ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第4回 府中宿~島田宿(1日目)

2016年12月11日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年12月11日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージの4回目は、府中宿(JR静岡駅)~島田宿(JR島田駅)を
2日間かけて歩いた。

東京駅7時3分発の「ひかり461号」に乗車


この日は快晴に近い天気だったが、富士山はまたも雲に隠れて見ることが出来なかった。


8時5分、時刻表どおり静岡駅に到着。


地下道を通って駅前のバスターミナルを抜け、


呉服町通りを進む。


駅から数百米行くと市役所、その先の七間町通りの右手に県庁の建物が見える。


七間町通りの札之辻址がこの日のスタートだ。
札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来する。
8時33分、出発!


七間町通りを進む。


七間町通りには映画撮影用の機材などが展示されている。
七間町に最初に映画館が建てられたのは大正時代だそうで、
その後、昭和・平成と「映画の街」として親しまれてきた。
数年前まで七間町には多くの映画館が建ち並んでいた、とのこと。


駿府城周辺の町並みと東海道(広い道)が示されている。


徳川家康と七間町の由来
七間町という町名は、徳川家康公における駿府96ヶ町の町割りをしたとき付けられ、
その由来は、通りの幅が七間(約13m)あったからとか、米・炭・塩などを独占販売する
七つの座が並んでいたからなど諸説ある、とのこと。


東海道は、七間町から両替通りへ。
駿河竹千筋細工
府中名物の竹細工は今日でも良く知られている、そうだ。


人形町通り
かつては、七間町通りに接続する東海道で縦七間通りと呼ばれたこともあり、
東海道府中宿の主要路である。


駿府凧
戦国時代、今川義元の勝ち戦を祝って家来たちが揚げたのが始まりと云われる。


旧東海道は、本通五町目付近に合流した。
本通は道幅が広く、安倍川まで約1.5Kmの直線が続く。


府中一里塚跡
日本橋から45番目の一里塚


駿府キリシタン殉教之碑
かつて、家康の家臣だった原主水は、キリシタンであることをやめなかった為、
両手足の指と、足の節を切られた上、額に十字架の烙印を押されて、
安倍川の川べりに捨て置かれた。
そんな主水を助けて介抱したのが、耕雲寺の住職である。
耕雲寺の僧侶たちによって命長らえた原主水は、不自由な体のまま江戸に出て布教し、
捕えられて処刑された。


甘味処石部屋
文化元年(1804) 創業のあべかわ餅の老舗石部屋は昔ながらの製法で作り続けている。
また、「あべかわ餅」は徳川家康が名づけたといわれている。
土産用(1,200円)はちょっと多すぎるし、まだ食欲が湧く時間ではないので、
一番小さい(600円)のを持ち帰りたいと言うと、『この場で食べて行ってくれっ』
とつれない返事。あべかわ餅は諦めて店を出たら・・・


数軒隣にもう一軒別の「あべかわ餅」屋があった。


ショーケースを見ると一個110円とある。
中へ入ってつぶあんの「あんころ餅」を注文すると、
『今作るからちょっと待って』との返事


つぶあんの「あんころ餅」を作ってくれているご主人には1個だけで申し訳なかったが、
110円払って気分良く店を後にした。
良かった、これで「あべかわ餅」を食べられる。


安倍川義夫(ぎふ)の碑
まだ安部川に橋がなく、川を渡るには人夫を雇うのが一般的であった天文三年(1738)
江戸へ出稼ぎに出ていた漁夫が紀州へ戻る途中、自力で安部川を渡った際に
仲間と稼いだ150両もの大金を落としてしまった。
たまたま居合わせた人夫が財布を拾い、漁夫を追いかけ、財布を届けた。
このお礼を漁夫が人夫に渡そうとしても頑なに受け取らない。
困った漁夫が奉行所から渡してもらうよう取り計らっても受けとらない。
とうとう奉行所は漁夫にお礼を戻し、人夫に報奨金を渡した。
昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志によって、この美談の碑が建てられた。


9時13分、安倍川橋に到着。
明治七年に宮崎総吾が独力で架けた木橋の賃取橋「安水橋」が、
明治29年に静岡県に移管され、明治36年に架け替えられた。
大正12年に東海道に完成


安倍川の下流を望む。


凡そ10分で安倍川を渡り、対岸の手越に到着した。


高林寺
手越の灸は、承応二年(1653)頃、人々の治療のため始められたものという。
寺紋は武田菱で、武田信玄の家臣、一条信龍の三代目松井正近による開基である。


高林寺本堂


境内にある築山の良く手入れされた柘植の木が印象的だ。


松の木が1本だけ生えている。
かつては松並木が続いていたのだろう。


国道1号手越原交差点の横断歩道橋を渡ると、


丸子宿である。


佐渡(さわたり)の子授地蔵尊
その昔、子供に恵まれない夫婦は、此処のお地蔵さん一体を家に借りて信仰すれば、
子供が授かると云われていた。
子供が授からないと家系が保たれないので切実な願いを込めてお地蔵さんにお祈りした。
めでたく子供が授かった人は新しいお地蔵さんを一体作り、お礼をした、そうである。


旧東海道松並木の名残の松
ここは、大曲と呼ばれ、道の両端には松を植える土手が築かれ、
土手には笹が生えていた。
戦後までは人家も明かりもなく、夜になると「お化け」「追いはぎ」が出没すると
噂されるほど淋しい場所だった、そうである。


丸子一里塚跡碑
日本橋から46番目の一里塚


丸子宿
丸子宿が東海道伝馬制の制定によって宿場町が定められたのは、
関ヶ原の戦の翌慶長六年(1601)で、江戸から数えて二十番目の宿場町であった。
江戸期の宿場戸数は200戸余りであった。


丸子下宿の江戸方見附跡
ここから丸子宿の本陣・脇本陣・問屋場・七里役所がが続く。
比較的小さな宿場だったので、周囲の村々からも人足や馬を供給していた。
これを助郷制度という。


丸子宿脇本陣跡


問屋場跡


本陣跡


脇本陣跡


お七里役所跡
紀州藩の御用を務めた。


丸子宿の外れに十返舎一九の東海道中膝栗毛の碑が建てられていた。
けんくハする夫婦ハ口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ


岡本かの子著「東海道五十三次」の一節


丁子屋(ちょうじや)
創業は慶長元年(1597)。
宿場町として栄えた丸子で400年以上もとろろ汁を提供。
松尾芭蕉は「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」という句を詠み、
十返舎一九は「東海道中膝栗毛」の丸子のシーンでとろろ汁を作中に取り入れている。


歌川広重が「東海道五十三次・丸子」で丁子屋を描くほどこの店は有名である。


丸子川に架かる丸子橋を渡ると、


高札場跡があった。


たくさんの高札が立っている。


毒物にせ金法度
丸子宿に現存する高札のレプリカ、とのこと。


10時42分、高札の裏にベンチがあったので、ここで一休みして、
安倍川畔で買った「あべかわ餅」を食べた。
まだ軟らかくてとても美味しかった。


「夢想庵」という店の前ではのんびりと包丁や剪定鋏などを売っていた。


”ようこそ東海道歴史の旅 丸子路へ”の看板が。


11時13分、国道1号に合流すると、


丸子路は、直ぐに左の脇道へ分岐していた。


分岐して10分の11時24分、長源寺に到着した。
長源寺は、宝台院の末寺として、寛保元年(1741)創建。
慈悲と心の安らぎの観音様を祭った寺院である。


水子供養の水子観音
たくさんの色鮮やかな風車が奉納されていた。


こちらの裸弁財天は、開運招福・商売繁昌・福寿長命・学業成就にご利益があるそうだ。


長源寺の左奥に起木神社があった。
額には起樹天満宮と書かれている。


丸子は日本紅茶発祥の地とある。
明治維新、静岡に転封された徳川慶喜に従った幕臣多田元吉が原野を開いて
丸子の地に茶園を開墾した。
その後明治政府の役人となった元吉は、中国・インド等を歴訪して、
紅茶に限らず製茶全般の技術を日本に広めた、とのこと。


その元吉がここ丸子で紅茶製造を始めたのが、日本の紅茶の発祥である。


国道1号沿いのコンビニ前の松の木
丸子地区に残る、当時の面影を残す松3本のうちの1本。


赤目ヶ谷おはやし歩道橋で国道を渡る。
(岡部方面を望む)


歩道橋を渡ったところに金色の観音像が建てられている。
大きいので目立つ。


歩道橋を渡り、国道沿いを進む。


逆川歩道橋を今度は反対側へ渡り、少し進むと・・・


12時1分、道の駅「宇津ノ谷峠」(下り)に到着した。


先ほど「あべかわ餅」を食べたばかりのためか、あまりお腹は空いていない。
弁当は上りの道の駅へ着いてからにしよう。


宇津ノ谷トンネル前の陸橋を横断し、道なりに進むと、


道は二つに分かれていた。


旧東海道の他、お羽織屋・明治トンネルなどの案内に従って左の小路へ進む。


小さいながらも宿場の雰囲気が漂う。


天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のため東上する途中、休憩した時に
主人忠衛門が秀吉から紙子の陣羽織を賜った、と伝わるお羽織屋か?


何と、本日休業とある。
残念!


趣のある坂道を上って行くと、


旧東海道の案内標識があった。
右は旧東海道宇津ノ谷峠越え、左は明治のトンネルと案内されている。
明治のトンネルも行ってみたいが・・・宇津ノ谷峠越えの方へ進んだ。


宇津ノ谷峠越えの入口は直ぐにあった。
宇津ノ谷峠は、標高170mの峠で、古代から東海道の官道であり、
「伊勢物語」や「海道記」などの文芸作品や紀行文から相当な
難所であったことがわかる。


12時36分、峠越え開始
最初は綺麗な竹林が続く。
落ち着きのある景色である。


竹林が終わる辺りに雁山(がんざん)の墓があった。


松尾芭蕉の同門の俳人、山口雁山の墓。
雁山が旅に出たまま消息を絶ち、駿河で黒露と名を変え俳諧の師匠を行っていたため、
彼が旅先で亡くなってしまったと勘違いした友人らによって建てられた墓。
本人は、その36年後の1767年に没している。
もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていたが、山崩れで流され、
この位置に移された、とある。


また少し上ると、峠の地蔵堂跡の石垣の案内があった。
この石垣は、江戸時代中(十八世紀末)頃、宇津ノ谷峠の傾斜地に
地蔵堂(石垣上)を構える際、平らな土地を確保するために積まれた。
石垣は、二段構えで総高約7m、最大幅約12m、とのこと。


更に坂道を上ると峠の地蔵堂跡があった。


江戸時代末期の歌舞伎脚本作家河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を
舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」の”文弥殺し”の場面がここ延命地蔵前、とのこと。
平成12年度の発掘調査の結果、地蔵堂は、5m四方の大きさだった、そうだ。


右下に先ほど見た石垣の案内標識が見える。


地蔵堂跡を過ぎると峠を越える。


下りの坂道が続く。


髭題目碑
碑の正面に
”南無妙法蓮華経”の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。


側面には、「為人馬安全」「天下泰平五穀成就」と刻まれており、
旅の安全と、世の平和・豊作を願って建立されたことが分かる。
裏面には「天保六年霜月再興」と建立者たちの名前が刻まれている。


蘿径記碑(らけいきひ)
蘿径とは蔦の細道のことで、江戸時代後期の駿河代官・羽倉簡堂が
古道の消滅を恐れて文政十三年(1830)に建てたもの。
碑は坂下延命地蔵堂の境内にある。


13時7分、宇津ノ谷峠を下ったところの坂下延命地蔵堂に到着。


坂下延命地蔵堂(通称:鼻取地蔵)
建立年代、建立者は不明。
元禄十三年(1700)に、岡部宿の3人が発願して地蔵堂を再建。
堂内の仏具をそろえ鴻鐘を新たに鋳して鐘楼も建立した。
霊験あらたかと村人や近隣の人々に信仰され、その霊験あらたかさを示す
二つの伝説「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。
堂内には地蔵菩薩像が安置されており、この地蔵尊は宇津ノ谷峠を
越えようとする旅人の安全を守り、また、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。


下延命地蔵堂正面の右側が旧東海道・つたの細道で、
左側は明治のトンネル方面への道である。


13時11分、国道1号に合流


上りの道の駅が見えてきた。


13時20分、道の駅「宇津ノ谷峠」(上り)に到着した。


この日の駅弁は、東京駅で買った「五目わっぱめし」(950円)だ。
ちょうどお腹も空いて来た頃だったので美味かった。


昼食後の13時48分、岡部宿へ向けて出発!
国道1号からは外れるが、大旅籠柏屋の標識が案内してくれるので心強い。


岡部宿へ。


十石坂観音堂があった。


江戸時代末期に建てられたと思われる入母屋造りの瓦葺き建築。


江戸時代の末期の作と思われる厨子が観音堂の中に安置されている、とあったが、
格子で良く見えなかったのは、残念。


桝形跡の碑があった。
かつて直角に曲がっていた桝形の道は今はない。


笠懸松と西住の墓の案内があった。


案内に従って細い路地を進むと、


山の上へ階段が続いていた。


かつて(昭和49年頃)は、街道からこのように見えたそうだが、
現在は竹や雑木で全く見ることは出来ない。


急坂の階段を上る。


息を切らせながら5分ほど上ると西住の辞世の句碑があった。
西住は、西行の弟子で、共に東に向かって旅をしていた。
天竜川を渡るとき、西行に乱暴を働いた者を懲らしめた西住を
西行は叱りつけ、一人で東へ向かった。
西住は悲しみながら旅を続けたが、岡部で病に倒れ、西行からもらった笠に
西へ行く 雨夜の月やあみだ笠 影を岡部の 松に残して」の時世の句を
書いて亡くなってしまった。


西行が後にここを通り、西住の死んだことを知って悲しみ、この歌を詠んだという。
笠はあり その身はいかに なりならむ あはれはかなき 天の下かな


これが西行笠懸松だろうか?
若すぎるような気がするが・・・
院政期から鎌倉時代初期にかけての僧侶・歌人である西行が、
故あって破門にした弟子西往の死を松に架けて悼んだとされる場所。


街道へ戻って岡部宿を目指して進む。


14時34分、柏屋に到着
柏屋は、国の登録有形文化財に認定された岡部宿を代表する旅籠である。
現在は、建設当時の姿をそのまま再現したような歴史資料館になっている。
この辺りから岡部宿になる。


歴史資料館に入る。
弥次さん、喜多さんと一緒に記念の1枚。


部屋に上がって見学するのは有料(300円)だが、土間を通って裏に抜けるのは無料とのこと。
時間もないので、裏に回ることにした。


土間に釣瓶井戸がある。


母屋裏の蔵
資料館に付随する物産館や展示ギャラリーに姿を変えている。


岡部宿本陣跡
元禄三年(1690)久貝因幡守が道中取り調べに来た際、
豪農であった内野家に本陣職を命じたとされている。
昭和48年に有形文化財に指定された。


問屋場跡


小野小町姿見の橋
絶世の美女と名高い小野小町が夕日に映える西山の景色に見とれていたが、
ふと下を見下ろすと長旅で疲れ果てた自分の顔が目に入った。
その老いの身の上を嘆いたとされる橋。
幅2mにも満たない小さな橋である。


高札場跡


岡部宿内を足早に進む。


軒下に手毬りを下げた家が目立つ。
藤枝手まりの指導者の育成と普及活動を行っている「藤枝手毬工房」だった。


14時59分、藤枝市役所支所前を通過


支所前の少し先に五智如来公園があった。


五智如来だ。
密教で5つの知恵を5体の如来に当てはめたものとされ、五大如来とも呼ばれる。


5体の如来は、右から大日如来(中心)・阿閦(あしゅく)如来(東方)
・宝生(ほうしょう)如来(南方)


左から大日如来(中心)・釈迦如来(北方)・阿弥陀如来(西方)と並んでいる。


まだ明るいので、出来るだけ島田方面へ進んでおきたい。
そうすれば、明日は短い距離で済むことになる。
東海道岡部宿の松並木を通過


松並木を藤枝方面から見たところ。


国道1号を横断すると道が二つに分かれており、
旧東海道は、右の旧横内村方面へ続いていた。


古くなった旧東海道の案内表示の杭が立掛けられていた。
新しいものと交換したのだろうか?


”岩村藩横内陣屋入口”の案内標識があったので、小路へ入ってみたが、
住宅街の中、場所を特定することは出来なかった。


横内橋近くの家々にはかつての屋号と思しき表札が掛けられていた。
歴史を感じる。


朝比奈川に架かる横内橋を渡ってしばらく進むと、


コンビニがあった。
コーヒーでも飲んで一息入れようと思って何気なく道路を見たら、


コンビニ前の通りに「法の橋」というバス停があった。
急いで向い側に渡って時刻表を見ると、あと3分で藤枝行が来ることになっている。
『ラッキー!』これに乗らない手はない。コーヒーなど飲んでいる場合ではない。
ということで、今日はここまでとした。
明日はここから歩くことにしよう。


ホテルの1つ手前の停留所で降りて、辺りの状況を確認してホテルへ。


ホテルから10分ほどの所に「勝富」というとんかつ屋があった。
ここで夕食を摂り、明日に備えることにした。
生ビールが美味かった。


この日は、府中宿から岡部宿までの約15Kmを歩いた。
岡部宿辺りではかなり疲れを感じた。
岡部宿は電車が通っていないため、最初は藤枝駅北口のホテルまでは
タクシー利用を考えていた。
しかし旨い具合に藤枝駅行バスの便があったので、これは助かった。
おかげでタクシー代が節約できたのは大きい。
場所によってはこれからもバスを利用することを考えたい。

この日の万歩計は、37,000歩を計測していた。

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