ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

とに角広い! 玉川上水緑道から小金井公園

2020年02月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2020年2月8日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第31回(2020年第5回)、「玉川上水緑道から小金井公園」ウォーキングに参加した。

厳しい寒さの中、荒川沖駅7時59分発の電車を待つ。
『いやぁ 今日はかなり寒いね~っ』


この日は土曜日のため、電車内は空いていた。
参加者全員(この時点では12名)が楽に座ることが出来た。
牛久から1名乗車して13名となったが、参加者がちょっと少ない。
やはりこの寒さが影響しているのだろうか。


東京駅で中央線に乗り換えるため、1番線へ。


9時26分発の高尾行きに乗車。
中央線も空いていた。
『始発からこうやって楽に座っていけるから土曜日は正解だよねっ』


10時4分、この日のスタート地、武蔵境駅に到着。
改札口で待っていたFJさんが合流して、参加者は14名となった。
今年度の最低参加者数13名(2019年11月15日宝筐山・12月6日筑波山)に並ぶかと心配したが、
何とか上回ることができた。


武蔵境駅北口前でこの日のコースの説明などを済ませて、


10時11分、いつものように会長のTKさんを先頭に武蔵境駅を出発!
先ずは玉川上水緑道スタート地点の桜橋を目指す。


桜橋へ。


武蔵境通りのエコスグループのスーパー・たいらや前を通過


桜橋を目指す。


10時25分、目指す桜橋に到着した。


桜橋から見た玉川上水。
玉川上水は、江戸の人口急増に対し飲料水を確保するために、三代将軍徳川家光の時代から計画され、
承応二年(1653)4月4日着工。
同年11月15日、多摩川羽村取水口から四谷大木戸までの全長約43Kmを完成させた上水路である。
高低差は、92mと云われている。


桜橋を渡った左側、桜橋のたもとに国木田独歩の碑があった。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、
其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある」と
作品「武蔵野」第六章の書き出しが刻まれている。


桜橋の右側は境浄水場となっている。


小金井公園方面へは、桜橋を左に折れて玉川上水の左側を進むことにした。
『こっちは車は通れないし、静かで良いわよねっ』


『水は案外きれいなのねっ』


案外きれいな玉川上水の緩やかな流れを右手に見ながら進む。


10時31分、独歩橋を通過。


玉川上水緑道を進む。


径の真ん中に大きな桜の木が生えていたりする。


「うどはし」という小さな橋があった。


歩いて来た径は「うどはし」のところで行き止まりになっていた。


「うどはし」で玉川上水の反対側に渡り、


玉川上水の右側(上流に向かって)の緑道を進む。


境水衛所跡の説明
水衛所とは、江戸市中への水を確保するため、水番人と呼ばれる人が常駐していた場所です。
水番人は、玉川上水に流れる水量の確認や周辺の巡回、流れてくる落葉の掃除などを行っていました。
水衛所は、江戸時代には奉行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。


境水衛所跡
境水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、
明治27年に”水番所”を”水衛所”と名前を変え、引き続き職員(水衛)が常駐し、玉川上水の点検や
清掃などを行っていました。
その後、淀橋浄水場の廃止に伴い、玉川上水への通水を停止したことから、境水衛所は昭和55年3月に
廃止されました、と説明が続いている。


境水衛所跡で水分補給をして、


さらに上流へ進むと、”史跡玉川上水の碑”があった。
平成15年8月27日に国の史跡に指定されている。
史跡指定の範囲は、羽村取水口から四谷大木戸まで約43Kmのうち、下流部の暗渠を除いた約30Km


10時45分、境橋バス停前を通過し、


玉川上水に沿って緑道を進む。


玉川上水緑道を進む。


『休憩できるようなちょっとした場所が欲しいんだよねっ』
しかし、それらしき場所は見つからない。
しばらくは歩く他なさそうだ。


くぬぎ橋を通過


続いて曙橋を通過。


さらに玉川上水緑道を進む。


玉川上水は五日市街道と並行している。


11時2分、桜堤歩道橋の下で一休みすることにした。
軽いお茶タイムである。
ここならそれほど通行人の邪魔になることはないだろう。


右手に小金井公園らしき森が見えて来た。


11時8分、梶野橋に到着。
東小金井駅はこの左1.2Kmとある。


梶野橋を渡ったところで玉川上水の左岸(上流に向かって)へ。


玉川上水の左側(上流に向かって)を進む。
浴恩館公園へ向かうためである。


関野橋を通過し、


都立小金井公園正門前の平右衛門橋を通過すると、


名勝小金井櫻の碑があった。
小金井櫻は、大正十三年(1924)に「名勝」として国から指定を受けたものであり、
古く徳川時代から明治大正を経て今日に至っております、とある。(以下略)
『小金井櫻はかつては名勝だったんだぁ』
小金井桜の起源は元文二年(1737)江戸幕府の新田開発の一環として、
玉川上水の両岸に植樹されたヤマザクラの並木のこと。
奈良県の吉野山と茨城県桜川から取り寄せたとされる由緒ある桜、だそうだ。


上水桜通りを進むと、浴恩館公園の案内板があった。
『ここを左に曲がって220mって書いてあるよっ』


案内板に従って、住宅街を進む。


『案内がないと分らないわよね~っ』


細い路地を進んで行くと、右手に林が見えて来た。
浴恩館公園と思われる。


11時28分、浴恩館公園に到着した。


浴恩館公園
浴恩館公園は、昭和三年(1928)御大典の際、京都で使用された建物を青年修養道場として
下賜されたものを多数の青年の奉仕によって移築、皇室の「御恩に浴する」との意味で
「浴恩館」と名付けられた建物を中心に、全国から集まった若者が自給自足をしながら
共に人生を語り未来を夢みた生活学校の場であった所を、公園として整備したものです。
小説「次郎物語」は、下村湖人が初代館長として、若者達の指導に当りながら、この地をモデルに
構想を練り、次郎の少年時代を描いたものです、とある。


浴恩館
市内の考古資料・古文書・民具をもとに小金井市の歴史・民族について常設展示されている。


浴恩館資料展示室(1)


浴恩館資料展示室(2)


11時53分、浴恩館公園を後にして、小金井公園を目指す。


小金井公園の正門前に架かる平右衛門橋を渡り、


五日市街道を横断して、小金井公園の正面へ。


『かなり広そうだね~っ』
園内地図で現在地を確認して、園内へ。


パンジーで彩られた花壇のプロムナードを進む。


『素敵な色だねっ』


突き当たりを左へ曲がり、


江戸東京たてもの園へ。
『うわ~ 随分広いんだね~っ』
小金井公園は、面積約80Ha(日比谷公園の約4.9倍、上野公園の1.5倍)の広さを誇る、とある。


堀の向こうに江戸東京たてもの園250mの看板が。


堀に沿って進んで行くと、


ちょっとした人だかりが。
皆さん真剣にカメラを構えているが・・・


レンズの先には・・・何とあの”青い宝石”とも言われるカワセミが。


『こんなに近くで見るのは初めてだよっ』
『人馴れしているのか、逃げないんだよねっ』
いつも首からカメラをぶら下げているKSさんはもう嬉しくて堪らないといった様子だった。


旧宇和島藩伊達家の表門を過ぎると、


江戸東京たてもの園入口(ビジターセンター 光華殿)に到着した。
入園料は、一般400円のところを65歳以上200円を払って園内へ。
12時15分を少し回ったところだったが、お昼を武蔵小金井駅周辺を予定しているため、
(ちょっと短いが)30分後にはこの場所に集まってもらうことにした。
ビジターセンターは、昭和15年(1940)に皇居前広場で行われた紀元2600年記念式典のために
建設された式殿で、昭和16年に小金井公園に移築され、光華殿と命名された。
江戸東京たてもの園の開園にあたり、ビジターセンターとして改修された、そうである。


江戸東京たてもの園は、江戸東京博物館の分館で、失われてゆく江戸・東京の
歴史的な建物を移築保存し展示する目的で東京都小金井市の都立小金井公園内に
設置された野外博物館である。
時間が余りないので、速足で園内を回ることにした。
旧自証院御霊屋
尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振の方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために
建立した御霊屋。
東京都指定有形文化財


高橋是清邸
明治から昭和の始めにかけて国政を担った高橋是清の住まいの主屋部分。


西川家別邸
北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家西川伊左衛門が隠居所及び接客用に立てた邸宅。
多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正期から昭和初期)に建てられ、
よく吟味された部材が使われている。


江戸東京たてもの園の園内には、武蔵野の面影を残した雑木林が広がる。


園内から見た伊達家の門
旧宇和島藩伊達家が大正時代に東京に建てた屋敷の表門。


天明家(農家)
江戸時代、鵜ノ木村(現在の大田区内)で重職を務めた旧家。
正面に千鳥破風をもつ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえる。
小金井市指定有形文化財


武居三省堂(中央)
明治初期に創業した文具店で、当初は書道用品の卸をしていたが、後に小売店に変わった。
花市生花店(右)
昭和初期に建てられた花屋。建物は花屋らしくデザインされている。
左の建物は、東ゾーンにある店蔵型休憩棟で、1階は無料休憩所になっている。
2階には武蔵野の伝統の味を伝える手打ちうどんや日替わり弁当を食べられる
たべもの処「蔵」がある、とのこと。


丸二商店(荒物屋)
昭和初期に建てられた荒物屋。
小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様を形作り、建物の正面を飾っているのが特徴。


植村邸
建物の前面を銅板で覆ったその姿は看板建築の特徴をよく表している。
外観は、全体的に洋風にまとまっているが、2階部分は和風の造りとなっている。


大和屋本店(乾物屋)
港区白金台に昭和三年(1928)に建てられた木造3階建ての商店(乾物屋)


小寺醤油店
大正期から現在の港区白金で営業していた店。
味噌や醤油、酒類を売っていた。


店内にはたくさんの醤油の一升瓶や、サントリーのウィスキー(だるま)が並べられていた。
『昔は醤油屋でもウィスキーなんか売ってたんだぁ』


店奥の棚にも醤油の一升瓶がびっしりと並べられていた。


銭湯「子宝湯」
東京の銭湯を代表する建物。
神社仏閣を思わせる大型の唐破風や玄関上の七福神の彫刻、脱衣所の格天井など
贅を尽くした造りとなっている。


男性用脱衣所


旅館「萬徳」
青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館。


旅館「萬徳」の内部


旅館「萬徳」の裏手には五右衛門風呂や


井戸もあった。


仕立屋
明治初期に現在の文京区向丘に建てられた出桁造りの町家。


鍵屋(居酒屋)
台東区下谷の言問通りにあった居酒屋。
震災・戦災を免れた鍵屋は、安政三年(1856)に建てられたと伝えられている。


都電7500形
渋谷駅前を起終点とし、新橋・浜町中ノ橋・神田須田町まで走っていた車両。
交通流の急激な増加に伴い、都電は荒川線を除いて昭和38年(1963)から順次廃止された。


都電の内部


『んっ これは何?』
上野消防署(旧下谷消防署)の望楼上部とある。
望楼は火の見櫓の近代版のこと。


三脚四層式外廊型で、旧所在地では約23.6mの高さがあった。
昭和45年まで使用された、そうである。


万世橋交番
正式名称は須田町派出所。
デザインや建築様式から明治時代のものと推定されている。

ここまでセンターゾーンと東ゾーンを見て回ったが、まだ西ゾーンが残っている。
とても30分そこらで見て回れるものではない。
もっとゆっくりと見て回りたいが、予定の時刻になったので、ビジターセンターへ急いだ。

13時1分、江戸東京たてもの園を後にして、たてもの園前広場を進む。


たてもの園前広場にはたくさんの桜の木(ソメイヨシノ)が植えられている。
多くの花見客で賑わい、「桜の園」では約430本の多彩な桜が春を彩る、とのこと。
一度花見の時期に訪れてみたいものである。


正門口を出て五日市街道を横断すると、玉川上水に架かる陣屋橋がある。


玉川上水に沿って進み、


小金井橋を左折して武蔵小金井駅に向かう。
小金井橋から見た玉川上水。


小金井街道を武蔵小金井駅へ。


『いやぁ 今日はけっこう楽しかったね~』
満足そうな笑顔のTKさんである。
『しかし、お腹が空いちゃったよねっ』


大松木之下の稲荷を通過
境内に御神木の大きな松の木があったことから名付けられ、「赤稲荷」とも呼ばれていた、そうだ。


13時29分、武蔵小金井駅前に到着。


この日は武蔵小金井駅前で解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


いつものメンバーは、食事場所を求め、武蔵小金井駅東口へ。


駅近くのイトーヨーカドービルに入ってみたが、フードコートしかなかったため、近くの別のビルへ。
いくつか店はあったが、どこも満席でかなり待たなければならない状態だった。
これ以上探すのは困難と判断し、ちょうど目の前にあったサイゼリアへ。
ここでもしばし待つことになった。


とりあえず生ビールを注文し、
『かんぱーいっ』 『お疲れさま~っ』


『いやぁ 空き腹だからビールが美味いよねっ』


皆さんはめいめいお好みのものを注文
自分は、デミグラスソースのハンバーグを注文した。


食後は武蔵小金井駅へ向かい、中央線で東京駅へ。
東京駅から16時26分発の常磐線に乗り換え、帰路に就いた。
最後にもう一度 『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


武蔵境駅を出発し、玉川上水緑道から小金井公園へ歩いた。
小金井公園はとにかく広かった、という印象が強い。
面積は約80Ha(日比谷公園の約4.9倍、上野公園の1.5倍)というから驚きだ。
先月24日に訪れた舎人公園が69.5Haなので、小金井公園の広さが解る。

江戸東京たてもの園のセンターゾーンと東ゾーンを見て回ったが、時間が全く足りなかった。
時間の制限があったためだが、もっとゆっくりと見て回りたかったというのが正直な気持ち。
30分そこらで戻ってくるように皆さんに要請したのは申し訳なかったと思っている。
始めて訪れる場所だったこともあるが、その広さを全く認識していなかったのは、大きな反省点だ。

この日の万歩計は、15,000歩を越えていた。
予想以上に歩いたものだと思っている。

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