2017年6月19日(月)
名護屋城の見学も終わり、昼食の後、名護屋城周辺に点在する
陣跡を見て回ることにした。
名護屋には、豊臣秀吉が天下に号令をかけ、160もの大名が集ったといわれ、
それぞれが丘陵を利用した陣屋を建てていたと考えられている。
現在は130余の陣跡が確認されており、地元自治体とも協力しながら
保存・整備を行っている、とのこと。
名護屋城陣跡については、特に事前の予習もしていなかった。
現地へ行けば何らかの情報が得られるだろうという
甘い気持ちがあったのは事実である。
名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」へ。
レストラン「桃山亭 海舟」で昼食を摂った。
注文したのは、にぎり寿司定食。
食事の後、近くの陣跡を回ることにしよう。
昼食後、先ず向かったのが、前田家の陣跡である。
道の駅「桃山天下市」の駐車場の隅に入口があった。
薄暗い森の中を5分ほど進むと、広場があった。
前田利家の陣跡である。
前田利家の陣跡は名護屋城の南方約300mに位置し、
広さ10万㎡に及ぶ最大級の広さを誇る。
前田陣の規模の大きさや立派さは陣屋の中でも群を抜いている。
前田利家は徳川家康とともに、文禄二年(1593)5月に
名護屋を訪れた明の使節の接待役を務めており、
豊臣政権の外交施設としての格式の高さも現れていると考えられている、
とある。
利家の居館があった「館部」とされる曲輪への大手虎口
大手虎口は高さ5.5mの石垣からなる内桝形となっている。
その規模や石垣・石段の立派さは、名護屋城と比べても
見劣りしない格式を持っている。
木下延俊の陣跡は、名護屋城博物館の裏にあるため、
100名城のスタンプを押した博物館管理室で
木下延俊陣跡の見取り図をもらい、陣跡へ向かった。
木下延俊陣屋は、名護屋城の大手口前面に構えられており、
最も城に近い、とのこと。
名護屋城博物館南に隣接する丘陵が、木下延俊の陣跡になっている。
木下延俊は、豊臣秀吉の正室おね(北政所・高台院)の甥にあたる。
博物館右手から裏へ回り、階段を上って行くと、
陣跡の木製の園路があった。
見えている遺構は全て本物であり、貴重な遺構を保護するために、
園路上から見学し、地面には降りないようにとの注意書きが。
陣跡(石塁)
陣跡(石敷)
陣跡(玉砂利)
陣跡(石塁)
陣跡の木製の園路
陣跡(飛石)
陣跡(矢の跡と飛石)
陣跡の先は、交流の森公園に続いていた。
交流の森公園の先に小さなお堂があり、
お堂の前に金助・吾助の墓があった。
江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続いた。
名護屋村でも田畑の作物は枯れはて、村人は木の実や葛の根、
ヒジキ(海藻)などを食べて飢えをしのいでいた。
しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告。
村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、このままでは飢え死に
するばかり、村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおうという
事になったが、後の咎めを恐れて誰一人これを引き受ける者がいない。
そのような時、金助・吾助の2人の若者が、自分達には身寄りもなく
後の心配もないので、この役目は私達に任せてくださいと申し出た。
金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り、直訴を決行。
幸い願書は、藩主の目に留まり、年貢米100石が減免された。
しかし、当時直訴は天下のご法度。
これを破った2人は捕えられ、西の浜で処刑された。
「墓は、方広山の西に葬ってほしい」という2人の遺言どおりに建てられ、
そこには、竜泉寺大和尚が持ち帰った遺髪が葬られていると伝えられている。
金助・吾助の墓の前は、旧唐津街道(太閤道)になっており、
その先(左側)は、名護屋城跡の大手口に続いていた。
大して当てもなく車を走らせると、木下延俊と古田織部陣跡の
説明板を見つけた。
古田織部は、文禄の役(1592~1593)では名護屋に駐屯し、
慶長の役(1597~1598)では渡海していた武将である。
木下延俊の陣跡は既に見た後なので、田んぼの中の一本道を
古田織部の陣跡へ。
古田織部の陣跡は、名護屋城から南へ約500mの位置にある。
古田織部は、千利休の高弟で、高山右近・細川忠興・蒲生氏郷などと
「利休七哲」に数えられており、茶人として名高い。
古田織部の陣跡の曲輪
古田織部の陣跡から名護屋城方面を望む。
古田織部は、江戸幕府の二代将軍徳川秀忠の茶道指南も務めた。
特異な意匠で知られる織部焼(茶器)や織部灯籠の創始者でもある。
古田織部の陣跡を後にして、車を走らせると、
加藤清正・福島正則・小早川隆景陣跡の説明板があった。
左から加藤清正・福島正則・小早川隆景の陣跡を望む。
加藤清正陣跡
幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは福島正則らとともに、
七本槍の一人として活躍。
文禄の役では、朝鮮国の都漢城(現ソウル)に達したが、
慶長の役では、蔚山城を取り囲まれて落城寸前にまで攻められた。
矢印の方へ車を走らせたが、福島正則陣跡の標識が立つ場所に出た。
途中、加藤清正陣跡と特定されるような場所は、見当たらなかった。
福島正則陣跡
福島正則の母は、豊臣秀吉の伯母と云われており、幼少より秀吉に仕え、
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として活躍。
文禄の役では渡海している。
名護屋に構えた陣屋は4haほどで広大である。
矢印の方へ車を走らせたが、途中、福島正則陣跡と特定されるような場所は、
見当たらなかった。
加藤清正陣跡、福島正則陣跡は標識で示された付近一帯が、陣跡なのだろう。
加藤清正陣跡、福島正則陣跡からさほど離れていない場所に
細川忠興陣跡の標識が立っていた。
標識に従って右側の径を進んでみると・・・
陣跡と思しき一帯は、みかん畑になっていた。
津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡の説明板を見つけた。
津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡を望む。
道路脇に伊達政宗の陣跡を示す標識がポツンと立っていた。
標識の脇の急斜面を上ってみると、陣跡らしき石垣跡などがあったが、
雑木や藪に覆われてこれ以上進むことは出来ない。
止むを得ず引き返した。
時間の都合上、これ以上陣跡を探し回る余裕もないため、
かみさん達が熱望していた焼き物の里伊万里へ向かうことにした。
陣跡の地図なども持ち合わせないまま名護屋城周辺を車で走ったが、
数ある陣跡のうち、名護屋城周辺のいくつかの陣跡しか回れなかったのは、
当然と言うべきだろう。
大した予習もせず、地理不案内の者にとって、名護屋城陣跡を回るには
充分な予習、それにガイドが必要だと痛切に感じた次第である。
”日本100名城巡り No.87 名護屋城” へ戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
名護屋城の見学も終わり、昼食の後、名護屋城周辺に点在する
陣跡を見て回ることにした。
名護屋には、豊臣秀吉が天下に号令をかけ、160もの大名が集ったといわれ、
それぞれが丘陵を利用した陣屋を建てていたと考えられている。
現在は130余の陣跡が確認されており、地元自治体とも協力しながら
保存・整備を行っている、とのこと。
名護屋城陣跡については、特に事前の予習もしていなかった。
現地へ行けば何らかの情報が得られるだろうという
甘い気持ちがあったのは事実である。
名護屋城跡を後にして、かみさん達が待つ近くの道の駅「桃山天下市」へ。
レストラン「桃山亭 海舟」で昼食を摂った。
注文したのは、にぎり寿司定食。
食事の後、近くの陣跡を回ることにしよう。
昼食後、先ず向かったのが、前田家の陣跡である。
道の駅「桃山天下市」の駐車場の隅に入口があった。
薄暗い森の中を5分ほど進むと、広場があった。
前田利家の陣跡である。
前田利家の陣跡は名護屋城の南方約300mに位置し、
広さ10万㎡に及ぶ最大級の広さを誇る。
前田陣の規模の大きさや立派さは陣屋の中でも群を抜いている。
前田利家は徳川家康とともに、文禄二年(1593)5月に
名護屋を訪れた明の使節の接待役を務めており、
豊臣政権の外交施設としての格式の高さも現れていると考えられている、
とある。
利家の居館があった「館部」とされる曲輪への大手虎口
大手虎口は高さ5.5mの石垣からなる内桝形となっている。
その規模や石垣・石段の立派さは、名護屋城と比べても
見劣りしない格式を持っている。
木下延俊の陣跡は、名護屋城博物館の裏にあるため、
100名城のスタンプを押した博物館管理室で
木下延俊陣跡の見取り図をもらい、陣跡へ向かった。
木下延俊陣屋は、名護屋城の大手口前面に構えられており、
最も城に近い、とのこと。
名護屋城博物館南に隣接する丘陵が、木下延俊の陣跡になっている。
木下延俊は、豊臣秀吉の正室おね(北政所・高台院)の甥にあたる。
博物館右手から裏へ回り、階段を上って行くと、
陣跡の木製の園路があった。
見えている遺構は全て本物であり、貴重な遺構を保護するために、
園路上から見学し、地面には降りないようにとの注意書きが。
陣跡(石塁)
陣跡(石敷)
陣跡(玉砂利)
陣跡(石塁)
陣跡の木製の園路
陣跡(飛石)
陣跡(矢の跡と飛石)
陣跡の先は、交流の森公園に続いていた。
交流の森公園の先に小さなお堂があり、
お堂の前に金助・吾助の墓があった。
江戸時代の中ごろ、唐津領は天候不順による凶作が続いた。
名護屋村でも田畑の作物は枯れはて、村人は木の実や葛の根、
ヒジキ(海藻)などを食べて飢えをしのいでいた。
しかし、このような不作の年にも藩は容赦なく年貢の取り立てを通告。
村では庄屋を中心に毎晩のように寄り合いを開き、このままでは飢え死に
するばかり、村の窮状を藩主に訴えて年貢を減らしてもらおうという
事になったが、後の咎めを恐れて誰一人これを引き受ける者がいない。
そのような時、金助・吾助の2人の若者が、自分達には身寄りもなく
後の心配もないので、この役目は私達に任せてくださいと申し出た。
金助と吾助は、藩主が領内の巡視で佐志村に赴く事を知り、直訴を決行。
幸い願書は、藩主の目に留まり、年貢米100石が減免された。
しかし、当時直訴は天下のご法度。
これを破った2人は捕えられ、西の浜で処刑された。
「墓は、方広山の西に葬ってほしい」という2人の遺言どおりに建てられ、
そこには、竜泉寺大和尚が持ち帰った遺髪が葬られていると伝えられている。
金助・吾助の墓の前は、旧唐津街道(太閤道)になっており、
その先(左側)は、名護屋城跡の大手口に続いていた。
大して当てもなく車を走らせると、木下延俊と古田織部陣跡の
説明板を見つけた。
古田織部は、文禄の役(1592~1593)では名護屋に駐屯し、
慶長の役(1597~1598)では渡海していた武将である。
木下延俊の陣跡は既に見た後なので、田んぼの中の一本道を
古田織部の陣跡へ。
古田織部の陣跡は、名護屋城から南へ約500mの位置にある。
古田織部は、千利休の高弟で、高山右近・細川忠興・蒲生氏郷などと
「利休七哲」に数えられており、茶人として名高い。
古田織部の陣跡の曲輪
古田織部の陣跡から名護屋城方面を望む。
古田織部は、江戸幕府の二代将軍徳川秀忠の茶道指南も務めた。
特異な意匠で知られる織部焼(茶器)や織部灯籠の創始者でもある。
古田織部の陣跡を後にして、車を走らせると、
加藤清正・福島正則・小早川隆景陣跡の説明板があった。
左から加藤清正・福島正則・小早川隆景の陣跡を望む。
加藤清正陣跡
幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは福島正則らとともに、
七本槍の一人として活躍。
文禄の役では、朝鮮国の都漢城(現ソウル)に達したが、
慶長の役では、蔚山城を取り囲まれて落城寸前にまで攻められた。
矢印の方へ車を走らせたが、福島正則陣跡の標識が立つ場所に出た。
途中、加藤清正陣跡と特定されるような場所は、見当たらなかった。
福島正則陣跡
福島正則の母は、豊臣秀吉の伯母と云われており、幼少より秀吉に仕え、
賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として活躍。
文禄の役では渡海している。
名護屋に構えた陣屋は4haほどで広大である。
矢印の方へ車を走らせたが、途中、福島正則陣跡と特定されるような場所は、
見当たらなかった。
加藤清正陣跡、福島正則陣跡は標識で示された付近一帯が、陣跡なのだろう。
加藤清正陣跡、福島正則陣跡からさほど離れていない場所に
細川忠興陣跡の標識が立っていた。
標識に従って右側の径を進んでみると・・・
陣跡と思しき一帯は、みかん畑になっていた。
津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡の説明板を見つけた。
津軽為信・片桐且元・木村重孝の陣跡を望む。
道路脇に伊達政宗の陣跡を示す標識がポツンと立っていた。
標識の脇の急斜面を上ってみると、陣跡らしき石垣跡などがあったが、
雑木や藪に覆われてこれ以上進むことは出来ない。
止むを得ず引き返した。
時間の都合上、これ以上陣跡を探し回る余裕もないため、
かみさん達が熱望していた焼き物の里伊万里へ向かうことにした。
陣跡の地図なども持ち合わせないまま名護屋城周辺を車で走ったが、
数ある陣跡のうち、名護屋城周辺のいくつかの陣跡しか回れなかったのは、
当然と言うべきだろう。
大した予習もせず、地理不案内の者にとって、名護屋城陣跡を回るには
充分な予習、それにガイドが必要だと痛切に感じた次第である。
”日本100名城巡り No.87 名護屋城” へ戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます