ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第4回 神奈川宿から戸塚宿

2014年04月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年4月27日(日)

この日は第四回目、神奈川宿(JR1横浜駅)から戸塚宿(JR戸塚駅)までの約14Kmを歩いた。

JR横浜駅からJR4戸塚駅まで歩くことになるため、消費増税による値上げ(70円)はあったものの、
休日お出かけパス(2,670円)を利用することにした。

常磐線で上野駅へ向かう。
この日の参加者は10名だ。


東京駅から東海道線で横浜駅へ向かう。


この日のスタート地JR横浜駅には9時18分に到着。
横浜駅西口


前回のゴール地点青木橋へ向かう。


9時27分、青木橋交差点に到着


『この前はここまで歩いたんだな』
ということで、今日はここからスタートだ。


歩きだして直ぐに、横浜の大綱大神金刀比羅(こんぴらさん)があった。
大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、
民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社、とのこと。(大綱大神金刀比羅HP)
この日は歩く距離も長く、立寄るか所も多いので、この神社は素通りとさせてもらった。


しばらく歩くと、文久三年(1863)創業の料亭田中屋があった。
神奈川宿が賑わった当時から続く、唯一の料亭である。
田中屋の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名で、
高杉晋作やハリスなども訪れている、そうだ。


坂本龍馬の妻「おりょう」が勝海舟の紹介で働き始めたのは、明治七年(1874)からと伝えられている。
英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていた、そうである。


少し進むと、右手に神奈川台の関門跡の碑があった。
説明によると、関門があったのは、この場所よりやや西寄り、とのこと。
開港後外国人が何人も殺傷され、各国の領事たちは幕府を激しく非難。
幕府は安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。
この時、神奈川宿の東西にも関門が造られた。そのうちの西側の関門が神奈川台の関門である。


大人が発泡スチロールの中を真剣に見ているのが気になったので、近寄って覗いてみると・・・


メダカ?と思ったが、デメキン(出目金)の子だった。
『いやぁ、可愛らしいねぇ』
出目金は、キンギョの一品種で、眼が左右両方に大きく突き出ているのが特徴である。
よ~く見ると両目が少しだけ突き出ているのが分かった。尾も三つに分かれている。
ここでセリを行っており、品定めをしているとのこと。


旧東海道は坂道を下って進む。


横浜駅方面への道を跨ぐ。
この下を横浜市営地下鉄ブルーラインが走っている。


南軽井沢1丁目
『軽井沢以外に軽井沢の地名があるとは知らなかったねぇ』


駐車場料金が35,000円!
軽井沢という地名だからか? これが普通の料金なのだろうか?
『やはり横浜だから高いのはしようがないんだろうねっ』


首都高速神奈川2号三ッ沢線下を通過


右手に赤い鳥居が見えてきた。


10時3分、この日最初の立寄り地の浅間神社だ。


先ほど見えていたのはこの鳥居だった。


浅間神社にこの日の無事安全をお祈りしていこう。


拝殿の後ろの本殿が高く聳えている。
この位置から本殿が見える神社はあまり見たことがない。この神社の特徴となるのだろう。
なお、浅間神社境内に十幾つあったという横穴古墳群は、神社の拡張・整地などによって
無くなってしまったそうだ。


アーチには「洪福寺松原商店街」と描かれている。
年末には「ハマのアメ横」という冠詞付きで、その活況ぶりをテレビ中継するのが恒例となっている、
そうだが、この辺りは人通りもそんなに多くない。


次第に人が増えて、通りは賑やかになってきた。
写真は横の通り。
「洪福寺松原商店街」の詳細は、こちら


コーヒーの無料配布をやっていた。


コーヒーを配布していたおねえさん。
コーヒーは控えているので、代りにポップコーンをもらった。
『ありがとうっ いただきまぁす』


『いやぁ 実に賑やかだねぇ』
『ハマのアメ横とはよく言ったもんだなぁ』


「洪福寺松原商店街」の先には「天王町商店街」が続く。
『まだまだ続いてますねぇ』


こちらは「シルクロードフリーマーケット」と書かれているが、果たして・・・


何と! 道が塞がれている。
通り抜けるには両側の歩道を歩くようだ。
しかし、歩道は人でごった返して、歩くのも大変である。


「天王町商店街」では、年に数回フリマを開催しているとのこと。
毎月第四土曜日には「天王町アンティークバザール」が開催される、そうだ。


橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、立寄り予定場所の一つである。
創建は鎌倉時代初期(1186)。江戸時代は牛頭天王社(ごづてんのうしゃ)といい天王町の由来となっている。
大正時代に現在の橘樹神社となった。祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)


橘樹神社は、昔からの地域の氏神で、人々に「お天王様」と言って崇められている。
この日は、神社の境内もフリマに占領されていると云った状態だ。


『何とかお参りだけはしておかなくちゃねっ』


再び旧東海道に戻って天王町へ向かっていると・・・
”猿回し”をやっていた。しかも若い女の子の調教師である。
少しばかり見て行きたいが、この調子では先が思いやられるので、先を急ぐことにした。


旧帷子橋(かたびらばし
安藤広重の浮世絵で新町橋として有名だが、ここもフリマに占領されていた。


フリマは、相鉄線天王町駅へと続いていた。


天王町駅を通り過ぎると、ようやく普通の道になった。
少しペースを上げよう。


『いやぁ フリーマーケットは凄かったねぇ』
『たまたまやってたところに出合ったようだけど、印象に残るよねっ』


保土ヶ谷宿へ向かって進む。


香象院(こうぞういん
江戸時代末期、保土ヶ谷宿で最も大きい寺小屋があり、明治六年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となった。


保土ヶ谷方面へ進む。


問屋場跡の説明板に見入る。説明板には以下のように紹介(概略)されている。
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の
書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが、問屋場で、宿場の中
でも最も重要な施設だった。
宿場では、この業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていた。
問屋場には問屋を筆頭に、年寄・帳付・馬指などの宿役人が詰めていた。


扉のシャッターに東海道五十三次の絵(程ヶ谷新町入口)が描かれている。
いよいよ保土ヶ谷宿に入った、という感じだ。
今から45年ほど前に保土ヶ谷に3年ほど住んでいたことがあるので、懐かしさが湧いてきた。


金沢横丁道標
ここは、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれていた。


金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、
道標として四基が建立された。右から、
①円海山之道 天明三年(1783)建立 
②かなさわかまくら道 天和二年(1682)建立
③杉田道 文化十一年(1814)建立 正面に(程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪きそう)と
刻されている。 
④富岡山芋大明神社の道 弘化二年(1845)建立


東海道線・横須賀線の踏切でしばし待たされる。
第一回目の品川宿への入口、京浜急行の踏み切りを想い出した。


3分後、ようやく遮断機が開き、線路を渡ることが出来た。


線路を渡り、国道1号線に合流した正面に本陣跡の説明板が。
保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣、苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が務めていた。
同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土谷における最も有力な家で、安政六年(1859)に
横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くした。
明治三年(1870)に軽部に改姓し、現在も在住されている、とのこと。


本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊・休息した。
保土ヶ谷宿は通過の宿場として使われたため、本陣や脇本陣は休息所として使われることが多かった。
3軒の脇本陣があった。
脇本陣(藤屋)跡


脇本陣(水屋)跡


本陣消防署


偶然にも脇本陣跡の隣に「保土ヶ谷消防署本陣消防出張所」があった。
消防車にも本陣と書かれていた。
本陣という地名のようだが、江戸時代に本陣があったのと関係あるのかな?


旅籠本金子屋跡
天保年間の本金子屋の規模は、建坪79坪(約261㎡)・間口7間(薬2.7m)・奥行11軒半
(約20.9m)で、室数は13あったとのこと。
明治二年(1869)に建て直されたが、江戸時代の旅籠の佇まいを偲ばせる建物である。


国道1号線に沿って流れる星川の支流、今井川に沿って進むと、


日本橋から8番目の保土ヶ谷一里塚の跡があった。


保土ヶ谷の松並木は、この辺りから境木までの約3Kmに渡って続き、広重や北斎などの
浮世絵にも度々描かれた。
昭和初期まで比較的良好な状態であったが、時代とともに年々減り続け、現在は権太坂付近に
わずかに名残を留めるだけになった。
平成19年の松並木復元事業で、今井川に沿った約300mの区間に数十本の松などを復元した。
(東海道保土ヶ谷宿松並木フロムナード実行委員会)


今井川にはメス(金色をした)鯉に産卵を促すオスの鯉がまとわりついていた。


亀がのんびり甲羅干しをしていた。


街道沿いに緑に包まれた樹源寺があった。
鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期に軽部家により、身延山久遠寺の
末寺として開山した。


門を入ると、”関係者以外は申し出るように”との看板があったため、面倒なので門で引き返した。
門から見ただけだったが、美しい緑に包まれた庭園が、寺の名前に関係あるのではないかと思ったほどだ。


道標に従ってコンビニ店の角を左に折れ、旧東海道を進むと、


国道1号線手前で右へ曲ると権太坂が始まる。
権太坂は、昔は今より急坂で江戸からの旅人が初めて出会う難所であった。
回りには、高層マンションが建ち並ぶ。


保土ヶ谷バイパスを跨ぐ。


保土ヶ谷バイパス新保土ヶ谷IC方面


振り返ると横浜ランドマークタワーが見えた。
権太坂をかなり上って来たことが分かる。


権太坂の碑
東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい上り坂が続く(約2Km)。
名前の由来は、道端の老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は
自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、「権太坂」になった、とのこと。


権太坂の名前の由来は諸説ある、そうだ。
①は、前項で述べた耳の遠い老人の答え説
②は、昔、権左衛門という人が代官の指図により開いてできた坂道を、その名をとって
「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」になったという説
どちらを信じますか? というのだが、どちらも信じたい。


権太坂2丁目を通過
保土ヶ谷一里塚で説明があった、”わずかに残った松並木”は残念ながら見当たらなかった。


境木立場跡
宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息などのために設けられたのが立場である。
なかでも境木の立場は権太坂・焼餅坂・品濃坂と難所が続くなか、見晴しの良い高台で
西に富士、東に江戸湾を望む景色が素晴らしく、旅人が必ず足をとめる名所であった。
また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知れ渡り、大変賑わったという。


武相国境モニュメント
この地が武蔵国(保土ヶ谷宿)と相模国(戸塚宿)の境であり、昔は木の杭が立てられていたので境木と云う。
このモニュメントは平成17年に設置された。


江戸日本橋から東海道の宿場名が並んで刻まれている。


境木地蔵尊
江戸時代の初めに、鎌倉の浜に打ち上げられたお地蔵さまを漁師が江戸に運んでいる途中、
この辺りで牛車が動かなくなり、置いていった。
夢枕に立ったお地蔵様の託宣を聞いた村人がお堂を建ててお祀りしたので、この辺りの町は
栄えたと云われる。


万治二年(1659)の建立と云われ、江戸からの講中や道中の安全を祈る多くの旅人が参拝した。
現在のお堂は関東大震災後に再建された。


境木延命地蔵尊を出発した後、道を間違いかけたが、運良く道端に旧東海道の道標を
見つけることができ、事なきを得た。


焼餅坂を下る。
境木の名物は、立場茶屋で焼く「牡丹餅」であった。
旅人たちの空腹を満たす餅を焼いたことから、その坂の名は「焼餅坂」と呼ばれるようになった。


焼餅坂を下ると、直ぐにまた上り坂になった。


坂道を上りきったところに、品濃一里塚があった。
日本橋から9番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置している。


旧東海道を挟んで東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていた。
今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内ではこの一里塚
だけであり、昭和41年には県の史蹟に指定されている。
(写真は東側の塚)


東戸塚駅辺りの高層マンションが見えて来た。
とたん、急にお腹が空いてきた。
時計は12時40分になろうとしていた。


東戸塚駅前の「ニューシティ東戸塚」の高層マンション群


ダイエーのファストフード店で昼食を摂ることにした。
店内には、うどん店や、


そば店などがあった。


『ようやく昼飯にありつけたねっ』
ファストフード店以外の専門店が数多くあったのに気が付いたのは、昼食後だった。


昼食後、横浜環状2号線を進む。


途中で右に折れ、品濃坂を進む。


品濃坂を下る。
かつては保土ヶ谷宿と戸塚宿の難所の一つだったところだ。


小さな川沿いに進むと国道1号線と合流する。
(川の名前は分からない)


赤関橋を渡り、国道1号線の測道を進むと、


秋葉大橋下で、国道1号線と合流する。
これで、この日何度目かの合流である。


右手にポーラ化粧品の工場を見ながら通過。


益田家のモチの大木
樹高18m、目通り2.4m、根回り3.1mの雌株と、0.75m離れた樹高19m、目通り3.2m、
根回り4.9mの雌株の二本がある。
樹齢はおよそ300年と推定される。
モチノキは通常3~8mに達するが、これほどまでに成長した大木は他に類を見ないと云われている。
神奈川県の天然記念物に指定されている。


不動坂交差点
大山道は各地と大山を結ぶ道で、江戸時代に大山詣をする人で賑わった。
不動坂交差点に近いこの地は、当時の大山道への入口となった。


不動坂の木陰で一休み。
『ゴールは近いかしら?』
『もう直ぐだと思うよ』


元舞橋を通ぎ、国道1号線の舞岡入口交差点付近を通過。


宝蔵院は、真言宗大覚寺派のお寺で東峰山宝蔵院という。


本堂内部
天文十六年(1547)に中興され、御本尊は寛永九年(1632)作の不動明王である。
戸塚不動尊として、衆生を守護し導く如来界の使者として活動している、とのこと。


本堂裏手には水子地蔵堂もある。


ビルの壁に江戸方見付の説明と浮世絵が描かれていた。
慶長九年(1604)戸塚が東海道となり、この地に戸塚宿の出入り口となる「江戸見付」が置かれた。
大阪下バス停付近に設置された、「上方見付」までの間の20町19間(2.2Km)が戸塚宿と呼ばれ、
江戸から十里(40Km)、相模国に入って最初の宿場として栄えた、と説明されていた。


ちょうど道路(国道1号線)の反対側に江戸方見付跡の碑があった。


水道管の蓋は、箱根駅伝の様子を描いている。
『この道を走るんだぁ』


吉田大橋
歌川広重が描いた「東海道五十三次戸塚」は、この大橋の袂になる。
当時の橋の長さは10間(18.2m)、幅2間半(4.6m)の板橋だった。


下を流れるのは柏尾川だ。


橋の両側の4枚の浮世絵の模写など、東海道をイメージした橋になっている。


吉田大橋を渡るとゴールの戸塚駅は間もなくだ。


善了寺
天福元年(1233)江戸麻布善福寺の僧了全が浄土真宗のお寺として開山したと伝えられている。
この日最後の立寄り所である。


善了寺の本堂
モダンな本堂と歴史ある浄土宗本願寺派のお寺である。本尊は阿弥陀如来。
明治には、自由民権運動の仲間が坂の道をあがってきたことがあるとか。


戸塚休憩処があったので、立寄って休憩して行くことにした。


パンフレットを貰う。
管理人としばし東海道の話しで盛り上がった。


東海道宿の番付表があった。宿名の下にはそれぞれの宿の名物や名産品も紹介されている。
東の横綱は小田原、西の横綱は熱田となっている。


戸塚駅だ。


15時4分、この日のゴール戸塚駅に到着!
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧東海道を歩く」第四回目(神奈川宿~戸塚宿)を無事歩き終えた。
距離は今までで一番長く、万歩計は24,000歩を越えていた。
天気は、最高気温23度というわりにはさほど暑くもなく、空気が乾燥していたので大汗を
かくこともなかった。
東海道だけあって、見所は多かったが、気付かずに見落とした所もかなりあった。
もう一度という訳にもいかないが、何かの機会に再び訪れることがあれば良いな、
と思っている。

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 牛久大仏からツムラ漢方記念館へ | トップ | 新緑が素晴らしい! 吾妻渓... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「旧東海道」を歩く」カテゴリの最新記事