ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日光街道を歩く 第8回 宇都宮宿~徳次郎宿

2013年07月03日 | ウマさんの「旧日光街道」を歩く
2013年7月3日(水)


2011年4月から12月にかけて旧水戸街道を、そして2012年2月から5月にかけて、成田街道を歩き終え、
仲間の方たちから次の”街道歩き”を望む声が次第に大きくなってきた。
Webなどを参考に検討を重ねた結果、大部分が日帰り可能な「日光街道」を歩くことにした。

第8回目となるこの日は、宇都宮宿(JR東北線宇都宮駅)から徳次郎宿(六本杉)までの約15Kmを歩いた。
(宇都宮駅から日光街道と奥州街道の分岐点の追分までの約2Kmを含む)
当初予定していた6月19日(水)が雨で延期となり、1週間後の26日も雨で再度の延期を余儀なくされ、
3度目の正直で、この日実施することになった。

水戸線友部駅で小山行き電車を待つ。
ホームには通学の高校生がいっぱい。


小山行き電車が入ってきた。


水戸線車内
笠間駅を過ぎると車内は空席が目立つようになる。


水戸線終点の小山駅で東北線宇都宮行きに乗り換える。


東北線車内
この日の参加者は10名となった。


笠間から乗車したD子さんは、娘さんを連れての参加である。
このような飛び入り参加は大歓迎だ。


9時40分、出発地の宇都宮駅に到着した。


2週続けて延期となったが、この日も天気はあまり芳しくない。
NHK,Yahoo,Weathere NEWSによると、昼頃には”雨”の予報も見られた。
この日ストレッチ担当のUさんは都合が悪くて不参加である。
そのため準備体操は省略し、少しでも先を急ぐことにしよう。
9時55分、徳次郎宿目指して、いざ出発だ!!


ギョーザの幟がたなびく宇都宮市内を進む。


田川を渡る頃、宇都宮駅を出発して間もないのに雨がパラついてきた。
『予報より随分と早いんじゃないの???』


まだ傘を差すほどではないが、この先雨中行進になるかもしれないと思うと、気が重い。


二荒山神社前を通過。
前回、お参りを済ませておいて良かった。


宇都宮市内伝馬町付近を進む。


『これ、追分の標識じゃない?』
『日光街道と奥州街道の分岐点だとしたら、ここを曲るんだねっ』


文字が擦れていて読みづらい。
他には特に標識らしいものは何もないし、もう少しで見過ごすところだった。


清住町通り(旧日光街道)を進む。
ところどころに旧い建物があり、旧日光街道の面影が感じられる。


この日最初に立ち寄った三峰神社
天保三年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を頂き建立祭祀したのが始まりと云われている。


宝勝寺


宝勝寺
鎌倉時代に宇都宮景綱が蓮池の底から救い出した阿弥陀如来のために草庵を建てたのが開基という。


宝勝寺に参拝の後、少し進むと・・・
道の反対側に立派な門が見えた。


桂林寺(左)と琴平神社(右)が隣り合わせて建っている。


立派な門の桂林寺
応永三年(1396)の開山で、元和六年(1620)に現在の場所に移された。
境内には蒲生君平の墓がある。


琴平神社
四国で有名な金比羅さんが祀られている。


黄鮒の最中が売りの「たまき」
建物は古いが、昭和51年(1976)「四季の器と工芸品の店」として創業したというから比較的新しい。
昔、宇都宮に天然痘が大流行したことがあり、当時は良い薬もなく、人々は成り行きに任せる以外に方法がなかった。
ある人が田川で黄色の鮒を釣り、これを病人に食べさせたところ、不思議にも天然痘が治ってしまっただけでなく、
黄鮒を食べた人は病気にかからなかったそうだ。
しかし、黄鮒はそう簡単に釣れるものではないため、張子のキブナが初市で売られるようになった。
以来、宇都宮では新年に黄鮒の張子を神棚に飾り、無病息災を祈る習慣が残っているのだそうだ。
平成16年、宇都宮の郷土玩具「黄ぶな」をモチーフにした最中を「たまき」が創作。
以来改良を重ねて現在第7世代の黄鮒になっている、とのこと。


清住通りと国道119号線が合流する松原3丁目交差点
横断陸橋を渡って道路の反対側へ


母親に『今日の距離は短いから』と誘われて参加したと言う。
元気いっぱい、にこやかな顔が可愛い。


陸橋から桜通り(宇都宮市街地)方向を見たところ。


栃木県体育館前を通過。


中戸祭付近、確かこの辺りに「宝の木」があるはずなのだが・・・
近くの人に訊ねるが、誰も知らないとのこと。
近くを手分けして探し回り、大分時間を費やしてしまった。


「宝の木」は諦めて、先を急ごうとしたところ、
ちょうど目の前に交番があったので、会員の一人が念のためにと聞いてみることに。
巡査も知らなかったそうだが、親切にも近所の年配の物知りの方を紹介してくれたと言う。
直ぐに年配の人がやって来た。
「宝の木」なるものを探していることを伝えると、『自宅に本がある筈』と家に引き返してしまった。
しかし、なかなか戻ってこない。
せっかくの好意なので、断らずに立ち去る訳にもいかない。


年配の人が戻って来るのを待つこと15分。
ようやく戻ってきたが、本は探し出せなかったようだ。
『「宝の木」は直ぐ近くだから』と案内してくれた。
最初から案内してくれれば良かったのに・・・


探していた「宝の木」は、栃木医療センターの敷地内にあった。
かつて案内してくれた方が通った小学校が近くにあったそうだ。
『これが「宝の木」かぁ』
『もっと大木かと思ったけどそんなに大きくないねぇ』


寛文十年(1670)頃、この辺りに六軒と呼ばれた集落があり、広さ約100㎡、高さ約4mの
古墳のような大塚があり、そこに老木が一本あった。
名も知れぬまま当時の住民は「宝の木」と呼んでいたという。
明治の土地割の際には、この地区をこの木にちなんで宝木村と称したという。
猿の手柏(コノテカシワ)の木で樹齢は450年だそうだ。


栃木医療センター入口に桜の古木があった。
推定樹齢は不明だが、案内してくれた氏の先祖が植えたものだそうだ。


氏に丁重にお礼を述べ、先を急いだ。
『何とか「宝の木」を観ることができて良かったよねっ』


ほどなくすると、並木道が始まった。
櫻や杉など何種類かの木が植えられている。


中央は車専用で、歩行者は両側の一段高いところを歩くようになっている。


上戸祭(かみとまつり)一里塚
江戸日本橋から28里目の一里塚。
昭和58年に一部修復、整備がなされた。


道路反対側にも一里塚の碑が建てられているが、碑があるだけだ。


こちらは昭和59年に一部修復、整備がなされた、とある。


一里塚のほぼ正面に大学のキャンパスがあった。


上戸祭一里塚を観た時には時計は12時を少し過ぎていた。
お腹も空いたし、ここらで弁当にしよう!
幸い宇都宮市内を通り抜ける頃から雨は止んでいた。
『外で弁当が食べられるのは、ラッキーだね』


親子で弁当タイム、まるで姉妹のように仲良く、微笑ましい。


昼食後、日光を目指し、日光街道(国道119号線)を進む。
並木道はまだ続く。


並木道を過ぎると日光街道は広くなった。
気温が上昇し、大分汗をかくようになってきた。


光明寺
鎌倉時代に野沢大夫が僧・宥憲を招き石塚の地に玉塔院を建立、これが寺のはじまりとされる。
万治三年(1660)に記録類は焼失。
寛文十一年(1671)醍醐光台院より僧・早開が来住し現在地に移建し光明寺に改めた。
将軍の日光社参時の休息所となった寺で、寺の前には立場があった、とのこと。


光明寺の楼門の鐘楼
堂々たる構えの門は将軍が立寄ったという風格が漂う。


鐘楼の観音像が印象的である。
関東三十三観音霊場・第二十三番札所、関東八十八ヶ所霊場・第二十三番札所にもなっている。


光明寺にお参りしていこう。
ご本尊は大日如来だ。
源義経を慕う静御前が当地を訪れ、守本尊の薬師仏を納め、手にしていた桜の杖を塚にさして
義経の武運長久を祈願し、後に杖から芽が出て大木となった、との言伝えがある、そうだ。


境内には弘法大師像がある。
「南無大師遍照金剛」


ビルマの鐘
太平洋戦争に宇都宮の部隊がビルマに遠征し、悪戦苦闘の末、多数の将兵が戦病没した。
その50回忌に当る平成6年11月、宇都宮仏教会慰霊法要団がミャンマーを訪問した際に、
シュエダゴォンパゴダ(ヤンゴン市街の北側、シングッダヤの丘に建つ100mもの高さを誇る壮大なパゴダ)
から贈られた鐘、とのこと。
木槌で叩くと澄み切った音色が境内に響き渡った。合掌!!


しばらく日光街道を進むとまた並木道になった。


宇都宮北道路(国道119号)
東北道宇都宮IC入口である。


高谷林(こうやりん)一里塚。
この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸日本橋から29里目を示す。
昭和58年に一部修復・整備された。


道路反対側は大きなケヤキのような木が生えており、一里塚のようだ。
しかし、雑草が生い茂っていて、碑が建っているのかどうかは反対側からは伺い知ることは出来ない。


東北自動車道だ。
右側が東北方面になる。


『あの茂みが大谷道道標?』
しかし、歩道からは何も見えない。


信号が青になるのを待って植え込みの中を覗き込む。
『あっこれかぁ 大谷道って書いてある』
『これじゃぁ歩いてたら何処にあるのか分からないわよねっ』


植え込みの中にかつての道標がひっそりと置かれていた。


田舎道のような日光街道を進むと・・・


変わった鳥居のような門が目に入った。


奥へ進んで行くと薬師堂らしき建物があった。


薬師堂の回りには、馬頭観世音像や道標などの石像が集められ、並べられていた。


薬師堂の門の向かい側に、徳次郎城跡300mと書かれた看板があった。
『へぇ~っこんなところに城跡があるのかぁ』
しかし、300mほど先ということは、往復600m以上になる。
時間も既に14時半を過ぎており、疲れが出てきたところだ。
ここは寄り道をしている時間はない、『先を急ごう』ということで、徳次郎城跡はパスすることにした。
また、何かの機会があれば立寄ってみることにしたい。


薬師堂近くの道路脇空き地で一息入れる。
最後の休憩だ。


前方にこんもりとした森が見えてきた。
智賀都神社(ちかつじんじゃ)だ。


智香津神社の手前に「日光高原たまり漬け」の店が。
智香津神社は置いといて、皆さん土産に興味があるようだ。何人かは店の中へ。
買い物をしている間に一休み。


智香津神社
鳥居のすぐ後ろに大きなケヤキの木が2本。


樹高はどちらも40m、推定樹齢は700年というから古い。
日光東照宮より300年以上も前から立っていたことになる。


無事ここまで歩けたことへ感謝の念を込めてお参りしておこう。
雨にも降られなかったことのお礼を述べておかなくちゃ。


徳次郎六本杉
道路の分離帯に、往時の杉並木が再現されている。
8本に見えるが、2本は街路灯用の柱である。


15時ちょうど、六本杉バス停に到着した。
今日は思ったより疲れたので、この日はここをゴールにしておこう。
次回はここから歩くことになるのだ。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


15時5分発の宇都宮駅行きバスは貸切状態である。


40分ほどで、宇都宮駅に到着した。
この後、東北線・水戸線・常磐線を乗り継いで家路についた。



この日の徳次郎宿で「日光街道」(千住宿から日光東照宮までの約140Km)の約85%(120Km)を歩いたことになる。
残りはあと約20Kmとなった。
次回はいよいよ最終回、「日光杉並木街道」を歩くことになる。
徳次郎六本杉を出発し、今市で一泊。翌日日光東照宮を目指す予定である。
最後まで皆さんと一緒に楽しく歩き、元気にゴールを目指したい。


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