ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿2日目)

2018年06月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2018年6月25日(月)

2015年(平成27年)1月から翌(2016年)4月にかけて、旧街道(特選12コース)を歩いたが、
仲間から『是非続けて欲しい』との声があり、今年(2018年)は「旧街道を歩くⅡ」
と称して、新たな”街道歩き”を始めた。

「旧街道を歩くⅡ」第四回(2日目)は、甲州街道蔦木宿(すずらんの里駅)~
金沢宿(JR茅野駅)間を歩いた。

2日目の朝
しっかりと朝食(830円)を摂って、


7時33分、ちのステーションホテルを出発!


茅野駅前ビルのベルビアを左に見て、


7時35分、茅野駅に到着
ホテルから僅か2分である。


駅弁は、9時半過ぎにならないと販売されない、とのことなので、
駅売店で昼の弁当(おにぎり)や飲み物を買い、


上りホームで電車を待つ。


下り松本方面のホームは、通勤・通学の人でいっぱいだ。
『けっこう通勤・通学の人が多いんだねっ』


7時59分発の上り電車に乗り、


8時9分、2つ先のすずらんの里駅に到着


すずらんの里駅から旧甲州街道(国道20号)方面を望む。
空には雲一つなく、今日も良い天気だ。
『かなり暑くなりそうだねっ』


8時11分、すずらんの里駅を出発し、この日のゴール金沢宿茅野駅を目指す。
『暑さに負けず頑張りましょうっ!』


国道20号神戸八幡交差点を右に曲り、


国道20号を進む。


国道20号が分岐する所を左に進む。
昨日一度歩いているので、迷うことはない。


分岐点を左に少し進むと、たくさんの馬頭観音碑が並んでいる。


緩やかな坂道を上って行くと、


御射山神戸一里塚に到着した。
こちらは東の榎の一里塚
御射山神戸一里塚は、集落の北外れにあって、日本橋から48里目(49里との説も)
の塚と云われ、明治中頃までその役割を果たしていた。
道路右側の東塚には榎が育っていたが、明治初期に枯れてしまったという。
現在の榎は2代目になるのだろうか?


西の欅の一里塚
残っている西塚の欅は、塚が造られた慶長年間に植えられたものと推定され、
樹齢は凡そ380年を数える。
現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9m、樹高は約25mの巨木となり、
永い歳月と風雪に耐えて堂々たる風格を備え、樹勢もなお盛んである。
甲州街道でこのように塚・欅ともに往時のものが保存されている例は他になく、
実に貴重な存在である。
(平成10年3月 富士見町教育委員会)


標高917mの標柱が建てられている。
『標高1,000m近いんだねぇ』


旧街道を進んで行くと、


高層マンションのような建物が現れた。
SEIKO EPSON社の社員寮「金沢精和荘」と思われる。
『随分立派な建物だよねっ』
『福利厚生がしっかりしてるんでしょうねっ』


旧街道を進む。


旧街道を進む。


庚申塔や百番四国供養塔などの碑を眺めながら進むと、


8時53分、国道20号に出た。


国道20号を進むが、どの辺りを歩いているのか見当がつかない。


小さな神社が見えたので、立ち寄ってみることに。


石段を上って行くと、金毘羅様が祀られていた。
金毘羅様の元宮は、四国香川の琴平町の象頭山の中腹に祀られている。
祭神は、大国主命で海の守護神と商売繁盛の神様である。
江戸時代、宿場町であった金沢は、商業活動が盛んであったため、
商売繁盛の神様である金毘羅様への信仰が深まり、ここに金毘羅神社が
祀られた、とある。


再び旧街道に戻って国道20号を進む。
金沢上町バス停を通過


曹洞宗金鶏山泉長寺の入口と思われるが、本陣跡を探すのに夢中になってしまい、
門前で引き返してしまった。


金鶏山泉長寺は、諏訪三十三観音霊場の三番札所になっており、
本尊は、釈迦如来である。
(写真は聖観音菩薩像)


旧街道(国道20号)を進む。
本陣跡らしき碑あるいは建物を探すが見つからない。


9時18分、信濃金沢郵便局前を通過
その先に、


連子格子の古い家があった。旅籠松阪屋だった。
旅籠松阪屋は、宿場一番の旅籠として繁盛し、当時は博打も盛んに行われ、
博打場や逃げ道(地下通路)もあったと云われております。
先祖は、伊勢の松阪より金沢宿に来た人と伝えられ、江戸時代に出版された
旅行案内書に「松阪屋は女・子供でも安心してお泊りいただけます」と
宣伝文が載せられていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


松阪屋は、明治20年に全焼したが、その後再建されたのが現在の建物である。
江戸時代後期の旅籠屋の様式を伝えている貴重な建造物であり、
昭和の初期まで営業を続けていた、とのこと。


横棟造りの古くて大きな家があった。
中馬宿(馬宿)である。
宿場の任務は3つあり、公用荷物優先運搬の人馬の継立て、旅人の休泊、
通信業務でした。
幕府は、この業務のために人足と馬と馬子を常備させ、問屋が取り仕切っていました。
江戸中期以降商業が盛んになり、荷物の動きが多くなると、問屋経由の運搬では
間に合わなくなり、私設の中馬荷物問屋(中馬宿)が発達しました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


この馬宿は、江戸時代から明治38年までの150年間、小林家が中馬宿を営業していた。
当時は24頭の馬と馬方を泊めることが出来た。
軒先には「馬繋ぎ石」を見ることができる、とのことだが、あいにく見落とした。


門前に秋葉常夜灯と刻まれた石柱が建てられていた。
灯籠ではなく、電燈で照らすようになっている。


宮川に架かる金沢橋の手前にフェンスを背にして、
仏像や石碑などが十数基が並んでいる。


道祖神やちょっと変わった表情のお地蔵さんもある。


宮川に架かる金沢橋を渡る。
往時の川幅は7間(約12.6m)あった、そうだ。


右手にこんもりした森があった。
承応三年(1654)建立の金山大権現を祀っている権現の森である。
江戸から甲府までの甲州道中(甲州街道)が下諏訪まで延長されたのは
慶長15年(1610)の頃である。
その頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいたが、
度重なる宮川の洪水や慶安三年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、
翌四年に金沢宿と宿名を改めた。
この宿場は山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、
交通上、物資の流通上重要な所であった。
(茅野市教育委員会)


権現の森の鳥居を潜って参道を進む。


参道の突き当りに金山大権現が祀られている。


権現の森のご本体である。
祭神は、金山彦命を祀る金山権現である。
金山彦命は、鍛冶屋・鉱山関係の金鶏金山に関係した神様と思われる。


金山権現の石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた、
大六天・津島牛頭天王、


不動明王、


摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔、


蚕玉大神など大正期までの石造物が祀られている。
権現の森境内には他にも、御嶽座王大権現・如意輪観音・庚申・道祖神石祠
などが祀られている。


御柱も立っている。


権現の森で一休みだ。


権現の森を後にして旧街道を進む。


旧甲州街道
権現の森の前から通るこの道は、旧甲州街道です。
この街道沿いに青柳宿(旧金沢宿)がありました。
五街道制定時、武田信玄によって造られた青柳宿は、幾度も宮川の氾濫に
悩まされていたところへ、更に大火で青柳宿が全焼したのを契機に、
慶安四年(1651)東南方向の現在の金沢区に宿場を移し、金沢宿と改称しました。
この地は、戦国時代は武田信玄によって営まれ、江戸時代になって徳川幕府は
それを継承して宿場として本陣や問屋が置かれていました。
(金沢地区コミュニティ運営協議会他)


国道20号を右手に見ながら旧甲州街道を進む。


枡形道の外れと思われる鉤の手を右に折れ、国道20号へ戻り、


国道20号を進む。


3人は旧甲州街道枡形道の先をそのまま進んでいる。
農道のような径が続いているのだろう。
国道20号を歩くより安全だとは思うが・・・


長野精工金沢工場入口に到着。
真っ直ぐ進んだ3人が合流して曰く、万年橋と書かれた橋があった、とのこと。
交通量の多い国道20号を横断して行くのも大変なので、万年橋は諦めることにした。


国道20号を進む。


個人宅の庭先に大黒様らしき大きな像があった。
『何か御利益があるのかしらっ?』


古そうな蔵(倉庫)である。


旧甲州街道は折り返して坂道を上るように案内されている。


標識に従って急坂を上って行くと、


坂道の途中に簡素な鳥居と大きな石碑があり、低い御柱が立っていた。
石碑の字は読めないし、説明など何もない。


坂道を上って行き、


中央本線(茅野方面)を跨ぐ。


線路を渡ると、旧街道は直ぐ左手の坂道を下っていく。


前方頭上に道路が走っている。
国道20号に繋がるのぞみ大橋か?


旧街道を進む。


小早川橋を渡ると左に南無阿弥陀仏と刻まれた碑が立っていた。
無縁仏を供養する碑なのだろうか?


小さな川(宮川)に沿って進むと、


電車が走って行くのが見えた。


中央線のガードを潜る。


旧街道を進むが、道が狭い割には交通量が多い。
大型車も通るので、最大限の注意が必要だ。


鮎釣り(友釣り)をしている人が。
釣果は定かではない。


11時6分、旧街道は国道20号に合流した。


合流点に立ち並ぶ石像群
常夜燈や二十三夜塔などの石像が多数集まっている。


一級河川の弓振川を渡り、


次の坂室交差点を右に曲がると、


11時10分、酒室神社があった。


酒室神社は、諏訪大社の祭礼のひとつである御射山祭りに濁酒(どぶろく)を作り、
山の神に供える前夜祭を執り行った神聖な地に祀った神で、
酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。
神殿は文政八年(1825)大隈流の建築家矢崎玖右衛門の建築したもの。


酒室神社


お昼にはちょっと早いが、ここで弁当にしよう。


この日の弁当は、茅野駅で買った明太子と南高梅のおにぎりである。


酒室神社を後にして、旧街道を進む。


前方に見えるのは中央自動車道だ。


中央自動車道を過ぎ、旧街道らしい町並みを進むと、


三山神社入口の案内表示があった。


階段を上って行くと、


碑が並んでいただけだった。
神社らしき鳥居や社殿などは見当たらなかった。


旧街道に戻って進むと、


蔵造りの家が現れた。
「米膳かくい」とある。


お米屋さんが経営している和菓子屋である。
メニューは、おはぎ・だんご・くるみ大福・豆餅・あんころもち・赤飯など。


さらに進んで行くと、道路を横断して観光客がぞろぞろと
建物の中に入って行くのが見えた。


道路反対側には大型観光バスが止まっていた。


12時10分、宮川三輪神社に到着
三輪神社は、久寿年間(1154~56)の創建で、大和の国三輪村神社を
この地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。
祭神は大国主命・稲御魂命・櫛玉命である。


拝殿は、文政三年(1820)に建築されたが、明治41年に改築している。


本殿は、文化元年(1804)3月に矢崎玖右衛門により建築されたもの。


神社に隣接する古めかしい三階建ての土蔵は、寒天を保存するのに使われた
「かんてんぐら」で、以下の説明が。
この建物は、昭和の初期、岡谷に在った繭倉を移築し、寒天倉庫として
使ってきたものです。
明治から大正期、岡谷は製糸で栄えていました。
昭和に入り、製糸が下火になるのと入れ替わるように、ここ茅野では
寒天作りが盛んになっていました。


「かんてんぐら」は、そんな背景の中、岡谷から移築されてきたものです。
繭倉として建てられてから築百年以上と考えられています。
寒天倉庫としての役目を終えたこの「かんてんぐら」を、平成21年、
多目的ホールに改装して、現在は音楽をはじめとする様々なイベント等で
使用しています。(宮川くらの会)


道路の反対側を見ると、蔵造りの建物が並んでいる。


醸し丸と書かれた看板には、八ヶ岳 蔵元直営 麹カフェとある。


その隣は、丸井伊藤商店とあり、店先に大きな樽が置いてある。
味噌の漬物店のようだ。
先ほどバスから降りた観光客が入っていった建物である。
工場見学にでも入っていったのだろうか?


食事処「やまと」、


すっぽん料理屋「月とすっぽん」前を通り過ぎ、


12時22分、上川に架かる上川橋を渡る。
上川は往時、茅野川と呼ばれ、川幅60間(約108m)の大河であった。


上川の水源は八ヶ岳で、流末は諏訪湖に落ち合う。
遠くに八ヶ岳が見える。


『あの建物は、私たちが泊まった所だよねっ』
ちのステーションホテルである。


茅野駅に向かう。
その前に、茅野駅南に大鳥居があるというので、見てゆこう。


茅野駅前交差点に諏訪大社上社本宮参拝道の大鳥居があった。
諏訪大社上社本宮は、歩いて行ける距離ではない、そうなので、
この日はここまでとした。


駅前ビルのベルビア内を通って茅野駅へ。


12時35分、茅野駅に到着
5分ほど前(12寺30分)に特急あずさ16号が出たばっかりだった。
次の特急スーパーあずさ18号は、13時33分である。
約1時間ここで時間を潰すことになる。


茅野駅前に姥塚古墳があった。
かつてはこの地に古墳が存在した、そうだ。
明治37年(1904)茅野駅開設に先立ち取り壊され、その際に装身具・鏡・
土器等が出土している。
また、昭和61年(1986)駅舎改築及び西口整備の際には、
それまで残されていた石室の一部も撤去され、現在は標示が立つのみである。


30分ほど駅の周辺や待合室で過ごしていたが、駅ホームの方が涼しいのではないか、
ということで、駅ホームに移動して時間を潰す。


『やっぱりこっちの方が涼しいねっ』


13時33分、特急スーパーあずさ18号がやって来た。
特急スーパーあずさ18号の自由席はかなり空いていた。
新宿までに停車した駅は、甲府・八王子・立川の3つだけで、
新宿には15時33分に到着した。早い!

『皆さん 今日は大変お疲れさまでしたぁ』

「旧街道を歩くⅡ」第四回目甲州街道(教来石宿~金沢宿)(2日目)を歩き終えた。
御射山神戸一里塚は前日にも見たが、その素晴らしさには、やはり感動した。
今後何百年も残って欲しいものである。
金沢宿では本陣跡を探すのに夢中になって、金鶏山泉長寺山門前にあるとされる
「おてつき石」を見逃したのは、残念である。
また、本陣跡も見つけられなかったのは、残念至極という他ない。


次回(2018年9月)は、甲州街道の最終回として金沢宿~下諏訪宿を予定している。
2日目は、諏訪湖の残り半周を歩くことも予定している。
次回はどのような景色を観ることができるのか、今から楽しみである。

この日の万歩計は18,000歩を計測していた。

特選街道Ⅱ 第4回 甲州街道(教来石宿~金沢宿1日目)

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1 コメント

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庄やでの1コマ♪ (ひろ)
2018-07-08 11:29:54
早速 約束通りの写真アップありがとうございます♪
皆さんのお元気な姿に力を分けて頂き 益々 仕事に恋に精進してまいりますww

これからもお身体に気を付けて楽しい皆さんのブログを楽しみにしてます♪
事故にもお気を付けて甲州街道を楽しんでくださいね(o´∀`)b
またお会いできることを楽しみにしてます☆
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