2018年8月18日(土)
この日訪れた島原城は、森岳城(もりだけじょう)とも呼ばれる。
九州外様大名への押さえに築かれた巨大天守の城である。
島原城は、元和四年(1618)に松倉重政が築城を開始した。
しかし、築城のための課役、キリシタンの弾圧、過酷な年貢などが要因となり、
農民たちが天草・島原の一揆を起こした。
原城に立て籠った一揆勢は鎮圧されたが、一揆を押さえられなかった責任を取らされて
松倉氏は断絶。
その後、城には高力氏、松平氏などが入った。
城は南から北へ本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式の縄張であった。
当時は、五重五階の天守を中心に3基の三重櫓が建ち、平櫓は33基あった。
明治になって城は民間に払い下げられて、建物は壊されてしまったが、
昭和35年(1960)に西三重櫓を再建したのを皮切りに、天守、巽三重櫓、
丑寅三重櫓が順次再建されて、本丸の景観がよみがえった。
天守や櫓などは、藩日記や諸記録を元にコンクリートで復元されたが、
石垣は築城当時のもの。
佐世保のハウステンボス近くのホテルを出発して、凡そ2時間後の11時10分、
「日本100名城巡り」最後の城となる島原城に到着した。
昭和39年(1964)に再建された五重五階の島原城天守閣
最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守である。
天守閣の前で”おもてなし女子”たちが踊りを披露していた。
天守閣の正面には土産物店が入った休憩所「城の茶屋」がある。
後で休憩で立ち寄ることにしよう。
島原城入城の前に記念の撮影を済ませる。
今日は「日本100名城巡り」の最後を記念して、かみさんも一緒だ。
11時16分、島原城へ入城
1階の受付で入館券540円を払い、しっかりと100名城スタンプを押し、上階へ。
天守閣の中は、1階はキリシタン史料館、2階は郷土史料館、3階は民族史料館、
4階は観光と物産コーナー、5階は展望台となっている。
1階展示室(1)
1階キリシタン史料展では、島原の乱にまつわる史料を展示している。
潜伏キリシタンが隠し持っていたマリア観音やロザリオなどが印象に残る。
1階展示室(2)
阿蘭陀船
1階展示室(3)
石像マリア観音
1階展示室(4)
マリア観音像
1階展示室(5)
隠しマリア聖像
1階展示室(6)
千々石ミゲル像画
彼は、千々石城主・千々石淡路の守の子で、有馬晴信の名代としてローマへ旅立った。
ローマ教皇に謁見して帰国した彼は、イルマン(修道士)となり活躍するが、やがて棄教。
人知れず生涯を終わる。何が理由だったのだろうか。(説明板)
1階展示室(7)
逗子入り青銅マリア観音像
1階展示室(8)
天草四郎肖像画
1階展示室(9)
影踏・踏絵
1階展示室(10)
原の城攻防図・模型
1階展示室(11)
雲仙地獄の殉教図
2階展示室(1)
2階は郷土史料館となっている。
松平家の鎧をはじめ、数々の藩主や島原城関係の文物を展示している。
2階展示室(2)
2階展示室(3)
3階展示室(1)
3階は民俗史料館となっている。
庶民が使っていた懐かしい生活用品が展示されている。
3階展示室(2)
3階展示室(3)
4階展示室(1)
4階は観光物産コーナーということで、島原市の特産品の他姉妹都市(福知山市)や
兄弟都市(豊後高田市)について紹介している。
4階展示室(2)
また、精霊流し舟や、全国の主な城の写真が展示されていた。
4階展示室(3)
小倉城(左)、中津城(右)
4階展示室(4)
郡上八幡城(左)、大垣城(右)
4階展示室(5)
島原城
最上階(展望台)
最上階からの眺望(1)
西の方向
正面の眉山は、雲仙岳の東に位置する。
最上階からの眺望(2)
北の方向
最上階からの眺望(3)
東の方向(島原湾)
最上階からの眺望(4)
南の方向(上天草方面)
最上階からの眺望(5)
再び西の方向(眉山)
最上階からの眺望(6)
城内古野梅苑に建てられた松倉重政祭祀の祠
最上階からの眺望(7)
丑寅櫓(民具資料館)
最上階からの眺望(8)
巽櫓(西望記念館)
入口の反対側にある専用の出口から天守閣を出て、
城内の櫓を回ってみることにする。
11時55分、先ず北東隅にある丑寅櫓へ向かった。
丑寅櫓は、民具資料館として、明治・大正・昭和の暮らしが偲ばれる品々が
展示されている。
丑寅櫓内部の展示品(1)
丑寅櫓内部の展示品(2)
丑寅櫓内部の展示品(3)
丑寅櫓内部の展示品(4)
丑寅櫓内部の展示品(5)
12時3分、続いて南東隅にある巽櫓へ向かった。
巽櫓は、西望記念館として、島原出身で日本彫塑会の巨匠北村西望の代表作
60点が展示されている、そうだ。
巽櫓手前の公園には、北村西望作の彫刻が展示されている。
北村西望自身の像には、次の句が刻まれている。
「たゆまざる 歩みおそろし かたつぶり」
昭和47年11月18日 米寿西望塑人
北村西望作の彫刻
日蓮上人像『喝!』
巽櫓(西望記念館)から見た天守閣が素晴らしく、その美しい姿に魅了された。
ず~っと眺めていたい気持ちにさせてくれる。
鐘楼の先、
12時9分、西の櫓に到着した。
日本全国の城の絵や各県の特徴あるこけしなどが展示されている。
西の櫓内部の展示品(1)
西の櫓内部の展示品(2)
西の櫓内部の展示品(3)
西の櫓内部の展示品(4)
西の櫓最上階
西の櫓最上階から見た天守閣も美しい。
城内古野梅苑の入口に松倉重政祭祀の祠がある。
この祠は、松倉豊後守重政公と築城工事中に死亡した人々が祀られている。
扁額は松平家十代城主松平忠精公が奉納したもの。
松倉豊後守重政公は徳川家康公に仕え、関ケ原の戦い、大坂冬・夏の陣にも軍忠を尽くした。
大和五条・二見の領主であったが、元和二年(1616)島原半島を領することとなり、
元和四年から7年余の歳月を費やして島原城を築き、以来約250年間政治の中心として栄えた。
城内をひととおり回ったところで、城の茶屋で一休み。
冷たい寒ざらしが甘くて美味しかった。
城外から写真のような島原城を見てみることにしよう。
12時37分、いったんかみさんと分れ、武家屋敷で落ち合うことにした。
島原城入口
正面に見えるのは眉山
振り返って島原城入口から城を見たところ。
正面に見えるのは、西の櫓である。
城入口に向かって右手の石垣と西堀端ハス池
石垣の曲線が美しい。
左手の石垣と堀
アサザがびっしりと水面を覆っている。
左回りに歩いてみる。
具雑煮姫松屋の前を通り、
雑煮姫松屋の前から南堀を望む。
南堀もアサザがびっしりと水面を覆っている。
南堀端通りから西の櫓を望む。
南堀端通りから石垣と南堀を望む。
南堀端通りから東堀を望む。
東堀は、東堀端ハス池になっており、蓮(酔妃蓮)の葉が生い茂っている。
南東隅から巽櫓と天守閣を望む。
五重天守閣と三重巽櫓が、幾重にも屈曲した高石垣上に建ち並ぶ姿は美しくまた圧巻である。
堀越に見る城は、城巡りの醍醐味で、一見の価値ありと思う。
南東隅から巽櫓と東堀を望む。
折れを伴った高石垣は見事だ。
東堀端通りから巽櫓を望む。
東堀端通りから丑寅櫓を望む。
東堀端通りから丑寅櫓を望む。
立派な構えの家
上級武士の屋敷のような風格を感じさせる。
島原名産の味噌・醤油を代々受け継ぐ醸造の老舗
「中屋」喫茶部と
「中屋」海藻部
東堀北詰から丑寅櫓と東堀を望む。
東堀北詰から二の丸を望む。
12時57分、武家屋敷佐久間邸跡の看板があった。
佐久間邸跡には何もなく、小さな公園のような広場だった。
説明を要約すると、
佐久間家は代々郡方勘定奉行を歴任。
二代藩主松平忠雄公時代(1700年頃)に佐久間太郎左衛門が島原藩家臣に召し抱えられ、
知行百石と屋敷を下賜された。(現在地が当時の屋敷跡地)
佐久間家は代々太郎左衛門の名を世襲した。
今では公園ほどの広さの跡地が残っているだけだが、往時は約300坪あり、
写真に写っているような屋敷門を持つ見事な武家屋敷だった、そうである。
二の丸と三の丸の間の広大な堀は、現在は空堀となっている。
堀へ下りる石段もあり、自由に歩けるようになっている。
こちらの一角は菖蒲園になっている、とのこと。
かみさんと落ち合うことにしている武家屋敷方面へ向かう。
市立第一小学校前を通過。
市立第一小学校と県立島原高校の間を通って、武家屋敷を目指す。
正面突き当りの市立第一中学校を右折し、第一中学校に沿って進むと、
13時15分、史跡御用御清水(ごようおしみず)の碑があった。
御用御清水説明板
寛文九年(1669)丹波国(京都府)福知山から入府した藩主松平忠房公は、
武家屋敷一帯の生活用水として水道の設置を行った。
この御用御清水も城主の居館があった三の丸(現県立島原高校と市立第一小学校敷地)の
用水として建設されたことが松平文庫の古文書に記されている。(以下略)
(島原教育委員会)
武家屋敷周辺に到着した。
かみさんとこの辺りで落ち合うことにしているのだが・・・
周辺案内地図で確認して、
市立第一中学校の塀に沿って進むと、
武家屋敷への入口冠木門があった。
武家屋敷街説明板
ここ一帯に徒士屋敷があり、松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせた。
(上士は城内に取り込んでいる)
一軒一軒の屋敷には境界の塀はなく、隣家の奥まで丸見えで、鉄砲の筒の中を覗いたようだ
というので、鉄砲町と呼ばれていた。
鉄砲組すなわち歩兵の居住地帯であったからでもある。(中略)
長さ約400mの屋敷町で、それぞれ約90坪の屋敷に建坪約25坪で、屋根は藁葺。
約700軒あった。
(以下略)
武家屋敷通り
通りの中央を流れる清水は、北方約2kmにある杉谷・水の権現から引いた人工の水路である。
飲用水にもなっていたので、水奉行を置くなどして大切に使用されていた。
武家屋敷
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、山本邸・篠塚邸・鳥田邸の3軒が
一般に無料開放されている。
公開されている山本邸の表門。
藩主から特別許されて立派な門を構えている。
山本邸
屋敷内に入って部屋の中や庭を見渡すと、当時の武家生活の様子が偲ばれる。
六五の井戸
町筋を流れる飲料水が、時代が下って衛生上問題が生じたため掘られた井戸で、
大正六年五月に完成を見たので、それにちなんで六五の井戸と命名した。
台所
水置き場
奥座敷
この家の主が居た場所だ。
居間
家族は通常居間に居た。
裏庭
武家屋敷通り
湧き水の水路が通りの中央を流れる「武家屋敷町並み保存地区」は、
島原ならではの風景。
400mほどの直線の通りの中央を流れる清流や武家屋敷を見ながら歩く。
無事合流したかみさん、武家屋敷通りが気に入ったようだ。
囲碁 武家屋敷の標識
囲碁をやる所のようだが、武家屋敷のようで紛らわしい。
武家屋敷通りを進む。
1軒だけはちみつを売っている店があった。
武家屋敷鳥田邸
鳥田邸
居間
奥座敷
台所
風呂?
これは新しく作られたもののようだ。
武家屋敷通りを反対側から見たところ。
吉田松陰来訪の地
武家屋敷の入口付近に島原藩士・宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷跡があった。
この一帯は、鉄炮町の一角にあたる。
幕末期の当主・宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。
嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。
松陰は「西遊日記」に次のとおり記録している。
「宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル」
(訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことは無い。そのため、
近頃はカノン砲を造る)と、この日守興から聞いた話を書き残している。
(島原商工会議所女性会)
松井老舗(菓子店)前を通り、細い道を進むと、島原城が見えて来た。
島原城入口左側の石垣
島原城入口の坂道を上り、
13時45分、島原城天守閣前に到着した。
「日本100名城巡り」は、今回の島原城が100番目で、100名城全てに登城したことになる。
2010年7月25日の上田城から開始して、足掛け9年掛かった計算である。
もう少し早く達成できるかと思ったが、意外と長く掛かったという印象だ。
このブログをアップしたら、かみさんと二人だけで達成祝いをやろうと思っている。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
この日訪れた島原城は、森岳城(もりだけじょう)とも呼ばれる。
九州外様大名への押さえに築かれた巨大天守の城である。
島原城は、元和四年(1618)に松倉重政が築城を開始した。
しかし、築城のための課役、キリシタンの弾圧、過酷な年貢などが要因となり、
農民たちが天草・島原の一揆を起こした。
原城に立て籠った一揆勢は鎮圧されたが、一揆を押さえられなかった責任を取らされて
松倉氏は断絶。
その後、城には高力氏、松平氏などが入った。
城は南から北へ本丸・二の丸・三の丸が並ぶ連郭式の縄張であった。
当時は、五重五階の天守を中心に3基の三重櫓が建ち、平櫓は33基あった。
明治になって城は民間に払い下げられて、建物は壊されてしまったが、
昭和35年(1960)に西三重櫓を再建したのを皮切りに、天守、巽三重櫓、
丑寅三重櫓が順次再建されて、本丸の景観がよみがえった。
天守や櫓などは、藩日記や諸記録を元にコンクリートで復元されたが、
石垣は築城当時のもの。
佐世保のハウステンボス近くのホテルを出発して、凡そ2時間後の11時10分、
「日本100名城巡り」最後の城となる島原城に到着した。
昭和39年(1964)に再建された五重五階の島原城天守閣
最上重を除いて破風が全くない典型的な層塔型天守である。
天守閣の前で”おもてなし女子”たちが踊りを披露していた。
天守閣の正面には土産物店が入った休憩所「城の茶屋」がある。
後で休憩で立ち寄ることにしよう。
島原城入城の前に記念の撮影を済ませる。
今日は「日本100名城巡り」の最後を記念して、かみさんも一緒だ。
11時16分、島原城へ入城
1階の受付で入館券540円を払い、しっかりと100名城スタンプを押し、上階へ。
天守閣の中は、1階はキリシタン史料館、2階は郷土史料館、3階は民族史料館、
4階は観光と物産コーナー、5階は展望台となっている。
1階展示室(1)
1階キリシタン史料展では、島原の乱にまつわる史料を展示している。
潜伏キリシタンが隠し持っていたマリア観音やロザリオなどが印象に残る。
1階展示室(2)
阿蘭陀船
1階展示室(3)
石像マリア観音
1階展示室(4)
マリア観音像
1階展示室(5)
隠しマリア聖像
1階展示室(6)
千々石ミゲル像画
彼は、千々石城主・千々石淡路の守の子で、有馬晴信の名代としてローマへ旅立った。
ローマ教皇に謁見して帰国した彼は、イルマン(修道士)となり活躍するが、やがて棄教。
人知れず生涯を終わる。何が理由だったのだろうか。(説明板)
1階展示室(7)
逗子入り青銅マリア観音像
1階展示室(8)
天草四郎肖像画
1階展示室(9)
影踏・踏絵
1階展示室(10)
原の城攻防図・模型
1階展示室(11)
雲仙地獄の殉教図
2階展示室(1)
2階は郷土史料館となっている。
松平家の鎧をはじめ、数々の藩主や島原城関係の文物を展示している。
2階展示室(2)
2階展示室(3)
3階展示室(1)
3階は民俗史料館となっている。
庶民が使っていた懐かしい生活用品が展示されている。
3階展示室(2)
3階展示室(3)
4階展示室(1)
4階は観光物産コーナーということで、島原市の特産品の他姉妹都市(福知山市)や
兄弟都市(豊後高田市)について紹介している。
4階展示室(2)
また、精霊流し舟や、全国の主な城の写真が展示されていた。
4階展示室(3)
小倉城(左)、中津城(右)
4階展示室(4)
郡上八幡城(左)、大垣城(右)
4階展示室(5)
島原城
最上階(展望台)
最上階からの眺望(1)
西の方向
正面の眉山は、雲仙岳の東に位置する。
最上階からの眺望(2)
北の方向
最上階からの眺望(3)
東の方向(島原湾)
最上階からの眺望(4)
南の方向(上天草方面)
最上階からの眺望(5)
再び西の方向(眉山)
最上階からの眺望(6)
城内古野梅苑に建てられた松倉重政祭祀の祠
最上階からの眺望(7)
丑寅櫓(民具資料館)
最上階からの眺望(8)
巽櫓(西望記念館)
入口の反対側にある専用の出口から天守閣を出て、
城内の櫓を回ってみることにする。
11時55分、先ず北東隅にある丑寅櫓へ向かった。
丑寅櫓は、民具資料館として、明治・大正・昭和の暮らしが偲ばれる品々が
展示されている。
丑寅櫓内部の展示品(1)
丑寅櫓内部の展示品(2)
丑寅櫓内部の展示品(3)
丑寅櫓内部の展示品(4)
丑寅櫓内部の展示品(5)
12時3分、続いて南東隅にある巽櫓へ向かった。
巽櫓は、西望記念館として、島原出身で日本彫塑会の巨匠北村西望の代表作
60点が展示されている、そうだ。
巽櫓手前の公園には、北村西望作の彫刻が展示されている。
北村西望自身の像には、次の句が刻まれている。
「たゆまざる 歩みおそろし かたつぶり」
昭和47年11月18日 米寿西望塑人
北村西望作の彫刻
日蓮上人像『喝!』
巽櫓(西望記念館)から見た天守閣が素晴らしく、その美しい姿に魅了された。
ず~っと眺めていたい気持ちにさせてくれる。
鐘楼の先、
12時9分、西の櫓に到着した。
日本全国の城の絵や各県の特徴あるこけしなどが展示されている。
西の櫓内部の展示品(1)
西の櫓内部の展示品(2)
西の櫓内部の展示品(3)
西の櫓内部の展示品(4)
西の櫓最上階
西の櫓最上階から見た天守閣も美しい。
城内古野梅苑の入口に松倉重政祭祀の祠がある。
この祠は、松倉豊後守重政公と築城工事中に死亡した人々が祀られている。
扁額は松平家十代城主松平忠精公が奉納したもの。
松倉豊後守重政公は徳川家康公に仕え、関ケ原の戦い、大坂冬・夏の陣にも軍忠を尽くした。
大和五条・二見の領主であったが、元和二年(1616)島原半島を領することとなり、
元和四年から7年余の歳月を費やして島原城を築き、以来約250年間政治の中心として栄えた。
城内をひととおり回ったところで、城の茶屋で一休み。
冷たい寒ざらしが甘くて美味しかった。
城外から写真のような島原城を見てみることにしよう。
12時37分、いったんかみさんと分れ、武家屋敷で落ち合うことにした。
島原城入口
正面に見えるのは眉山
振り返って島原城入口から城を見たところ。
正面に見えるのは、西の櫓である。
城入口に向かって右手の石垣と西堀端ハス池
石垣の曲線が美しい。
左手の石垣と堀
アサザがびっしりと水面を覆っている。
左回りに歩いてみる。
具雑煮姫松屋の前を通り、
雑煮姫松屋の前から南堀を望む。
南堀もアサザがびっしりと水面を覆っている。
南堀端通りから西の櫓を望む。
南堀端通りから石垣と南堀を望む。
南堀端通りから東堀を望む。
東堀は、東堀端ハス池になっており、蓮(酔妃蓮)の葉が生い茂っている。
南東隅から巽櫓と天守閣を望む。
五重天守閣と三重巽櫓が、幾重にも屈曲した高石垣上に建ち並ぶ姿は美しくまた圧巻である。
堀越に見る城は、城巡りの醍醐味で、一見の価値ありと思う。
南東隅から巽櫓と東堀を望む。
折れを伴った高石垣は見事だ。
東堀端通りから巽櫓を望む。
東堀端通りから丑寅櫓を望む。
東堀端通りから丑寅櫓を望む。
立派な構えの家
上級武士の屋敷のような風格を感じさせる。
島原名産の味噌・醤油を代々受け継ぐ醸造の老舗
「中屋」喫茶部と
「中屋」海藻部
東堀北詰から丑寅櫓と東堀を望む。
東堀北詰から二の丸を望む。
12時57分、武家屋敷佐久間邸跡の看板があった。
佐久間邸跡には何もなく、小さな公園のような広場だった。
説明を要約すると、
佐久間家は代々郡方勘定奉行を歴任。
二代藩主松平忠雄公時代(1700年頃)に佐久間太郎左衛門が島原藩家臣に召し抱えられ、
知行百石と屋敷を下賜された。(現在地が当時の屋敷跡地)
佐久間家は代々太郎左衛門の名を世襲した。
今では公園ほどの広さの跡地が残っているだけだが、往時は約300坪あり、
写真に写っているような屋敷門を持つ見事な武家屋敷だった、そうである。
二の丸と三の丸の間の広大な堀は、現在は空堀となっている。
堀へ下りる石段もあり、自由に歩けるようになっている。
こちらの一角は菖蒲園になっている、とのこと。
かみさんと落ち合うことにしている武家屋敷方面へ向かう。
市立第一小学校前を通過。
市立第一小学校と県立島原高校の間を通って、武家屋敷を目指す。
正面突き当りの市立第一中学校を右折し、第一中学校に沿って進むと、
13時15分、史跡御用御清水(ごようおしみず)の碑があった。
御用御清水説明板
寛文九年(1669)丹波国(京都府)福知山から入府した藩主松平忠房公は、
武家屋敷一帯の生活用水として水道の設置を行った。
この御用御清水も城主の居館があった三の丸(現県立島原高校と市立第一小学校敷地)の
用水として建設されたことが松平文庫の古文書に記されている。(以下略)
(島原教育委員会)
武家屋敷周辺に到着した。
かみさんとこの辺りで落ち合うことにしているのだが・・・
周辺案内地図で確認して、
市立第一中学校の塀に沿って進むと、
武家屋敷への入口冠木門があった。
武家屋敷街説明板
ここ一帯に徒士屋敷があり、松倉重政が島原城を築いた時に、下士をまとめて住まわせた。
(上士は城内に取り込んでいる)
一軒一軒の屋敷には境界の塀はなく、隣家の奥まで丸見えで、鉄砲の筒の中を覗いたようだ
というので、鉄砲町と呼ばれていた。
鉄砲組すなわち歩兵の居住地帯であったからでもある。(中略)
長さ約400mの屋敷町で、それぞれ約90坪の屋敷に建坪約25坪で、屋根は藁葺。
約700軒あった。
(以下略)
武家屋敷通り
通りの中央を流れる清水は、北方約2kmにある杉谷・水の権現から引いた人工の水路である。
飲用水にもなっていたので、水奉行を置くなどして大切に使用されていた。
武家屋敷
現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、山本邸・篠塚邸・鳥田邸の3軒が
一般に無料開放されている。
公開されている山本邸の表門。
藩主から特別許されて立派な門を構えている。
山本邸
屋敷内に入って部屋の中や庭を見渡すと、当時の武家生活の様子が偲ばれる。
六五の井戸
町筋を流れる飲料水が、時代が下って衛生上問題が生じたため掘られた井戸で、
大正六年五月に完成を見たので、それにちなんで六五の井戸と命名した。
台所
水置き場
奥座敷
この家の主が居た場所だ。
居間
家族は通常居間に居た。
裏庭
武家屋敷通り
湧き水の水路が通りの中央を流れる「武家屋敷町並み保存地区」は、
島原ならではの風景。
400mほどの直線の通りの中央を流れる清流や武家屋敷を見ながら歩く。
無事合流したかみさん、武家屋敷通りが気に入ったようだ。
囲碁 武家屋敷の標識
囲碁をやる所のようだが、武家屋敷のようで紛らわしい。
武家屋敷通りを進む。
1軒だけはちみつを売っている店があった。
武家屋敷鳥田邸
鳥田邸
居間
奥座敷
台所
風呂?
これは新しく作られたもののようだ。
武家屋敷通りを反対側から見たところ。
吉田松陰来訪の地
武家屋敷の入口付近に島原藩士・宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷跡があった。
この一帯は、鉄炮町の一角にあたる。
幕末期の当主・宮川度右衛門守興は、種子島流荻野派の砲術師範として多くの弟子を育てた。
嘉永三年(1850)十二月四日、長州藩士吉田松陰が兵学の研鑽の旅の途中、ここを訪れた。
松陰は「西遊日記」に次のとおり記録している。
「宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成スヿ(こと)ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル」
(訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことは無い。そのため、
近頃はカノン砲を造る)と、この日守興から聞いた話を書き残している。
(島原商工会議所女性会)
松井老舗(菓子店)前を通り、細い道を進むと、島原城が見えて来た。
島原城入口左側の石垣
島原城入口の坂道を上り、
13時45分、島原城天守閣前に到着した。
「日本100名城巡り」は、今回の島原城が100番目で、100名城全てに登城したことになる。
2010年7月25日の上田城から開始して、足掛け9年掛かった計算である。
もう少し早く達成できるかと思ったが、意外と長く掛かったという印象だ。
このブログをアップしたら、かみさんと二人だけで達成祝いをやろうと思っている。
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