ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第十一回 (北国街道)信濃追分~小諸宿

2016年03月20日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2016年3月20日(日)

昨年から、旧街道の中でも交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで、歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
この日の「旧街道を歩く」第十一回は、北国街道の追分宿~小諸宿間(約16Km)を歩いた。

この日のスタートは、しなの鉄道の信濃追分駅からとなる。
北陸新幹線で軽井沢からしなの鉄道に乗り換え、2つ目の駅だ。
第四回の中山道(追分宿~軽井沢宿~坂本宿)で一度利用しているので、記憶に新しい。

この日の参加者は、体調が優れなかったり、親戚に不幸があったり、
また、彼岸と重なったこともあって、4名が参加を見合わせたため、5名となった。

上野駅エキュート「駅弁屋匠」で弁当を買い求める。


「駅弁屋匠」の向い「キノクニヤ アントン」でも弁当を売っていた。
『駅弁屋よりこっちの方が安いよねっ』


新幹線乗り場へ


上野駅7時30分発のあさま603号(長野行)自由席は、充分に空いていた。
向い合わせにして和気あいあい。


8時42分、軽井沢に到着し、直ぐにしなの鉄道に乗り換えだ。
SUICAが利用できないため切符を買い求めることになるのがちょっと不便。


8時52分発の長野行に乗車し、


9時ちょうど、軽井沢から2つ目の信濃追分駅に到着。


9時6分、小諸宿目指して出発だ!
『ちょっと思ってたより寒いねぇ』
予報では、最高気温は9℃となっていたが、まだ早いので気温はかなり低そう。


浅間山は雪を被っている。


前回は右の道を進んだが、今回は左の追分宿方面へ進む。


追分宿を目指す。


国道18号下を通り抜け、


三叉路を左に曲がると直ぐに中山道追分宿である。
北国街道は、この先の”分去れ”からとなる。


9時30分、堀辰雄文学記念館に到着。
堀辰雄は室生犀星と訪れた軽井沢に魅せられ、後に宿場町の面影を残す追分に居を構えた。


この地を愛した堀辰雄の文学と生涯に触れる、詩情あふれる佇まいの記念館は、この奥にある。


追分本陣門
明治26年に信越線が全線開通すると、追分宿を利用した、宿継の荷駄・旅人は他の交通手段に代り、
宿場としての機能を失っていった。
本陣門(裏門)は、明治末期頃、追分宿に近い御代田町の内堀家の表門として移築され、
大切に扱われてきた。
平成17年、本陣門が軽井沢町の歴史的遺産であることから、内堀家より軽井沢町へ寄贈された。
現在は、堀辰雄記念館の入口となっている。


旅籠油屋
江戸時代から脇本陣を務めた油屋は、堀辰雄や室生犀星、芥川龍之介ら文人が繁く泊った宿である。


旅籠油屋
脇本陣の頃の建物は、昭和12年に焼失したが、翌年に再建された旅館の建物が残っている。
油屋の「つげの間」で堀辰雄は「風立ちぬ」を執筆した。


中山道追分宿


追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあり、法度、掟書きなどを記した。
さらし首、重罪人の罪状を記し、高く掲げた版札を高札という。
ここに掲示してある高札は複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている、そうだ。


9時39分、浅間山登山道分岐点を通過


諏訪神社鳥居


境内には小林一茶の句碑が建っているとあったが、見落としてしまった。


泉洞寺は今から約420年前の、慶長三年(1598)上州常林寺第5世・心庵宗祥禅師によって開創された。


泉洞寺の門を潜ると、


立派な本堂が現れた。
創建時は「仙洞寺」だったが、江戸時代に火災に遭ったことから、火災等の災難を除けるようにと祈願して、
「仙洞寺」から、水を持って寺を守る様にと「泉洞寺」と改名して寺の安全を願った。
御本尊は聖観世音菩薩様である。


境内には、弥勅菩薩の半伽思惟像があり、左手を頬に当てているため「歯痛地蔵」と呼ばれている。
この石仏は、堀辰雄の数多くの名作の一つ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって、
素朴な姿に心を惹かれ、朝夕ここを散歩し、親しんだと云われている。


9時58分、追分宿の西入口(京方)に到着。
国道18号(現中山道)が見える。


桝形茶屋つがる屋
寛永十二年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、
ここを往来する諸侯のため、宿場内には問屋・本陣・脇本陣を設置し、
宿の西入口、この辺りに枡形の道と土手(高さ約2.5m)を築いて宿内の警備取締りをした。
今、その面影を見ることはできないが、当時枡形の地域内にあって、
茶屋つがるや(枡形の茶屋)の建築にその昔をしのぶことができる。


分去れ(わかされ)
中山道と北国街道分岐点に位置する「分去れ」は、宿場町の西端にあり、
今も賑わったありし日の面影をとどめている。
三角州のようになっており、常夜灯や道標・観音像が立ち並んでいる。
「右、従是北国街道 左、従是中山道」と刻まれている。


分去れ付近の北国街道沿いに立つ石像


分去れから250mほどで再び国道18号に合流した。
小諸まで11Kmとある。


北国街道(国道18号)
日本ロマンチック街道と名付けられているが、旧街道としての見所はあまりない。


浅間山の山頂は、雲がかかっている。
『もうちょっとで雲が取れそうなんだけどねっ』


10時22分、御代田町に入った。
標高929mの表示が・・・
『929mか、寒いはずだよねっ』


日本ロマンチック街道を進む。
緩やかな下りとなっているため、楽である。


10時31分、西軽井沢法事センター前を通過。


10時41分、道路の反対側にコンビニがあったので、ここで小休止することに。
風が強くなってきたので、建物の影で風を凌ぐ。


北国街道(国道18号)を進む。
ここで、道を間違えて、北国街道を少しばかり逸れてしまった。


『ここからの浅間山は邪魔なものがなくてきれいに見えるよっ』
『もうじき雲が取れそうっ』


三ッ谷西交差点で誤りに気づき、今度は国道18号ではなく、北国街道を進む。
『こっちは車が通らないので静かで良いねっ』


北国街道を進む。


明治天皇御小休所跡
北国街道追分宿と小諸宿の中間に、馬瀬口村という間(あい)の宿があった。
そこに、明治十一年秋(1878)明治天皇が東海・北陸二道の巡行の折に、
御休息所となった高山邸があり、当時の面影が残っている。


高山家長屋門の前に明治天皇御小休所跡の碑が建っている。


長屋門の西に隣接して、明治三十二年六月に公爵二条基弘題額(だいがく)により建立された、


「間瀬口村駐輦碑文」(ちゅうれんひぶん)がある。


北国街道をいったん逸れて、高山家横の道を200mほど右へ進むと、
遮るものがない雄大な浅間山が現れた。
『やっぱり浅間山はこの風景が一番似合ってるねっ』


北国街道に戻り、再び街道を進む。
間瀬口には宿場のような、大きな構えの立派な家が多い。
ここも高山家の表札がかかっていた。


こちらの家も立派な構えをしている。


間瀬口を過ぎると北国街道は、三度国道18号と合流する。


11時48分、小諸市に入った。
標高780mと表示されている。
追分から200m余下ってきたことになる。


11時55分、上信越道を通過


上信越道から50mほどで、国道18号と分れ、北国街道は左へ。


平原一里塚跡
江戸日本橋から40里目だが、標識とその横に寛政五年(1793)の「馬頭観音」が立っているだけである。
『かつてはここに塚があったんだねっ』


12時5分、一里塚の先右手少し入ったところに「金山神社」があった。


平原は間の宿だったが、宿が作られた頃、この神社だけが南側の沢田に取り残されてしまった。
悪病が流行したのはその祟りだということで、寛永年間に現在地に移されたという。


神社境内で昼食にしよう。
平早氏子会館と神社の間がちょうど風よけになった。


いばらきいいものとりあい弁当(1,100円)


ボリュームたっぷりで、満腹になった。


12時40分、この日のゴール小諸駅を目指して出発!


左手に「十念寺」の「二十五菩薩来迎会」の碑があった。
この世の中で真面目に信心していれば、あの世へ行く時、阿弥陀様がその信者をお迎えに来て下さる、
という浄土経の教えを如実に表した仏教的演技の一つである。
ここ「十念寺」に残されている「二十五菩薩来迎会」は奈良県の当麻寺(たいまでら)とともに、
全国で2つだけ残っている貴重な無形文化財、とのこと。


平原の黒松
小諸市平原の旧家の土蔵脇に、横に枝が伸びた立派な黒松の老木がある。


参勤交代で通った加賀の殿様も絶賛した、そうだ。


静かな佇まいの北国街道。


民家の門の奥に松の木が見える。


『枝振りが素晴らしいねぇ』


静かな佇まいの家並みが続く。


家並みが途絶え、再び浅間山の雄大な景色が現れた。
山頂の雲はすっかり無くなっていた。
『今日一番の浅間山だねっ』


平原交差点下のトンネルを抜けると、


この日何度目かの国道18号に合流した。
四ッ谷東交差点で、北国街道は斜め左の国道141号に分岐する。


右手に御影用水を開削した「柏木小右衛門生誕之地」の石碑が立っている。
小諸の御影新田は、江戸時代に小右衛門が遠く軽井沢の地から、私財を投げうって開削した、
総延長72kmにおよぶ御影用水のおかげで、豊穣の地となった。
その後、用水により安定した米作りが可能になったこと、中山道と北国街道に挟まれる交通の要所、
という点から「天領(幕府直轄地)」とされた。


四ッ谷の信号を横断して細道を下り、突き当りを右折するところに道標があった。
佐久甲州街道との分岐点となる場所である。
”右甲州道”の文字が読みとれる。
(写真後方から下って来た)


北国街道は、いったん国道141号に合流するが、


唐松交差点で、また国道と分岐する。
真ん中の道が北国街道である。


唐破風を備えた本格的な三重櫓だ。
個人の所有のようだが、今は使用されていないのか扉は閉じられていた。


14時2分、与良街(よらまち)に到着。


与良街では「現金屋」の屋号の店が目立つ。
米屋の看板がかかっている。


こちらの「現金屋」は竹材店のようだ。


北国街道与良館
情報を求めるため、立寄ってみた。


入口を入ると案山子のような手作りの人形が迎えてくれる。


運営資金カンパの銭蔵コーヒー(100円)を飲みながら、北国街道与良の見所を教えてもらった。


与良館の直ぐ裏の神輿蔵の前に「ぎおん石」と呼ばれる石があった。
この石は、慶長(1596~1614)の頃、祭り好きな左衛門という百姓が、小諸に祇園様がないことを悲しみ、
尾張の国、津島から祇園様を持ち帰り、この石に祀り、村人達の祭り事や家内安全の祈願がなされたという。
後に、ぎおん石と呼ばれ人々の災厄を祓い、願い事を叶える不思議なご利益がある石として、祈願に訪れる
人々が堪えなかったことでも知られる。(ぎおん石の由来)


「ぎおん石」の裏手に小諸城「銭蔵」がある。
江戸時代、小諸城内に設けられており、享保十一年(1726)、牧野康周時代の建築である。
明治五年(1872)、他の建造物とともに入札払い下げとなり、民間所有としてこの地に移築された。


「銭蔵」の主な特徴は、板張りの床下に石室があり、ふたは車付きの一枚の平らな石を用い、
これを滑らせて引き開けるように作られ、そこに隠された千両箱を盗難や火災から防いだ蔵である。
(小諸市重要文化財)


高浜虚子記念館
虚子は、正岡子規に師事し、新派俳句の俊秀として活躍、俳誌「ホトトギス」を主宰した。


高浜虚子旧居
虚子は、戦争中の昭和19年から3年1ヶ月の間この地に疎開。
この家で「縁側散歩」を楽しみながら、句作に励んだという。


小諸駅を目指す。


酢久(すきゅう)商店
延宝二年(1674)創業で江戸中期から酢・味噌醤油を醸造。
関東から仕入れた畳表・鰹節・茶・塩などを長野県内に流す問屋業としても成功し、
小諸藩の御用商人として藩にお金を貸して、武士に近い身分を与えられた旧家。
門をはじめ土蔵・母屋といった建物は全て江戸時代に建てられたもの。


大手門・懐古園といった名所は、次回に訪れることにして、
この日は小諸駅から上田駅を経由して帰宅することにした。


14時53分、小諸駅に到着。


駅で一息入れる。
『今日はかなり歩いたねっ』 『疲れちゃった』


15時30分発のしなの鉄道で上田駅へ向かう。


15時53分、上田駅新幹線乗り場に到着。


上田16時15分発のあさま622号に乗車。
上田駅から乗ったのは、正解だった。
軽井沢駅からでは多分座れなかったと思う。
『向い合わせに座れて良かったねっ』

『今日は大変お疲れさまでしたぁ』

予想以上に寒かったが、天気に恵まれ、北国街道の追分宿~小諸宿間を歩き終えた。
最初は、雲がかかっていた浅間山も最後はすっきりとした姿を見ることができて良かった。
次回は、このシリーズ最終回として、途中一泊して北国街道(小諸宿~上田宿)を歩く予定である。
天気に恵まれることを期待したい。

この日の万歩計は、27,000歩を越えていた。

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