでゴールの日光総合会館前だ
(後ろに神橋が見える)


国道120号の渋滞が激しい。
『いやぁ 帰りは大変だろうねっ』


地下道を通って、


14時50分、日光総合会館前で待つバスに到着した。


激しい渋滞の神橋交差点を何とか通過し、日光市街地を走る。


15時18分、日光口ICを入り、


日光宇都宮道路へ。


ひととおり周知連絡を済ませ、盛り上がる後部座席へ移動して、仲間に加わった。


皆さんと一緒に盛り上がっていると、いつの間にやら車窓に筑波山が見えて来た。


友部SAで最後の休憩を摂り、


めいめい土産物を買い求め、帰路に就いた。


土浦北ICで常磐道を降り、土浦市民会館前、天川団地入口へと回り、
18時7分、ゴールの三中公民館に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


日光大谷川の憾満ヶ淵を散策する「憾満の路」と、白糸の滝にある滝尾神社を訪ねる
「滝尾の路」を歩いた。
今回歩いた「憾満の路」と「滝尾の路」は、日光市の『日光ウォーキングガイド』で紹介されている。
日光ウォーキングガイドの全ては回りきれなかったが、どちらもなかなか良いコースだった。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

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