ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

関東ふれあいの道(神奈川)No.17 「北条武田合戦場のみち」

2014年04月13日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2014年4月13日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、昨年(2012年)は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破し、認定証を受領した。
そして次は神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩こうということになり、企画したものである。

第14回目となる今回は、コースNo.17(北条武田合戦場のみち:約8.5Km)を歩くことにした。
本来のコースは、坂尻バス停~半原越~経ヶ岳~半僧坊前~三増合戦場・・・となっているが、
坂尻バス停~半原峠(約4.8Km)は、コースNo.12(丹沢山塊東辺のみち)で歩いているので、今回は省略。
半原越~経ヶ岳~半僧坊前(3.9Km)は別の機会を見つけて歩く、ということで、距離が短くなっている。

この日の参加者は10名。
いつものように常磐線日暮里駅で乗り換え山の手線で新宿に向かった。
小田急新宿駅で小田原行きの電車を待つ。
8時11分発の小田原行き急行が入って来た。


本厚木駅には9時7分に到着。


間違って宮ヶ瀬行きのバス停(5番)へ行ってしまい、うろうろとバス停を探しているちょうどその時、
バスセンター方面から半原行きバスが走って来るのを見つけ、あわててそのバスを追いかけた。
高校生が大勢乗り込むところだったので、何とか乗り遅れなくて間に合った形となった。
このバスに乗り遅れると、次は1時間後しかないのである。


バスは満員となった。全ての席は先に乗り込んだ高校生たちに占領されていた。
中には席を譲ると言う生徒もいたが、彼らは途中で降りるのが分かっているので、
好意だけ受けることにした。


9時57分、半僧坊前に到着。


国道412号に沿った路地を通り、半僧坊へ。


寺院前の地図で確認
『え~と、今ここ(半僧坊)の前にいるんだねっ』


満殊山勝楽寺(しょうらくじ)の案内によると、
勝楽寺は曹洞宗の寺院で、草創は古く弘法大師が、法華経を書き写した霊場と伝えられる、とのこと。


堂々とした山門(仁王門)に圧倒される。
総高16m、間口9m、奥行5.6mだそうだ。
造営は文政十二年(1830)半原の工匠柏木右兵衛安則の手により着工したが、
安則が高齢によって死去、工事は一時中断していた。
その後安則の長男矢内但馬藤原高光がこれを継ぎ、嘉永四年(1851)に落慶した。
山門は、名匠右仲・左仲・左文治の三兄弟の工によるもので、
楼上には、文殊・普賢の2菩薩、舎利佛、目犍連(もくけんれん)、十六羅漢などの像が安置されている、そうだ。


阿形の金剛力士(仁王)像
今まで仁王像は朱塗りの赤や青(青銅)ばかり見てきたので、黒い仁王像は初めてだ。


吽形の金剛力士(仁王)像
阿吽の二神(仏教の護法善神)で門を見張る。


中門をくぐって本堂へ。


半僧坊堂
御本尊は釈迦牟尼佛
この日の無事安全を祈っていこう。


遠州奥山方広寺から勧請した半僧坊大権現
後醍醐天皇の皇子の無文元選禅師の方広寺の元に忽然と現われ、無理やり弟子入りした白髪の老人で、
神通力を持っており、無文禅師が死去するとその老人も姿を消したという。


毎年4月17日には、近郷近在の花嫁が参拝して「花嫁まつり」とも云われ、植木市とともに賑わう、そうである。
地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的だそうだ。


田代半僧坊大権現の隣にあった枝垂れ桜が今まさに満開だった。


日本における曹洞宗の開祖と云われる道元禅師像
鎌倉時代初期の正治二年(1200)に誕生し、貞応二年(1223)中国・宋へ渡る。
安貞元年(1227)に帰国。寛元元年(1243)に北陸越前に入山し、今の永平寺が開山された。
建長五年(1253)病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都)で没した。
享年54(満53歳没)だった。


半僧坊の鐘楼


準備を整える。
『今日は上着は要らないわよねっ』
『最初に脱いでた方が良いねっ』


10時17分、出発!


半僧坊前の道を真直ぐ進む。


この時期、いろんな花が咲いて、我々の目を楽しませてくれる。
ヤマブキの花と聞けば、
「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」
という有名な歌と大田道灌を連想する。


道端に咲いているニリンソウに夢中でカメラを向けるKさん。


自分も撮ってみたが、白く反射して上手く撮れない。


ツツジが美しい。


『いろんな花が咲いてて今が一番楽しいわねぇ』


中津川に架かる橋を渡る。


中津川の河原では、バーベキューを楽しんでいる家族も。


「関東ふれあいの道」は、中津川に架かる橋を渡って左折し、


50mほど行くと、右の小さな道へと案内されている。


何とこんな山の中、と言っては失礼だが、ふぐ料理の看板が。
『こんなところにふぐ料理屋とは意外だねぇ』


住宅地の中の細い道を進む。


しばらくすると、住宅地から離れ、杉林の山道が現れた。
ようやく「関東ふれあいの道」らしくなってきた。


マムシ草
茎(茎ではなく偽茎)の紫褐色の模様がマムシ(蝮)の斑模様に似ているところから付けられた名前、だそうだが、
コブラが鎌首を持ちあげたような形で、個人的にはあまり好きではない。


緩やかなつづら折りの坂道が続く。


10分ほど坂道を上ると、開けた台地に出た。


『いやぁ なかなか良い景色だねぇ』


遅咲きの桜の花や桃の花が満開状態だ。


のどかな道を標識に従って三増・志田峠方面へ進む。


11時10分、三僧(みませ)合戦場の碑へ到着。
碑の横に”三増合戦のあらまし”が紹介されていた。
永禄十二年(1569)10月、甲斐(山梨県)の武田信玄は、2万の将兵を従えて、
小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で
三増峠で迎え撃つことにした。
ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。(続く)


信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、
家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、
また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。
北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。(続く)


そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、
北条軍は総崩れとなって負けてしまった。
この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、
すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、
勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという。
(愛川町教育委員会:看板資料より)


三僧合戦場の碑前で全員の記念撮影を済ませ、東屋で一休み。


既に散ってしまった桜並木を志田峠を目指して進む。


志田峠へ


道は途中から舗装が無くなり、砂利道になった。


『歩き難いゎねぇ』


自転車で峠越えに挑戦する若者も。
『おっ若いの、よう頑張るなぁ』


12時6分、志田峠へ到着。


谷を埋め立てているようだが、何が目的なのだろう?


後続の皆さんも少し遅れて峠に到着。


ここ志田峠で弁当をと思ったが、峠を吹き抜ける風が強く、時折埃を舞いあげるので、
峠を下ったところを探そう、ということに。


志田峠を5分ほど下ると、清正光(せいしょうこう)があった。
『この石段を上るのぉ』
およそ200段の石段を上らなければならない。
『行ってみるかぁ』


『けっこうきついわねぇ』


さらに石段は続く。


上ったところに猛犬が繋がれていた。
我々を見るなり狂ったように吠えまくっていた。
繋がれていなかったら、間違いなく咬みつかれていたことだろう。


石段はさらに続く。
Y子さんによると、結局石段は260段余りだった、そうである。


ツツジが美しい。


12時25分、本堂に到着。


さらに石段があったが、展望もあまり良くないので、本堂の階段を借りきって弁当タイムだ。
幸いなことに、弁当を食べる間、と言うより下山するまでずっと、我々以外には誰も訪れる人はいなかった。
あの石段を上ってお参りするのは大変なことだが、誰も訪れないと、実に寂しいところだ。


本堂の近くに別院があったので、立寄って手を合せた。


吠えまくる猛犬の鳴き声を耳にしながら、石段を下る。


韮尾根バス停を目指す。


何となく見覚えのある風景が現れた。


前回のコースNo.13「山里から津久井湖へのみち」で雨乞山から降りて来たところに合流したのだ。
『この道を降りて来たんだよねっ』


国道412号に出ると、韮尾根バス停とは反対方向の半原バス停を目指すことにした。
前回の経験から、韮尾根バス停からはちょうど良いバスがないため、2Km先の半原バス停まで歩き、
そこから淵野辺行きバスを利用することにしているためである。


K子さんが、前回この近くでパン屋の旗を見掛けたので、何とかしてそこで”揚げパン”を買いたいと、
朝からずっと云い続けてきているので、ちょっと立ち寄ってみようということに。


直ぐに「丹沢あんぱん」の看板が現れた。


店の名前は「オギノパン」と言うらしい。
たくさんの車やオートバイが駐車していて、大層賑わっている様子だ。


K子さんが言うには”あげぱん”の評判が良いらしい。
売り場には、かなりの人が並んでいた。
”あげぱん”(110円)を2個買った。帰ってかみさんと食べることにしよう。


こちらではアンパンが売られていた。
こちらも売れ行きは上々のようである。


全員何がしかのパンを買い、笑顔で半原バス停を目指した。
『パンが買えて良かったねっ』K子さんは大満足の様子だ。


国道412号を半原方面への坂道を下る。
この時、時計は13時40分を差そうとしていた。
『13時50分発の淵野辺行きに間に合うかもしれないよっ』の声が。
先月の「津久井湖へのみち」で歩いた帰りに利用したバスである。
それを逃がすと1時間待たなければならない。
急に皆さんの足が速くなった。


半原日向の交差点を過ぎて、Kさんが『先に行ってバスを止めておくから』と言い残して駆けだした。
皆も後に続けとばかり、先ほどよりもう一段ギアを入れ直し、バス停へ急いだ。


日向橋を渡ると・・・


Kさんがバスを止めて待ってくれていた。
『間に合った』と喜んだのは束の間・・・
そのバスは淵野辺行きではなく本厚木行きだった。
もとよりそのバスには乗るつもりはないので、発車してもらった。


バスがもう1台停まっていたが、三ヶ木行きとなっている。
運転手に訊ねると、淵野辺行きは3月末で路線を廃止してしまったそうだ。
『え~っ、淵野辺行きバス無くなっちゃったのぉ』 全くの想定外である。
運転手によると、このバスは三ヶ木で橋本行きバスに接続しているとのこと。発車は14時00分だそうだ。
それでも本厚木行きよりも安くなるという計算で、仕方なくこのバスを利用することにしたのだが・・・

何と! 今しがた息急き切って歩いて来た道を、韮尾根までまた戻るルートと知って皆ガックリ。
『骨折り損のくたびれ儲けだったね』という洒落にならない”落ち”となった。

14時23分、三ヶ木バスセンターに到着。
ずらりとバスが並んでいる。この中の1台(左から3番目)が橋本駅北口まで行くようだ。


三ヶ木バスセンターで橋本駅北口行き(14時24分発)に乗り換える。
疲れもあり、バスに揺られながらひと眠りしてしまった。


橋本駅で八王子行き電車の確認をしているところ。
『とにかく、今日は皆さん本当にお疲れ様でしたぁ』


この日も好天に恵まれ、コースNo.17「北条武田合戦場のみち」を歩くことが出来た。
いきなり半僧坊の高層の山門には圧倒された。
三増・志田峠では、北条武田合戦の頃に想いを馳せた。
最後は、駆け足のように歩いた2Kmの道をまたバスで戻る、というハプニングだったが、
きっといつまでも記憶に残一日となるだろう。
来月は、いよいよ最後のコースNo.14「峰の薬師へのみち」である。


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