2016年4月25日(月)
昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の追分宿~上田宿間(約25Km)を歩くことになる。
この日は、昨日の続きでしなの鉄道大屋駅から同上田駅までの約9Kmを歩いた。
スタート地点のしなの鉄道大屋駅は、上田駅から2つ目(230円)の駅だ。
上田第一ホテルでしっかりと朝食(和or洋)を摂って、
8時18分、ホテルを出発!
上田駅へ向かう。
7分ほどで上田駅に到着
しなの鉄道駅で切符(230円)を買い、
8時39分発の小諸行に乗車。
昨日と同じ電車である。
通勤・通学時間帯が過ぎているためか、客はほとんど乗っていなかった。
8時45分、大屋駅に到着
昨日は気が付かなかったが、大屋駅舎内には大正11年11月設置の大時計があった。
設置当時の価格は70円だったそうで、昭和8年と19年に修理をしている。
初めのものは分銅式だったが、現在のものは振り子式に改造されている。
長野鉄道管理局内で同型のものは、この大屋駅に現存しているもののみ、とのこと。
今でもまだしっかりと正確に時を刻み続けている。
『大正11年からか、大したもんだねぇ』
8時51分、大屋駅を出発!
上田駅を目指す。
大屋駅を出て直ぐ、上田市街まで6Kmの標識が。
『あと6Kmじゃ大したことないねっ』
『昨日は、田中宿までだったのを、頑張って海野宿まで歩いたからねっ』
昨日歩いた割には女性陣の足取りは軽い。
その後に男性陣も続く。
北国街道の道幅が狭くなり、歩道も無くなって危ないので線路を渡って国道18号へ。
しなの鉄道に沿った国道18号を上田方面へ。
上田市東部を南北に流れる神川に、”神川合戦の地”の横断幕や幟旗が掲げられていた。
第一次上田合戦で、真田軍にここ神川附近まで追い詰められた徳川軍は、
大打撃を受けたと伝えられている。
9時28分、信濃国分寺駅を通過。
信濃国分寺跡があるというので、特に予定していなかったが、見学して行くことにした。
広い公園のところどころに礎石と思われる石が並んでいる。
塔跡だけが一段高くなっている。
僧坊跡
回廊跡
金堂跡
講堂跡
信濃国分寺に関する予備知識は全くなかったため、全体的な配置など全く分からなかったが、
幸いに国分寺僧寺跡の配置図があった。
それによると、寺域は東西176.56m、南北178.05mで、約100間四方の広さがある。
金堂・講堂・中門・塔・回廊・僧房の跡が確認され、
南大門の位置も推定されている。(Wikipedia)
国分寺の地図
国分寺跡は現国分寺の南方に位置している。
東側(右)に国分寺僧寺跡、その西側(左)に尼寺跡があるが、何とそのど真ん中を
東西にしなの鉄道が走っている。
『え~っ ここに国分寺があったことが分かって鉄道を敷いたのかねぇ』
『事前に分かってたら線路はここを避けてたと思うけどねっ』
信濃国分寺資料館(250円)があったので、ちょっと見学していくことにした。
国分寺僧寺・尼寺の模型
右が僧寺、左は尼寺で、僧寺と尼寺が隣り合っている。
僧寺
伽藍配置は中門・金堂・講堂を南北一直線に配置し、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。(Wikipedia)
尼寺跡は僧寺跡の西側に位置する。
寺域は東西150m、南北150mで、80間四方の正方形。僧寺より一回り小さい。
金堂・講堂・中門・回廊・経蔵・鐘楼・尼房などの跡が確認されている。
伽藍は、中門・金堂・講堂・尼坊・北門が南北一直線に配置され、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付くのは僧寺と全く同じ。
講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。(Wikipedia)
現在の国分寺は、国道18号を渡った先にあり、近くに横断歩道がないため、
10時35分、跨道橋を渡って国道18号を横断。
国道18号
(写真は信濃国分寺駅方面)
国分寺仁王門の手前に瓦窯跡観察施設があったので、立寄ってみた。
この窯跡は昭和42年2月、運輸会社建設工事の際に発見され、同年3月の緊急発掘調査により、
半地下式平窯跡二基であることが確認された。
窯跡
この窯跡は、平安時代の初めに、国分寺の補修用の瓦を焼いたものと考えられる、とのこと。
いつも思うが、ガラスでこのように覆うのは考えものだと思う。
ガラスが反射して見え難く、中の様子は殆ど分からないのだ。
現在の信濃国分寺の仁王門
阿像
身体の大きさに比べると顔が大きい。
ややアンバランスな感じがする。
吽像
国分寺仁王門を内側から見たところ。
仁王門を潜ると一直線の参道が続く。
10時46分、現在の国分寺に到着。
奈良時代の天平十三年(741)の聖武天皇の詔により、全国各地に建立された国分寺のうち、
信濃国分寺の後継寺院にあたる。
現在の国分寺は、信濃国分寺僧寺跡の北方300mの場所に建っている。
八日堂の別称がある。中部四十九薬師霊場の一番札所である。
本尊は薬師如来。
県指定文化材(県宝)
天台宗の寺院で、本堂は天保十一年(1840)に起工、万延元年(1860年)の建立。
再建の発願から完成まで31年の歳月を費やして竣工した。
三重塔は銅板葺で高さは20.1m。
源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久八年(1197)の墨書があったと伝わるが、
様式から室町時代中期の建立と推定されている。
内部には大日如来を安置している。
室町時代の様式をよく表すとして国の重要文化財に指定されている。
観音堂
江戸時代初期の百体観音像が安置されている。
地蔵堂
地蔵尊と閻魔十王が安置されている。
鐘楼
享和元年(1801)、上田藩主松平伊賀守による建立。
大黒天堂
大正十三年(1924)に再建された。
真田・徳川会見之地
真田家の歴史が書かれた史書「上田軍記」に記述がある国分寺の会見は、
徳川秀忠が、上田城主真田昌幸の長男信之と信幸の義弟本多忠政を使いとして昌幸の元に送り、
上田城を明け渡すよう求めたと伝わる。
昌幸が応じなかったため、第二次上田合戦が起き、昌幸と二男信繁は秀忠軍を撃退した上、
関ヶ原の戦いに向かうのを遅らせることに成功した。
この碑は、NHK大河ドラマ「真田丸」放映に合わせて立てられた。
国分寺僧寺の中門跡と尼寺跡をまだ見ていないため、しなの鉄道の線路を潜って東側へ。
線路を潜ったところに、左僧寺の中門跡、右尼寺の建物跡と案内表示されていた。
僧寺の中門跡
線路の向う側に金堂・講堂が一直線に配置され、中門と講堂が回廊で繋がっていたのだ。
僧寺跡の西隣りに位置する尼寺跡へ行くと、
尼寺の回廊跡、
尼寺の金堂跡、
尼寺の講堂跡、
尼寺の中門跡などを見ることができた。
ようやく国分寺僧寺・尼寺跡の見学が終わり、
11時30分、再び北国街道へ。
『信濃国分寺って立派な寺だったんだね~っ』
『良い勉強になったよね~っ』
上堀交差点を
真っ直ぐ進み、上田市国分町へ。
『白かうじ???』
”味噌有”とある。家の造りは老舗のように見える。
『あぁ 糀屋かぁ』 納得である。
古い家並みが続き、街道らしい雰囲気が漂う。
11時48分、国道141号を横断して進むと、
ポンプ式の井戸があった。
説明板には、
この井戸は、旧北国街道踏入村の生活用水や旅人の喉を潤した古跡です。
昔からこの井戸は、毎年七月に井戸替えをして、八月には砂文字天之川伝統行事が行われています、とある。
『昔からある古井戸なんだ』
上田市踏入付近の古い家並みを通過すると、
信州大学繊維学部入口の前に出た。
12時1分、科野(しなの)大宮社に到着した。
科野大宮社の鳥居と欅の大木
境内には欅の大木が何本か立っており、社叢は市の天然記念物に指定されている。
社伝によれば、第十代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建という。
天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。
信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。
上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。
現在の社殿は、万延元年(1860)の上田城主松平忠礼の再建によるもの。(Wikipedia)
科野大宮社の御神紋は、梶の葉。
御神紋 穀(カジ)の苗木が植えられていた。
穀(梶)の木は、桑科の植物で、山野に自生し、古代から神に捧げる神木として、尊ばれた。
この御神木は諏訪大社本宮より寄贈されたもの。
科野大宮社で最後の休憩を摂り、
上田駅を目指す。
上田駅は近い。
12時29分、鷹匠町停留所を通過
『珍しい町名だねぇ』
真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の居住地と定めて造られた町。
真田氏のあと、仙石氏の時代、寛文三年(1663)の記録には、
この町は、鷹匠其の外扶持人の屋敷四十二軒と記されている、とのこと。
12時35分、ゴールの上田駅に到着
ある人は駅弁を買いに、またある人はラーメン店へ向かい、
めいめいお好みの昼食を済ませた。
13時36分発「あさま618号」が入って来た。
「あさま618号」自由席車内は、空いていた。
この後、軽井沢~高崎で、かなりの客が乗り込んだが、
混雑と言うほどでもなく、快適な旅を楽しめた。
ご機嫌なお二人
予定よりもかなり早い帰着で、通勤時間帯に遭わなかったため、
常磐線もゆったりと座れて、めでたし、めでたしだ。
『皆さんっ 昨日今日と連続で大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を無事歩き終えた。
皆さんと揃って、元気に上田宿(上田駅)へゴールインできてほっとしている。
今回をもって「特選街道歩き」は終わったが、ほっとする間もなく、
来月から新たに「甲州街道」(内藤新宿~下諏訪宿)を歩くことになった。
どんな旅になるか、今から楽しみである。
また、忙しい一年になりそうである。
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。
昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の追分宿~上田宿間(約25Km)を歩くことになる。
この日は、昨日の続きでしなの鉄道大屋駅から同上田駅までの約9Kmを歩いた。
スタート地点のしなの鉄道大屋駅は、上田駅から2つ目(230円)の駅だ。
上田第一ホテルでしっかりと朝食(和or洋)を摂って、
8時18分、ホテルを出発!
上田駅へ向かう。
7分ほどで上田駅に到着
しなの鉄道駅で切符(230円)を買い、
8時39分発の小諸行に乗車。
昨日と同じ電車である。
通勤・通学時間帯が過ぎているためか、客はほとんど乗っていなかった。
8時45分、大屋駅に到着
昨日は気が付かなかったが、大屋駅舎内には大正11年11月設置の大時計があった。
設置当時の価格は70円だったそうで、昭和8年と19年に修理をしている。
初めのものは分銅式だったが、現在のものは振り子式に改造されている。
長野鉄道管理局内で同型のものは、この大屋駅に現存しているもののみ、とのこと。
今でもまだしっかりと正確に時を刻み続けている。
『大正11年からか、大したもんだねぇ』
8時51分、大屋駅を出発!
上田駅を目指す。
大屋駅を出て直ぐ、上田市街まで6Kmの標識が。
『あと6Kmじゃ大したことないねっ』
『昨日は、田中宿までだったのを、頑張って海野宿まで歩いたからねっ』
昨日歩いた割には女性陣の足取りは軽い。
その後に男性陣も続く。
北国街道の道幅が狭くなり、歩道も無くなって危ないので線路を渡って国道18号へ。
しなの鉄道に沿った国道18号を上田方面へ。
上田市東部を南北に流れる神川に、”神川合戦の地”の横断幕や幟旗が掲げられていた。
第一次上田合戦で、真田軍にここ神川附近まで追い詰められた徳川軍は、
大打撃を受けたと伝えられている。
9時28分、信濃国分寺駅を通過。
信濃国分寺跡があるというので、特に予定していなかったが、見学して行くことにした。
広い公園のところどころに礎石と思われる石が並んでいる。
塔跡だけが一段高くなっている。
僧坊跡
回廊跡
金堂跡
講堂跡
信濃国分寺に関する予備知識は全くなかったため、全体的な配置など全く分からなかったが、
幸いに国分寺僧寺跡の配置図があった。
それによると、寺域は東西176.56m、南北178.05mで、約100間四方の広さがある。
金堂・講堂・中門・塔・回廊・僧房の跡が確認され、
南大門の位置も推定されている。(Wikipedia)
国分寺の地図
国分寺跡は現国分寺の南方に位置している。
東側(右)に国分寺僧寺跡、その西側(左)に尼寺跡があるが、何とそのど真ん中を
東西にしなの鉄道が走っている。
『え~っ ここに国分寺があったことが分かって鉄道を敷いたのかねぇ』
『事前に分かってたら線路はここを避けてたと思うけどねっ』
信濃国分寺資料館(250円)があったので、ちょっと見学していくことにした。
国分寺僧寺・尼寺の模型
右が僧寺、左は尼寺で、僧寺と尼寺が隣り合っている。
僧寺
伽藍配置は中門・金堂・講堂を南北一直線に配置し、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。(Wikipedia)
尼寺跡は僧寺跡の西側に位置する。
寺域は東西150m、南北150mで、80間四方の正方形。僧寺より一回り小さい。
金堂・講堂・中門・回廊・経蔵・鐘楼・尼房などの跡が確認されている。
伽藍は、中門・金堂・講堂・尼坊・北門が南北一直線に配置され、
中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付くのは僧寺と全く同じ。
講堂の東西の回廊外に位置する建物跡は東が鐘楼、西が経蔵とみられる。(Wikipedia)
現在の国分寺は、国道18号を渡った先にあり、近くに横断歩道がないため、
10時35分、跨道橋を渡って国道18号を横断。
国道18号
(写真は信濃国分寺駅方面)
国分寺仁王門の手前に瓦窯跡観察施設があったので、立寄ってみた。
この窯跡は昭和42年2月、運輸会社建設工事の際に発見され、同年3月の緊急発掘調査により、
半地下式平窯跡二基であることが確認された。
窯跡
この窯跡は、平安時代の初めに、国分寺の補修用の瓦を焼いたものと考えられる、とのこと。
いつも思うが、ガラスでこのように覆うのは考えものだと思う。
ガラスが反射して見え難く、中の様子は殆ど分からないのだ。
現在の信濃国分寺の仁王門
阿像
身体の大きさに比べると顔が大きい。
ややアンバランスな感じがする。
吽像
国分寺仁王門を内側から見たところ。
仁王門を潜ると一直線の参道が続く。
10時46分、現在の国分寺に到着。
奈良時代の天平十三年(741)の聖武天皇の詔により、全国各地に建立された国分寺のうち、
信濃国分寺の後継寺院にあたる。
現在の国分寺は、信濃国分寺僧寺跡の北方300mの場所に建っている。
八日堂の別称がある。中部四十九薬師霊場の一番札所である。
本尊は薬師如来。
県指定文化材(県宝)
天台宗の寺院で、本堂は天保十一年(1840)に起工、万延元年(1860年)の建立。
再建の発願から完成まで31年の歳月を費やして竣工した。
三重塔は銅板葺で高さは20.1m。
源頼朝の発願と伝えるほか、塔内には建久八年(1197)の墨書があったと伝わるが、
様式から室町時代中期の建立と推定されている。
内部には大日如来を安置している。
室町時代の様式をよく表すとして国の重要文化財に指定されている。
観音堂
江戸時代初期の百体観音像が安置されている。
地蔵堂
地蔵尊と閻魔十王が安置されている。
鐘楼
享和元年(1801)、上田藩主松平伊賀守による建立。
大黒天堂
大正十三年(1924)に再建された。
真田・徳川会見之地
真田家の歴史が書かれた史書「上田軍記」に記述がある国分寺の会見は、
徳川秀忠が、上田城主真田昌幸の長男信之と信幸の義弟本多忠政を使いとして昌幸の元に送り、
上田城を明け渡すよう求めたと伝わる。
昌幸が応じなかったため、第二次上田合戦が起き、昌幸と二男信繁は秀忠軍を撃退した上、
関ヶ原の戦いに向かうのを遅らせることに成功した。
この碑は、NHK大河ドラマ「真田丸」放映に合わせて立てられた。
国分寺僧寺の中門跡と尼寺跡をまだ見ていないため、しなの鉄道の線路を潜って東側へ。
線路を潜ったところに、左僧寺の中門跡、右尼寺の建物跡と案内表示されていた。
僧寺の中門跡
線路の向う側に金堂・講堂が一直線に配置され、中門と講堂が回廊で繋がっていたのだ。
僧寺跡の西隣りに位置する尼寺跡へ行くと、
尼寺の回廊跡、
尼寺の金堂跡、
尼寺の講堂跡、
尼寺の中門跡などを見ることができた。
ようやく国分寺僧寺・尼寺跡の見学が終わり、
11時30分、再び北国街道へ。
『信濃国分寺って立派な寺だったんだね~っ』
『良い勉強になったよね~っ』
上堀交差点を
真っ直ぐ進み、上田市国分町へ。
『白かうじ???』
”味噌有”とある。家の造りは老舗のように見える。
『あぁ 糀屋かぁ』 納得である。
古い家並みが続き、街道らしい雰囲気が漂う。
11時48分、国道141号を横断して進むと、
ポンプ式の井戸があった。
説明板には、
この井戸は、旧北国街道踏入村の生活用水や旅人の喉を潤した古跡です。
昔からこの井戸は、毎年七月に井戸替えをして、八月には砂文字天之川伝統行事が行われています、とある。
『昔からある古井戸なんだ』
上田市踏入付近の古い家並みを通過すると、
信州大学繊維学部入口の前に出た。
12時1分、科野(しなの)大宮社に到着した。
科野大宮社の鳥居と欅の大木
境内には欅の大木が何本か立っており、社叢は市の天然記念物に指定されている。
社伝によれば、第十代崇神天皇の御世に神八井耳命の孫・建五百建命による創建という。
天武天皇の御世に神地の下賜があり、天平年間(729年-749年)には官祭執行の儀があったともいう。
信濃国府は古来上田市にあったとされるが、平安時代初期に松本市へ移されたとされる。
上田市の国府は神科台地上と推定されており、当社は国司が参拝する総社であったとする説がある。
現在の社殿は、万延元年(1860)の上田城主松平忠礼の再建によるもの。(Wikipedia)
科野大宮社の御神紋は、梶の葉。
御神紋 穀(カジ)の苗木が植えられていた。
穀(梶)の木は、桑科の植物で、山野に自生し、古代から神に捧げる神木として、尊ばれた。
この御神木は諏訪大社本宮より寄贈されたもの。
科野大宮社で最後の休憩を摂り、
上田駅を目指す。
上田駅は近い。
12時29分、鷹匠町停留所を通過
『珍しい町名だねぇ』
真田氏によって造られた城下町のうち、城の南東に鷹匠の居住地と定めて造られた町。
真田氏のあと、仙石氏の時代、寛文三年(1663)の記録には、
この町は、鷹匠其の外扶持人の屋敷四十二軒と記されている、とのこと。
12時35分、ゴールの上田駅に到着
ある人は駅弁を買いに、またある人はラーメン店へ向かい、
めいめいお好みの昼食を済ませた。
13時36分発「あさま618号」が入って来た。
「あさま618号」自由席車内は、空いていた。
この後、軽井沢~高崎で、かなりの客が乗り込んだが、
混雑と言うほどでもなく、快適な旅を楽しめた。
ご機嫌なお二人
予定よりもかなり早い帰着で、通勤時間帯に遭わなかったため、
常磐線もゆったりと座れて、めでたし、めでたしだ。
『皆さんっ 昨日今日と連続で大変お疲れさまでしたぁ』
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を無事歩き終えた。
皆さんと揃って、元気に上田宿(上田駅)へゴールインできてほっとしている。
今回をもって「特選街道歩き」は終わったが、ほっとする間もなく、
来月から新たに「甲州街道」(内藤新宿~下諏訪宿)を歩くことになった。
どんな旅になるか、今から楽しみである。
また、忙しい一年になりそうである。
この日の万歩計は、16,000歩を計測していた。
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