ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

友部の歴史探訪 「筑波海軍航空隊記念館」

2016年02月05日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年2月5日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成27年度第28回(2016年第4回)、「友部の歴史探訪」ウォーキングに参加した。
この日は当初、「水戸の名所旧跡と千波湖」を予定していたが、映画「永遠の0」の舞台となった
友部の「筑波海軍航空隊記念館」が、平成28年3月31日で閉館するかもしれないということを聞き、
出来れば閉館前に観ておきたいと思ったことから、昨年10月役員会に諮り、
急遽予定を変更させてもらった次第である。

荒川沖駅8時31分発の電車を待つ。


常磐線車内


9時20分、友部駅に到着。


当会が友部駅で降りるのは初めてである。
車で現地直行したFさん夫妻と併せ、この日の参加者は24名となった。


駅前に適当な場所がなかったため、準備体操は省略。
9時36分、Oさんを先頭に出発だ!


駅前から南東に伸びる県道281号を真っ直ぐに進む。


9時45分、茨城県信用組合(けんしん)友部支部前を通過


続いてケイヨーデイツー前を通過


県道193号との合流点付近
『いやぁ 天気が良くて眩しいくらいだねっ』


9時54分、県道193号交差点を横断し、


しばらく進むと、”「永遠の0」ロケ地500m”の看板が・・・


「筑波海軍航空隊記念館」を目指す。


広大な旧「笠間市みどりの広場」前を通過。
畜産試験場跡地利活用のための雨水排水施設整備事業に伴って、
広場の利用は平成26年3月31日に終了となっている。


10時3分、友部第二小学校前を通過
『いやぁ 校庭が広いねぇ』
木々に隠れて校舎は見えないが、校庭はかなり広そうだ。


「筑波海軍航空隊記念館」の幟が並んでいる。
もう直ぐだ。


「県立こころの医療センター」入口を左折し、直進すると・・・


10時12分、「筑波海軍航空隊記念館」管理棟に到着。


「筑波海軍航空隊記念館」


一人500円だが、20名以上の団体は50円の割引となっている。


『短くても1時間はかかる』ところを『何とか短縮して45分くらいで』、とお願いし、2階へ。
この時、時計は10時24分を差していた。


イベントブース(映写室)へ向かう。


階段を上がり、右奥の映写室へ。


「筑波海軍航空隊」は、戦闘機の教育部隊である。
昭和9年(1934)に「霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊」として設立され、昭和13年(1938)に
「筑波海軍航空隊」に改称された。
校舎から筑波山がよく見えたことから、「筑波海軍航空隊」と称した、そうだ。
昭和20年(1945)8月に役目を終わるまで11年間の部隊だった。


昭和18年(1943)からは学徒出陣などによって、多くの学生が海軍に入隊。
当時は戦況が悪化していたため、通常4年かかる基礎教育が4か月で行われた。


海軍志願者12万人の内、飛行機搭乗員を育てようとおよそ8,500人を選抜。
そこからさらに厳しい適性検査を経て、「筑波海軍航空隊」に入隊した予備学生120人の内、
”神風特別攻撃隊”として84名が選ばれ、出撃したのは77名、60名が亡くなった。


5月27日は、海軍記念日で、飛行場を一般に開放し、運動会をはじめさまざまなイベントが行われ、
訓練生にとっても厳しい日常から開放される日だった。
航空ショーや仮装大会なども行われ、女装した隊員が近隣の幼稚園児と親睦を深めたりした。


熱心に映像(元米兵士より50年ぶりに返還された零戦の破片)に見入る。


婚約者との最初で最後の藤田少尉の写真


出撃前に撮影した別れの写真


『戦争はやっちゃいけませんな』
『勝ったものも、負けたものも みんな損してるんだ』
元神風特別攻撃隊隊員の心に重く響く言葉である。


司令室へ移動し、


「筑波海軍航空隊」の成り立ちや


訓練内容などの説明を受ける。


司令室のバルコニーからは、


訓練広場の号令台が見える。


『いやぁ 広いなぁ』
当時の敷地は、およそ80haだった、そうである。


次の展示室へ


元特攻隊員にまつわる話に耳を傾ける。


富安俊助中尉
昭和20年3月28日「機密航空命令第15号」によって筑波空で特攻隊が編成され、
富安中尉は第6筑波隊長に任命された。


富安中尉の筑波空での訓練風景


昭和20年5月14日朝、鹿児島鹿屋基地から出撃した神風特別攻撃隊・富安中尉隊長に率いられた
爆機(爆弾を付けた零戦)13機は、他の特攻隊8機と種子島東方洋上の米機動部隊を攻撃。
しかし、哨戒機の要撃と対空砲火で、富安機以外は全機撃破されてしまった。
時折雲から出てエンタープライズの動向を伺っていた富安機は、頃合いを見計らって体当たり攻撃を仕掛けた。
突入寸前に機体が舷側からオーバーシュートしないように、背面飛行の状態で急角度に突っ込み、
同艦の前部エレベータのすぐ前に命中。
富安俊助中尉、享年22歳の若さであった。
(500Kg爆弾を装着して、米第58機動部隊の旗艦エンタープライズに突入する富安機)


エンタープライズは大損害を受け、再びその後の戦闘に参加することはなかった。
(エレベータを損傷したため、飛行機などの出庫や格納が、不可能となったため)


エンタープライズの乗組員、ノーマン・ザフト氏が突入した零戦の破片とプロペラの一部を所持していた。
氏は、長い間日本やカミカゼに対して良い感情を持っていなかったが、50年以上経ってその感情も薄れ、
「零戦の破片」を日本の遺族に返還することを決意。
平成15年7月、富安中尉の零戦の破片(写真下中央)が返還された。
現在は、海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に保存されている。


隊員は、上空を飛ぶため首を冷やさないように首にマフラーを巻いている。
そのマフラーに書かれた藤田少尉の遺書には、先祖に、両親に、兄弟姉妹に向けた感謝の言葉が並ぶ。


婚約者(睦恵さん)に向けた遺書は、もう一枚のマフラーに書かれていた。
遺書の最後に”睦恵さらば”とある。
二人は二度と会うことはなかった。、


藤田少尉の婚約者睦恵さんは、両親や親戚の猛反対を押し切って故郷で結婚式を挙げた。
花婿(藤田少尉)は遺影である。


元プロ野球選手石丸進一少尉
大正11年佐賀県生まれ。佐賀商業高校に入学し、速球派エースとして活躍。
卒業後名古屋軍(中日ドラゴンズの前身)に入団し、新人時代は内野手として73試合に出場。
2年目は投手として初登板初先発で2安打完封勝利を飾る。
プロ3年目の昭和18年10月2日、ノーヒットノーランを達成。
前年を上回る20勝を収め、名古屋軍を2位まで躍進させた。
昭和19年春の学徒出陣によって招集され、よく20年5月11日、神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として、
零戦に搭乗、沖縄方面の米機動部隊目指して出撃し帰らぬ人となった。


映画「永遠の0」の撮影現場(1)


映画「永遠の0」の撮影現場(2)


副官室
ここでも映画「永遠の0」が撮影された。


展示写真に見入る。


展示写真に見入る。


展示写真の数々


戦艦展示室
海戦に参加した航空母艦、戦艦の模型


左は戦艦武蔵か?


米軍の戦艦も展示されている。


沖縄海戦・レイテ沖海戦の艦船が展示されていた。
この他にも真珠湾攻撃艦船やソロモン海戦に出撃した艦船がなどもある。


筑波海軍航空隊からフィリピン戦線に進出した、神風特別攻撃隊 金剛隊25名の寄せ書き。
”勇気凛々 男一匹暴れるか”や”馳参国難” ”断行”といった力強く勇ましい文字が並ぶ。


プロペラ展示室
手前の大きいのは九二式艦上攻撃機のプロペラ


エンジンや零戦の残骸などの展示室


エンジンとプロペラ


校庭から旧司令部庁舎(現記念館)を見る。
ほぼ当時のまま現存している。


号令台
この号令台に多くの隊員が集合した。
棚はなくなったそうだが、現在も当時のままの姿を残している。


「かえり雲」
「筑波海軍航空隊」の元隊員で、世界的に活躍する彫刻家の流正之氏が、
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のため」とこの作品を寄贈して、敷地内に設置した。


帰り際、司令部の裏手に供養塔があることが分かり、行ってみることに。


司令部の裏手には、病棟なども残っていた。


供養塔
昭和13年(1938)から「筑波海軍航空隊」で司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で、
訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた。


供養塔に黙禱を捧げる。


供養塔を後にする。


11時34分、「筑波海軍航空隊記念館」を後にする。
見学開始から、1時間10分が経過していたが、少しも長く感じなかった。


地下戦闘指揮所跡へ向かう。
平日は見学不可とのことなので、せめて現場だけでも見ておきたい。と思った次第。


左手にシティーホテル友部を見ながら進む。


地下戦闘指揮所跡へ向かう。


地下戦闘指揮所跡への案内板に従って進むと・・・


地下戦闘指揮所跡は、あいにく”本日非公開につき立入禁止”の札が・・・
監視カメラも作動しているようだし、これ以上進むのは止めておこう。


ということで、地下戦闘指揮所跡入口手前で引き返した。残念!!
友部駅を目指す、といっても残りの距離の方が長い。
時計は11時56分を差していた。あと1時間以上はかかるだろう。


矢野下集落辺り


周りが一面田んぼに囲まれた処に出た。


左手に見えるのは常磐高速道だ。


前方に見えるのは高峰・仏頂山方面と推察される。


白梅が咲いていた。


これは紅梅か?
『やっぱり今年は暖かいんだね~っ』


矢野下の集落辺り。


大きな農家が目に付く。


『みんな立派な家を構えてるわねぇ』


千手観世音堂入口に立つお地蔵さん前を通過し、


友部駅へ向かう。


12時28分、宝鮨前を通過
この日の食事処の候補として何軒か地図に記載しているが、この店に立ち寄る人はいなかった。


林を抜けるとたくさんの民家が見えて来た。


民家に隣接して桑畑が広がっていた。
『最近桑畑見るのは珍しいねぇ』
『今でも蚕飼ってる家があるんだぁ』


12時33分、民家に隣接する空地で最後の休憩を摂る。


友部駅への途中、食事処の候補として地図にいくつか記載しているので、


自由に好みの店へ寄ってもらうことにして、この日は”流れ解散”することにした。


友部駅へ残り約2Km余り。


友部中学校が見えて来た。


Kさん夫妻が「寿司勝」で食事をして帰るとのこと。
『お疲れさまでしたぁ』


12時52分、友部中学校校門前を通過。
友部駅まで残り約1Kmだ。


続いて友部郵便局を通過し、その先の信号を右折。


12時56分、先ずは友部消防署


続いて友部公民館を通過すると、


直ぐ隣が笠間市役所本庁舎である。
ここで車で直行したFさん夫妻とお別れだ。
『それでは気を付けてっ』


八雲1丁目を通過し、友部駅方面を目指す。


県道281号の平町交差点を左折したところに蕎麦店「永井」があった。
13時を少し回ってお腹もかなり空いていたので、立ち寄ることにした。


最初に11名、その後も5名が入店し、その数16名。
めいめいお好みの品を注文。


待つこと15分ほど、注文した順に品が運ばれてきた。
『いただきま~すっ』


注文したのは、天ざる蕎麦(1,000円)だ。
麺は手打ちで腰が強く噛みごたえがあったが、久しぶりに美味い蕎麦を味わった、と感じた。


食事風景


食事も終わり、県道281号を友部駅へ向かう。


ほぼ14時直前、ゴールの友部駅に到着。


『やっぱりこっちの方が楽だなっ』
昼食直後のせいか、全員エスカレータだ。


電車が到着するまで駅構内のベンチで一休み。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


今回、当初の予定を急遽変更し、”友部の歴史散策”と称し、「筑波海軍航空隊記念館」を見学した。
茨城県に移り住んで30年余、恥ずかしながら「筑波海軍航空隊」の存在は全く知らなかった。
訪問の動機は、映画「永遠の0」の舞台となり、ロケ現場としても使用されたことを
”街道歩き”の仲間から昨年の夏ごろに教えてもらったことにある。

実際に「筑波海軍航空隊記念館」を見学し、映像や数々の隊員の写真・遺品などを見て、
戦争の惨さというものをあらためて思い知らされた。
映像の中で、神風特別攻撃隊として攻撃に参加できずに生き残ることが出来た元特攻隊員が、
『戦争はやっちゃいけませんな』
『勝ったものも、負けたものも みんな損してるんだ』と述べられた言葉が強く印象に残った。

聞くところによると、「筑波海軍航空隊記念館」の存続に向けた取組みが続けられているとのことだが、
もし、今後も存続するようであれば、もう一度訪れてみたいと思った。
そのときは、是非とも地下戦闘指揮所跡にも足を運んでみたい。

ガイドを務めた方が仰っていたように、もっと多くの人が訪れるようになれば、とも願うし、
また、このブログをご覧になって少しでも訪れるきっかけになれば幸いである。

この日の万歩計は、15,000歩を少し超えていた。

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