ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿1日目)

2018年11月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年11月25日(日)

平成27年(2015)1月から翌年(2016)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
『是非続けて欲しい』との声があがり、今年(2018)は「旧街道を歩くⅡ」と称して、
新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第五回(1日目)は、甲州街道金沢宿~下諏訪宿間を歩いた。

新宿7時ちょうど発の特急スーパーあずさ1号に乗車


全員2号車の座席を指定購入したが、かなり空席があった。
この時期(11月下旬)は、普段でもそれほど混んではいなのだろう。
自由席でも良かったかな。


定刻に発車した特急スーパーあずさ1号は、9時8分、茅野駅に到着した。


茅野駅構内には国宝「土偶」の”縄文のヴィーナス展”のポスターが。



こちらは”仮面の女神”


前回最後に立ち寄った茅野駅前の諏訪神社大鳥居
この日はここがスタートとなる。


9時21分、茅野駅前の諏訪神社大鳥居を出発!
この日の参加者は自分を入れて6名である。
1名が入っていないが、5名が揃ったところを撮るのはなかなか難しい。


大年社(おおとししゃ)
諏訪神社上社の末社である。
祭神は大歳神で、祀られた年代は明らかでない。
(中略)


御座石神社同様、御柱を建てず、代わり七年ごとに素朴な鳥居を建てるなど、古風を多く残している。
国指定史跡(平成6年12月指定)となっている。
(茅野市教育委員会)
旅の無事安全を祈願した。


旧街道は少し進むと国道20号に合流する。


国道20号を進んで行くと、小さな鳥居があった。


八幡神社である。
八幡神社は古くは八幡宮とよばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(1261~1264)に
前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として、神祭祈祷を盛んにし、
さらに戦国時代永禄年中(1558~1570)、鎌倉より光明寺を移し、極楽寺とともに別当し、
社地は数町歩に及び、上原城下町の中枢として広く諏訪一円から崇敬された。


八幡神社の真後ろに大きなケヤキの木が聳えているのが特徴的である。


国道20号上原頼岳寺交差点に少林山頼岳寺の石柱が建っている。


中央本線の線路を潜って進むと、


突き当たりに頼岳寺があった。
頼岳寺は、曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。
開創は江戸時代初期の寛永八年(1631)で開山(初代住職)は大通関徹、開基は高島藩初代藩主の
諏訪頼水である。


総門を潜って参道を進む。


参道両側の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢300年の大木が立ち並んでいたが、
昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。
現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立と合せ、頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。
(茅野市教育委員会)


石段を上り切ったところが山門である。


山門の仁王像(阿像)


山門を潜ると正面に大きな屋根の本堂が構えている。
『いやぁ 凄い立派な本堂じゃんっ』


本堂にお参りし、頼岳寺を後にする。


旧甲州街道を進む。
右手は一段高い地形のためか石垣が多い。


神戸(ごうど)温泉の貯水タンク
硫黄の匂いが漂う。
『本物の温泉だねっ』


地元の女性が収穫したばかりの野沢菜を温泉水で洗っていた。
この温泉は、共同で上諏訪から引いているとのこと。


火燈(ひとぼし)公園
諏訪地方にいくつかある、火燈伝承のある場所の一つ。
火燈伝承のあるいくつかの地点の中心に位置することから、地域の人達によって「火燈公園」
と名付けられたという。
神戸村では御柱年の盆の十五日(七月)のタ、頼重院の裏山、前山の峰に近い「火燈場」で、
諏訪大社へ鳥居火を灯して、奉納した。
かつてこの背後の山上で上社のための火が燈され、それを偲ぶものがこの火燈公園ということのようである。


10時34分、諏訪頼重の菩提を弔う頼重院前を通過。
諏訪頼重は、武田信玄と戦って破れ、甲府に連行されて自刃した。
頼重の妻は信玄の妹であり、まさか義理の兄が攻めてくるとは頼重も思っていなかった。
頼重は桑原城で篭城し、これを大軍で囲んだ信玄は、和睦を打診した。
これに応じた頼重は、城を出た後に甲府に連行され、そして自刃させられた、そうである。


また別の温泉を利用した地域の洗い場があった。
この温泉は硫黄の匂いはしなかった。


石に囲まれた双体道祖神と秋葉山常夜灯
この辺りでは道祖神と秋葉山常夜灯がセットになっているようだ。


道端に小さい神社があった。
神ノ木神社とも呼ばれているそうだ。
御柱もあり、小さいながらも存在感を漂わせる。


神ノ木神社の直ぐ先に一里塚碑があった。
日本橋から51番目の神戸一里塚である。
塚上の榎は8~9mほどの大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、
野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り壊された。


旧街道を進む。


大きな常夜灯が。


常夜灯は三叉路の真ん中に建てられていた。


突然視界が開けた。


上諏訪方面の市街地が見える。
『諏訪湖はまだ見えないねぇ』


11時ちょうど、足長神社に到着
『いやぁ 随分急で長い石段だね~っ』
『ここから拝んじゃおうかなっ』


『ちょっと写真だけ撮ってきますっ』
皆さんを代表する形で足長神社の鳥居を潜って社殿へ向かった。


急勾配の石段を上る。


女性2人も後を追って上って来たが、次に振り返るとその姿は見えなかった。
諦めて引き返したようだ。


石段を上ると、車が通れるほどの道路があり、道路の反対側へと拝殿への石段が続いていた。


さらに石段を上って行くと、拝殿らしき建物が見えて来た。


足長神社拝殿に到着、参拝!
この拝殿の裏の一段高い所に本殿があるそうだが、このときは気が付かなかった。


下りの途中、道路から見下ろした上諏訪方面の景色


道祖神?
暗くて中はよく見えなかったが、


ストロボで撮ると、双体道祖神だった。


これはまた別の道祖神
2つの道祖神が並んでいるようにも見える。


11時28分、細武温泉共同浴場前を通過
『共同浴場があるってのは羨ましいねぇ』


この道祖神は新しいようだ。


ここでも野沢菜を洗っていた。
今が野沢菜漬けの最盛期なのだろう。


11時37分、旧街道は国道20号に合流した。


しばらく国道20号を進む。


古い蔵造りの家
”呉服の「かねさ」”の商号が見える。


山田養蜂場
『TVのCMでよく見るあの会社っ?』
『上諏訪が本社だったのかぁ』


店頭右手にいろんな形の蜂の巣箱が並べられていた。


宮坂醸造セラ真澄
『「真澄」って有名でけっこう人気がある酒だよねっ』
『試飲すると歩くのがおっくうになるからなぁ』
ということで試飲のために立ち寄るのは断念。


宮坂醸造セラ真澄の向かいに十王堂跡の碑が。
この十王堂は、初代諏訪藩主諏訪頼水に誅殺された男の首を、地元の人が祟りを恐れて建てたもの、とのこと。
明治の神仏分離令により廃寺となってしまった、そうである。


貞松院の門を潜る。
お昼前の休憩場所を探していたところ、たまたま通りかかったので立ち寄ってみた。


門を入ると延命地蔵尊像があり、
「延命地蔵経」には地蔵尊を信仰すれば、次の十種の福に恵まれることが説かれています、とある。
①女人泰産 女性はやすらかなお産が出来る。
②身根具足 身体が健康で丈夫になる。
③衆病悉除 諸々の病気が回復する。
④寿命長延 寿命は長くなる。
⑤聡明知恵 聡明で智慧が備わる。
⑥財宝盈溢 財に恵まれる。
⑦衆人愛敬 多くの人に愛される。
⑧穀米成熟 穀物など豊作となる。
⑨神明加護 神仏に守護を得る。
⑩證大菩薩 悟りを得る。 


史跡 松平忠輝廟の碑
松平忠輝は、徳川家康の六男で、妻は伊達政宗の娘・五郎八姫(いろはひめ)。
家康からは嫌われていたようだ。
また、伊達政宗は忠輝をかついで天下を狙っていたという話もあり、家康もそれをずっと警戒していた。
大坂夏の陣の後改易となり、いろいろな場所を巡った後、諏訪に幽閉され、天和三年(1683)
この地で亡くなった。93歳の長寿だった。


貞松院本堂


本堂前で一休みして、


旧街道を進む。


手長神社の鳥居
足長神社の長い石段で懲りているので、手長神社は鳥居の前から参拝した。


うばがふところ
説明板によると、
上諏訪郵便局のあたりは”うばがふところ”と称し、清水湧き温泉出する福地であり、
和泉町の名の由来ともなりました、とある。
『温かい御手洗水だねっ』


12時24分、諏訪教育会館前を通過すると、


右手に吉田の松が。
高島藩士吉田式部彦衛門が元禄三年(1690)から享保八年(1723)、藩主忠虎の大阪城守備に
随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。
代々吉田家の庭園に育てられていたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり、
市内の最年長樹である。
『いやぁ 枝振りが見事だね~っ』
『ちょっと大きい盆栽って感じだねっ』


甲州道中五十二里塚
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。
ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。
この塚は江戸から52里で、西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。
(諏訪市教育委員会)


お昼を過ぎ、かなりお腹が空いてきた。
上諏訪駅へ行けば何らかの店はあるだろうと考え、上諏訪駅方面へ。


駅前の寂れた感じの裏通りを抜け、


12時40分、上諏訪駅に到着
駅近くの食事処の情報を元に、


駅前の「いずみ屋」というレストランへ。


この店で一番人気があるというみそ天丼セット(1,000円)を注文


皆さんみそ天丼セットである。


女性もみそ天丼セットだ。


一里塚(甲州道中五十二里塚)碑まで戻り、あらためて旧街道を進む。


崖の上の家
『いやぁ あんな崖っぷちの家に住んでて怖くないのかなぁ』
『見晴らしは良いんだろうけどねぇ』


直ぐ先に旧勾配の石段があった。
『こんな石段を上り下りするのは大変だよぉ』


13時40分、温泉寺への入口を通過すると、


先宮神社があった。
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。


先宮神社拝殿
諏訪神社の祭神「建御名方命」が、出雲より洲羽(諏訪)の地に遷御された以前より、
すでに原住民の産土神であった。


先宮神社拝殿


拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」がある。
『ケヤキのこぶは珍しいよねっ』
目通りの幹周7.45m、樹高25m、枝張(長径)25m、(短径)15mで、樹齢650年と推定される。
古来「大樹は人を育てる」といわれ有名な巨樹である。
(諏訪市教育委員会)


旧街道を進む。
寿量院500m先の案内板が。


道端に注連縄が巻かれた古木があった。


御神木のようだ。
『幹の半分がえぐれてるけど樹勢は旺盛なんだねっ』


御神木の傍にひっそりと立つ道祖神


『ようやく諏訪湖が見えたね~っ』


14時7分、清谷山寿量院の山門に到着


寿量院本堂
浄土宗の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来だそう。


本堂の右手に文殊稲荷と枝垂桜が。
枝垂桜は、元和元年(1615)大坂夏の陣に二代藩主諏訪忠恒公が出陣し、
戦勝記念に桜を持ち帰り移植したものが、この枝垂桜と伝えられている。
(温泉寺・貞松院にも植えられている)
(説明板)


見晴らしの良い場所を進む。


古そうな家が並んでいた。


甲州道中茶屋跡(橋本政屋)
「橋本」と書かれた行燈が見える。
連子格子の家で、脇の門は高島城三ノ丸の門を移築したもの。
欄間には鯉の彫刻が施されている、とのこと。


また別の古そうな家を過ぎると、


四隅を小さな御柱に囲まれた道祖神が。


諏訪大社下社秋宮を目指し、旧街道を進む。


諏訪湖全体を見下ろす。
『こうやって見るとけっこう大きいよね~っ』


高層マンション「プチモンド諏訪レイク」前を通過
『見晴らしは最高だろうねっ』


石投場碑(右)
碑には南信八名所石投場と刻まれている。
往時は足元が湖面であった為、ここで石投げを興じた。
昔は石を投げれば諏訪湖に届くような所だったことから名づけられた。
明治天皇駐輦跡碑(左)
明治十三年(1880)、明治天皇ご巡幸の折に、とても風景が良いので思わず車を止めたと云われている。
ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったと云われる。


諏訪大社下社秋宮を目指す。


緩やかな坂道を下って行くと、


一里塚跡碑が。
この塚は江戸日本橋より53番目の一里塚で、甲州道中最終のもの。
あと11町(1100m)で華やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。


旧甲州街道を進む5人


承知川橋石
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
伝説によると、永禄四年武田信玄が川中島の戦の砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し、
社殿の建替えと千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う。
しかし、戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず、信玄ふと先の約定を思い出され、
馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したと言う。
以来承知川と呼びこの一枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。


承知川橋石の左脇に祀られた承知地蔵尊


15時8分、諏訪大社下社秋宮に到着
我国最古の神社の一つであり、信濃国一之宮として、朝廷や幕府の信仰が厚く、
全国一万余の諏訪神社の総本社である。
御祭神は、信濃国の国造りをなされ、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになった。
本殿には後ほど参拝することにして、ひとまず甲州道中・中山道合流之地へ。


15時14分、この日の目的地である甲州道中の終点(始点)と中山道が合流する場所に到着した。


記念撮影を終え、あらためて諏訪大社下社秋宮へ。


根入りの杉
この杉の木は樹齢凡そ六~七百年で丑三つ時になると枝先を下げて、寝入りいびきが聞こえ、
子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止ると云われている。
(説明板)


神楽殿(国重要文化財)
御神前に神楽を奉納するための建物で、天保六年(1835)上社本宮幣拝殿を手掛けた
立川和四郎二代目棟梁富昌により落成した。
三宝切妻造りと呼ばれる様式で幣拝殿のような彫刻は見られない。
正面の大注連縄は御柱祭毎に新しく奉製され、重量は約一トンである。
(説明板)


上社本宮幣拝殿(国重要文化財)
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。
二重楼門造りと呼ばれ、二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。
諏訪高島藩の命により、安永十年(1781)に初代(立川流)棟梁立川和四郎富棟によって造営された。
(説明板)


左右片拝殿(国重要文化財)
安永十年(1781)、初代立川和四郎富棟によって造営された。
幣拝殿に比べ彫刻などは見られず、江戸時代の記録には、幣拝殿は帝屋(御門戸屋)、
片拝殿は回廊と記されている。
(写真は左側で、右側にも対照的に片拝殿がある)


天覧の白松(三葉の松)
昭和天皇・皇后両陛下が行幸の折りに御覧になったと云われる「白松」だが、「三葉の松」
と云われるようである。
日本に自生していた三葉松は数百年前に絶滅して、北アメリカより渡って来たものと云われている。


昭和三十九年五月十二日 昭和天皇皇后両陛下ご参拝
と記されている。


一之御柱
御柱は、寅年と申年の七年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられる御神木で、社殿の四隅に
建立されています。
この秋宮一之御柱は、長さ17m余、直径1m余の樅の木で、霧ヶ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、
数千人の氏子の奉仕により曳行されました。
御柱祭は、天下の奇祭として有名であり、次回は平成三十四壬寅年に行われます。
(説明板)


前回の中山道歩き(2015年7月20日(月))の際に見つけられなかった三之御柱、四之御柱は、
左右片拝殿の裏側にあることを今回しっかりと確認した。
写真は三之御柱


KKさんとはここで分かれることに。
下諏訪駅16時10分発の特急あずさ号で新宿へ向かうとのこと。
『お疲れさまでしたぁ』 『またご一緒しましょうっ』


KKさんと分かれて、この日の宿泊先「鉄鉱泉本館」へ向かった。


15時38分、中山道下諏訪宿の本陣に到着


本陣岩波家
格式高い門構えの岩波家は、本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家柄。
現当主は28代目になる。
門の扉は固く閉じられていた。
『この前に来た時も閉まってたよねっ』


温泉ハウス「児湯」を通過
『このお風呂に入ったよねっ』


旧中山道の下諏訪宿へ。


15時43分、「鉄鉱泉本館」に到着した。


玄関ホールでしばし寛ぐ。


一風呂浴びて旅の疲れを癒やした後は、食事の時間である。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧街道を歩くⅡ」第五回目甲州街道(金沢宿~下諏訪宿)(1日目)を歩き終えた。
明日は、鉄鉱泉本館から諏訪湖へ行き、反時計回りで諏訪湖畔を廻ることを予定している。
かねてから甲州街道歩きの最終日は、諏訪湖周遊をと計画していたので、楽しみである。

この日の万歩計は25,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第5回 甲州街道(金沢宿~下諏訪宿2日目)

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