ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.85 福岡城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

大野城に続いて、福岡城を訪問した。

福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政が、慶長六年(1601)から
7年の歳月をかけて築いた城である。
天守台を中心にして本丸、二の丸、東西の三の丸からなり、
周囲を堀で囲む構造となっている。
47の櫓を築いたと云われるが、そのうち多聞櫓・祈念櫓・伝潮見櫓は
現在でも見ることができる。
藩主ゆかりの地、備前国福岡(岡山県瀬戸内市付近)にちなんで
福岡城と名付けられたが、別名舞鶴城とも呼ばれる。
昭和32年に国史跡に指定されている。

平和台陸上競技場近くの舞鶴公園駐車場に車を停め、福岡城へ。


地図で現在地を確認するが、福岡城のどの辺りにいるのかが、
よく分らない。


二の丸跡・本丸跡・祈念櫓・天守台の案内表示があったので、
それに従って進む。
地図は分かり難い。もう少し詳細な表示であって欲しい。


松ノ木坂御門跡へ続くなだらかな坂道を進む。


松ノ木坂御門跡と思しき石垣を過ぎると、


別の案内標識があった。
先ずは本丸表御門跡・祈念櫓・鉄御門跡方面へ行ってみる。
本丸・裏御門跡・多聞櫓はその後だ。


右へ曲がると、正面に表御門跡の石垣が見えて来た。


表御門跡
二の丸梅園より本丸へ上がる石段の中程に本丸表御門が建てられていたのだ。


表御門跡の内側から二の丸梅園方面を望む。


本丸表御門跡の石段を上ると、前方に祈念櫓が見える。
本丸北東に位置し、鬼門封じとして僧徒が交代で詰めていた、とのこと。
棟札によって現在の建物は、万延元年(1860)三月に起工し、
同年十月に竣工した、とのこと。


本丸表御門跡の右手には、広い本丸跡が。


本丸跡
天守台の石垣の北面に広がる本丸の広庭
藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、
天守台へと続く福岡城の中心部にあたる。


本丸跡パノラマ写真
かつての本丸は、公式政務の建物・城主の居間部分・大台所のほか
長局に当る櫓が連なっており、表御殿と奥御殿を合わせたものだった。
後に二の丸御殿、三の丸御殿が増築されている。


本丸の井戸(1)


本丸の井戸(2)


正面が大天守台で、その入口となるのが鉄御門(くろがねごもん)跡である。


要衝の門に相応しく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっている。


狭い石段を上り、大天守台へ。
高く積まれた石垣の上には櫓や塀が張り巡らされ、
上から攻撃ができるようになっていた、そうである。


鉄御門跡の先には埋門跡があり、これも狭い門となっている。


埋門跡前から大天守台を望む。
石垣が聳えるように建っている。


階段を上り、埋門の上へ。


埋門の上からの眺望


大天守台へ向かう。


大天守台
東西約25m、南北約22mの敷地内に約40個に及ぶ天守の礎石が
残されているが、定説では福岡城には天守閣がもともと
建設されなかったとされている。
しかし、近年では天守閣の存在を伺わせる文章が発見され、
幻の福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのこと。


大天守台を上から見たところ。
大天守台の礎石や石垣の規模からすると、5層の大天守閣が建っていた、
と想定されている。
東側には、中天守や小天守が立ち並ぶという偉容を誇っていたとも・・・


大天守台からの眺望(1)


大天守台からの眺望(2)


大天守台からの眺望(パノラマ)


大天守台からの眺望(3)


大天守台からの眺望(4)


大天守台からの眺望(パノラマ)


埋門跡を潜って大天守台の裏へ。


大天守台の裏(中・小天守跡)へ


埋門跡の裏から見た大天守台


中・小天守跡付近から月見櫓下の野球場方面を望む。


中・小天守跡から武具櫓跡の桝形虎口を通り、
二の丸・裏御門跡へ。


二の丸・裏御門前へ。


裏御門前の広場


裏御門前の広場から振り返って大天守台を見たところ。


裏御門跡の石垣


裏御門跡
この先は、本丸跡になる。


南丸(二の丸南部)方面へ。


二の丸南部入口の手前に井戸跡があった。


多聞櫓のある南丸(二の丸南部)への入口


多聞櫓
二の丸南部にある多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている
数少ない櫓の一つで、福岡城内に残る唯一の国指定重要文化財である。
二層の隅櫓とそれに連なる総延長四十間の奥行をもつ平櫓からなる。
平櫓は現在修理中だった。


シートで覆われた隙間から見た多聞櫓(平櫓)
(ここから先は入れなかった)


多聞櫓内部の写真
多聞櫓の内部は、一般に突き抜けの状態になっていることが多いなか、
この櫓は、16の小部屋に分かれている。
この多聞櫓の内部は非公開となっているが、イベント時等に
一般公開している、とのこと。


多聞櫓は、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間を作り出している。
(ライトアップ時の写真)


大天守台南側に位置する南二の丸付近


南二の丸から二の丸方面を望む。


二の丸から表御門方面へ。


二の丸の紅八重枝垂れ桜の並木道


100名城スタンプを押すため、
舞鶴公園から平和台鴻臚館(こうろかん)方面へ。


100名城スタンプは、鴻臚館の他「福岡城むかし探訪館」にも置いている
とのことなので、「福岡城むかし探訪館」へ。


「福岡城むかし探訪館」


1/400の再現模型を通して、さまざまな角度から
福岡城を間近に見ることができる。


本丸・天守台・二の丸周辺


福岡城むかし探訪館からのパノラマ写真
ここは、現在鴻臚館埋蔵調査地区となっているそうだが、
かつて西鉄ライオンズが本拠地としていた平和台球場があった場所だ。
右手の白い建物は、鴻臚館である。


上之橋御門入口脇に平和台球場記念モニュメントがあった。


明治通りから上之橋御門を望む。
昔は、石組み橋桁の中央に木橋が架けられ、敵が攻めて来た時には、
自ら橋を焼き落とす仕掛けとなっていた、そうである。


堀(左側)
一面蓮で覆われていた。


堀(右側)
半分近くが連に覆われている。


上之橋御門
江戸に近い上之橋御門は、黒田52万石を誇る本城三の丸に入る
公式御門である。


上之橋御門虎口
「虎口構え」の高さ約10mに及ぶ石垣に守られた二層の楼門は、
戦災で消失した。


現在は、算木積みの稜線の美しい石垣が、当時の面影を残している。


明治通りを下之橋御門へ向かう。


明治通りの堀に沿って進む。
こちらの堀も連で埋め尽くされている。


大手門・潮見櫓を示す標識
大手門は2か所(上之橋御門と下之橋御門)あり、
こちらは下之橋御門である。


下之橋御門への入口


下之橋御門と伝潮見櫓


下之橋御門
下手の入り口である下之橋御門は、殿様が生活する
お館への出入口である。
また、国表の奥方様のお里帰りやお城に仕えるお女中さん達の
出入口でもあった。


内部から下之橋御門を見たところ
城門は、2000年8月に不審火で半焼したが、
2008年11月、美しい二層の城門として復元された。


伝潮見櫓
下之橋御門と隣接して建てられている、従来潮見櫓と称されてきたものは、
近年の調査で、本丸表御殿近くにあった「古時打櫓(ふるときうちやぐら)」と
推定されている、とのこと。
本来の潮見櫓は、保険局跡の西隅に位置し、
博多湾の満潮・干潮を見守っていた、そうである。


”黒田如水隠居地 三の丸御鷹屋敷跡”とあったので、
見て行くことにした。


紫陽花の咲く坂道を上って行くと・・・


「黒田如水公 御鷹屋敷跡」と刻まれた石碑が建っていた。
藩政初期、黒田如水(官兵衛)の隠居所があったと伝えられる場所である。


黒田如水隠居地跡の入口横に建てられているのが母里太兵衛邸長屋門だ。
母里太兵衛(ぼり たへえ)は、黒田家の重臣
「黒田二十四騎」の一人で、戦国大名福島正則から、
名槍日本号を飲み取った豪傑として知られる。


現在の天神二町目の野村証券㈱の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、
この長屋門は、そこに構えられていた。
武家屋敷長屋門として代表的な江戸時代の優れた建造物として、
昭和31年に県の文化財に指定され、同40年にこの地に移築された。


名島門
この門は天正十五年(1587)筑前国主となった小早川隆景によって、
多々良川口の名島(現福岡市博多区名島)の陵端に築かれた
名島城の脇門である。
慶長年間(1596~1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移す際、
黒田二十四騎の1人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、
邸宅の門として使用されてきた。
名島城とは福岡城以前に、豊臣系大名の拠点になっていた城で、
この名島門は「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の
一つとなっている。


明治の中ごろに長崎に移築されそうになったが、
当時の代議士によって買い戻され、戦後現在の場所に移された。


平和台陸上競技場の前を通り、かみさんたちが待つ
舞鶴公園駐車場に向かった。


地理不案内のなか、福岡城跡を見て回った。
思っていた以上に大きな城で、時間の都合上全ては回れなかった。

福岡城天守閣をめぐる議論が続けられている、とのことだが、
個人的には大天守閣、また中・小天守閣が存在していたと信じたい。
これらの天守閣が復元され、その時再び福岡城を訪ずれることが
できればと、心から願っている。

100名城巡りは、今回の福岡城で97番目、残り3城となった。
明日は、肥前名護屋城を訪問する。

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日本100名城巡り No.86 大野城

2017年06月18日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年6月18日(日)

この日は、古代飛鳥時代に築かれた朝鮮式山城、大野城跡を訪問した。
大野城跡は、国の特別史跡に指定されている。

7世紀の激動する東アジア情勢の中、天智天皇二年(663)、
大和朝廷は、百済復興をかけ、朝鮮半島で起こった白村江の戦いで
唐・新羅連合軍に敗れた。
連合軍が日本に来襲することを恐れた大和朝廷は、朝鮮半島から近い
北部九州を中心とした防衛体制を固めるため、664年に水城を、
翌665年に大野城と基肄城(きいじょう)を築城したと云われる。

大宰府の北側の守りとして四王寺山に築かれたのが大野城である。
大野城は、大宰府政庁が攻撃された時に備えた籠城のための城であった
と考えられている。

大野城は守り易く攻めにくい山城で、山の尾根線には土塁を、
谷間には石塁を築き、城を囲むように城壁が築かれており、
その総計は8Kmにも及ぶ。

往時の建物は失われているが、石垣や門柱の礎石、
そして土塁跡などが現在も点在している。

これらの古代山城は、百済の亡命貴族の指揮のもと、朝鮮半島の技術が
活かされていることから、朝鮮式山城と呼ばれている。
朝鮮式山城は、九州や瀬戸内地方に多く見られ、居住スペースがないなど、
戦国期の中世山城、江戸時代の近世山城の造りとは大きく異なっている。

概略以上の大野城に関する予備知識を下に、
最初に訪れたのは、四王寺県民の森管理センターである。
先ずは96城目となる100名城スタンプを押しておこう。
全くの地理不案内のため、事務所の方に県民の森の案内図をいただき、
かみさんとその妹の3人で訪れたため、女性連れでも訪問し易い場所
(百間石垣、尾花礎石群と焼米ヶ原、土塁など)を教えてもらった。


四王寺県民の森管理センターの向いに学習展示館があった。
四王寺山の模型、県民の森の風景、森の働き、昆虫展示など、
四王寺の森に関する様々な資料が展示されている。
また、水城・大野城・基肄城の地理や歴史に関するVTRで
四王寺山の予備知識を得ることができた。


地図で場所を確認するが、四王寺山は初めての訪問なので、
方角が皆目見当がつかない。


戴いた地図を頼りに先ずは百間石垣へ向かった。
県民の森センターから宇美町方面へ1kmほど下ると、
大野城最大と云われる石塁「百間石垣」へ通じる径があった。
かなり急坂である。


かみさんたちも後に続くが、かなりきつそうだ。


急斜面の途中に石垣見学路と書かれた標識があり、
丸太の階段が続いていた。
標識辺りから百間石垣の一部を見ることができる。
かみさんたちは、百間石垣の一部を見ただけで引き返してしまった。


丸太の階段を上り切った所に、百間石垣があった。
見学路からの高さは5-6mほどで、長さが百間(約180m)あることから、
百間石垣と呼ばれるそうだ。


百間石垣を逆方向から見たところ。


見学路を進むと、行き止りのように見えたが・・・


よく見ると、突き当りにさらに階段が続いていた。


階段を上り切ったところに音楽堂・屯水を示す標識が。
反対側は登山道となっている。


階段を上り切ったところから百間石垣を振り返ったところ。


登山道方面へ戻り、百間石垣を見る。
7世紀に造られたものとしては、なかなか立派な石垣である。


音楽堂を示す標識が気になったので、行って見ることにした。
径は、意外にも急斜面だった。
砂岩でできた径だったため、滑り易く上り難い。


汗をかきかき急斜面の山道を15分ほど上って行くと・・・


音楽堂があった。
現代風の野外音楽堂である。
神楽殿のような建物を想像していたのだが、予想が外れた。
この日は、大野城の次に福岡城を訪れる予定なので、
音楽堂で引き返すことにした。
もう少し足を延ばしておけば大野城の排水施設の水門である
屯水があったようだが、音楽堂で引き返して少し後悔している。


次に向かったのが焼米ヶ原の駐車場である。
駐車場から土塁が続いていた。


大野城跡には尾根に沿って土塁の城壁が築かれている。
尾根の部分は土塁(土をつき固めて積み上げる版築工法)の城壁、
また谷の部分は石塁(石垣)が築かれている。
その総延長は8Kmにも及ぶ、とのこと。


土塁の上から見えた景色


逆方向から土塁を見る。
土塁の上は、今ではハイキングコースになっているようだ。


史蹟大野城・四王寺址碑
四王寺山は、古くは大野山とも大城山とも呼ばれていた。
天智天皇四年(665)に大野城が築かれたことで、
日本の防衛という重要な役割を担った。
その110年後、奈良時代の宝亀五年(774)に四王寺(四王院)が創建された。
これは、当時外交関係が緊張していた新羅の日本への呪詛の動きに対し、
大野山の清浄な地を選んで四天王像を安置し、呪詛を祓い国を護る祈祷を
することが目的だった、と云われている。
これ以降、四王寺山と呼ばれるようになった、とのこと。
現在、四王寺山には、四天王である毘沙門天・広目天・持国天・増長天
と呼ばれる地名が残っている、そうである。


四王寺址碑の脇に四王寺山33石仏巡り5番札所の千手観音像が祀られていた。
大野城跡の土塁線上を中心に、33体の石仏が点在している、とのこと。
これらの石仏は、江戸時代後期に建立されている。
寛政十年(1798)に福岡城下町の大火災、翌年天然痘の大流行、
干魃や豪雨などの転変地異が続いたため、大野山(四王寺山)一円に
石仏巡りの札所をつくり、観音様のご利益にすがって、現世の不幸から
逃れようとの願いから博多の人々が発起し、博多・大宰府・宇美の人々が
協力して、四国33か所に倣って四王寺山全域に霊場建立を成し遂げた、
と云われている。


5番札所の石仏の奥に、尾花礎石群があるということで、
建物跡の説明があった。


建物の復元図
尾花礎石群では奈良正倉院のような高床式の倉庫が10棟ほど
建っていた、とのこと。
倉庫内には米や武器などを収納していたと思われる、とのこと。


尾花礎石群の建物の礎石跡(1)


尾花礎石群の建物の礎石跡(2)


尾花礎石群の建物の礎石跡(3)


建物礎石跡の近くに”焼米ヶ原”の説明があった。
この場所から炭化して黒くなった米が見つかっているので、
”焼米ヶ原”という名前が付けられている、とある。


焼米ヶ原


焼米ヶ原の一角に玄清法印之墓と刻まれた石碑があった。
玄清法印は、太宰府に生まれ、17歳のときに視力を失うが、
盲僧となり琵琶を弾いて人々を救った、そうだ。
延暦八年(789)に四王寺北谷に成就院を建立したと伝えられている。


太宰府で天然痘が流行した際、玄清法印は四王寺山に登って
地神陀羅尼経を唱えながら、琵琶を弾き続けて、天然痘の流行を
鎮めたという。
玄清法印は弘仁十四年(822)に57歳で亡くなった。
一千年忌(1834)に建てられたのがこの四王寺山上のお墓だそうだ。


玄清法印の墓から焼米ヶ原を見たところ。


焼米ヶ原から見た景色


焼米ヶ原から土塁の上を駐車場へ引き返す。


駐車場へ引き返す途中見えた大宰府市街地


駐車場からさらに下へと土塁が続いていたので、行ってみることに。


下り坂の土塁入口右側に戦国武将岩屋城城主
「高橋紹運」(たかはし じょううん)辞世の歌碑があった。
流れての 末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水


土塁の突き当りに史蹟大野城四王寺阯と刻まれた碑が建っていた。


史蹟大野城四王寺阯碑の手前に大宰府口城門の標識があったので、
標識の指す方へ急坂の径を下って行くと・・・


大宰府口城門跡があった。


大宰府口城門跡
(反対側から見たところ)


大宰府口城門の礎石跡
ここに城門が建っていたのだ。


大宰府口城門跡近くに建っていた鳥居を潜り、
かみさんたちが待つ駐車場へ向かった。


四王寺県民の森管理センターで入手した地図を参考に、係の方に紹介して貰った
大野城の百間石垣・焼米ヶ原・尾花礎石群・大宰府口城門跡を見て回った。

時間的に余裕があれば、総延長8kmに及ぶ土塁を歩いてみたかったというのが、
正直な気持ちである。
他にも見所がたくさんあり、初めての訪問で、しかも半日足らずという
短時間で観て回るのは極めて困難ということが分かった。
可能であれば、もう一度訪れてみたいとは思うが、その思いが叶うのかは
定かではない。

後ろ髪を引かれる思いで、この後、福岡城へ向かった。

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