2018年10月8日(日)
「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。
第Ⅲステージ第4回(1日目)は、池鯉鮒宿(名鉄牛田駅)~鳴海宿(名鉄前後駅)である。
荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には、6時36分に到着。
東京駅の「膳まい」で駅弁を買い、
東京駅6時56分発の新大阪行「こだま633号」に乗車。
この日は富士山は全く見えなかったが、掛川城はよく見えた。
9時27分、三河安城駅に到着。
のぞみ号の通過を待って、9時32分発となっている。
三河安城駅から普通電車に乗り換えJR刈谷駅へ向かう。
JR刈谷駅から名鉄碧南線に乗り換え、知立駅へ。
知立駅で名鉄本線に乗り換え、
10時5分、この日のスタート地点牛田駅に到着した。
家を出てから約5時間かかったことになる。
牛田駅を出発し、国道1号を左折して、知立方面へ向かうと、
衣浦豊田道路が見えて来た。
衣浦豊田道路の横断陸橋で国道1号を跨ぐと、
ようやく旧東海道の池鯉鮒松並木の東の入口に到着した。
池鯉鮒(知立)松並木
この知立の松並木は、幅7m、約500mに渡り凡そ170本の松が植えられている。
側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
馬の象が建てられていた。
馬市の句碑と万葉の歌碑
馬市の句碑
かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて
俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。
万葉の歌碑
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに
この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。
松並木が終わると旧東海道は広い国道1号と合流する。
地下道で国道1号下を潜り、旧東海道へ。
トンネルを潜って出たところに東海道池鯉鮒宿の石柱が建っていた。
旧東海道を進む。
名鉄線の線路を渡って進むと、
10時56分、慈眼寺に到着した。
福聚山慈眼寺の由来は、江戸時代の初期に馬の供養の為に造られた御堂から始まっている。
その為、馬頭観世音菩薩を本尊とし、境内には馬塚がある。
古びた馬頭観世音菩薩の幟が立ち並ぶ。
寺院入口に建つ馬頭観世音菩薩及家畜市場と刻まれた石柱
馬市の跡
池鯉鮒の馬市は、広重の浮世絵「東海道五十三次」で「首夏馬市」と題して描かれている。
その昔、池鯉鮒宿は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと云われている。
馬市は、毎年四月二十五日に始まり五月五日に終わった。
宿駅の東の野(松並木)には四・五百頭の馬が繋がれ、馬の値を決める所を”談合松”と言った。
明治になって慈眼寺境内に移り、昭和の初期までは馬が牛に変わったものの鯖市も兼ねられ、
賑わっていたが、昭和十八年を最後にその歴史を閉じた。
(知立市教育委員会)
馬市の跡を撮り終えたところで、突然次の写真が撮れなくなってしまった。
”管理ファイルに空きがありません”と表示され、シャッターが下りない。
しばらくカメラをいじってみたが、直ぐに復旧する気配がない。
『困った』 頭が真っ白になった。
撮影が出来ないとなると、旅を続ける意味がない。
知立駅まで行けば何とかなるかも・・・と思い、知立駅へ向かった。
(これ以降の写真は、カメラが直ってから撮ったもの)
駅前商店街に「ニワカメラ」の看板を見つけたので、すがる思いで店内へ入ってみた。
年配の店主が親切に応対してくれたが・・・
しかし、原因究明には至らなかった。
近くに電気店がないか尋ねると、800mほど先にエディオンという電気店があるという。
他の店はかなり離れており、エディオンが一番近い店、だそうだ。
親切にも地図まで画いてくれた。
(エイデンとあるのは、エディオンのこと)
地図を頼りに、名鉄碧南線・名鉄名古屋本線の踏切を渡り、エディオン電気店を目指した。
しばらく進むと、地図で示されたとおり、エディオン電気店があった。
店員に調べてもらうと、SDHCの空き容量がない状態、とのこと。
これまで撮った写真は全てPCに移し終え、空になったフォルダも削除した状態となっているが、
データは全て残ったまま満杯状態になっているため、次の写真が撮れない、のだと言う。
SDHCを取り替えれば使える状態になると言う。
最悪の場合は新品のカメラを買うことも考えていたので、SDHCだけで済むなら安いものである。
直ぐに新品のSDHCに入れ替えてもらい、きちんと撮れることを確認して、一安心。
16GBのSDHCが1個で締めて1,382円で済んだことになる。
慈眼寺本堂
再度慈眼寺まで戻り、撮影を再開した。
時計は既に12時50分を過ぎていた。
約2時間ほどのタイムロスである。
北向き地蔵
昔から霊験あらたかなお地蔵様として信仰されてきました、とある。
この写真を撮り終えた時点で、時計は既に12時54分を回っていた。
慈眼寺境内の地蔵堂
地蔵堂の地蔵(1)
地蔵堂の地蔵(2)
地蔵堂には他にも地蔵が安置されていたが、割愛する。
地蔵堂の横に百度石があった。
本堂前に東屋とベンチがあったので、ここで弁当タイムにする。
前回(7月9日)と同じ「米八」の弁当(「米八幕ノ内弁当」)だが、
よく見ると「黒酢チキン野菜弁当」とある。微妙に違っている。
値段も897円と前回(951円)よりも少し安い。
味も少し違った。(前回の方が美味しかった)
弁当も食べ終わり、慈眼寺を後にして、気持ちを新たに旧街道を進む。
常夜灯
旧東海道の名残なのだろう。
左手に古風豊かな呉服・帯の「ゑびすや」を左手に見ながら、
旧東海道は右側の細い道へと進む。
高層マンションの前に池鯉鮒宿問屋場之跡と書かれた石柱が建てられていた。
かつては、ここに池鯉鮒宿の問屋場があったのだろう。
問屋場之跡の先の交差点を渡った辺りが池鯉鮒宿脇本陣跡と思われるが、
石柱など何も見当たらない。
池鯉鮒宿本陣跡と思われる場所には山車蔵が建っていた。
池鯉鮒宿本陣跡の石柱を見つけることは出来なかった。
知立古城跡
知立城は、元来知立神社の神主永見氏の居館であった。
同氏の系譜を記した「永見氏家譜」には、平安時代末に後白河院の北面の武士として
保元・平治の乱に従軍した13代貞春の代にすでにその名が記され、29代貞英まで続いたが、
永禄三年(1560)の桶狭間の戦で落城した。
その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約3,000坪の土地を整備した。
寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊した。
知立古城跡の図
御殿址の碑
知立古城跡には、明治天皇御小休所跡の碑も建てられている。
了運寺前を通り、
知立1号地下横断歩道で、国道155号(豊田南BP)を潜る。
地下横断歩道入口に総持寺跡大銀杏の木(樹齢200余年)の説明板があったが、
近くにそれらしき銀杏の木は見当たらなかった。
地下横断歩道を潜って進むと、右手に延喜式内知立神社と刻まれた標柱があった。
標柱を右に曲がり、左右に秋葉常夜灯を見て、
参道を進むと、左手に土御前社と刻まれた石柱があった。
土御前社の参道は、花菖蒲の公園になっている。
13時54分、知立神社に到着
正面の多宝塔が目に入った。
現存する多宝塔は、永正六年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き瓦葺に変え、
「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難を逃れた。
知立神社本殿
社伝では、嘉祥三年(850)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立。
知立神社の別当寺となった。
知立神社に参拝
境内には親母神社や合祀殿・小山天神社の他
秋葉神社や
馬神社も祀られている。
知立神社参道のほぼ向かいに総持寺があった。
総持寺
この寺は大正十五年(1926)に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。
徳川家康側室お万の方の誕生地でもある。
逢妻川(あいつまがわ)に架かる逢妻橋を渡る。
逢妻川
100mほど先で合流した国道1号をしばらく進むと、
一里山町と書かれた横断歩道橋があった。
今は面影がないものの、この辺りに一里塚があったと思われる。
旧東海道を進む。
旧い家を時々見かける。
どの家も立派な構えである。
乗蓮寺(じょうれんじ)
真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。
乗蓮寺本堂
親鸞聖人像
境内の椎は、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定されている。
昭和34年の伊勢湾台風で損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、実もつき始めている。
しばらく国道1号を進む。
旧東海道を進むと、境橋と書かれた説明板があった。
慶長六年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋が架けられた。
この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の脚をとどめたが、度々の洪水に流された。
やがて、継ぎ橋は一続きの橋になり、明治になって欄干つきになった。
現在の境橋
境川
境橋を渡って直ぐ右に句碑があった。
うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん
狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、
三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。
詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。
(豊明市観光協会)
伊勢湾岸自動車道の高架下を通り、
少し進むと、電柱に阿野一里塚の案内表示を見付けた。
阿野一里塚は近そうだ。
15時55分、阿野一里塚に到着した。
阿野一里塚(左側)
慶長九年(1604)2月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに
築かせたもので、江戸日本橋から86番目の一里塚。
往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以降次第にその価値を失った。
道路向かい側にも一里塚があった。
阿野一里塚は、左右の塚が昔の姿のまま残る貴重な一里塚である。
県内の東海道には十八の一里塚があったが、現存するのは四カ所。
そのうち道の左右とも残っているのは、この塚と知立市のみである。
昭和十一年十二月に国指定史跡の指定を受けた、
(豊明市教育委員会)
16時7分、豊明小学校前を通過。
名鉄牛田駅を出発して、かれこれ6時間余歩いている。
この頃になり、かなり疲れが出てきた。
腰も痛く歩くのがしんどくなってきて、スピードも落ちてきた。
16時13分、名鉄前後駅前のパルネスに到着した。
少し時間は早いが、今日は前後駅までにして、明日はまた前後駅から歩くことにしよう。
ということで、少し休憩を摂った後、名鉄前後駅へ。
16時43分発の岐阜行きに乗車し、
17時7分、本笠寺駅に到着。
宿泊先は、本笠寺駅から徒歩10分ほどの所にある。
地下道を通って、駅の反対側へ。
この日の宿泊先「新月旅館」は、夕食・朝食なしのため、
途中のコンビニで飲み物と弁当を購入し、
17時37分、「新月旅館」に到着した。
辺りは既に薄暗くなっていた。
第Ⅲステージ第4回目(池鯉鮒宿~宮宿)の1日目(池鯉鮒宿から鳴海宿)を歩き終わった。
しかし、カメラの不調(SDHCの満杯状態)で2時間近いタイムロスとなり、予定していた
区間を大幅に短縮せざるを得なくなるというハプニングに見舞われた。
明日は、この日の続きを歩くことになるが、距離が長くなるため、無事目的地に着けるのか
不安が募る。
この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。
旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(2日目)へ
ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。
「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。
第Ⅲステージ第4回(1日目)は、池鯉鮒宿(名鉄牛田駅)~鳴海宿(名鉄前後駅)である。
荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には、6時36分に到着。
東京駅の「膳まい」で駅弁を買い、
東京駅6時56分発の新大阪行「こだま633号」に乗車。
この日は富士山は全く見えなかったが、掛川城はよく見えた。
9時27分、三河安城駅に到着。
のぞみ号の通過を待って、9時32分発となっている。
三河安城駅から普通電車に乗り換えJR刈谷駅へ向かう。
JR刈谷駅から名鉄碧南線に乗り換え、知立駅へ。
知立駅で名鉄本線に乗り換え、
10時5分、この日のスタート地点牛田駅に到着した。
家を出てから約5時間かかったことになる。
牛田駅を出発し、国道1号を左折して、知立方面へ向かうと、
衣浦豊田道路が見えて来た。
衣浦豊田道路の横断陸橋で国道1号を跨ぐと、
ようやく旧東海道の池鯉鮒松並木の東の入口に到着した。
池鯉鮒(知立)松並木
この知立の松並木は、幅7m、約500mに渡り凡そ170本の松が植えられている。
側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。
馬の象が建てられていた。
馬市の句碑と万葉の歌碑
馬市の句碑
かきつばた 名に八ツ橋のなつかしく 蝶つばめ 馬市たてしあととめて
俳人麦人は、和田英作を尋ねてこの地を訪れたことがある。
万葉の歌碑
引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに
この辺りの地名を引馬野といい、昔時より万葉集引馬野の跡と伝えられている。
松並木が終わると旧東海道は広い国道1号と合流する。
地下道で国道1号下を潜り、旧東海道へ。
トンネルを潜って出たところに東海道池鯉鮒宿の石柱が建っていた。
旧東海道を進む。
名鉄線の線路を渡って進むと、
10時56分、慈眼寺に到着した。
福聚山慈眼寺の由来は、江戸時代の初期に馬の供養の為に造られた御堂から始まっている。
その為、馬頭観世音菩薩を本尊とし、境内には馬塚がある。
古びた馬頭観世音菩薩の幟が立ち並ぶ。
寺院入口に建つ馬頭観世音菩薩及家畜市場と刻まれた石柱
馬市の跡
池鯉鮒の馬市は、広重の浮世絵「東海道五十三次」で「首夏馬市」と題して描かれている。
その昔、池鯉鮒宿は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと云われている。
馬市は、毎年四月二十五日に始まり五月五日に終わった。
宿駅の東の野(松並木)には四・五百頭の馬が繋がれ、馬の値を決める所を”談合松”と言った。
明治になって慈眼寺境内に移り、昭和の初期までは馬が牛に変わったものの鯖市も兼ねられ、
賑わっていたが、昭和十八年を最後にその歴史を閉じた。
(知立市教育委員会)
馬市の跡を撮り終えたところで、突然次の写真が撮れなくなってしまった。
”管理ファイルに空きがありません”と表示され、シャッターが下りない。
しばらくカメラをいじってみたが、直ぐに復旧する気配がない。
『困った』 頭が真っ白になった。
撮影が出来ないとなると、旅を続ける意味がない。
知立駅まで行けば何とかなるかも・・・と思い、知立駅へ向かった。
(これ以降の写真は、カメラが直ってから撮ったもの)
駅前商店街に「ニワカメラ」の看板を見つけたので、すがる思いで店内へ入ってみた。
年配の店主が親切に応対してくれたが・・・
しかし、原因究明には至らなかった。
近くに電気店がないか尋ねると、800mほど先にエディオンという電気店があるという。
他の店はかなり離れており、エディオンが一番近い店、だそうだ。
親切にも地図まで画いてくれた。
(エイデンとあるのは、エディオンのこと)
地図を頼りに、名鉄碧南線・名鉄名古屋本線の踏切を渡り、エディオン電気店を目指した。
しばらく進むと、地図で示されたとおり、エディオン電気店があった。
店員に調べてもらうと、SDHCの空き容量がない状態、とのこと。
これまで撮った写真は全てPCに移し終え、空になったフォルダも削除した状態となっているが、
データは全て残ったまま満杯状態になっているため、次の写真が撮れない、のだと言う。
SDHCを取り替えれば使える状態になると言う。
最悪の場合は新品のカメラを買うことも考えていたので、SDHCだけで済むなら安いものである。
直ぐに新品のSDHCに入れ替えてもらい、きちんと撮れることを確認して、一安心。
16GBのSDHCが1個で締めて1,382円で済んだことになる。
慈眼寺本堂
再度慈眼寺まで戻り、撮影を再開した。
時計は既に12時50分を過ぎていた。
約2時間ほどのタイムロスである。
北向き地蔵
昔から霊験あらたかなお地蔵様として信仰されてきました、とある。
この写真を撮り終えた時点で、時計は既に12時54分を回っていた。
慈眼寺境内の地蔵堂
地蔵堂の地蔵(1)
地蔵堂の地蔵(2)
地蔵堂には他にも地蔵が安置されていたが、割愛する。
地蔵堂の横に百度石があった。
本堂前に東屋とベンチがあったので、ここで弁当タイムにする。
前回(7月9日)と同じ「米八」の弁当(「米八幕ノ内弁当」)だが、
よく見ると「黒酢チキン野菜弁当」とある。微妙に違っている。
値段も897円と前回(951円)よりも少し安い。
味も少し違った。(前回の方が美味しかった)
弁当も食べ終わり、慈眼寺を後にして、気持ちを新たに旧街道を進む。
常夜灯
旧東海道の名残なのだろう。
左手に古風豊かな呉服・帯の「ゑびすや」を左手に見ながら、
旧東海道は右側の細い道へと進む。
高層マンションの前に池鯉鮒宿問屋場之跡と書かれた石柱が建てられていた。
かつては、ここに池鯉鮒宿の問屋場があったのだろう。
問屋場之跡の先の交差点を渡った辺りが池鯉鮒宿脇本陣跡と思われるが、
石柱など何も見当たらない。
池鯉鮒宿本陣跡と思われる場所には山車蔵が建っていた。
池鯉鮒宿本陣跡の石柱を見つけることは出来なかった。
知立古城跡
知立城は、元来知立神社の神主永見氏の居館であった。
同氏の系譜を記した「永見氏家譜」には、平安時代末に後白河院の北面の武士として
保元・平治の乱に従軍した13代貞春の代にすでにその名が記され、29代貞英まで続いたが、
永禄三年(1560)の桶狭間の戦で落城した。
その後、天正年間に刈谷城主水野忠重が織田信長饗応のため約3,000坪の土地を整備した。
寛永年間には将軍上洛用にと増築も行われたが、元禄十二年(1699)の大地震により倒壊した。
知立古城跡の図
御殿址の碑
知立古城跡には、明治天皇御小休所跡の碑も建てられている。
了運寺前を通り、
知立1号地下横断歩道で、国道155号(豊田南BP)を潜る。
地下横断歩道入口に総持寺跡大銀杏の木(樹齢200余年)の説明板があったが、
近くにそれらしき銀杏の木は見当たらなかった。
地下横断歩道を潜って進むと、右手に延喜式内知立神社と刻まれた標柱があった。
標柱を右に曲がり、左右に秋葉常夜灯を見て、
参道を進むと、左手に土御前社と刻まれた石柱があった。
土御前社の参道は、花菖蒲の公園になっている。
13時54分、知立神社に到着
正面の多宝塔が目に入った。
現存する多宝塔は、永正六年(1509)重原城主山岡忠左衛門が再建した。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き瓦葺に変え、
「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難を逃れた。
知立神社本殿
社伝では、嘉祥三年(850)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、多宝塔を建立。
知立神社の別当寺となった。
知立神社に参拝
境内には親母神社や合祀殿・小山天神社の他
秋葉神社や
馬神社も祀られている。
知立神社参道のほぼ向かいに総持寺があった。
総持寺
この寺は大正十五年(1926)に再建されたもので、知立神社の別当寺であった。
徳川家康側室お万の方の誕生地でもある。
逢妻川(あいつまがわ)に架かる逢妻橋を渡る。
逢妻川
100mほど先で合流した国道1号をしばらく進むと、
一里山町と書かれた横断歩道橋があった。
今は面影がないものの、この辺りに一里塚があったと思われる。
旧東海道を進む。
旧い家を時々見かける。
どの家も立派な構えである。
乗蓮寺(じょうれんじ)
真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされる。
乗蓮寺本堂
親鸞聖人像
境内の椎は、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定されている。
昭和34年の伊勢湾台風で損害を受けたが、現在は樹勢を回復し、実もつき始めている。
しばらく国道1号を進む。
旧東海道を進むと、境橋と書かれた説明板があった。
慶長六年(1601)、東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立ち会いで橋が架けられた。
この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の脚をとどめたが、度々の洪水に流された。
やがて、継ぎ橋は一続きの橋になり、明治になって欄干つきになった。
現在の境橋
境川
境橋を渡って直ぐ右に句碑があった。
うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん
狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文六年(1666)当時の境橋は、尾張側は木橋、
三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。
詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。
(豊明市観光協会)
伊勢湾岸自動車道の高架下を通り、
少し進むと、電柱に阿野一里塚の案内表示を見付けた。
阿野一里塚は近そうだ。
15時55分、阿野一里塚に到着した。
阿野一里塚(左側)
慶長九年(1604)2月家康が、永井白元、本田光重に命じて街道の両側一里ごとに
築かせたもので、江戸日本橋から86番目の一里塚。
往時は東海道交通上の目安となっていたが、明治維新以降次第にその価値を失った。
道路向かい側にも一里塚があった。
阿野一里塚は、左右の塚が昔の姿のまま残る貴重な一里塚である。
県内の東海道には十八の一里塚があったが、現存するのは四カ所。
そのうち道の左右とも残っているのは、この塚と知立市のみである。
昭和十一年十二月に国指定史跡の指定を受けた、
(豊明市教育委員会)
16時7分、豊明小学校前を通過。
名鉄牛田駅を出発して、かれこれ6時間余歩いている。
この頃になり、かなり疲れが出てきた。
腰も痛く歩くのがしんどくなってきて、スピードも落ちてきた。
16時13分、名鉄前後駅前のパルネスに到着した。
少し時間は早いが、今日は前後駅までにして、明日はまた前後駅から歩くことにしよう。
ということで、少し休憩を摂った後、名鉄前後駅へ。
16時43分発の岐阜行きに乗車し、
17時7分、本笠寺駅に到着。
宿泊先は、本笠寺駅から徒歩10分ほどの所にある。
地下道を通って、駅の反対側へ。
この日の宿泊先「新月旅館」は、夕食・朝食なしのため、
途中のコンビニで飲み物と弁当を購入し、
17時37分、「新月旅館」に到着した。
辺りは既に薄暗くなっていた。
第Ⅲステージ第4回目(池鯉鮒宿~宮宿)の1日目(池鯉鮒宿から鳴海宿)を歩き終わった。
しかし、カメラの不調(SDHCの満杯状態)で2時間近いタイムロスとなり、予定していた
区間を大幅に短縮せざるを得なくなるというハプニングに見舞われた。
明日は、この日の続きを歩くことになるが、距離が長くなるため、無事目的地に着けるのか
不安が募る。
この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。
旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第4回 池鯉鮒宿~宮宿(2日目)へ
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