ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

今年話題の中津城に登城して来ました

2014年02月04日 | ウマさんの気ままなウォーキング
2014年2月4日(火)

大分臼杵出身のかみさんの姉の夫が脳出血で突然亡くなるという不幸があり、1月末から大分に帰省していた。
葬儀も無事終え、一段落したことから、今大河ドラマで話題の「軍師官兵衛」が築城した中津城を訪問することにした。

黒田官兵衛は、天正十四年(1586)に九州征伐の先鋒を務め、豊前国に侵攻。
翌天正十五年(1587)、豊前六郡を拝領。入国し検地を始めた。
天正十六年(1588)正月、中津城の築城を開始した。
慶長五年(1600)黒田家は関ヶ原の戦いで徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。
長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城は中断された。

中津城の築城に黒田官兵衛が絡んでいることを大河ドラマで初めて知ったのはお恥ずかしい限り。
「100名城」には入っていないが、大分県人として、一度は足を運んでおかねばならない。
見取り図を頼りに城内を歩いてみることに。


黒御門跡から大手御門方面を望む。


黒御門跡


椎ノ木御門跡から本丸跡を望む。
中津神社の鳥居と思われるが、椎ノ木御門跡の真ん中に建てるのはいかがかと思う。


三斉池(さんさいいけ)から天守閣を望む。
慶長五年(1600)黒田如水・長政の後を継いだ細川忠興の号”三斉”の名を冠して「三斉池」と呼ばれている。


独立自尊(福沢諭吉)の碑
(独立自尊:人に頼らずに自分の力だけで事を行い、自己の人格・尊厳を保つこと)
中津市指定文化財となっている。


中津大神宮
由緒記によると、明治十四年九月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。
その後幾多の変遷を経て、昭和二十一年四月中津大神宮として今日に至る、とある。


中津大神宮の御祭神は天照皇大神・豊受大神ほか二柱とのこと。


中津城天守閣と櫓
昭和三十九年(1964)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。
しかし、模擬天守にしてはしっかりとした良い造りだと思う。


中津城天守閣をバックに記念撮影
かみさんの甥の息子と一緒に。


中津城天守閣
江戸時代の絵図には天守は描かれていないため、天守の存在については不明だそうである。
現在の天守は萩城の天守を模して昭和39年に建設されたものである。


法螺貝の音がするので上を見上げたら、天守閣で法螺貝を吹いているいる人が見えた。
登城する人を鼓舞するかのように高らかに吹いている。


400円を払って天守閣内に入ると黒田官兵衛と合子形兜(ごうすなりかぶと)が目に入る。
黒田孝高(官兵衛)が妻・光姫の父である志方城主・櫛橋伊定から婚約の祝いに贈られた合子形兜。
合子形とは蓋付き椀の形のことをいい、戦国時代の変わり兜のひとつ、だそう。


天守内は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑や、


奥平忠昌が徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)などが展示されている。


法螺貝を吹いていた人は、介護施設の運転手をしているとのことで、週に2-3回はここで法螺貝を吹いているそうだ。
自分も吹かせて貰ったが、初めてなので鳴るはずもない。
100人に一人くらいは音を出せる人がいるそうだ。


記念撮影をさせてもらった。


天守閣からの眺望
高瀬川(現中津川)河口方面を望む。


天守閣からの眺望
本丸から三の丸方向を望む。
薬研掘の左には長福寺があったそうだが、今は地方裁判所になっている。


天守閣からの眺望
高瀬川(現中津川)上流を望む。


奥平神社
黒田家・細川家・小笠原家に続き、享保二年(1717)丹後宮津より奥平昌成が入城した。
奥平家の武運・戦勝の神社で、ご神体は、奥平家中興の祖奥平貞能・信昌・家昌公三柱の祭神を祀っている。


大分地方裁判所から見た中津城天守閣


薬研堀から見た中津城天守閣


天守閣が石垣の外にせり出しているのが中津城の特徴だろうか。


右側の石垣は黒田孝高(女水)時代の本丸跡の石垣。
左側の石垣は後から積まれた細川忠興(三斉)時代の石垣で、忠興自慢の石垣だったとのこと。


中津城と黒田官兵衛像
碑には、「我、人に媚びず、富貴を望まず」と刻まれている。


高瀬川(現中津川)
中津城は、高松城、今治城と並んで”日本三水城”と云われているが、
高松城、今治城のように今でも堀が常に海水に浸っているという状態ではない。


中津神社の大鳥居
明治四年(1871)に本丸南側の石垣の一部が壊され、本丸内に通じる道が造られた。
左右に分けられた石垣の間に立つ大鳥居は、昭和七年(1932)に建てられたものである。


復元された石垣(大鳥居の東側:大鳥居に向かって右側)
戦後地表面から上半分が撤去され、堀は埋められ残った下半分の石垣は地下に見えなくなっていた。
平成13年~20年の修復工事で見えなくなっていた元の石垣を掘り出し、その上に新しい石垣を復元した。
上半分の白っぽい部分が復元された石垣。


穴太積み黒田の石垣(大鳥居の西側:大鳥居に向かって左側)
九州最古と云われる近世城郭の石垣として残っている、そうだ。
東側の石垣の端と西側の石垣の端を見通すと緩やかな弧を描き、
道路を挟んで対岸の石垣まで連続していることが分かる、とのこと。
これを「輪取り」と云い、力を内側に集中させ、石垣が崩壊するのを防ぐ造りになっているそうである。
(残念ながら確認はしていない)


中津神社
城内本丸跡には、他にも奥平神社、中津大神宮、城井神社、扇城神社がある。
こんなに神社があるのは珍しい。


唐原山城の石を使用した黒田の石垣


鉄御門跡
中津城にはすぐ脇を流れる高瀬川(現中津川)に面して鉄門(鉄御門)があった。


中津川河川敷から見た鉄御門跡の石垣


城井神社(きいじんじゃ
宇都宮鎮房を御祭神として祀っている。
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間豊前国守として徳政を布いていた。
秀吉は、九州平定にあたり、豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、宇都宮鎮房は四国今治移封とした。
鎮房はこれを返上して抵抗したため、黒田家と死闘を繰り返すこととなった。
秀吉は孝高と諮り、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚約を約し、和睦した。
天正十六年(1588)4月20日、黒田孝高の嫡男の長政は、鎮房を中津城に招き、酒宴の席で謀殺した。
黒田孝高は、熊本の一揆征伐で中津城を留守にしていた。
天正十九年、長政は深く感ずる処があって、城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、
福岡移封後はその地に警護大明神として祀った、そうである。

中津城を後にして、黒田孝高ゆかりの寺合元寺へ。

合元寺(ごうがんじ)の赤い壁の由来
天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐における功労者として、豊前国の6郡およそ12万石を賜った黒田官兵衛(孝高)は、
領内の平定において、城井城主・宇都宮鎮房(しげふさ)(城井鎮房)の抵抗に手を焼いていた。
官兵衛は一計を案じ、嫡子の長政が鎮房の13歳になる娘・鶴姫を嫁にし、宇都宮氏の旧領は安堵するという条件で和睦を提示、
鎮房もこれを了承した。


しかし、天正十六年(1588)4月20日、婚姻の宴に招かれた鎮房は中津城内で謀殺されてしまう。
鎮房の従臣たちが待機していたこの合元寺にも黒田の手勢が押しかけた。
鎮房の従臣たちは奮戦したが、ことごとく斬り伏せられ、壁はその血で赤く染まったそうである。
その後壁は何度白く塗っても血が染み出してくるので、ついに赤く塗ったと云う。
寺は赤壁寺とも呼ばれている。


浄土宗西山派の寺院、合元寺の山門


合元寺本堂
黒田官兵衛(孝高)が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移して、空誉上人という僧を開山に迎え、
この寺院を建立した。


合元寺山門を入って直ぐ左に延命地蔵菩薩堂がある。
奮戦の末斬り伏せられた宇都宮鎮房の家臣は合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られ菩提を弔われた。


延命地蔵菩薩堂(お願い地蔵)内部
中央に延命地蔵菩薩、左側にお願い地蔵菩薩が祀られている。


福沢諭吉旧宅
合元寺から寺町を通り、7-8分ほどで福沢諭吉旧宅があった。
入館料400円だったのと、時間の都合もあり、写真に収めるだけに留めた。



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