ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 第1回 千住宿から越谷宿へ

2012年09月26日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2012年9月26日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、続いて2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
一緒に歩いた仲間の方たちから次の街道歩きを望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を提案し、皆さんに賛同してもらった。
2012年9月から毎月1回、冬の1,2月と暑い7,8月を除いて来年の9月にかけて歩くことにした。

第1回目のこの日は、千住宿(JR北千住駅)から越谷宿(JR南越谷駅)までの約15Kmを歩いた。
日本橋から千住宿までは、「旧水戸街道を歩く」で既に歩き終えているので、出立は千住宿からとした。

この日朝8時に北千住駅前に集まった参加者は、新たに1名が加わり、計12名。
記念すべき第一回ということで、北千住駅前で揃って記念撮影だ。


Uさんの指導で軽いストレッチ体操


通勤時間帯だったが、この場所を通る人はまばら。


8時17分、日光目指して出立である。


見覚えのある千住宿場町通りを抜けて・・・


千住新橋南詰へ


螺旋階段を登ると・・・


千住新橋に出た。
国道4号線は渋滞になっていた。
平日は毎朝このような状態なのだろう。


中旬まで真夏日が続いていたが、秋分の日を過ぎて急に平年並みの気温になってきたのが嬉しい。
荒川を吹き抜ける風が心地良い。


『ほんと、風が気持ち良いわぁ』


荒川を渡り、旧日光街道を進むと、、耳の病に霊験あらたかと云われる石不動尊がある。
堂前のお地蔵さんは、元は荒川の土手下にあったものが移設されてきたとのこと。
堂前の「子育八彦尊道(やひこぞんどう)是より二丁」の碑は、子供の咳にご利益がある、
と云われる明王院(赤不動)への道標である。


旧日光街道を進む。
足立区梅田郵便局付近。


荒川から4Kmほど進んだところに、東武伊勢崎線の高架駅が見えてきた。
梅島駅だ。


9時3分、梅島駅の高架下で水分補給で一息入れる。
猛暑はなくなったが、リュックを背負って歩けばやはり暑い。
額に首筋に薄っすらと汗が滲む。
道路の向こうが梅島駅になる。


さらに1Kmほど進むと、環七通りだ。
『やはり交通量が多いねぇ』


『へぇ~っ珍しい地名だぁ』


その名もずばり、六月(ろくがつ)二丁目交差点。
奥州征伐に向かう八幡太郎義家公は六月の炎天下、この地で野武士に道を遮られてしまった。
義家公は進退窮まり鎌倉八幡を祈念したところ、太陽が背に回り無事敵を撃破したと云われる。


孫のような少学1年生らしき一団が通り過ぎるのを見守る。
『遠足かな? 楽しいよねぇ』


足立清掃工場
焼却場の紅白の煙突が印象に残る。


10時10分、いよいよ埼玉県草加市に入る。
北千住駅を出発して約2時間経過していた。


10時16分、谷塚駅近くの業務用スーパーで、体調を整える。


道路幅が広いと、歩き易い。
ただ、自転車の通行には気をつけたい。


浅間神社
江戸時代から富士山を祀る神社として厚い信仰を集め、多くの人に親しまれていた、と云う。
正式名称は富士浅間神社だ。


この日のウォーキングの安全を祈願してお参りして行こう。
現在の本殿は天保十三年(1842)に再建されたもので、市指定文化財になっている。
また、境内は草加百景の一つに選定されている。


境内の慶応元年の銘の手洗石に、現在の水準点にあたる高低測量几号(きごう)が刻まれている、
と案内板に書かれてあったので、探しているところ。
『どこに刻んであるんだろうねぇ』
結局几号を見つけられなくて、日光街道へ戻ることに。


草加市と言えば、「草加せんべい」である。
この辺りからせんべい屋をいくつも見掛けるようになった。
先ず最初に見掛けたのは「五楽堂」


火あぶり地蔵尊
千住宿に人柄の良い母親と娘が住んでいた。
父親は多額の借金を残してこの世を去り、母子は借金を返すために一生懸命に働いた。
奉公中の娘が母親の大病を知り、主に帰宅を願出たが許されず、
奉公先の主の家が火事になれば仕事が休みになると思って火を放った。
娘は放火後に掴まり、その罪で火焙りの刑に処せられてしまった。
里人はこの娘を哀れんで地蔵堂を建立し、供養したと云う。


一人のお年寄りがお参りに来た。聞いたところ、毎日の日課だそうだ。
四の付く日に花を供えるとのこと。二日前に供えられた花はまだしっかりとしていた。


「いけだ屋」
せっかく草加に来たからには、と”草加煎餅”を買い、皆さんと味見を。


お腹が空いてきたのも手伝ってか、
『すごく美味しいわぁ』
『いままで食べた草加煎餅とは一味違うわねっ』 最高の評価である。


この他にも煎餅屋は多い。
店の構えにもそれぞれ個性がある。


草加市役所の敷地の隅に浅古家地蔵堂(あさごけじぞうどう)があった。
江戸時代の豪商・浅古氏が赤堀用水を流れてきた地蔵を拾い上げ、子育て地蔵として祀ったものとの言伝えがある。
地蔵堂は十二月を除き、毎月24日に開帳される。
道路の反対側にあったため、撮影するに留めた。


ひと際古い蔵造りの構えの家は、浅古正三家。


草加駅前の道路を渡ったところにちょうど弁当屋があった。
この日は弁当持参としていたので、何人かがここで弁当を買っていくことに。


どれも美味しそうなメニュー揃いである。


草加宿「清水本陣跡」の碑
清水本陣は宝暦年間から明治初期に置かれた。
それ以前には、大川本陣が置かれていた。
この本陣には会津藩松平容頌、仙台藩伊達綱村、盛岡藩南部利視、米沢藩上杉治憲(鷹山)
らが休泊した記録がある、とのこと。


煎餅屋の「元祖源兵衛せんべい」


こちらは、せんべいの看板を掲げた「堀井商店」


久野家(大津屋)住宅(店舗部分)
草加宿では街道がほぼ直線状に設けられたが、北端では曲輪のように大きくカーブする。
久野家は宿の北端の曲がり端に位置している。
宿場は開宿以来、4回ほどの大火や震災に見舞われているが、この家は江戸時代の安政二年(1855)の大地震に耐え、
明治三年(1870)の大火をも免れた。
ただ立寄っただけにも関わらず、店の方から、「草加町歩きマップ」をいただいた。


草加宿の総鎮守の神明神社
元和初年(1615)に宅地内にご神体を祀ったのが始まりで、正徳三年(1713)に草加9ケ村の希望により、
宿の総鎮守として現在の地に移されたと伝えられている。
五と十の付く日に市が開かれ、大変な賑わいだったと云う。
幕末には宿の子を対象とした寺子屋が開かれた。


鳥居の沓掛には浅間神社では見つけられなかった、高低測量の几号(きごう)が刻まれていた。


おせん公園」の煎餅発祥の地の碑
草加松原で茶屋を営むおせん婆さんが、『団子が痛みやすい』と嘆いていたところ、
ある旅人に『団子を薄く伸ばして天日で乾かし、これを焼けばよい』と教えられた。
これが旅人には日持ちがして携帯でき、美味しい堅餅、と評判になり、
草加の名物になったと云われている。


伝右川に架かる草加六丁目橋を渡ると・・・


札揚河岸公園である。
公園の中央付近に五角形の望楼が聳(そび)えていた。
札場河岸は綾瀬川舟運の船着場で、綾瀬川は江戸に通じる重要な水路であった。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐための太鼓型の橋の一つ、矢立橋
奥の細道の「行く春や鳥啼き魚の目に泪、これを矢立の初めとして・・・」にちなんで名付けられた。


草加松原遊歩道は、「日本の道百選」に選ばれている。


綾瀬川沿いの遊歩道約1.5Kmに渡って松並木が続く。
天和年間(1681~1684)に綾瀬川開削の際に徳川幕府が命じて植えたと伝えられている。
一時は60数本まで減ったが、市民が中心となって600本余りまで回復させた。
東京スカイツリーの完成で、600本余りだったのを634本に急遽増やした、と先日TVで紹介されていたのを見た。


綾瀬川
お世辞にもきれいとは言えない。


11時45分、公園歩道のベンチで弁当タイム。
青空の下で食べるおにぎりは美味しい、格別である。


草加松原遊歩道にある県道を跨ぐためのもう一つの太鼓型の百代橋
奥の細道の「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ・・・」
にちなんで名付けられた。


橋から見た松並木
絶好のビュースポットとなっている。


百代橋を渡り切ったところに松尾芭蕉文学碑がある。


松尾芭蕉文学碑の脇で、食後のストレッチだ。
『いちにっ、さんしっ』


綾瀬川に架かる木製の橋
かつてのどこかの橋を模したものであろうか。


草加松原遊歩道を過ぎて数100m進むと東京外環自動車道路(外環道)が見えてきた。


外環道の高架下を進み・・・


槐戸橋(さいかちどはし)で綾瀬川を渡る。


綾瀬川に沿って進むと蒲生一里塚があった。
日本橋から五里目の一里塚である。
埼玉県下の日光街道で唯一現存している一里塚だそうだ。


塚の並びには六地蔵が祀られている。
この地面の高さは往時のままだそうである。


蒲生郵便局を過ぎると、道標と庚申像がある。
越谷市相模町へ続く、大相模不動(大聖寺)への道標だ。


この地域の人に「ぎょうだい様」と呼ばれている地蔵堂があった。
道中の安全を祈って、草鞋(わらじ)が奉納されている。


江戸時代中期の宝暦七年(1575)、日光街道の補修工事が行われ、
完成を記念して造られた砂利供養とされている、とのことだが・・・
裏に回ると正体はごつごつした岩であった。


隙間から覗くと、河童の顔の部分に似た形をしていた。
この地域の人は”わしの神様”と言っているそうだ。


旧道脇に天文三年(1534)創建の清蔵院(せいぞういん)がある。
山門は江戸時代初期、寛永十五年(1638)の関西の工匠の作と伝わる。


山門の龍は金網で覆われていた。
この龍は伝説的な彫刻職人左甚五郎の作とされ、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、
これを金網で囲った、と云われている。


銭湯
最近ではあまり見かけなくなった。


かつて蒲生に住んでいたことのあるT子さんが、『近くに友人がいるので挨拶していきたい』と言う。
街道沿いの家を訪ねてみたが、あいにく留守のようで、応答はなかった。
帰ってから電話してみるそうだ。


自動販売機で水分補給


JR武蔵野線だ。


JR武蔵野線を通り過ぎて1.2Kmほど進んだところにこの日最後の訪問地、照蓮院(しょうれんいん)があった。


照蓮院本堂で全員無事歩き終えたことを、感謝を込めてお参りした。


武田勝頼の遺児千徳丸の供養塔(両側の五輪塔に挟まれている小さな塔)がある。
千徳丸は、勝頼没後家臣が当地まで連れて逃れたが、天正十年(1638)に早世してしまった。
その菩提を弔うために建てられたもの。
思ったよりも小さく可愛らしい塔だった。


この日の訪問は全て終わり、照蓮院を後にして、東武伊勢崎線の越谷駅へ向かった。


いつも奥様や娘さんへのお土産を欠かさないU男さんには感心するばかりだ。
既に土産もの(お菓子)をぶら下げている。


14時36分、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)越谷駅に到着。


この後、次の新越谷でJR武蔵野線に乗り換え、新松戸を経由して柏に向った。
次回は、東武伊勢崎線の越谷駅から歩くことになる。
元気な再会を約して、それぞれ帰路についた。
この日、万歩計は28,000歩を越えていた。


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